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第16章 運命
第294話 責任というもの(1)
しおりを挟むその電話は早くも火曜日の放課後にかかってきた。チーフマネージャーの武藤からだった。
「将、悪いんだけど、今から出て来れないかしら……」
武藤には珍しい、困りきった声だった……。
遡って日曜日。
バラエティ番組の収録のあと、将は、一切の芸能活動を辞めなくてはならなくなったことを武藤に告げた。武藤は驚き、絶句しつつも、
「明日、社長が出社したら話し合いましょう」
と努めて冷静に応対してくれた。
また仕事が終わってマンションに戻った将は、生活の拠点を実家に移すべく、すみやかに荷造りをした。
昨日の、一家揃っての昼食の時点で、さっそく今日から帰る事を宣言してある。
ぐずぐずすることで、父に約束を反古にする隙を与えたくなかったのだ。
将が実家に戻ると聞いて、弟の孝太は目を輝かせた。
義母の純代は
「引越しの手伝いをしなくてもいいかしら?」
と親切に申し出てくれたが
「たいして荷物はありませんから」
と将は断った。
その言葉通り、将が実家に持っていくのは、教科書類とノートパソコン、当座の衣類とお気に入りのCDぐらいで、ボストンバックとリュックに収まった。
マンションを畳むわけじゃないので、家具類などはそのままそこに置いたままなのだ。
それでも、将はそこを出るとき、思わず振り返った。
2年あまりにわたって暮らした部屋だ。
ここで、井口やカイトたちと自堕落に過ごした16歳の頃。
あのころ、毎晩のように慰めあった瑞樹もこの世にいない。
ここへひょっこりやってきた大悟。
覚醒剤に錯乱した大悟と格闘した床の傷。……大悟はいま、どうしているだろうか。
そして聡。
傷ついた将を看病してくれた……そしてコンポが星のように散らばる暗闇で抱き合ったベッド。
今、将は聡との未来のために、思い出深いここをいったん去る。
次の春にはここで、聡との新生活を始めることを夢見て――。
ダイヤモンド・ダストのほうは、どうやら父の康三が手をまわしたらしい。
月曜日、学校を休んで事務所に出頭した将だが、そこで橋本社長はただ、残念だ、と言っただけでしつこく引き止められることはなかった。
ただ、あまりに急な話なので、調整に1~2週間かかること、
かつ、その中にはどうしても出演しなくてはならないものも出てくるかもしれないが、それだけは頼む、と将は逆に頭を下げられた。
もちろん将は頷くしかない。
いまやCM3本を抱えていた将が、急に自己都合で降りるということはおそらく莫大な違約金が発生するに違いなかったが、
それも父がどうにかすると約束したのかもしれない。
そんな非常識なことをしたにもかかわらず社長は、無事に受験が終わったら、将のペースでいいから復帰できないか、と申し出てくれた。
将を見つけ出したのはほかならぬ社長だし、現に今の将の勢いはすごい。
先日行われたある女性誌での『好きな男性タレント』のランキングでは、ベスト9に食いこんだ。
デビューしてまだ半年も経たず、主演作品も持たないうちにである。
実は現官房長官の息子ということが発覚してから、将の名前と顔は一気に世間に広まったのだ。
申し出に対して、将は『考えておきます』とだけ答えた。
今の将には、受験だけでせいいっぱいで、受験が終わったあとなど想像できなかったのだ。
「将、悪いんだけど、今から出て来れないかしら……」
そのとき、将は放課後も教室に残って、自習形式の補習に参加していた。
数学の難問に取り掛かっていた将は、突然の携帯に思わずムッとした。
ちなみに今日は『どうしても出演しなくてはならない収録』があるとは伝えられていない。
将は焦っていた。
あれから赤本にひととおり目を通した将は、自分が乗り越えるべき壁は、一筋縄ではいかないものであることを早くも痛感していたのだ。
いまだに5教科5科目のセンター試験の受験が必要、かつ論述中心の4科目の2次試験。
時間がたりないことは明白だった。
後期試験も……2次の科目は少ないものの、将がトライする平成20年度から形式が大きく変わることが予告されていることを赤本で知った。
その予告されている問題も……今の将には問題の意味を理解することすら難しい難問だった。
だが将は……くじけたくなるのをぐっと堪えた。
――とにかくやろう。聡のために……。
