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修道女、旅立つ
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ザガンとタロスの間は馬車で数時間の近距離だ。目立たないようにさほど速度を出したわけでなくとも、昼になる前に潮の香りがし始めた。
幌の隙間から覗いてみると、眩いばかりの明るさの中、街に入ろうとしている大勢の人々の姿が見える。
街が開くのは日の出と同時。自国民でも夜間の出入りはできない。
メイラもかつては質素な修道女服を着て、薄暗いうちからあの大門の前で並んだものだ。
すでにもう日は高いので、並んでいる者はいないが、相変わらず大都市ザガンを出入りする人数は多かった。
馬車はさしたる確認作業もないまま大門を通され、馬車通りを港の方へ向かう。
幼いころから幾度となく訪れた港町は、今日もまた賑やかだった。
ほんの半年前にはメイラもあの雑踏の中にいたのだ。日々の費えに頭を悩ませ、成長期の子供たちの腹を満たすために奔走していた。
小さな子供たちの手を引き、寄付を募って歩き回る日々は楽ではない。しかし、その時は気づくことはなかったが、やりがいがあり充実した毎日だった。
小さな世界を守り、日々子供たちと笑いあっている幸せ。彼らが恙なく成長し、無事に巣立っていく喜び。
かつては、それがメイラの生き方だった。ずっとそうやって生きていくのだと思っていた。
幌の隙間から見える景色は変わらない。
変わってしまったのはメイラのほうだ
眩い世界から目を逸らし、真っ暗に見える幌の中で目を閉じる。
戻りたいのかと自問してみる。
あの頃は幸せだったと、そう思いはするが、戻れるわけもないとすぐに答えは出る。
何より、愛する夫はそこにはいない。
たとえ神の御業で過去に戻ることが可能であっても、やはり夫の側にありたいと思うのだろう。
やがて馬車が止まる。耳をすませば、小さく潮騒の音。
街に入る前にスカーとダンは役割を交代しており、今同じ荷台にいるのはスカーのほうだ。
正体の知れているダンとはちがい、おそらく、としかわからないこの男の事は、信頼してもいいのかもしれないと思いつつも、ダンよりも心の距離が遠い気がする。
ダンも寡黙な男だが、それに輪をかけて何もしゃべらない。
それなのに強い視線は感じるのだ。
「……」
ちらり、と荷台の対角線上できっちりと両膝をついた姿勢の男を見やる。
もともと幌馬車の荷台は薄暗いのだが、スカーは更にそこに影を落としたかのように闇に染まって見えた。
幌馬車の外はあんなにも明るいのに。
にぎやかな声が、ここまで聞こえてくるのに。
かつての柔い頬の幼子を思い出す。金色の髪をしていた。夢の中で、メイラがあの色を奪った。
昼間なのに、闇に染まって見えるこの男のことを、どうあつかえばいいのかいまだによくわからない。
揺れる荷台できっちり膝をそろえて起坐などと、普通では耐えがたい苦痛のはずだが、まるでそういう置物であるかのように微動だにしない。
いや、足を崩してもよいと言ってはみたのだ。二度ほど。
「はい」と答えつつ動かないのは、動く気がないからか、三回許可を出されるまで足を崩してはいけないという決まりごとでもあるからか。
気しなければいいのだが、視界の中でずっとそうやっていられると気になって仕方がない。
「……小腹がすいているのではない?」
こういう警戒心が抜けない子もいたなと、かつての経験則に乗っ取りもう一度声を掛けてみる。
「わたくしのメイドが用意してくれたものだけれど、量が多いの。食べる?」
常に空腹な子供であれば、それなりに効果のある手段なのだが、相手は大人だ。
言ってみてから気付いて内心赤面していたのだが、意外にもスカーはこっくりと首を上下した。
人の食べ残しなど嫌だろう。命じた形になったのかもしれないと心配になっていたのだが、メイラが差し出した布包みはあっという間になくなり、瞬きひとつする前にスカーの手の中に移動していた。
