贖いの廉施者

正岡武

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第一話

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 数メートル先も見通せない濃霧に包まれた道を歩くような速さで馬車が進んでいる。
 霧で視界が遮られ、道を踏み外せば命の保障は無い御者に取ってランタンは必須だ。
 草木は枯れ果て、血と腐敗臭の匂いで満ちた生命の気配を微塵も感じさせない程に灰色で染められた道に人影が見える。
 彩色の抜け落ちた光景の中に、明らかにただならぬ様相をした男を見て馬を止めた。
 所々錆びて欠落ち、革で修繕された継ぎ接ぎの甲冑を覆い隠すようにボロ衣を纏っている。
 削り取られてはいるが微かに装飾が残る長剣を携え、痩せこけた顔に何日も洗っていない伸ばしっぱなしの髪と髭、そして微動だにせず既に事切れた息子の亡骸を抱いた男を御者は一瞥する。

「乗っていけ」

 ただそう伝えると、男は焦点の合わない目で感謝の言葉を伝え荷台に乗り込んだ。

「行き先は?」

 事情を察したのか、あまりの惨状に目も当てられなかったのか御者は振り向かずに行き先だけを聞く。

「聖ルドヴィア教会まで」

男は掠れた声でそう告げると、初老の御者は僅かに頷き手綱を引くと馬車は進み出す。
 数年前に起きた傀儡聖戦。
 別世界で命を落とした者を「再誕者」として聖体と聖遺物を用いて受肉させる冒涜的所業によって齎された、聖戦とは名ばかりの厄災によって崩壊の一途を辿りつつある。
 多くの民が蹂躙され、騎士達は祖国の為に命を落とし、その国も滅んだ。
 残された民の中には自ら命を落とす者も少なくなかった。
 今や教会へ向かう者の多くがそうだ。
 息絶える時は魂が彷徨わないよう天が導いてくれる事を願い、また巡り会える事を信じて自害するのである。
 悠久の時のような静寂を打ち破るように、御者は問いかけた。

「その剣と成りを見るにお前さん、ただの平民の生まれではないな」

 男は俯いたまま問いに答える。

「この惨劇が起きるまでは、それなりに名のある家柄ではあった、今じゃ何も護れなかった落伍者だ」

「息子も祖国も、守れなかった、ただの落伍者だ」

 雨一つ振りもしない曇天の下、抱えた亡骸の顔に雫が滴り落ちた。

 死ぬ間際ぐらい、好きに話させてやろうと聞いていた御者が口を開く。

「 お前さんはよくやった、お前さんはよくやったよ。天と神が認めないなら俺が証人になってやる」

 それは頼もしいとでも言うように、男は力無く笑った。

「到着だ」

 眼前に辛うじて原型を保っていた教会が見える。

「お代はいらん、浮いた金でパンでも買いな」

 御者は心なしか優しげな口調で言う。

「ありがとう、貴方にも神の導きがあらん事を。」

 男がそう別れの挨拶を告げると堅苦しい事は気に食わんと言わんばかりに振り向かないまま手を振り御者は霧の中に消えていった。

「着いたぞネストロフ、お前の一番のお気に入りの場所だ。」

 まだ生きているかのように美しい亡骸に語りかける。



――幼い頃、男は時折稽古や勉学の時間に抜け出してはこの教会で他の子供と遊んでいた。
 身寄りのない戦災孤児達と共に、自然がもたらす恵みに真理を見出していたのだ。
 父に見つかっては連れ戻されていたが、同じ男である父も幼い頃は彼と同じであった。
 英雄の冒険譚に憧れる年頃の少年を、檻の中に閉じ込めておく事等不可能であり、父は内心ペンと剣では学べない事を教えてくれる教会とシスターに内心感謝していたのだ。
 中流貴族としての職務に追われ、あまり息子の相手をしてやれなかった複雑な心境から、あまり強くは言えなかったのである。
 やがて男自身も結婚し家庭を築いた。男がそうしたように勉学や稽古に励む中で時間を見つけては教会で息子と共に祈り、自然の中で得た知恵を与え、孤児達に読み書きを教えていた。
 最早そんな時代もあったのか疑わしい程に寂れ、教会の枯れた大樹に願いを託し逝った屍達を見て再び亡骸に目を落とす。

「情けない父で本当にすまない、お前に何もしてやれなかった、もしまた巡り会える事ができれば来世で最愛の妻オリガと一緒に花冠を作ろう」

 亡骸を樹の下に、赤子をベッドに乗せるようにゆっくりと置き、一振りのナイフを取り出す。
 そして刀身が首元に食い込み、喉元を切り裂く瞬間に突如後ろから問いかける声を聞いた。

「――その微かに残った剣と甲冑の装飾、貴方はもしやセルジオ様ではありませんか?」

 聞き覚えのある懐かしい声が聞こえる。
 頭を上げ後ろを振り返るとシルベン神父が立っている。
 皺と白髪が増え、声は嗄れているが
 このような惨状でも他者を慈しむ笑みだけは彼にしか出来ないものであった。

