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提督、犬になる
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クリスティーナは拘束された。同様に、リヒターもまた。
クリスティーナの場合は激しい抵抗の末、問答無用にだったが、リヒターは自主的に下級将校用の狭い個室を空けさせ、見張り付きでその中に籠った。
もはや自分自身がどうなっているのかわからない。必死で抑えようとしたのに意思とは違う動きをしてしまう感覚を、どう表現すればいいのだろう。
無意識のうちに皿を薙ぎ払い、ナイフを握っていた。
あのまま妾妃殿に襲い掛かっていてもおかしくはなかった。陛下の寵妃をこの手で殺める、そんな想像したくもない結末もあり得なくはなかったのだ。
例えば、握ったのが食事用のナイフではなく、もっと殺傷能力の高いものだったら? 護衛が手の届く範囲内にいれば、その剣を奪ったかもしれない。
起こり得た最悪の事態を想像して、ひゅっと喉が詰まる。
お国の為に剣を握ってきた手で、守るべき非力な女性を殺していたかもしれないのだ。
自身のこの状況が恐ろしくてたまらなかった。
艦を、部下たちを、海軍そのものを。家名を、一族を、陛下の御名ですらも。それら大切な何もかもを犠牲にする結果になっていたかもしれない。
コンコン、とドアがノックされた。
踵をドンと鳴らす普段の合図ではなく、分厚い軍艦の扉では聞き取れないほどの小さな音だった。
しばらくして入室してきたのは、旗艦艦長のグロームだった。
「……ご気分は?」
「死にたい」
「お手伝いしましょうか」
リヒターの精神状態はもはや瀕死だったが、グロームの顔色も悪かった。
次席指揮官であるディオン大佐が妾妃殿のお側に張り付いている今、艦隊の指揮統括は旗艦艦長である彼の両肩にかかっている。
運営だけであれば苦も無くやってのけるだろう。
妾妃殿を送り届ける任務だけでも、海賊を追い回すのでも、その双方が重なったとしても、グロームであればこなせるはずだ。
しかしそんな有能な彼を灰色に近い顔色にしているのは、間違いなくリヒターがやらかしてしまった騒動が原因だ。
よりにもよって、皇帝陛下の寵愛深い妃にナイフを向けてしまった。
食事用の、先の丸い殺傷能力の極めて低いものだが、刃物は刃物だ。
自ら沙汰を待って謹慎していても、込み上げてくるのは自責の念ばかり。
クリスティーナのような女は、どこにでもいる。
いや、リヒターを洗脳状態にしてのけるほどの者はいないかもしれないが、手練手管を使ってすり寄ってくる類の女のことだ。
ある程度の身分ある者は大抵その対処は学んでいるし、実際リヒターも年に数人レベルで粉を掛けられている。
これまでは、例えば目的があって近づいてきたのだとしても、適度に相手をしてやりながらさりげなく利用はできないのだと理解させてきた。
自分は絶対に、そんな浅知恵に惑わされはしないと思い込んでいた。
その結果がこれだ。
「自裁の許可は下りると思うか?」
もはやベッドに頭を打ち付ける気力すらなく、力ない声で問う。
「下りるにしても、陛下のご判断を待ってからでしょうね」
「……だよな」
直接木の床に座り込み、胡坐をかいた足まで付くほどに頭を垂れる。
お互いに何とも言えない空気を飲み込み、重いため息をついた。
「我々は、提督が必死にナイフを握る手を止めようとしているのを見ていました。情状酌量していただけるよう嘆願書を書くつもりでいます」
「やめておけ」
リヒターは、くぐもった声で言った。
「お前たちに責任が及ばないようにはする。俺のことは放っておいてくれ」
「……はあ」
コンコンコンコンコン!
