175 / 207
皇帝、火の粉を振り払う
5
しおりを挟む
「トーマス・ピアヌ中将です」
もう一度怒りをぶつけようと剣を握る手に力を込めたところで、天幕の外から低い男の声が聞こえた。
入り口のほうを振り返ると、気配を消して立っていた近衛騎士たちと視線が合って、気まずそうな顔をされる。
ますます苛立ちを募らせながら頷いて見せると、過去ないほどの素早さで天幕の布がめくられて、そこからふわふわとした栗毛が顔面の半分ほどを隠した人相の悪い男が入ってきた。
体格の良い軍人仕様の天幕なので、大抵の者は身体を屈める必要はないのだが、その男は規格よりも長身で、しかし職業軍人と言うには体格が薄かった。
「失礼いたします。お呼びと伺いましたが」
一度聴いたら忘れないほどに低音の声だった。美声と言ってもいい。しかし、どちらかというと尖った嫌な雰囲気の喋り方だ。この男とも長い付き合いなので、別に嫌味をいっているわけではないと知っている。
栗毛に隠れた目つきの悪い双眸が天幕内を一瞥して、明らかに面白がっている雰囲気で口元を歪める。
「折檻中ですか? お手伝いを?」
この男は尋問のプロである。そちら方面にはやたらと有能だ。癖の多い憲兵師団の中でもひときわ異彩を放つ中隊を率い、戦場で彼と出会うとハロルドですらぎょっとする。
「座れ。……お前じゃない」
ピアヌ中将に椅子をすすめたのに、ほっとした表情で並びの椅子に座ろうとしたドルフェスに、ハロルドは険しい声で言った。
「お前にもあとで話がある。そこで黙って立っていろ」
「だそうですよ」
「……うるせぇ」
くっくと引き笑いで揶揄されて、ドルフェスの顔が髪色に負けないほど赤らんだ。
ピアヌ中将はひとしきりそんな彼を眺めてから、良からぬ内緒話でもするかのように声を潜めた。
「で、御用件は? どこぞに間者でも混じっていましたか?」
ハロルドは再び入り口の近衛騎士たちを一瞥した。
いまこの天幕の中にいるのは、侍従と護衛を含め七名である。皆信頼のおける者たちで、どこかの紐付きではないと信じている。
しかし、リリアーナ嬢が来てからは、若干の危うさを感じてもいた。
誰も本心からハロルドを裏切りはしないだろう。しかし、いとも簡単に思考を誘導されることはあるのだ。
「今この陣内にハーデス公の孫がいるのは知っているな?」
「ええまあ、大抵の者が知ってると思いますよ」
「待ってくださいよ陛下! あのお姫様は……ぐっ」
どうやらどっぷりとその手管に引っかかってしまった赤毛の近衛師団長を、正気に戻らせるために殴りつけてやろうかとこぶしを握りしめた。
しかしそうする前に、ドルフェスの顔面目掛けて何かが飛んできた。現役の騎士ならば避けれるはずのタイミングだったが、毎度のことながらピアヌのその動きはしっかりと真ん中に決まった。
「……な、何をっ?!」
「ちょっと黙っていましょうか」
ハロルドは、手から力を抜いた。
ピアヌ中将が無造作に投げたのは……武器にもならない可愛らしい色合いの紙袋だった。
つぶれた口の部分から、数枚の焼き菓子が零れ落ちる。
「お前せっかく姫さんにもらったものを……!」
「毒類が混じっていないことは確認しましたが、まさか見知らぬ者から渡されたものを食したりしておりませんよね?」
「み、見知らぬってわけじゃないだろう!!」
この二人は上級士官学校での同級生で、家格的にも成績的にもライバル関係にあったと聞く。正統派のドルフェスのほうが力も技量も優れているのに、試合をすれば半々以上の確率でピアヌのほうが勝つらしい。
「……食べたのですね。近衛師団を率いるには、あまりにも警戒心が薄いのでは?」
「ど、毒類は混じっていないって」
「それは結果論ですね」
ぐうの音も出ず、ドルフェスは黙る。しかし納得していないとわかる表情だ。
「……この間抜けは放っておきましょう。ハーデス公のお孫さんがどうされましたか? ずいぶん評判の良いお美しい方のようですが」
