月誓歌

有須

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修道女、船にも悪意にも酔わず

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 ボートから貴婦人用のゴンドラなるものに乗せられて、非常に居心地が悪く少々怖い思いをしながら、ひときわ黒々と武骨な旗艦に乗り込んだ。
 実戦配備されている軍艦なので、女子供が乗り込むことはほとんどないそうで、普段は倉庫に仕舞い込まれている乗り物らしい。ドレスを着ていては梯子を上り下りするのは難しく、先着しているメイドたちもこれで乗船したそうだ。
 ゴンドラから降りた瞬間、ドンドンドン!と太鼓をたたくような音がした。
 いや太鼓ではなく、魔道銃を掲げ踵を慣らした儀仗兵たちの歓迎の挨拶だ。
 メイラは、己よりも圧倒的に体格の良い海軍の軍人たちを見回して、竦んでしまいそうになる身体を懸命にまっすぐに保った。
 今ここに居るのは、皇帝陛下の妾妃である。メイラという個人ではなく、陛下の妻とカテゴライズされる公人なのだ。その自覚を常に持っていなければ、陛下の評判を落としてしまいかねない。
「当艦にようこそ、妃殿下」
 いつのまにかゴンドラよりも先回りして乗艦していたリヒター提督が、真っ白な軍服の将校たちを従えて華麗に敬礼した。
 海軍式の敬礼は、まっすぐ指を伸ばした手を軍帽の端に当てるもので、一般的な騎士たちの礼とはかなり異なる。
 魔道銃を手に一糸乱れぬ整列をしている儀仗兵以外の、日焼けした海軍の将校たち、その背後で直立不動の姿勢でいた下士官や兵士たち、メイラの視界に入っているすべての人員が一斉に画一的な動きで背筋を伸ばし敬礼する。
 巨大とはいえ軍艦という限られた空間の中で、屈強な男たちから向けられる圧は相当なものだった。
 物慣れぬメイラには、膝が震えてしまう程に圧倒的で恐ろしい。まるで狼の群れのど真ん中に放り込まれたウサギになった気分だ。
「……ありがとうございます。お世話になります」
 ゴンドラの中で渡された扇を握りしめながら、なんとか声を揺らさずに答えた。
 それだけ言えただけでも大任を果たした気分だったが、ニコニコ顔の提督が頷き敬礼を解くと、彼の配下の者たちもまた一斉に腕を下げて、今度は後ろ手に手を組み直立不動の姿勢になる。
 その、大勢が一斉に動く時の音がまた心臓に悪い。
「すぐに出航準備に入ります。ほら、あちらで陛下がお見送りしておられますよ」
 如才ない仕草でエスコートされ、儀仗兵の並ぶ列の端の方に誘導された。
 甲板の端には鋳物で作られた柵があり、真っ白なロープが張られている。そこから見下ろすと港が見渡せ、突堤の先端に陛下が仁王立ちになっているのが見えた。
 丈の長い黒い上衣に、きらきらとひと際美しく輝く朱金色の髪。
 遠目にもすぐに陛下だとわかる。
 思わず身を乗り出しそうになり、控えていたキンバリーの手で制された。柵もロープもあるので落ちはしないだろうが、かなりの高所だ。その高さを認識してしまえば、ひゅっと鳩尾のあたりがすくんだ。
 やがて、艦内が慌ただしくなってきた。
 「錨を巻け!」やら「帆を張れ!」などという男たちの掛け声と同時に、足元で眠っていた軍艦が息を吹き返していくのがわかる。
 巨大な船は動きも緩やかで、出航したのだと気づいた時には、陛下との距離はかなり開いてしまっていた。
 港では、人々が大きく手を振り見送ってくれている。
 こういうときの作法など知りはしないが、メイラもまた、そっと手を上げて振った。
 一か月も会うことが出来ない陛下の姿を、しっかりと目に焼き付けながら。
 ずいぶんと小さくなった陛下の方もまた、手を振り返してくれるのがわかった。
 じわりと瞼の奥が滲んだ。
「なるほど、これまでの奥方たちとはずいぶん毛色が違っておられるようだ。上手く陛下のお心を掴まれたもので」
 小さくなってしまった港をまだ未練たらしく見つめていると、リヒター提督がにこやかな美声で言った。
「ああ申し訳ございません。口が滑りました」
 表面上は笑顔で、言葉使いも柔らかなものだったが、そこに含まれる検はしっかりと伝わってきた。
 そういうものに慣れ親しんでいるメイラは、特に何を思うまでもなく小首を傾げて振り返る。
 しかし、キンバリーをはじめとする女性騎士たちには放置できる発言ではなかったらしく、厳しい顔で身構えていた。
 ここは海軍の軍艦の中だ。内心どう思っていようとも、最高指揮官である提督に敵意を向けるべきではない。
 メイラは扇を閉じて、彼女を守るように背中を向けている騎士の肩にそっと触れた。
 伝わるか不安だったが、どうやらこちらの意図は汲み取ってくれたらしい。
 怖い顔をして、今にも腰の剣に手を触れようとしていた女騎士の背中から幾らかこわばりが抜ける。