「シルベン神父、何故ここにいるのです」

 理解しきれていない状況を把握する為問いかける。

「貴方が死地を選ぶとするならきっとここを選ぶと確信していましたから」

 そう言いながら歩み寄り、冷たくなった息子の頬を撫でる。

「こんなにも若く聡明であったのに、壮絶な旅路だったのでしょう」

「満身創痍の身でありながらよくぞここまでいらしてくれました」

 とうに消え去ったと思っていた故郷の暖かさにも似た感覚に、ただ咽び泣いた。

「私は故郷も友も、そして家族も無くしました。もう振るうべき剣など何処にもありません。せめて神の身許へ召す前に、貴方からの御言葉を賜る事が出来れば、最早この世に未練はありません。」

 絶望と安堵の入り混じる声でそう告げると。

「セルジオ様の気持ち、痛い程分かりました」

「どうか少しだけ待ってはいただけないでしょうか」

「貴方の御父様からの預かり物と、大事な話があるのです」

 再誕者によって帰るべき場所を失った私にとって思わぬ報せであった。
 あの父上から預かっている物だ、余程重要なものに違いない、それを知らぬまま逝くなど死んでも死に切れないと感じたセルジオは、息子を抱え神父と共に教会の一室に向かった。

 蝋燭が微かに部屋を照らし、乳香の香りで満たされた部屋に案内される。死臭に晒され続けた自身の悪臭で穢れる事を心配したが、神父は気にも留めなかった。
 或いは匂いより遥かに重要な話に違いない。

「ネストルフ様をこちらへ、お身体を清めてさせて下さい」

 少し心惜しそうに息子の亡骸を預け、纏っていた布と衣類を取り、聖水の入った桶で身体を洗い、丁寧に布で包んだ。
 テーブルを挟んで向かい合うように椅子に座り、コップ一杯の水と二つのパンを差し出す。
 久方振りの食事を前に感謝と神への祈りを終えた瞬間、セルジオは二分も立たずに平らげると神父が口を開いた。

「傀儡聖戦の由来はご存知ですか?」
 授業の内容を復習してきたかを聞く教師のように神父が問う。

「存じております」

「――ではその再誕者は何処から来たのか、こうまで強き力を得たのは何故か」
 神父は羊皮紙に描かれた大まかな大陸の地図を広げ、祖国エルズペスと西の大国ルカサンテ、その間にある小国サンヴェルクを指差した。
 グノーシア教は大陸リハルトで最も信仰されている宗教だ。
しかし大国間でも教えの内容は異なっており、東の大国エルズペスではワグナー派、西の大国ルカサンテではドルクシス派で対立していた。
そして大陸の南東に正グノーシア教という聖典原理主義に基づいた厳格な教えに忠実に生きる信徒の住まう、小国サンヴェルク。
 如何に教派による対立が過激化しようと、この聖地だけは手を出してはならないという暗黙の了解があった。
だが軍事大国ルカサンテが、若き強欲な王ラドヴィアヌスに変わった年、積極的な領土拡張動きが目覚ましく、サンヴェルクを傀儡国家にする目論見もあったという。
「サンヴェルクは原理主義に基づき一切の武力行使も、政治的政略的な要求にも応じない、聖地としての中立国家という姿勢を貫いていました」

「しかし対立が激化するにつれ、ラドヴィアヌスは強硬手段に出ました」

「サンヴェルクに保存されている聖遺物をルカサンテの物にし、ワグナー派を異教徒だと糾弾しようとしたのです」

 非難するかのように、神父はルカサンテを指差す。

「エルズペスもこの行為を容認していた訳ではなかったのですが、飢饉や蛮族問題で十分な対応をする余裕がありませんでした」

 「本来再誕者を呼び起こす事は、神と生命への冒涜、ましてや由緒正しき正グノーシア教の聖遺物を使う事など言語道断なのです」

「再誕者に関する情報と、再臨する方法を記した書物は禁書としてサンヴェルクが厳重に保管していた筈なのですが…」

 神妙な面持ちで聞いていた、セルジオが口を開く。

「ルカサンテの手先に聖遺物ごと盗まれたか、側近がサンヴェルク国王に唆したか」

 神父は目を閉じ心苦しそうに告げる。
「残念ながらその仮説を立証できる人物は、
この世から消え去りました」

「しかしこうしている今も、再誕者が齎す厄災が広まりつつあります」


 そう言いながら神父は簡素な作りの木箱を渡した。

「御父様からの預かり物です」

 箱を開けてみるとグノーシア教の物に、似ても似つかない黒い二つの金属を縦と横に交差させ、釘で磔にされた男のシンボルとそれに連なるように数珠を縄で通した奇妙な物だ。

「私達が祈る時に使うアーシマと良く似ている。
なんですかこれは」

 驚きと疑問を隠せないセルジオに神父は答える。

「――それは最初の再誕者が遺した聖遺物、ロザリオでございます」

















 
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