月誓歌

有須

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修道女、星に祈る

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 夢を見ていた。
 頭上に燦然と輝く、孤高の月を見上げる夢だ。
 不思議なことに赤い二の月はなく、新月というわけでもないのに銀色の一の月がただひとつ。
 漆黒の夜空を背景に、くっきりと丸く輝くその様は、見慣れないからかひどく寂しそうに見えた。
 無心でそれを見つめているうちに、ふとメイラは、自身もまた一人だということに気づいた。
 周囲は漆黒の闇で、彼女はぽつんと一人、立ち尽くしていたのだ。
 夢だ。
 足元に広がる水紋を見下ろしながら、ぼんやりと思った。
 広い湖の真ん中に、湖面から掌一つ分ほどあけて浮いている。
 ありえないその状況に恐怖心を抱かないのは、この状態をどこか懐かしいと感じているからだろう。
 そういえば幼い頃はこんな夢をよく見ていた。メイラを傷つける大人が誰もない夢の世界を、幼心にそれほど恐ろしいものだとは思っていなかった。
 ぽちゃんぽちゃんと足先から雫が落ちる。
 黒い水面に幾重にも円状の波紋が広がっていく。
 身体が濡れているわけでもないのに、この雫は何だろうと首を傾げ……。
 しかし、ここは夢の中。論理的に考えようとしたのは一瞬で、やはり美しい月に視線は吸いつけられた。
 どれぐらいそうしていただろうか。
 夢だろうと思いはしても、ひたすらにずっと変わらぬ情景を見続けていれば、さすがに飽きてくる。
 ゆっくりと視線を足元に降ろし、月明かりを照り返す波紋の広がりを目で追った。
 目でとらえられるギリギリの範囲まで、波紋は正確な真円を描いて広がっている。その先は闇に沈んでしまってよく見えず、かなり遠い場所に山の稜線と思われる黒い影が見えた。
「……あ」
 月の光があまりにも強いせいか、空に星はほとんどない。
 それでも、いつくかの一等星がポツポツと控えめに瞬いていて、その位置はメイラが良く知るものだった。
 そのうちのひとつ、遠くに見える山の稜線あたりに、一際明るく光る星。他の星々と違って目につくのは、その色合いがあまりも鮮やに朱いからだ。
 戦いの男神の名を冠し、時に災厄を示すともいわれるその星の名はセクト。日没時に真東の空に燦然と輝いていることから、旅人たちの道しるべとも言われている。
 まるで陛下の美しい御髪のようだと思った。
 ああ、陛下。ハロルドさま。せめて夢の中だけでもお会いしたいのに。
 ぽちゃん、と足先から雫が落ちる音と同時に、メイラは自身が泣いていることに気づいた。
 この雫は、涙だ。
 苦しい、辛い、と嘆く心の痛みだ。
 再び足元の波紋に視線を落とすと、真っ黒な水面の奥に何かがあることに気づく。
 そもそも光源が月あかりだけなので、その大きなものをはっきり見ようとしても難しい。目を凝らし、かなりの時間が経過して……見えている一角を『竜の咢』のようだと思った瞬間、ぐりん、と視界が回った。
「……な、なに?!」
 捕まるところのない不安さに手足が泳ぐ。
 落ちる! と悲鳴を飲み込んだ次の瞬間、伸ばした手首をぐいっとつかまれた。
「っあ」
 掴まれた部分から、燃えて溶けてしまうかと思った。
 顔を上げた先に居たのは、卑小な人間の目では到底捉えることのできない『その御方』。
 名前を想像することすら畏れ多く、傍にその存在を感じているだけで意識を保っている事すら難しくなる。
『見よ』
 とても言葉とは認識できないその声は、低く太く昏かった。
『其方はあれを見つけねばならない』
 意味など到底理解できなかった。
 ただ、圧倒的な力がメイラの全身を貫き、かき回し、粉砕しようとした。
 耐えきれず、内側から壊れ破裂してしまうと思った瞬間、バリン! と何かが砕ける音がした。
「お許しくださいませ、偉大な御方よ」
 ぐっと腰を掴まれて、背後から聞こえるはっきりとした男性の声。
 今にも消し炭のように消滅してしまいそうだったメイラを、かろうじて捕まえたのは、神の寵児と言われるポラリス教皇猊下だった。
「この娘には御方の力は強すぎます」
 掴まれていた手から先が、消失している。
 『その御方』を見てしまった眼球は、もはや闇に包まれ何も見えない。
「どうか、御神気をお納めください」
『贄の娘ではないのか?』
「正確には、贄にされそうな娘でございます」
『そうか』と囁くその声は、はっきりとしたものではもはやなく、風の音にも波の音にも聞こえた。
 直後、何もかもが一気に消滅した。
 恐怖や痛みなどを感じる時間はなかった。
 何もかもが瞬時に闇に呑み込まれ、すべてのものの終末となる。
 諦観がメイラを支配して、喪失感さえも残らなかった。