おそらく学生の頃から頭脳戦を得意としてきたピアヌは、憲兵師団長の右腕として遺憾なくその手腕を発揮してきた。ネメシスのちょっと引くほどのやり方の多くは、この男が自動部隊を率いて実行したものだ。
「待ってください陛下! まさかこいつに姫さんを」
彼の実績を鑑みれば、ドルフェスの言いたいことは理解できなくもない。
憲兵の実働部隊を引っ張り出すなどやり過ぎだと言いたいのだろう? しかし、そうは思わない。
ハロルドが顔色も変えず冷ややかな目を向けたので、ドルフェスはショックを受けたような顔をした。フォローしてやる気も起きないのは、こいつがまんまと手管に嵌ってメルシェイラを貶したからだ。
「そもそも何故卿はリリアーナ嬢を『姫』だなどと呼ぶのです?」
ピアヌが、そんな元同級生を見て理解に苦しむとばかりに首を振った。
「彼女は皇族の姫ではありません。公爵家の寄子ではない卿が姫と呼ぶほどの身分でもありません」
その喋り方が耳障りに聞こえるのは、時折唇を曲げて嘲笑のようなものを交えるからだ。
「公の実子である妾妃さまのほうではなく、お孫さんのほうを姫と呼ぶのはおかしな話です」
そして次期公爵はリリアーナ嬢の父親ではなく伯父であり、世代交代が行われるともっと身分は下がる。
本来であれば、寄子であろうとも姫と呼ぶような地位にはいないはずなのだが、その美貌と明朗な気質が人気で、多くの者が彼女をハーデス公爵家の姫と呼ぶ。要するに……通称である。
しかし侮れないのが、そう呼ばれることにより彼女の存在価値が高まっているという事だ。おそらくだが、世間をそう誘導しているのはリリアーナ嬢自身だろう。
昔から社交のそういうところが不得手なハロルドだが、苦手だからと手を付けないわけにはいかなかった。
「意図的にメルシェイラの悪い噂を撒いているようだ」
「撒いているというよりも、誘導しているのですよ。うまい手です」
またも抗議しようとしたドルフェスより先に、ピアヌが同意するように頷いた。
ハロルドは、状況を理解してくれる存在がいることに安堵のため息をついた。侍従を含め、すべての人間がリリアーナ嬢を賛美するのではないかと危惧していたのだ。
「そ、そんなのは誤解」
「陛下が一番お嫌いなタイプですよね」
更に庇おうとしたドルフェスを無視して、かぶせるようにピアヌが言った。
「あの手の裏表ぐらい、可愛いものだと思うのですが」
ドルフェスが驚愕の表情で目を見開き、聞き間違いかとでも言いたげにハロルドとピアヌとを交互に見る。
「むしろ、妃として陛下のお役に立てる能力があると見るべきでしょう」
「お前もああいう女が皇妃になるべきだと思うのか?」
「陛下が今後も恙なく帝国を支配されるためには、それなりの能力を持った方が後宮を差配されるのはいい事だと思いますよ。恐れながら現在の皇妃さま方は皆そういうことよりも互いを蹴落とすことのほうに御執心のようで」
「では聞く。リリアーナ嬢が後宮に上がったとして、子も作らせず、愛されもせず、他の妃と同等の扱いを受けて、メルシェイラを害せず支えると思うか?」
ピアヌはひょいと肩をすくめ、薄い唇を歪めた。
「真っ先に排除しようとするでしょうね。賭けてもいいですが、その際にリリアーナ嬢は被害者あるいはまったく無関係な立場を確保されると思います」
その状況はハロルドにもありありと想像できたので、あえて反論せず難しい表情のまま不快感も露わに鼻を鳴らした。
後宮が今のような魔窟になってしまったのは、ハロルドの無関心が一番の原因だ。そうとわかっていても、ああいう女たちに関わり合いになりたくなかった。必要以上に介入したくはなかったし、自分の子どもを産ませたくもなかった。
リリアーナ嬢が後宮に妃として上がったとしても、一人そんな女が増えるだけだと言えなくはない。しかし、それによってメルシェイラに害が及ぶとなれば、話は別だ。
