月誓歌

有須

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修道女、犬と別れ悪人面と再会する

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 通路を譲ってもらって甲板に出るだけで、すでにもう妙な達成感があった。
 何かを成し遂げた気分になって、眩い昼間の海に目を細める。厚めの手袋をつけた手で海風に揺れるベールを押さえようとして……白日の下でも白い軍服は目立つのだと知った。
「……すぐに始末しましょう」
「待って」
 絶対にそちらは見ないと強く自身に言い聞かせながら、メイラは小声で言った。
 ルシエラは不愉快さを隠しもせずに、ジロリと甲板の先を見据える。
「ですが、あまりにも不敬。非礼。目玉をくりぬいて魚の餌にしてやります」
「相手は海軍の提督で陛下のお身内だから!」
 人前で鼻を鳴らすのは失礼にならないのでしょうか、ルシエラさん。
 ぎゅっと彼女の腕を握ると、ものすごく渋りながらも視線をこちらに向けてくれた。
 護衛たちを含めたお付きの者たちが何も言わず、いやむしろ彼女に同意するような雰囲気なのが怖い。
 対して、巨大戦艦の乗員たちは皆下を向いている。何か大きな失敗をして、叱られた子供のようだ。
 最初は戸惑ったが、こちらから彼らに声を掛けるのは淑女として問題があるのでどうしようもない。せめて当たり障りなく微笑みかけたいところだが、そもそも誰とも視線が合わないのだ。
 かといって、存在が無視されているのかと言えば、そうではない。むしろ真逆で、乗員たちの全神経がこちらに向いているのがわかる。それはもう恐ろしいほどの圧力で、正直全身がペラペラの紙かぺちゃんこな油の搾りかすのようになってしまいそうだ。
 何故彼らがこんな状態なのかというと、起こってしまった事件の詳細が伝わったわけではなく、彼らの指揮官たちの態度のせいだと思う。
 手すりに手を乗せ、海に顔を向けたメイラから少し離れた位置に、膝をついて控えるディオン大佐とグローム艦長。彼らともあまり視線は合わないが、戦艦の内部や海についての質問をすれば答えてくれるからまだマシなほうだ。
 問題は、意図して探さなければ視界の外にいる提督だ。
 ずっと起坐で両手を床についているように見えるのは気のせいではないだろう。
 ゴンと何かを打ち付ける音がしてそちらを向けば、額を床に押し付けているのを見てしまった。
 提督が自身を責めているのは理解できる。しかし結果論としてメイラは無傷であり、何かを企んでいたクリスは拘束された。予定より数日遅れるが、無事祭事に間に合うように到着も出来そうだ。
 不問にすると言ったのだから、そんなに身もふたもない反省ぶりを見せる必要はないのだ。
 もしかして、あの手紙がまずかったのだろうか。出来るだけ丁寧に、優しく書いたつもりだったのだが。
 やむを得なかったのだと、気にしていないと、今後とも陛下を、この国を守る剣であって欲しいと……いや、おかしなところはない。良識の範囲内の内容だし、文字の乱れもなかったはず。
「あ」
 誰かが思わず、といった感じで声を漏らした。
 ざざっとささくれだった気配がその声の主の方を向き、メイラが首を巡らせる前に視界から撤去された。
 いったい何事と周囲を見回すと、甲板の隅で膝をついていた提督の周囲に何人かの将校が居て、なにやら揉めている。
 よくわからないが、提督が彼らの手を振り払っているように見えた。なんだろう?
 どうやら額を切ったらしいと気づいたのは、提督の軍服が真っ白だったからだ。遠目にもわかるほどの出血だ、相当の量なのだろう。
 ……どうしろというのだ。
 助けを求めてルシエラを振り返ったのは失敗だった。
 彼女はものすごくいい顔で笑っていた。常に感情をあらわにしない彼女には珍しい、満面の笑みだ。
「やめさせてあげて」
 メイラは真顔で言った。
 出血に構わずなおも頭を下げ続ける姿を見て、笑っていられるほど神経は太くない。
「あんな風に頭を下げるべき方ではないわ」
「では、魚の餌になれと申し付けましょう」
「……ルシエラ」
 ベールの下で盛大に顔が引きつった。
 周囲の誰も同意してくれない。むしろもっとやれと言いたげな雰囲気に、己の感性が正常なのか疑いたくなってくる。
「しばらくは反省させておけばいいのですよ。実害はありません」
 あります。むしろゴリゴリと物理的に精神が抉られています。
「心がポッキリ折れていますので、今こそ念入りに粉砕しておくべきです」
 いや、絶対に違う。
 メイラには嗜虐癖などないので、他人様をそこまで踏みつけにしたくない。
「……ルシエラ」
 小さな声で、窘めるように名前を呼ぶと、有能な一等女官は何故か困った子を見る目でメイラを見つめた。
「中途半端なのはよくありません」
 そうだろうか。……はっ、いやいや、毒されてはいけない。
「……部屋に戻るわ」
「もうよろしいのですか?」
 むしろ、この状態で気分転換ができると思う方がおかしい。十分足らずだが、よく持った方だと思う。
 メイラはもう一度、冷たい風が吹く海を一瞥してから頷いた。
「戻ります」
「はい、御方さま」
 従順に頷くルシエラ。ささっと船室に向かう進路を譲る二人の大佐。
「……」
 少し位置を変えて再び膝をつき控えた男たちを何とも言えない気分で見下ろして、扇子の影でため息を零す。
 聞こえてしまったのだろう、びくりと彼らの肩が揺れた。
 これはいけない。絶対にいけない。
「……後でちょっとお話しましょうか」
 しっかりとルシエラに言い聞かせておかなければ。メイラまでS系なのだと思われてはかなわない。
 冷たいほどに整った美貌の一等女官が、こてりと小さく首を傾けた。
「その前に、これを提督に」
 淑女のたしなみ、ドレスの隠しからハンカチを取り出して、容貌だけで言えば文句なしに美しいルシエラに手渡した。
 その美しい眉がきゅっと寄り、嫌そうな表情になったがそんな顔をしても駄目だ。
「貴女の手から、直接渡すのよ」
 できれば仲違いを解消して欲しいが難しいのだろう。
「もういいから、手当てをしなさいと伝えて。……それ以外の余計なプレッシャーを掛けては駄目」
 最後に念を入れておいてよかった。そのままだったら、また提督を虐めていたにちがいないのだ。
 そこまで考えて、またため息が零れた。
 何が楽しくて、二十も年上の男性の心配をしなければならないのだ。
 息抜きのはずなのに、どっと疲労感が増した。
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