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第九章・不可侵の領域
四千年越しの感謝
しおりを挟む水の王都シトゥルスの街や王城には、随分と久方振りになる楽しげな声が響いていた。
辺りには未だ争った痕跡が生々しく残り、大量の雪が積もっているものの、今日この時ばかりは誰も気にしない。多くの街人たちが肩を組み、身を寄せ合い、嬉しそうな声を上げながら騒ぎ立てている。大急ぎで用意されたいくつかの屋台からは芳ばしい香りが漂い、都を包んでいた。
水の王リーブルは王城のテラスに佇み、そんな楽しげな城下の様子を優しい眼差しを以て見つめていた。暫しそうしていたものの、やがてゆったりとした所作で自分の後ろに控えるヘルメスとエクレールに向き直る。その顔に隠し切れない笑みを滲ませて。
「ヘルメス王子、エクレール王女。本当にありがとう。我が国の民を救ってくれたこと、心から感謝する」
聖剣と聖杖を重ね合わせて放たれたあの光は、メルディーヌの死の雨を受けた被害者たちを結果的に救うことができた。アンデット化を解除し、人としての理性を取り戻したのである。それと同時にフォルネウスが張った氷は綺麗に解けてくれた。
ただ、火傷のようになった傷や溶けた皮膚はさすがに一気に回復させることはできず、綺麗に完治させるには医者の適切な治療を受ける必要があるようだ。それでも、被害者の関係者たちはその奇跡としか言いようのない現象に涙を流して喜んでくれた。
リーブルの言葉を受けたヘルメスとエクレールは、一度ちらと互いを見遣った後に軽く眉尻を下げて笑う。思うことはどちらも同じだ。
「全てジュードたちのお陰です、そのお言葉は彼らにおかけください」
「はい、みなさまは精霊の里の奥地でも民を救う方法を必死に探されたと窺っています。わたくしはほとんどお力になれず、恥ずかしいですわ」
ヘルメス、エクレール両者から返る言葉に、リーブルは依然として相貌を笑みに弛めたまま、言葉もなくゆるりと頭を横に振った。リーブルにとっては、民を救うために尽力してくれた全てが感謝すべき対象なのだ。
「ジュードくんは……」
「消耗が激しかったようで、今は客間をお借りして休んでいます。精霊たちの話では、精霊との一体化は大幅に精神を消費するらしく、いつも半日から一日ほど休息が必要なのだとか……」
「そうか……では、ジュードくんが目を覚ましたら礼を伝えに伺うとしよう。彼らには本当に助けられてばかりだよ」
初めて水の国に魔族が現れた時も、先日の大雪の時も、そして今回も。リーブルとジュードたちには何かと不思議な縁がある。困った時には、いつもやってきて助けてくれるのだ、まるでおとぎ話の勇者か何かのように。そんな彼らに感謝の念が湧かないはずがなかった。
城下から聞こえてくる民の嬉しそうな声に、リーブルは眦を和らげる。様々な国難に見舞われてきたが、ようやく深い深い暗闇から抜けられたようだった。
* * *
泥沼に落ちたのではと思うほど、指先ひとつ動かしたくない倦怠感の中でジュードは静かに目を開けた。焦点の定まらない視界にはぼんやりと部屋らしき景色が映り込む。「わう」と近くから聞こえてくるのは、十中八九ちびだろう。何度か瞬きを繰り返して焦点を合わせると、そこはどうやら客間のようだった。
いつも以上に回転の鈍い思考のまま眠る前の記憶を手探りで思い返していくが、ややあってから状況を理解するなり慌てて飛び起きた。それと同時に激しい眩暈を覚えて、すぐに突っ伏してしまったが。
「ガウウゥッ!」
「ご、ごめん、ちび……でも、どうだった? あれから、どうなったんだ?」
まだ起きるな、寝てないと駄目――唸り声と共にそんな声が頭の中に響き渡る。けれど、ジュードはジュードであれからどうなったのか、住民たちを救えたのかが気になってどうしようもなかった。結局あの後、どうなったのか確認する暇もなく、吸い込まれるようにして意識を飛ばしてしまったのだから。
『医者の治療は必要とのことだが、無事に人間に戻れたよ。大丈夫だ、心配ない』
「あ、ジェントさん、……そっか、よかった……ウィルたちは?」
『城下の方に様子を見に行ってるよ、精霊たちも一緒に。ヘルメス王子やエクレール王女も元気だ、何も問題ない』
その疑問に答えてくれたのは、窓辺で外の景色を眺めていただろうジェントだった。心なしか、その秀麗な顔にもホッとしたような安堵の色が滲んでいる。ジュードが気にするだろうことを先に伝えられて、ジュードの顔にも自然と安堵が滲んだ。そんな彼の様子を眺めてジェントはふと気が抜けたように相貌を弛めると、改めて口を開いた。
『……ありがとう、ジュード』
「え? 何がですか?」
吐息と共に吐き出されるようにして告げられた感謝の言葉は、しみじみと感じ入るようなものだった。ジェントに礼を言われるようなことは、特に何もしていない。逆に解読作業だの何だの、全てを押しつけてしまったこちらが礼を言う側なのに。
『四千年前、当時は死の雨の被害者を救う方法を見つけられなかった。もしグラナータが今回の方法に行き着いていたとしても、きみのような力を持つ者がいなかったからな、結局俺たちでは誰も救えなかっただろう。……今回、きみたちが被害者を救ってくれたお陰で、永年の憂いが晴れた気がするよ』
「……ジェントさん」
大昔にも、あの恐ろしい死の雨が降ったことは既に聞いた。その被害者を救う方法を見つけられなかったとも。四千年前、英雄たちは確かに魔王サタンを倒すことには成功した。けれど、被害者たちを救えなかったことは彼らの心にずっと残り続けたことだろう。魔大戦が終わった後もグラナータ博士が死の雨の研究を続けていたのは、きっとそのため。そして、それがこうして功を奏してくれた。
悪いのはメルディーヌであって彼らではないのだから、そこまで責任を感じることはないのに――そうは思うものの、言ったところで「そうだな」とはならないだろうから、とやかくは言わなかった。
ジュードはジッとジェントを眺めた後、その肩越しに見える窓に目線を合わせる。どれくらい眠っていたのか、窓越しに見える空はすっかり橙色に染まりつつある。
「……グラナータ博士も、今頃喜んでくれてますかね」
『ああ、きっとみんな喜んで……きみたちに感謝してるよ』
城下街の方からは、楽しそうな音楽や笑い声が聞こえてくる。ジュードもジェントも、それにちびも。暫し何を言うでもなく、ただ黙って外の景色を眺めていた。心から安心したように。
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