「病み上がりの御方様に冷たい潮風は障ります。船室のほうへ案内願います」
 メイラとリヒター提督とを遮る位置に身体をねじ込ませたキンバリーの声は硬かった。
 彼女が今ものすごく厳しい顔をしているのは、間違いなくメイラの身を案じてのことだろう。
 恵まれた育ちをしていないメイラにとっては、誰かに多少の嫌悪を向けられても何ということはない。それが陛下のお身内であるのは残念だと思うが。
 むしろ、いい人を前面に押し出してくる人間ほど、うがった目で見てしまう自身を自覚していた。
 作法や知識は後からでも身につくが、人間の育ちとはそういう所に出てくるものだ。少なくとも表面上はそれをあらわにしないよう心がけながら、ベールの下でほのかに微笑んだ。
「……ディオン!」
「はい、提督」
 真正面から見ていないと分からない程度に顔をしかめたリヒター提督が、ものすごく良く通る声で何者かの名前を呼んだ。大声を出した割には、返答したのはその真後ろに付き従っていた長身の将校だ。
 軍服のあれこれはわからないが、提督に次いでモールの数が多いので、おそらくは次席指揮官なのだろう。
「妃殿下を客室にご案内しろ。……丁重にな」
「アイアイサー」
 ディオンと呼ばれた将校は、リヒター提督よりも頭一つ分ほども飛びぬけた長身だった。海の男らしく屈強な体格をしていて、顔には斜めに二筋、刃物によるものなのだろう深い傷がある。
 お世辞にも女性受けしそうにない容姿ではあるが、下町のゴロツキにありがちな獣じみた雰囲気はなく、無遠慮にメイラを見ているその目は澄んだ青色だった。
「こちらへどうぞ」
 愛想もなくそう言った声は低く、つぶれたような濁声だった。
 大きく息を吸って何かを言おうとしたキンバリーを制し、メイラは傍目にもわかるように大きく首を上下させた。
 正直言って、陛下以外の男性は怖い。
 エルネスト侍従長からさえ距離をとってしまう彼女にしてみれば、隔意をもってこちらを遠ざけてくれる提督の行動はありがたいし、むやみに近づいてきそうにない武骨な男のほうが安心できる。
 ものすごい数の海の男たちに見守られながら、メイラと女騎士たちは艦内へと足を踏み入れた。
 大型戦艦なのに、通路は狭い。ディオンのような大男ではすれ違うのも難しいだろう広さしかなく、左右に窓もないのでものすごく暗い。
 濡れた木と、タールと、何か食べ物の匂いのようなものが複雑にまじりあった空気は、慣れない者にとっては不快なものだ。しかし一歩踏み込んだ艦内は、ふわりと暖かな空気で満ちていて、緊張していてわからなかったが随分と身体が冷えていたことに気づいた。
 自立歩行に不安があるメイラの足が限界を訴えてくる頃、通路が少し広くなっている場所に出た。
 とある木製の扉の前には、天井に頭がつっかえそうなほど背の高い海兵がふたり、背中に定規でも入れているかのようにびしっと背筋を伸ばして立っている。そろいの真新しいセーラーカラーの服に身を包み、ドンドン、と勢いよく踵を慣らし、メイラの顔など一掴みに出来そうな大きな手で敬礼した。
 ディオンが護衛たちの前で突っ立ったままでいると、内側から扉が開けられた。
「御方様!!」
 ユリと、シェリーメイと、フランと。いつものメイドたちに加えて、女官のルシエラ、マロニア、そして……近衛騎士の制服を着た大柄な女性がふたり。
 そろいの濃い茶色の髪をしていて、片方の胸ははちきれんばかりに大きく、もうかたほうはつつましやかだ。
 とっさにそこを見てしまうのは、メイラだけではないだろう。
 胸部を見て、顔を見て。
 よく似た容姿の二人に小首をかしげ、もう一度胸を見る。
「お疲れでしょう、お茶をお入れしますね」
 シェリーメイが普段通りの朗らかさでくすくすと笑う。
 ユリに導かれるまま座り心地が良さそうなソファーに導かれ、もう一度見知った顔の、近衛騎士の制服を着た二人を見上げた。
「……マロー?」
「マデリーン・ヘイズです。こちらは妹のテトラ。お見知りおきを」
「テトラ・ヘイズです」
 女性にしては低めの声だが、マローと並んでいると違和感はない。
 もう一度小首を傾げると、テトラの唇がほんの少し口角を上げた。
 思い出した。
 陛下と初めての夜を過ごしたあの日の朝。ユリウスと共に起床の手伝いをしてくれた片割れだ。美味しい紅茶を淹れてくれた記憶がある。
 いや待って。あの時は確かに男性侍従の服を着ていた。姿かたちも声も、男性そのものだった。
 双子の兄妹だろうか。
「この命を賭して、御身をお守りすることを誓います。よろしくお願い申し上げます」
 記憶の中に在る男性の声と、低めの柔らかな女性の声がまじりあう。
 よくわからなくなって、助けを求めてマローを見上げた。
 にっこりと少し癖のある表情で微笑み返されただけで、答えはなかった。
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