「別の面を見られては?」
不快も露わに唇を歪めたハロルドを見て、ピアヌはにこやかな、この男には珍しく至極楽しげな顔つきで言った。
「きっと如才なく、他の皇妃様方を片付けてくれると思いますよ」
「おい! いくらなんでも不敬だぞ!!」
「ですが、それが陛下のお望みでしょう?」
低くて太いピアヌの声が、やけにゆっくりと、心の奥底を抉るように囁いた。
「愛する奥方の為に、邪魔な女どもを一掃したいとと思っている」
ドルフェスが傍らで大きく息を吸って、不躾な男を怒鳴りつけようとした。しかし、途中で何を言えばいいのかわからなくなった様子で口ごもり、もう一度双方の顔に交互に視線を向ける。
「問題は、それをさせてしてしまえばリリアーナ嬢に下手な勢力を付けさせてしまうという事です。ハーデス公爵家に勢力が偏りすぎますから、両方を皇妃にはできません。陛下の大切な御方は風下におしやられてしまうでしょう」
ネメシスの片腕は、ハロルドの表情に何を見たのかクククと喉を鳴らして笑った。
「ちょうどいいタイミングで退場頂く手はずを整えておけばよいだけですが」
つまりは謀略を仕掛けるという事だ。派手な醜聞を起こして責任を取らせるとか。最悪の場合には闇から闇に葬るとか。
「おっ、お前なんてことをっ」
「……だだの戯言だ、ドルフェス」
帯剣に手を当てた近衛師団長に、ハロルドは極めて平坦な口調で言った。
「ピアヌ中将の冗談はいつものことだろう」
「いや陛下! それとこれとは違いますよ! 質が悪すぎます」
「いくらなんでもメルシェイラの姪を謀略に掛けるわけにはいかないから却下だ」
「残念。楽しいお手伝いができるかと思ったのですが」
「ピアヌ!!」
声高に喚く近衛師団長を手の一振りで黙らせて、ハロルドはするりと顎を撫でた。若干伸びた髭がチクリと指先を刺し、それをメルシェイラが痛がっていたなと思い出す。
「私は愛する妻に、妻であること以外を求めるつもりはない。望むなら社交も慈善活動も公務もすればいいと思うが、それが絶対に必要なわけではない」
「そうですよね。すでにもう十年、無しでやってこられたわけですから」
「故に、それを理由に妃を増やすつもりはない」
「はい、宜しいのではないかと思います」
ハロルドはひとつ頷いて、立ち上がった。
最初からわかっていたかのように同意するピアヌに、面白がるなと警告の視線を向けて、相手がゆるりと目を細めるのを見て更に渋い顔をする。
「……私の愛する妃を悪しざまに言う者を、放置しておくつもりはない」
「それはこの間抜けな近衛師団長のことですか?」
「えっ」
ぎょっとしてのけ反ったドルフェスには見向きもせず、ハロルドは真向かいで椅子に座ったままの憲兵副師団長を見下ろした。
「よからぬ噂は早急に押さえろ」
「……御意。リリアーナ嬢には困ったことになるかと思いますが?」
「己で撒いた種だ。結果は甘んじて受け入れてもらう。……どうだドルフェス、お前が娶るというのは?」
「はっ? いや俺には妻が」
「お前にはまだ継嗣がいないだろう。第二正室を娶ってもいいのではないか」
慌てて首を振って拒否しようとして、ドルフェスははた、と動きを止めた。
おそらくは今初めて、愛妻がいる男に別の女を近づけようとしたことに気づいたのだろう。
目を丸くしてハロルドを見て、さあっと顔面から血の気を失せさせる。
ドルフェスは最初の妻を産褥で失ってから長らく独身で、最近若い娘を妻にしたばかりだ。死んだ妻が産み落としたのが明らかに彼の子ではなかったという大醜聞は記憶に新しい。
真っ青になって固まってしまった赤毛の将軍を無視して、ハロルドは執務机に向かった。あれだけ仕事をしたのにまだ山になっている書類を見下ろして、ため息をつく。
戦時中に余計なことをしてくれる女など、不要どころか邪魔でしかなかった。
「私は忙しい。不愉快な女の顔をいつまでも見ていたくない」