グロームが何かを言い掛けたところで、ものすごい高速で扉がノックされた。
通常のノックは聞き取りにくいはずなのに、今回はものすごく鋭く鼓膜に刺さった。
グロームがビクリと背筋を伸ばし、扉の方を振り返る。
室内はベッドひとつと衣装箱しかない狭さなので、彼の立ち位置だとドアに鼻先が当たるほどの距離感だ。
体半分で振り返りながら、グロームがドアノブに手を乗せた。
見るからに及び腰でその木戸を押すと、剣の柄でドアを叩いていたらしい女性騎士の姿が見えた。
確か、よくマイン一等女官と行動を共にしている女だ。
「失礼」
グロームとほぼ目線が変わらない大女が、なおもまだドアを叩こうとしていた剣を下ろした。
やがて、相変わらず一部の隙も無い女官服に身を包んだ長身の女がドアの外に立った。
それ以上入ってくる気はないようで、一目で見渡せる室内を、氷のような無表情でざっと観察する。
「マイン一等女官どの」
何故だか彼女を前にすると、背筋を伸ばさなくてはいけない気がするのだそうだ。
グロームが見るからに緊張した様子で直立不動の姿勢になり、丁寧に額に手を押し当てて敬礼する。
「正直死ねばよいと思います」
唐突に、彼女はそう吐き捨てた。
「ですが、御方さまの御恩情により、今回の件はなかったことにと」
「……は」
「お手紙を預かって参りました。直接会うとまた何か起こるかもしれないからと。では、失礼します」
「あっ、ちょっと待っ!」
グロームが引き留める間もなく、強引に手の中に手紙を押し付けられた。
差し出す前は恭しく額の位置まで押し抱く丁寧さだったのに、いざ渡す段になると乱暴もいいところだ。
もしこちらに負い目がなければ、間違いなく喧嘩になりそうな、あからさまな敵意。
振り返りもせず足早に去っていくその足音が消えるのは、あっという間だった。
残されたのは、呆然と突っ立つグロームと、その手に乗せられた封筒。
普段は論理的な思考を絶やさない旗艦艦長が、後で思い返せば笑えてくるほどの当惑の表情でこちらを振り返る。
無言で、その手紙を押し付けられた。渡されたではなく。
リヒターは床にうずくまったまま、飾り気のない長方形の、白に近い薄紫色の封筒を受け取った。
ふんわりと、花のような果実のような香りがした。
封筒は、シーリングワックスで封をされていた。格式張ってはいないが、正式な書簡だ。
あのほっそりとした妾妃殿が何を言ってきたのか気になるところだが、それよりも、この手紙を開封しても良いものか迷った。
「……なぁ、グローム」
何しろ、その封蝋の紋章がいけない。
「どうしたらいいと思う?」
房になった花と鹿の角。組み合わさっているのは、どちらも大人しい印象の意匠だ。しかしリヒターの目には、通常の人間とは違うものが見えていた。
鹿は陛下の生母、グリセンダ妃の紋章だ。花はおそらく紫色をしているのだろう。
「そういえば、下賜されたのはかつての御生母さまの化粧地だ」
初対面からいい感情を持てなかったのは、一族が長年管理してきた土地を陛下がかの方へ下賜されたからだ。管理はそのままと言われたが、名義は妾妃殿のものに書き換えられている。
それらもすべて、強請られたからではなく陛下の御意志によるものなのか。
「……とりあえず、読んでください」
開封するのを躊躇っていると、容赦なく促された。
ずっとただ見ているだけというわけにはいかないのは確かだが、封を切ってこの紋章を壊してしまうのも気が引ける。
そっとシーリングワックスに刻まれたデコボコとした紋章に触れた。
次に陛下の前に立つ機会があったとしたら、土に額を擦り付けて謝罪しようと心に誓った。
クリスティーナの場合は激しい抵抗の末、問答無用にだったが、リヒターは自主的に下級将校用の狭い個室を空けさせ、見張り付きでその中に籠った。
もはや自分自身がどうなっているのかわからない。必死で抑えようとしたのに意思とは違う動きをしてしまう感覚を、どう表現すればいいのだろう。
無意識のうちに皿を薙ぎ払い、ナイフを握っていた。
あのまま妾妃殿に襲い掛かっていてもおかしくはなかった。陛下の寵妃をこの手で殺める、そんな想像したくもない結末もあり得なくはなかったのだ。
例えば、握ったのが食事用のナイフではなく、もっと殺傷能力の高いものだったら? 護衛が手の届く範囲内にいれば、その剣を奪ったかもしれない。
起こり得た最悪の事態を想像して、ひゅっと喉が詰まる。
お国の為に剣を握ってきた手で、守るべき非力な女性を殺していたかもしれないのだ。
自身のこの状況が恐ろしくてたまらなかった。
艦を、部下たちを、海軍そのものを。家名を、一族を、陛下の御名ですらも。それら大切な何もかもを犠牲にする結果になっていたかもしれない。
コンコン、とドアがノックされた。
踵をドンと鳴らす普段の合図ではなく、分厚い軍艦の扉では聞き取れないほどの小さな音だった。
しばらくして入室してきたのは、旗艦艦長のグロームだった。
「……ご気分は?」
「死にたい」
「お手伝いしましょうか」
リヒターの精神状態はもはや瀕死だったが、グロームの顔色も悪かった。
次席指揮官であるディオン大佐が妾妃殿のお側に張り付いている今、艦隊の指揮統括は旗艦艦長である彼の両肩にかかっている。
運営だけであれば苦も無くやってのけるだろう。
妾妃殿を送り届ける任務だけでも、海賊を追い回すのでも、その双方が重なったとしても、グロームであればこなせるはずだ。
しかしそんな有能な彼を灰色に近い顔色にしているのは、間違いなくリヒターがやらかしてしまった騒動が原因だ。
よりにもよって、皇帝陛下の寵愛深い妃にナイフを向けてしまった。
食事用の、先の丸い殺傷能力の極めて低いものだが、刃物は刃物だ。
自ら沙汰を待って謹慎していても、込み上げてくるのは自責の念ばかり。
クリスティーナのような女は、どこにでもいる。
いや、リヒターを洗脳状態にしてのけるほどの者はいないかもしれないが、手練手管を使ってすり寄ってくる類の女のことだ。
ある程度の身分ある者は大抵その対処は学んでいるし、実際リヒターも年に数人レベルで粉を掛けられている。
これまでは、例えば目的があって近づいてきたのだとしても、適度に相手をしてやりながらさりげなく利用はできないのだと理解させてきた。
自分は絶対に、そんな浅知恵に惑わされはしないと思い込んでいた。
その結果がこれだ。
「自裁の許可は下りると思うか?」
もはやベッドに頭を打ち付ける気力すらなく、力ない声で問う。
「下りるにしても、陛下のご判断を待ってからでしょうね」
「……だよな」
直接木の床に座り込み、胡坐をかいた足まで付くほどに頭を垂れる。
お互いに何とも言えない空気を飲み込み、重いため息をついた。
「我々は、提督が必死にナイフを握る手を止めようとしているのを見ていました。情状酌量していただけるよう嘆願書を書くつもりでいます」
「やめておけ」
リヒターは、くぐもった声で言った。
「お前たちに責任が及ばないようにはする。俺のことは放っておいてくれ」
「……はあ」
コンコンコンコンコン!