どうやったのだろう。紐みたいなもので引き寄せたのだろうか。
そう思ってしまう程、気づいた時にはスカーは同じ姿勢で荷台の対角線上にいて、両膝をそろえて起坐の姿勢のまま、丁寧に布包みを剥こうとしていた。
メイラはぱちぱちと数度、ゆっくり瞼を上下させた。無様にぽかんと口を開けているのにも気づかなかった。
時間にして十秒ほどだったのではないか。
メイラが苦労して腹に詰め込んだ残りの半分を、闇色に染まった男はあっという間に口の中に放り込み、飲み込んでしまった。
「も、もっと噛んで食べたほうがいいわよ」
スカーは首を左に傾け、少し考えて、手元の布に視線を落としてからこっくりと頷いた。
「はい」
布包みを丁寧に畳むのはいいのだけれど、どうしてそれを嬉々として懐にしまおうとしているのだろう。いや、その布に特に思い入れがあるわけではないからいいのだが。
「ありがとうございました。とてもおいしかったです」
「そ、そう」
やはりよくわからない男だ。ちぐはぐというか、違和感があるというか。
「……急に故郷に連れて行けなどと無理をいってごめんなさい」
基本スカーのほうから話しかけてくることはないので、すぐに間が持たない雰囲気になってしまう。その強い視線を浴びながら沈黙を貫かれると、居心地悪いというか、気詰まりというか。
なんとか話題を振ってみたが、スカーは無表情のまま首を傾けるだけで無言だった。
「あんなことがあった場所ですもの」
いやいやいや! 生贄に捧げられそうになったなどと、わざわざ思い出させてどうする。
しかしスカーはまったく表情を変えず、首を傾けたまま瞬きをした。返答はないが、気を悪くした様子もない。
だからといって、この話を続ける勇気はなかった。
相手が全くの無表情だからこそ、どう考えているのかわからず反応に困る。
「……」
やめよう。この話はやめよう。
キジも鳴かずば撃たれまい。沈黙は金……いや、藪蛇藪蛇。
先人の偉大なる知恵には従うべきだ。
しばらく無言で向き合ってから、メイラはわざとらしくならない程度に『淑女の』ほほ笑みを浮かべてみせた。
幌の隙間から覗いてみると、眩いばかりの明るさの中、街に入ろうとしている大勢の人々の姿が見える。
街が開くのは日の出と同時。自国民でも夜間の出入りはできない。
メイラもかつては質素な修道女服を着て、薄暗いうちからあの大門の前で並んだものだ。
すでにもう日は高いので、並んでいる者はいないが、相変わらず大都市ザガンを出入りする人数は多かった。
馬車はさしたる確認作業もないまま大門を通され、馬車通りを港の方へ向かう。
幼いころから幾度となく訪れた港町は、今日もまた賑やかだった。
ほんの半年前にはメイラもあの雑踏の中にいたのだ。日々の費えに頭を悩ませ、成長期の子供たちの腹を満たすために奔走していた。
小さな子供たちの手を引き、寄付を募って歩き回る日々は楽ではない。しかし、その時は気づくことはなかったが、やりがいがあり充実した毎日だった。
小さな世界を守り、日々子供たちと笑いあっている幸せ。彼らが恙なく成長し、無事に巣立っていく喜び。
かつては、それがメイラの生き方だった。ずっとそうやって生きていくのだと思っていた。
幌の隙間から見える景色は変わらない。
変わってしまったのはメイラのほうだ
眩い世界から目を逸らし、真っ暗に見える幌の中で目を閉じる。
戻りたいのかと自問してみる。
あの頃は幸せだったと、そう思いはするが、戻れるわけもないとすぐに答えは出る。
何より、愛する夫はそこにはいない。
たとえ神の御業で過去に戻ることが可能であっても、やはり夫の側にありたいと思うのだろう。
やがて馬車が止まる。耳をすませば、小さく潮騒の音。
街に入る前にスカーとダンは役割を交代しており、今同じ荷台にいるのはスカーのほうだ。
正体の知れているダンとはちがい、おそらく、としかわからないこの男の事は、信頼してもいいのかもしれないと思いつつも、ダンよりも心の距離が遠い気がする。
ダンも寡黙な男だが、それに輪をかけて何もしゃべらない。
それなのに強い視線は感じるのだ。
「……」
ちらり、と荷台の対角線上できっちりと両膝をついた姿勢の男を見やる。
もともと幌馬車の荷台は薄暗いのだが、スカーは更にそこに影を落としたかのように闇に染まって見えた。
幌馬車の外はあんなにも明るいのに。
にぎやかな声が、ここまで聞こえてくるのに。
かつての柔い頬の幼子を思い出す。金色の髪をしていた。夢の中で、メイラがあの色を奪った。
昼間なのに、闇に染まって見えるこの男のことを、どうあつかえばいいのかいまだによくわからない。
揺れる荷台できっちり膝をそろえて起坐などと、普通では耐えがたい苦痛のはずだが、まるでそういう置物であるかのように微動だにしない。
いや、足を崩してもよいと言ってはみたのだ。二度ほど。
「はい」と答えつつ動かないのは、動く気がないからか、三回許可を出されるまで足を崩してはいけないという決まりごとでもあるからか。
気しなければいいのだが、視界の中でずっとそうやっていられると気になって仕方がない。
「……小腹がすいているのではない?」
こういう警戒心が抜けない子もいたなと、かつての経験則に乗っ取りもう一度声を掛けてみる。
「わたくしのメイドが用意してくれたものだけれど、量が多いの。食べる?」
常に空腹な子供であれば、それなりに効果のある手段なのだが、相手は大人だ。
言ってみてから気付いて内心赤面していたのだが、意外にもスカーはこっくりと首を上下した。
人の食べ残しなど嫌だろう。命じた形になったのかもしれないと心配になっていたのだが、メイラが差し出した布包みはあっという間になくなり、瞬きひとつする前にスカーの手の中に移動していた。
どうやったのだろう。紐みたいなもので引き寄せたのだろうか。
そう思ってしまう程、気づいた時にはスカーは同じ姿勢で荷台の対角線上にいて、両膝をそろえて起坐の姿勢のまま、丁寧に布包みを剥こうとしていた。
メイラはぱちぱちと数度、ゆっくり瞼を上下させた。無様にぽかんと口を開けているのにも気づかなかった。
時間にして十秒ほどだったのではないか。
メイラが苦労して腹に詰め込んだ残りの半分を、闇色に染まった男はあっという間に口の中に放り込み、飲み込んでしまった。
「も、もっと噛んで食べたほうがいいわよ」
スカーは首を左に傾け、少し考えて、手元の布に視線を落としてからこっくりと頷いた。
「はい」
布包みを丁寧に畳むのはいいのだけれど、どうしてそれを嬉々として懐にしまおうとしているのだろう。いや、その布に特に思い入れがあるわけではないからいいのだが。
「ありがとうございました。とてもおいしかったです」
「そ、そう」
やはりよくわからない男だ。ちぐはぐというか、違和感があるというか。
「……急に故郷に連れて行けなどと無理をいってごめんなさい」
基本スカーのほうから話しかけてくることはないので、すぐに間が持たない雰囲気になってしまう。その強い視線を浴びながら沈黙を貫かれると、居心地悪いというか、気詰まりというか。
なんとか話題を振ってみたが、スカーは無表情のまま首を傾けるだけで無言だった。
「あんなことがあった場所ですもの」
いやいやいや! 生贄に捧げられそうになったなどと、わざわざ思い出させてどうする。
しかしスカーはまったく表情を変えず、首を傾けたまま瞬きをした。返答はないが、気を悪くした様子もない。
だからといって、この話を続ける勇気はなかった。
相手が全くの無表情だからこそ、どう考えているのかわからず反応に困る。
「……」
やめよう。この話はやめよう。
キジも鳴かずば撃たれまい。沈黙は金……いや、藪蛇藪蛇。
先人の偉大なる知恵には従うべきだ。
しばらく無言で向き合ってから、メイラはわざとらしくならない程度に『淑女の』ほほ笑みを浮かべてみせた。
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