「御意。早急に対処いたします」
ぬっと椅子から立ち上がったピアヌ憲兵副師団長が、その長い腕を折り曲げて恭しく騎士の礼を取った。
ドルフェスは唇を引き結んで沈黙を保ち、この話を聞いていた侍従や近衛騎士たちと同様に空気になりたそうな表情で気配を殺している。
しかし、可愛いメルシェイラを貶してくれたこの男を、簡単に許してやるつもりはない。
どうすれば一番ダメージを与えられるだろう。戯れに言った第二正室という線も悪くはないが、娶ったばかりの若い奥方が気の毒だ。
「この書類を内容別に分類して時系列順に並べ替えろ」
「……え」
「更に重要度別に仕分けして、不備があるなら各部署に確認しろ」
ドルフェスの部下であった頃から、彼が書類仕事が大の苦手だという事は知っている。今でもその大部分を副官に任せ、身体を動かす方が好きだと鍛錬ばかりしていることも。
「ま、待ってくださいよ陛下! 俺は」
「美しい御令嬢に鼻の下を伸ばして、手作りの菓子を嬉しそうに食べていたと奥方に手紙を書こうか?」
「はっ?」
「ついでに第二正室に推薦しておこう。私からの手紙を読めば、奥方も受け入れてくれるだろう」
「すいませんもうしわけありませんすぐに仕事にかかります!」
ハロルドは、にやにやしながらそんな元同級生を眺めているピアヌに、早々に去れと手を振った。
もう一度怒りをぶつけようと剣を握る手に力を込めたところで、天幕の外から低い男の声が聞こえた。
入り口のほうを振り返ると、気配を消して立っていた近衛騎士たちと視線が合って、気まずそうな顔をされる。
ますます苛立ちを募らせながら頷いて見せると、過去ないほどの素早さで天幕の布がめくられて、そこからふわふわとした栗毛が顔面の半分ほどを隠した人相の悪い男が入ってきた。
体格の良い軍人仕様の天幕なので、大抵の者は身体を屈める必要はないのだが、その男は規格よりも長身で、しかし職業軍人と言うには体格が薄かった。
「失礼いたします。お呼びと伺いましたが」
一度聴いたら忘れないほどに低音の声だった。美声と言ってもいい。しかし、どちらかというと尖った嫌な雰囲気の喋り方だ。この男とも長い付き合いなので、別に嫌味をいっているわけではないと知っている。
栗毛に隠れた目つきの悪い双眸が天幕内を一瞥して、明らかに面白がっている雰囲気で口元を歪める。
「折檻中ですか? お手伝いを?」
この男は尋問のプロである。そちら方面にはやたらと有能だ。癖の多い憲兵師団の中でもひときわ異彩を放つ中隊を率い、戦場で彼と出会うとハロルドですらぎょっとする。
「座れ。……お前じゃない」
ピアヌ中将に椅子をすすめたのに、ほっとした表情で並びの椅子に座ろうとしたドルフェスに、ハロルドは険しい声で言った。
「お前にもあとで話がある。そこで黙って立っていろ」
「だそうですよ」
「……うるせぇ」
くっくと引き笑いで揶揄されて、ドルフェスの顔が髪色に負けないほど赤らんだ。
ピアヌ中将はひとしきりそんな彼を眺めてから、良からぬ内緒話でもするかのように声を潜めた。
「で、御用件は? どこぞに間者でも混じっていましたか?」
ハロルドは再び入り口の近衛騎士たちを一瞥した。
いまこの天幕の中にいるのは、侍従と護衛を含め七名である。皆信頼のおける者たちで、どこかの紐付きではないと信じている。
しかし、リリアーナ嬢が来てからは、若干の危うさを感じてもいた。
誰も本心からハロルドを裏切りはしないだろう。しかし、いとも簡単に思考を誘導されることはあるのだ。
「今この陣内にハーデス公の孫がいるのは知っているな?」
「ええまあ、大抵の者が知ってると思いますよ」
「待ってくださいよ陛下! あのお姫様は……ぐっ」
どうやらどっぷりとその手管に引っかかってしまった赤毛の近衛師団長を、正気に戻らせるために殴りつけてやろうかとこぶしを握りしめた。