グロームが何かを言い掛けたところで、ものすごい高速で扉がノックされた。
通常のノックは聞き取りにくいはずなのに、今回はものすごく鋭く鼓膜に刺さった。
グロームがビクリと背筋を伸ばし、扉の方を振り返る。
室内はベッドひとつと衣装箱しかない狭さなので、彼の立ち位置だとドアに鼻先が当たるほどの距離感だ。
体半分で振り返りながら、グロームがドアノブに手を乗せた。
見るからに及び腰でその木戸を押すと、剣の柄でドアを叩いていたらしい女性騎士の姿が見えた。
確か、よくマイン一等女官と行動を共にしている女だ。
「失礼」
グロームとほぼ目線が変わらない大女が、なおもまだドアを叩こうとしていた剣を下ろした。
やがて、相変わらず一部の隙も無い女官服に身を包んだ長身の女がドアの外に立った。
それ以上入ってくる気はないようで、一目で見渡せる室内を、氷のような無表情でざっと観察する。
「マイン一等女官どの」
何故だか彼女を前にすると、背筋を伸ばさなくてはいけない気がするのだそうだ。
グロームが見るからに緊張した様子で直立不動の姿勢になり、丁寧に額に手を押し当てて敬礼する。
「正直死ねばよいと思います」
唐突に、彼女はそう吐き捨てた。
「ですが、御方さまの御恩情により、今回の件はなかったことにと」
「……は」
「お手紙を預かって参りました。直接会うとまた何か起こるかもしれないからと。では、失礼します」
「あっ、ちょっと待っ!」
グロームが引き留める間もなく、強引に手の中に手紙を押し付けられた。
差し出す前は恭しく額の位置まで押し抱く丁寧さだったのに、いざ渡す段になると乱暴もいいところだ。
もしこちらに負い目がなければ、間違いなく喧嘩になりそうな、あからさまな敵意。
振り返りもせず足早に去っていくその足音が消えるのは、あっという間だった。
残されたのは、呆然と突っ立つグロームと、その手に乗せられた封筒。
普段は論理的な思考を絶やさない旗艦艦長が、後で思い返せば笑えてくるほどの当惑の表情でこちらを振り返る。
無言で、その手紙を押し付けられた。渡されたではなく。
リヒターは床にうずくまったまま、飾り気のない長方形の、白に近い薄紫色の封筒を受け取った。
ふんわりと、花のような果実のような香りがした。
封筒は、シーリングワックスで封をされていた。格式張ってはいないが、正式な書簡だ。
あのほっそりとした妾妃殿が何を言ってきたのか気になるところだが、それよりも、この手紙を開封しても良いものか迷った。
「……なぁ、グローム」
何しろ、その封蝋の紋章がいけない。
「どうしたらいいと思う?」
房になった花と鹿の角。組み合わさっているのは、どちらも大人しい印象の意匠だ。しかしリヒターの目には、通常の人間とは違うものが見えていた。
鹿は陛下の生母、グリセンダ妃の紋章だ。花はおそらく紫色をしているのだろう。
「そういえば、下賜されたのはかつての御生母さまの化粧地だ」
初対面からいい感情を持てなかったのは、一族が長年管理してきた土地を陛下がかの方へ下賜されたからだ。管理はそのままと言われたが、名義は妾妃殿のものに書き換えられている。
それらもすべて、強請られたからではなく陛下の御意志によるものなのか。
「……とりあえず、読んでください」
開封するのを躊躇っていると、容赦なく促された。
ずっとただ見ているだけというわけにはいかないのは確かだが、封を切ってこの紋章を壊してしまうのも気が引ける。
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