 ぱちり、と目を開けた。
 終わりを迎えたはずの世界がまだ続き、己がそれを認識できていることに猛烈な違和感を抱いた。
 そこには闇色の湖も、満天の星空もない。
 明るい陽光。少しだけ肌に感じるひんやりとした風。
 メイラは見知らぬベッドの上にいて、ふかふかのクッションと肌掛けに埋もれていた。
 そして至近距離に、強く輝く一等星。
 朱金色の髪をした夫が、気遣わし気に「メルシェイラ」と囁く。
 ああ、また夢か。
 しかし今度は、記憶にうっすら残る闇色のあの夢ではなく、多幸感に満ち溢れたものだった。
「……ハロルドさま」
 この幸せな夢から覚めたくなくて、そっと、許された名を囁いてみる。
 メイラを見下ろしていたクジャク色の双眸が、とろりと溶けた。
 大きな、少し指先が硬い手が、頬に触れる。
「頬の傷は跡も残らず消えるそうだ。匙め、回復魔法の多用は身体に障るとかで、自然治癒を待てと言う。そなたの顔に万が一でも傷跡が残れば、あの口を縫い付け首を引きちぎってやる」
 話しかけられている言葉の意味はよく理解できなかったが、低く骨に響く夫の声が心地よかった。
 メイラは深く息を吐き出した。
 あまりにも幸せなこの情景に、じわりと涙が浮かんできた。
「どうした? どこか痛むのか?」
「……いいえ。陛下にお会いできたことがうれしくて」
 心を偽らず素直にこぼれたその言葉に、夢の中の夫は表情を緩めた。
 少し武骨だが整ったその貌が距離を詰め、ちゅっと小さな音を立てて頬に、唇の端に、再び長く満ち足りた吐息を零した唇に口づけを落とす。
「……んっ」
 するりと割り込んできた分厚めの舌は、少しひんやりと冷たかった。
 緩めの夜着の隙間から大きな手が忍び込んできて、ぞわりと粟立った肌の上を不埒に這う。
 そこまで来てようやく、あれ? と疑問を感じた。
 状況の把握ができず、固まっているうちに、その手はどんどん際どいところまで侵入してくる。
「っ、あ! ……へ、陛下?!」
 ぎょっとして、大きな声を上げかけた唇は、それを見越していたかのように塞がれた。
 ひとしきり咥内を蹂躙され、青息吐息でぐったりしていると、陛下がご自分の夜着の前を解き、メイラの夜着のリボンを引く。
 逆光になってよく見えないが、陛下は夜着の下に肌着を着ておらず、逞しい肉体美が露わになっていた。もしかしたらと、前を開けられた自身を見下ろしてみると、眩いばかりの陽光の中、仰向けになっているとなおさら平らで貧相な胸が空気にさらされている。
―――い、いやああああああっ!!
 声にならない悲鳴を上げ、メイラは大急ぎで夜着の前を閉ざした。
「……何故隠す」
「み、見ないでください」
「どうして?」
 小さいからです!!
 涙目になってふるふると震えていると、本気でよくわかっていない陛下が首を傾けた。
「こ、こんなに日も高い昼間ですのに」
「なんだ、そんな事か。夫婦の営みに恥じることなど何もない」
 い、営み?! 
「あります、ありますとも!!」
「恥じらうそなたも愛いな」
 重量のある陛下に伸しかかれて、夜着の前を合わせることが出来たのは奇跡だった。しかしそれ以上はどうしても動くことが出来ず、メイラのウエストほどもある太腿で膝を割り込まれてしまう。
 ゴホン、と控えめな咳払いがした。
 天蓋布は風を通すためにタッセルで上げられていて、視線を遮るということにおいて仕事をしていない。
 メイラは、この部屋にいるのが自分たちだけではないという事に初めて気づいた。
「……邪魔をするな」
「申し訳ございません、陛下。ですが御方さまが目を覚まされましたら、すぐに呼ぶようにと教皇猊下から言いつかっております」
 夜会用のドレスからシンプルな女官用のものに着替えたルシエラは、あえてこちらを見ようとはせず、深く頭を下げて女官としての礼をとっていた。
 陛下はそんな彼女を温度の低い目で見やり、不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。
「お前は誰の臣か」
「偉大なる陛下と、麗しき御方さまにございます」
「では放っておけばよい」
「御方さまに障りがあるのは問題なのでは?」
 ルシエラの変わらぬ強気な発言に、無事だったのかと安心すればいいのか、陛下にそんな口を利いて大丈夫なのかと心配すればいいのか。
 メイラは、恭しく礼を取っているルシエラをじっと見ていて、その白魚のように真っ白で美しい手の甲に痛々しい怪我があるのに気づいた。
 内出血をしていてかなり痛そうだ。
 甘いもので満たされていたメイラの心に、巨大竜に部屋を大破された記憶が明瞭に蘇ってきた。
 ひゅっと息が詰まった。
 続けて、あの漆黒の湖のことを思い出してしまったのだ。
「メルシェイラ?」
 陛下の声が、遠い。
 苦しくなって喉に手をやり、それがあの場所で溶けてなくなってしまったはずの右手だと気づく。
 そうだ、手首をつかみ、『あの御方』がメイラに何かを言ったのだ。
「どうした? 苦しいのか?!」
 ……何と言った?
「メルシェイラ?!」
 記憶を掘り下げようとしたところで、ガツンと何か壁のようなものにぶつかった気がした。
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