しかしそうする前に、ドルフェスの顔面目掛けて何かが飛んできた。現役の騎士ならば避けれるはずのタイミングだったが、毎度のことながらピアヌのその動きはしっかりと真ん中に決まった。
「……な、何をっ?!」
「ちょっと黙っていましょうか」
ハロルドは、手から力を抜いた。
ピアヌ中将が無造作に投げたのは……武器にもならない可愛らしい色合いの紙袋だった。
つぶれた口の部分から、数枚の焼き菓子が零れ落ちる。
「お前せっかく姫さんにもらったものを……!」
「毒類が混じっていないことは確認しましたが、まさか見知らぬ者から渡されたものを食したりしておりませんよね?」
「み、見知らぬってわけじゃないだろう!!」
この二人は上級士官学校での同級生で、家格的にも成績的にもライバル関係にあったと聞く。正統派のドルフェスのほうが力も技量も優れているのに、試合をすれば半々以上の確率でピアヌのほうが勝つらしい。
「……食べたのですね。近衛師団を率いるには、あまりにも警戒心が薄いのでは?」
「ど、毒類は混じっていないって」
「それは結果論ですね」
ぐうの音も出ず、ドルフェスは黙る。しかし納得していないとわかる表情だ。
「……この間抜けは放っておきましょう。ハーデス公のお孫さんがどうされましたか? ずいぶん評判の良いお美しい方のようですが」
おそらく学生の頃から頭脳戦を得意としてきたピアヌは、憲兵師団長の右腕として遺憾なくその手腕を発揮してきた。ネメシスのちょっと引くほどのやり方の多くは、この男が自動部隊を率いて実行したものだ。
「待ってください陛下! まさかこいつに姫さんを」
彼の実績を鑑みれば、ドルフェスの言いたいことは理解できなくもない。
憲兵の実働部隊を引っ張り出すなどやり過ぎだと言いたいのだろう? しかし、そうは思わない。
ハロルドが顔色も変えず冷ややかな目を向けたので、ドルフェスはショックを受けたような顔をした。フォローしてやる気も起きないのは、こいつがまんまと手管に嵌ってメルシェイラを貶したからだ。
「そもそも何故卿はリリアーナ嬢を『姫』だなどと呼ぶのです?」
ピアヌが、そんな元同級生を見て理解に苦しむとばかりに首を振った。
「彼女は皇族の姫ではありません。公爵家の寄子ではない卿が姫と呼ぶほどの身分でもありません」
その喋り方が耳障りに聞こえるのは、時折唇を曲げて嘲笑のようなものを交えるからだ。
「公の実子である妾妃さまのほうではなく、お孫さんのほうを姫と呼ぶのはおかしな話です」
そして次期公爵はリリアーナ嬢の父親ではなく伯父であり、世代交代が行われるともっと身分は下がる。
本来であれば、寄子であろうとも姫と呼ぶような地位にはいないはずなのだが、その美貌と明朗な気質が人気で、多くの者が彼女をハーデス公爵家の姫と呼ぶ。要するに……通称である。
しかし侮れないのが、そう呼ばれることにより彼女の存在価値が高まっているという事だ。おそらくだが、世間をそう誘導しているのはリリアーナ嬢自身だろう。
昔から社交のそういうところが不得手なハロルドだが、苦手だからと手を付けないわけにはいかなかった。
「意図的にメルシェイラの悪い噂を撒いているようだ」
「撒いているというよりも、誘導しているのですよ。うまい手です」
またも抗議しようとしたドルフェスより先に、ピアヌが同意するように頷いた。
ハロルドは、状況を理解してくれる存在がいることに安堵のため息をついた。侍従を含め、すべての人間がリリアーナ嬢を賛美するのではないかと危惧していたのだ。
「そ、そんなのは誤解」
「陛下が一番お嫌いなタイプですよね」
更に庇おうとしたドルフェスを無視して、かぶせるようにピアヌが言った。
「あの手の裏表ぐらい、可愛いものだと思うのですが」
ドルフェスが驚愕の表情で目を見開き、聞き間違いかとでも言いたげにハロルドとピアヌとを交互に見る。
「むしろ、妃として陛下のお役に立てる能力があると見るべきでしょう」