日曜日の夜から将は、すべての時間を勉強に充てることに決めた。
まずは詰め込め、とばかりに睡眠を3時間まで削り、1日15時間は勉強することを自分に課す。
睡眠不足は頭の働きを鈍らせるだろうが、そんなことを気にしている場合ではないのだ。
学校の授業も自分のペースに比べると遅すぎる。
将は授業を無視して苦手の英語、ほとんどやっていない理科、世界史をがむしゃらにやった。
しかし、やればやるほど、自分がいかに遅れているかを痛感し、焦りに追い込まれていくようだった。
つまり東大を目指して本格的に勉強を始めて、まだ2日なのに、
将は自分に立ちはだかる壁の、てっぺんさえ見えないような高みに心理的に追い込まれつつあったのだ……。
だから、武藤の電話はとてつもなく迷惑だった。
「どうしてですか」
自分の非常識な休業宣言をすっかり忘れて将は冷淡な声を出す。
「元倉さんが、どうしても将と直接話をしたいっておっしゃって……」
将を1月からのドラマの準主役に抜擢した、一流脚本家だ。
北海道を舞台にしたドラマは、すでに夏を舞台にした2話まで撮りが終わっている。
いきなり準主役が降板、代役を立てることに、元倉は納得がいかないという。
将はため息をつくと、しぶしぶ了承し、テレビ局に向かうことにした。
局の小会議室では、元倉と監督、プロデューサー、ディレクター、さらに武藤、橋本社長が勢ぞろいしていた。
タクシーの中ですら世界史の教科書の小さな文字を追っていた将は、いささか車酔い気味のこうべを小さく垂れて、会議室の輪に加わった。
「君の父上から話を聞いた。将くん」
まず監督がテーブルに頬杖をつくように、こちらへ身を乗り出すと、いきなり話を切り出した。
脳と頚椎をつないでいるあたりが、重苦しい。どうかすると嘔吐中枢を刺激しそうだ。
それを堪えて将は、神妙に頭を下げた。
「こちらの勝手な都合で申し訳ありません」
一同が目を見合わせる中で、鋭い声が飛んだ。
「納得できないね」
元倉の声だった。
「謝れば……金を払えば済むというもんじゃない」
車酔いの気分の悪さのせいか、憮然とした表情が思わず顔に出てしまうのを将は止められない。
「仕事というのは、いったん引き受けた以上、必ずやり遂げるという責任が発生する。それぐらいのこと、わかっていると思っていたよ」
元倉は怒りをストレートに将にぶつけてきた。
将が知る、年の割りに少年のようなユニークさと温かみを持つ表情はそこにはない。
こんな風に、赤の他人に責任感を問われたのは初めての将は、ひそかに動揺しつつも、まっすぐに元倉を見据えた。
しかし膝に置いた手の震えは止められない。
元倉は続ける。
「それを急に降りるというのは……どれだけのことか、君はわかっているのか。少なくとも作品はぶち壊しだ」
静かな口調の中に激しい怒りをくるんだものを、元倉は容赦なく将に投げつけてくる。
将の視線はそれに負けてだんだん下がりはじめた。
そこへディレクターが助け舟を出す。
「元倉さん。急に俳優さんが急病になった場合など、やむを得ず代役を立てるケースもありますでしょう。そのケースだと思っていただいて……」
「将くんは、現に生きて健康な状態でそこにいる。俳優の勝手な都合で急に役者を変えるなんて視聴者に対して誠意がなさすぎます」
と助け舟はにべもなく撃沈された。
さらにプロデューサーが新たなる手を提案する。
「こうなったら代役ではなくて、配役を変更してはいかがでしょうか。将くんの登場シーンだけ撮りなおしすれば……」
この局では、出演者が逮捕されたときに、それをやったことがあるのだ。
しかし、それも元倉ははねつけた。
「無理です。北海道の季節を撮りなおすことはできません」
すでに撮影ずみの2話は北海道の夏という設定だ。演技をする将の背景には、ふんだんに北海道の自然が映りこんでいる。
すでに紅葉が始まった北海道を夏に戻すことは不可能だ、と元倉は言っているのだ。
完全に俯いてしまった将は、揺れていた。
自分が担っていた責任の大きさへのおののきと。
なじられて素直に申し訳ない、という気分と。
もしかすると元倉は、自分を困らせるためにわざとゴネているのではという懐疑心と。
「とにかく、将くんと二人で話させてください」
元倉は一際響く声で一同に言い放った。
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