「お前もああいう女が皇妃になるべきだと思うのか?」
「陛下が今後も恙なく帝国を支配されるためには、それなりの能力を持った方が後宮を差配されるのはいい事だと思いますよ。恐れながら現在の皇妃さま方は皆そういうことよりも互いを蹴落とすことのほうに御執心のようで」
「では聞く。リリアーナ嬢が後宮に上がったとして、子も作らせず、愛されもせず、他の妃と同等の扱いを受けて、メルシェイラを害せず支えると思うか?」
ピアヌはひょいと肩をすくめ、薄い唇を歪めた。
「真っ先に排除しようとするでしょうね。賭けてもいいですが、その際にリリアーナ嬢は被害者あるいはまったく無関係な立場を確保されると思います」
その状況はハロルドにもありありと想像できたので、あえて反論せず難しい表情のまま不快感も露わに鼻を鳴らした。
後宮が今のような魔窟になってしまったのは、ハロルドの無関心が一番の原因だ。そうとわかっていても、ああいう女たちに関わり合いになりたくなかった。必要以上に介入したくはなかったし、自分の子どもを産ませたくもなかった。
リリアーナ嬢が後宮に妃として上がったとしても、一人そんな女が増えるだけだと言えなくはない。しかし、それによってメルシェイラに害が及ぶとなれば、話は別だ。
「別の面を見られては?」
不快も露わに唇を歪めたハロルドを見て、ピアヌはにこやかな、この男には珍しく至極楽しげな顔つきで言った。
「きっと如才なく、他の皇妃様方を片付けてくれると思いますよ」
「おい! いくらなんでも不敬だぞ!!」
「ですが、それが陛下のお望みでしょう?」
低くて太いピアヌの声が、やけにゆっくりと、心の奥底を抉るように囁いた。
「愛する奥方の為に、邪魔な女どもを一掃したいとと思っている」
ドルフェスが傍らで大きく息を吸って、不躾な男を怒鳴りつけようとした。しかし、途中で何を言えばいいのかわからなくなった様子で口ごもり、もう一度双方の顔に交互に視線を向ける。
「問題は、それをさせてしてしまえばリリアーナ嬢に下手な勢力を付けさせてしまうという事です。ハーデス公爵家に勢力が偏りすぎますから、両方を皇妃にはできません。陛下の大切な御方は風下におしやられてしまうでしょう」
ネメシスの片腕は、ハロルドの表情に何を見たのかクククと喉を鳴らして笑った。
「ちょうどいいタイミングで退場頂く手はずを整えておけばよいだけですが」
つまりは謀略を仕掛けるという事だ。派手な醜聞を起こして責任を取らせるとか。最悪の場合には闇から闇に葬るとか。
「おっ、お前なんてことをっ」
「……だだの戯言だ、ドルフェス」
帯剣に手を当てた近衛師団長に、ハロルドは極めて平坦な口調で言った。
「ピアヌ中将の冗談はいつものことだろう」
「いや陛下! それとこれとは違いますよ! 質が悪すぎます」
「いくらなんでもメルシェイラの姪を謀略に掛けるわけにはいかないから却下だ」
「残念。楽しいお手伝いができるかと思ったのですが」
「ピアヌ!!」
声高に喚く近衛師団長を手の一振りで黙らせて、ハロルドはするりと顎を撫でた。若干伸びた髭がチクリと指先を刺し、それをメルシェイラが痛がっていたなと思い出す。
「私は愛する妻に、妻であること以外を求めるつもりはない。望むなら社交も慈善活動も公務もすればいいと思うが、それが絶対に必要なわけではない」
「そうですよね。すでにもう十年、無しでやってこられたわけですから」
「故に、それを理由に妃を増やすつもりはない」
「はい、宜しいのではないかと思います」
ハロルドはひとつ頷いて、立ち上がった。
最初からわかっていたかのように同意するピアヌに、面白がるなと警告の視線を向けて、相手がゆるりと目を細めるのを見て更に渋い顔をする。
「……私の愛する妃を悪しざまに言う者を、放置しておくつもりはない」
「それはこの間抜けな近衛師団長のことですか?」
「えっ」
ぎょっとしてのけ反ったドルフェスには見向きもせず、ハロルドは真向かいで椅子に座ったままの憲兵副師団長を見下ろした。
「よからぬ噂は早急に押さえろ」
「……御意。リリアーナ嬢には困ったことになるかと思いますが?」
「己で撒いた種だ。結果は甘んじて受け入れてもらう。……どうだドルフェス、お前が娶るというのは?」
「はっ? いや俺には妻が」
「お前にはまだ継嗣がいないだろう。第二正室を娶ってもいいのではないか」
慌てて首を振って拒否しようとして、ドルフェスははた、と動きを止めた。
おそらくは今初めて、愛妻がいる男に別の女を近づけようとしたことに気づいたのだろう。
目を丸くしてハロルドを見て、さあっと顔面から血の気を失せさせる。
ドルフェスは最初の妻を産褥で失ってから長らく独身で、最近若い娘を妻にしたばかりだ。死んだ妻が産み落としたのが明らかに彼の子ではなかったという大醜聞は記憶に新しい。
真っ青になって固まってしまった赤毛の将軍を無視して、ハロルドは執務机に向かった。あれだけ仕事をしたのにまだ山になっている書類を見下ろして、ため息をつく。
戦時中に余計なことをしてくれる女など、不要どころか邪魔でしかなかった。
「私は忙しい。不愉快な女の顔をいつまでも見ていたくない」
「御意。早急に対処いたします」
ぬっと椅子から立ち上がったピアヌ憲兵副師団長が、その長い腕を折り曲げて恭しく騎士の礼を取った。
ドルフェスは唇を引き結んで沈黙を保ち、この話を聞いていた侍従や近衛騎士たちと同様に空気になりたそうな表情で気配を殺している。
しかし、可愛いメルシェイラを貶してくれたこの男を、簡単に許してやるつもりはない。
どうすれば一番ダメージを与えられるだろう。戯れに言った第二正室という線も悪くはないが、娶ったばかりの若い奥方が気の毒だ。
「この書類を内容別に分類して時系列順に並べ替えろ」
「……え」
「更に重要度別に仕分けして、不備があるなら各部署に確認しろ」
ドルフェスの部下であった頃から、彼が書類仕事が大の苦手だという事は知っている。今でもその大部分を副官に任せ、身体を動かす方が好きだと鍛錬ばかりしていることも。
「ま、待ってくださいよ陛下! 俺は」
「美しい御令嬢に鼻の下を伸ばして、手作りの菓子を嬉しそうに食べていたと奥方に手紙を書こうか?」
「はっ?」
「ついでに第二正室に推薦しておこう。私からの手紙を読めば、奥方も受け入れてくれるだろう」
「すいませんもうしわけありませんすぐに仕事にかかります!」
ハロルドは、にやにやしながらそんな元同級生を眺めているピアヌに、早々に去れと手を振った。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【完結】王妃を廃した、その後は……
かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。
地位や名誉……権力でさえ。
否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。
望んだものは、ただ一つ。
――あの人からの愛。
ただ、それだけだったというのに……。
「ラウラ! お前を廃妃とする!」
国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。
隣には妹のパウラ。
お腹には子どもが居ると言う。
何一つ持たず王城から追い出された私は……
静かな海へと身を沈める。
唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは……
そしてパウラは……
最期に笑うのは……?
それとも……救いは誰の手にもないのか
***************************
こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる