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第二話「陣中膏」
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紀伊の城下町は寒多郞が勤める船着場にはない華やかさがある。訪れた嘉兵衛は目当ての出雲阿国の再来と言われた黄梅蘭の演目が観覧できたことにご満悦だ。幕府による女流芸能者の取り締まりが始まる前であったこともあり黄梅蘭の公演を見たものは嘉兵衛だけでなく誰もが喜びもひとしおだ。
寒多郞はそんなご満悦な嘉兵衛を見て安堵する。彼もその場のノリを楽しもうと笑顔を振りまこうと努めた。その度に携えた刀が重く感じた。
(これがあるから楽しめないのかな・・・。)
城下の明るさがを嫌うように妖刀はカタカタと微細に震えた。それはいつもの事だが、そのいわく付きの刀を下ろすことはできない運命のなかに寒多郞はいた。
しかし、ある時、その震えが唯一止まる時があった。少し不審に首を傾げた寒多郞は周囲を見回すと川辺にできた人集りが目に留まった。
「さてさてお立ち会い!」
しゃがれた掛け声が響き軟膏の薬売りの物見で集まる人々を目にした。寒多郞はそこに10分足を止めたまま動かなかった。男の口上がうまいわけはない。むしろ逆だ。恐らくは今日、はじめての実演販売を任せられた新人なのだろう。と言うには歳はどうみても50は越えようかという風貌だ。
(そういえば、あの薬売りどこかで見たような・・・。)
男の手際の悪さを見て辛辣な子供たちは小石を投げつけるなどしていた。
「こら!止めないか、君たち!」
思わず寒多郞は飛び出した。帯びた刀に萎縮して少年たちはそばにいた父親のもとにすがった。その親は「チッ!」と因縁をつけるような眼差しでその場を立ち去る。肩にかけた手拭いの鳥の紋様が目に付く。
「これはあいすみません」
「いやいや、しかしこの商いは始めたばかりなのですか?」
「ええ。不馴れなもので、お恥ずかしい限りです。これでは道化のようで・・・」
「道化ですか・・・そうなるとわたくしのしていることも大して変わりませんよ。そうだ。なんなら、その薬ひとつ買いましょう。これも何かのご縁です」
「本当ですか?」
松之丞と名乗るその男は自慢の軟膏薬が入った小壺を寒多郞に手渡した。珍妙な紫の鳥があしらわれた黒色の丸い壺は何か印が籠められているかのような気味の悪い色合いだった。しかしその時は、心温まる交流が寒多郞には沁みた。
その日の夜、寒多郞はそのことを紀伊藩士の岩本源之進に語ったが、あきれるばかりだった。
「傷薬なら紀伊の番方で用意する。お前が紀伊の国ために尽くすと言えば済む話だ。」
「ナマクラ刀しか持たぬこの自分のどこを見込んでいるのやら。」
「それはお前の心根次第だろ?昔の戦ばかりの世とは今は違う。お前も侍としての才があるならそれを活かすべきだ。」
後日に迫る町奉行目通りを前にして源之進は事前の引き抜き交渉を用意した宿場にて行った。それは酒のあてに夜まで続いたが、どの刻までしていたか覚えていない。寒多郞は宿場の窓から差し込む朝日に起こされた。そして気づいた。
「薬が消えた!」
寒多郞は持っていた荷物をすべてあらためてみたが何処にもなかった。寒多郞は何度も壺をあらためたが空だった。
「カネは?」
朝風呂から戻っていた源之進は開口一番に尋ね、寒多郞はハッとした。荷袋から財布を取り出して金子をあらためる。とられた形跡はない。となると物盗りの仕業ではない。というより自分と源之進以外にこの部屋に立ち入った形跡も気配もない。単純に軟膏薬だけが抜き取られていたということになる。
(誰が?何のために?)
軟膏薬が納められた壺のそばには寒多郞の妖刀があった。寒多郞はおもむろにその刀を手に取り鞘から剣を引き抜いた。思わぬ行動に源之進は二度見した。刀を日に翳すといつも以上にギラギラと輝いてみえる。
(お前が吸い上げたというのか・・・?)
優れた剣士は刀の心が読み取れるという。寒多郞はその領域に迫れないところがあった。寒多郞自身がこの刀に恐れがあるというのか。寒多郞はそばにあった薬壺を手にした。八咫烏を模した家紋のような印があしらわれている。
「源之進、この記しに覚えはあるか?」
「どこかの家紋を模したものだが記憶にないな」
(そういえば、あの男の手拭いにも鳥の紋様があったな?)
寒多郞はふと松之丞に石を投げつけた子どもの親の肩に掛けていた手拭いに描かれた鳥の絵を思い出した。当初はただのヤジかと思われたが、彼にはそれだけでない因縁を浴びる理由があったのかもしれない。
その日も道化の薬売りは不慣れな商売をしていた。見物客に混じり源之進の指示を受けた物見が尾けている。すると松之丞は道化であることを忘れたように澄ました表情を浮かべる。
「そろそろ、ここともオサラバかな・・・」
薬売りは吐きすてて店の荷車をたたみ去っていった。
疑念が残るなかでその日の夜、寒多郞は源之進から一人の男の名前を教えられた。
「杉若氏宗?」
それはかつて紀伊藩を納めていたものの名前だった。関ヶ原で西軍として参戦し敗戦した後の行方知れずとなり、いつしか人びとの記憶からは失われていた。
(杉若の家臣のものか、あるいはその当人か・・・)
松之丞についての疑念はそれだけではなかった。
「何処の薬種問屋からも買付がない?」
紀伊の国にある堺由来の十余ある薬種問屋を全てあらためたが、松之丞という男の名は得意先名簿には載っていないというのだ。だとすれば、製薬元はどこか?ドロリとした透明な油のような粘液はどの種流にも類似性を知らない。
(では、この薬は何だというのか・・・?)
寒多郞はおもむろに刀を引き抜いて天にかざした。混じり気のある薬を吸い込んだ(であろう)その妖刀はいつもよりギラギラと輝いていた。
(取り潰しとなった国の長が薬売りで再起を図るか・・・)
すると源之進の使いのものから報せが届いた。松之丞が消えたという報せだ。困惑の表情を浮かべる源之進を諌めるように寒多郞は答えた。
「男の行方なら見当はつく」
寒多郞は妖刀を納めて刀の震えを感じ取った。そしてその声を聞き宿場から駆け出して夜の闇に消えた。
刀の振動が治りたどり着いた先にはすでに街の明かりが遠くにあった。そこにはひとつの道があった。誰も通らないが故に草木がしげる細道に辺りの男が通る気配があった。寒多郞は道端の茂みに隠れそのものの姿を確認した。松之丞であった。
通り過ぎた男を寒多郞は尾けた。紀伊路を使わず川を上って熊野古道を抜ける経路に違和感を覚えた。何かの縁を思ってのことなのか?思念するといつの間にか夜が明けようとしていた。
やがて男は足を止めた。そこには石垣の連なる城跡があった。地図を持ち合わせていない寒多郞にはそれがどこの城跡か検討がつかない。石垣には霧に混ざってドロリとした液体が垂れている。男はその透明な液体を大壺に注いだ。その行為について思考する寒多郞の存在にやがて男は気づいた。
「何のようです?」
「あなたがお売りいただいた軟膏薬が大変な上物でございましたので御礼を伝えねばと思いまして」
「それは何よりなことで・・・」
「それにしても珍しい酌み方をされておりますね。ここに薬の油になる蝦蟇でもいるのでしょうか?」
「いえ・・・ここには筑波の山のような蝦蟇はおりません」
「それではそれは何の薬なのでしょうか?」
「さあ・・・しかし、涌いてくるのでございます・・・涌いて・・・」
男はそう言っている間こちらを見なかった。ゴボゴボという音が鳴りやまない。寒多郞は背筋に寒気を覚えて思わず刀を引き抜いた。
「クッ!」
その刀は自身の恐怖を断ち切るようにして近くの石垣に突き刺す。ガシッ!という音がふたりの空間に広がる。寒多郞は衝撃に手のしびれを覚えながら剣先からシュワシュワと炭酸が抜けるようなものを感じていた。
「何をなさるのです!」
男はこれまで見せたことのない感情を見せた。寒多郞が突き刺したのはこの男の感情が封じられていた紙風船のようでもあった。寒多郞はまだ違和感のある白刃を掲げて切先を見上げた。朱じみた鈍色の輝きのない色合いは相変わらずだった。
「これはナマクラ刀でございます。故にあなたを斬ることはありません。この刀で斬ったのはここにまとわりつく過去のシガラミでございます」
それを聞いて男はうな垂れた。そしてトボトボと石垣から離れ霧に包まれながらその姿を消していった。寒多郞はこのまま男も浄化されてしまうのかという懸念を感じていた。
翌朝になって再び城下に赴くと男はいつもの調子で手際の悪い露店販売の口上を述べていた。
紀伊の城で町奉行に目通りを許された。寒多郞が仕官する気のないことの意志はここでも相変わらずで側に控える源之進は頭を抱えた。
「近頃の寒多郞殿は奇妙な釉薬ばかりに目がないようで・・・」源之進は町奉行にささやく。
「蝦蟇の油もどきか?そういえばそれを売っていた薬売りが先ほど、亡くなったそうだな」
「!?なぜ?」勘太郎は目を丸くした。
「なんでも見物客の前で売っている薬が入った壺を頭からかぶって首元から自刃したそうだ。近頃、薬に関してよくない噂が広まっていたからな。薬の信用性を理解してもらおうという見世物まがいの行為だったのだろう。後で見聞が確認したところ薬油はただの湧水だったとのことらしい」
その話を聞いて以降の寒多郞はその日なにをしていたのか覚えがなかった。気づいた時はすでに夕暮れで流れゆく紀ノ川の勇ましき流れを前に佇んでいた。そこには嘉兵衛がそばにいた。
「これもまた自分が殺めたという事になるか・・・」
「どうかな、今、先生の刀に血が染み込んでいるか知りませんが、かつてこの川にも多くの屍人が流れてきました。この川にも悪しき水が染みております。ですが今の川の輝きはかつての川の輝きと変わりません。時が経てば全ては元のまま戻るものです。私はそう思いますがね」
「珍しく饒舌だな。まるでこの時を待っていたかのようだ」
「こりゃどうも・・・」
「芝居でも始めるつもりか?」
「いや黄梅蘭を見た後にそんなことは考えませんよ。今後、芝居の女役は男が仕草と声色を変えて演じるようですが、自分としては違和感があって、とても見ようとは思いませんな」
「確かに。しかし、そうした違和感もまた時が経てば馴染んでくるものかもしれんぞ」
嘉兵衛は冗談はやめてくれとと言わんばかりに手を横に振った。寒多郞は苦笑したが、これもまた薬売りのことを忘れようとして無理して笑っていることに気づき、かぶりを振った。自分がこの時代に馴染むにはもう少し時間がかかるらしい。
寒多郞はそんなご満悦な嘉兵衛を見て安堵する。彼もその場のノリを楽しもうと笑顔を振りまこうと努めた。その度に携えた刀が重く感じた。
(これがあるから楽しめないのかな・・・。)
城下の明るさがを嫌うように妖刀はカタカタと微細に震えた。それはいつもの事だが、そのいわく付きの刀を下ろすことはできない運命のなかに寒多郞はいた。
しかし、ある時、その震えが唯一止まる時があった。少し不審に首を傾げた寒多郞は周囲を見回すと川辺にできた人集りが目に留まった。
「さてさてお立ち会い!」
しゃがれた掛け声が響き軟膏の薬売りの物見で集まる人々を目にした。寒多郞はそこに10分足を止めたまま動かなかった。男の口上がうまいわけはない。むしろ逆だ。恐らくは今日、はじめての実演販売を任せられた新人なのだろう。と言うには歳はどうみても50は越えようかという風貌だ。
(そういえば、あの薬売りどこかで見たような・・・。)
男の手際の悪さを見て辛辣な子供たちは小石を投げつけるなどしていた。
「こら!止めないか、君たち!」
思わず寒多郞は飛び出した。帯びた刀に萎縮して少年たちはそばにいた父親のもとにすがった。その親は「チッ!」と因縁をつけるような眼差しでその場を立ち去る。肩にかけた手拭いの鳥の紋様が目に付く。
「これはあいすみません」
「いやいや、しかしこの商いは始めたばかりなのですか?」
「ええ。不馴れなもので、お恥ずかしい限りです。これでは道化のようで・・・」
「道化ですか・・・そうなるとわたくしのしていることも大して変わりませんよ。そうだ。なんなら、その薬ひとつ買いましょう。これも何かのご縁です」
「本当ですか?」
松之丞と名乗るその男は自慢の軟膏薬が入った小壺を寒多郞に手渡した。珍妙な紫の鳥があしらわれた黒色の丸い壺は何か印が籠められているかのような気味の悪い色合いだった。しかしその時は、心温まる交流が寒多郞には沁みた。
その日の夜、寒多郞はそのことを紀伊藩士の岩本源之進に語ったが、あきれるばかりだった。
「傷薬なら紀伊の番方で用意する。お前が紀伊の国ために尽くすと言えば済む話だ。」
「ナマクラ刀しか持たぬこの自分のどこを見込んでいるのやら。」
「それはお前の心根次第だろ?昔の戦ばかりの世とは今は違う。お前も侍としての才があるならそれを活かすべきだ。」
後日に迫る町奉行目通りを前にして源之進は事前の引き抜き交渉を用意した宿場にて行った。それは酒のあてに夜まで続いたが、どの刻までしていたか覚えていない。寒多郞は宿場の窓から差し込む朝日に起こされた。そして気づいた。
「薬が消えた!」
寒多郞は持っていた荷物をすべてあらためてみたが何処にもなかった。寒多郞は何度も壺をあらためたが空だった。
「カネは?」
朝風呂から戻っていた源之進は開口一番に尋ね、寒多郞はハッとした。荷袋から財布を取り出して金子をあらためる。とられた形跡はない。となると物盗りの仕業ではない。というより自分と源之進以外にこの部屋に立ち入った形跡も気配もない。単純に軟膏薬だけが抜き取られていたということになる。
(誰が?何のために?)
軟膏薬が納められた壺のそばには寒多郞の妖刀があった。寒多郞はおもむろにその刀を手に取り鞘から剣を引き抜いた。思わぬ行動に源之進は二度見した。刀を日に翳すといつも以上にギラギラと輝いてみえる。
(お前が吸い上げたというのか・・・?)
優れた剣士は刀の心が読み取れるという。寒多郞はその領域に迫れないところがあった。寒多郞自身がこの刀に恐れがあるというのか。寒多郞はそばにあった薬壺を手にした。八咫烏を模した家紋のような印があしらわれている。
「源之進、この記しに覚えはあるか?」
「どこかの家紋を模したものだが記憶にないな」
(そういえば、あの男の手拭いにも鳥の紋様があったな?)
寒多郞はふと松之丞に石を投げつけた子どもの親の肩に掛けていた手拭いに描かれた鳥の絵を思い出した。当初はただのヤジかと思われたが、彼にはそれだけでない因縁を浴びる理由があったのかもしれない。
その日も道化の薬売りは不慣れな商売をしていた。見物客に混じり源之進の指示を受けた物見が尾けている。すると松之丞は道化であることを忘れたように澄ました表情を浮かべる。
「そろそろ、ここともオサラバかな・・・」
薬売りは吐きすてて店の荷車をたたみ去っていった。
疑念が残るなかでその日の夜、寒多郞は源之進から一人の男の名前を教えられた。
「杉若氏宗?」
それはかつて紀伊藩を納めていたものの名前だった。関ヶ原で西軍として参戦し敗戦した後の行方知れずとなり、いつしか人びとの記憶からは失われていた。
(杉若の家臣のものか、あるいはその当人か・・・)
松之丞についての疑念はそれだけではなかった。
「何処の薬種問屋からも買付がない?」
紀伊の国にある堺由来の十余ある薬種問屋を全てあらためたが、松之丞という男の名は得意先名簿には載っていないというのだ。だとすれば、製薬元はどこか?ドロリとした透明な油のような粘液はどの種流にも類似性を知らない。
(では、この薬は何だというのか・・・?)
寒多郞はおもむろに刀を引き抜いて天にかざした。混じり気のある薬を吸い込んだ(であろう)その妖刀はいつもよりギラギラと輝いていた。
(取り潰しとなった国の長が薬売りで再起を図るか・・・)
すると源之進の使いのものから報せが届いた。松之丞が消えたという報せだ。困惑の表情を浮かべる源之進を諌めるように寒多郞は答えた。
「男の行方なら見当はつく」
寒多郞は妖刀を納めて刀の震えを感じ取った。そしてその声を聞き宿場から駆け出して夜の闇に消えた。
刀の振動が治りたどり着いた先にはすでに街の明かりが遠くにあった。そこにはひとつの道があった。誰も通らないが故に草木がしげる細道に辺りの男が通る気配があった。寒多郞は道端の茂みに隠れそのものの姿を確認した。松之丞であった。
通り過ぎた男を寒多郞は尾けた。紀伊路を使わず川を上って熊野古道を抜ける経路に違和感を覚えた。何かの縁を思ってのことなのか?思念するといつの間にか夜が明けようとしていた。
やがて男は足を止めた。そこには石垣の連なる城跡があった。地図を持ち合わせていない寒多郞にはそれがどこの城跡か検討がつかない。石垣には霧に混ざってドロリとした液体が垂れている。男はその透明な液体を大壺に注いだ。その行為について思考する寒多郞の存在にやがて男は気づいた。
「何のようです?」
「あなたがお売りいただいた軟膏薬が大変な上物でございましたので御礼を伝えねばと思いまして」
「それは何よりなことで・・・」
「それにしても珍しい酌み方をされておりますね。ここに薬の油になる蝦蟇でもいるのでしょうか?」
「いえ・・・ここには筑波の山のような蝦蟇はおりません」
「それではそれは何の薬なのでしょうか?」
「さあ・・・しかし、涌いてくるのでございます・・・涌いて・・・」
男はそう言っている間こちらを見なかった。ゴボゴボという音が鳴りやまない。寒多郞は背筋に寒気を覚えて思わず刀を引き抜いた。
「クッ!」
その刀は自身の恐怖を断ち切るようにして近くの石垣に突き刺す。ガシッ!という音がふたりの空間に広がる。寒多郞は衝撃に手のしびれを覚えながら剣先からシュワシュワと炭酸が抜けるようなものを感じていた。
「何をなさるのです!」
男はこれまで見せたことのない感情を見せた。寒多郞が突き刺したのはこの男の感情が封じられていた紙風船のようでもあった。寒多郞はまだ違和感のある白刃を掲げて切先を見上げた。朱じみた鈍色の輝きのない色合いは相変わらずだった。
「これはナマクラ刀でございます。故にあなたを斬ることはありません。この刀で斬ったのはここにまとわりつく過去のシガラミでございます」
それを聞いて男はうな垂れた。そしてトボトボと石垣から離れ霧に包まれながらその姿を消していった。寒多郞はこのまま男も浄化されてしまうのかという懸念を感じていた。
翌朝になって再び城下に赴くと男はいつもの調子で手際の悪い露店販売の口上を述べていた。
紀伊の城で町奉行に目通りを許された。寒多郞が仕官する気のないことの意志はここでも相変わらずで側に控える源之進は頭を抱えた。
「近頃の寒多郞殿は奇妙な釉薬ばかりに目がないようで・・・」源之進は町奉行にささやく。
「蝦蟇の油もどきか?そういえばそれを売っていた薬売りが先ほど、亡くなったそうだな」
「!?なぜ?」勘太郎は目を丸くした。
「なんでも見物客の前で売っている薬が入った壺を頭からかぶって首元から自刃したそうだ。近頃、薬に関してよくない噂が広まっていたからな。薬の信用性を理解してもらおうという見世物まがいの行為だったのだろう。後で見聞が確認したところ薬油はただの湧水だったとのことらしい」
その話を聞いて以降の寒多郞はその日なにをしていたのか覚えがなかった。気づいた時はすでに夕暮れで流れゆく紀ノ川の勇ましき流れを前に佇んでいた。そこには嘉兵衛がそばにいた。
「これもまた自分が殺めたという事になるか・・・」
「どうかな、今、先生の刀に血が染み込んでいるか知りませんが、かつてこの川にも多くの屍人が流れてきました。この川にも悪しき水が染みております。ですが今の川の輝きはかつての川の輝きと変わりません。時が経てば全ては元のまま戻るものです。私はそう思いますがね」
「珍しく饒舌だな。まるでこの時を待っていたかのようだ」
「こりゃどうも・・・」
「芝居でも始めるつもりか?」
「いや黄梅蘭を見た後にそんなことは考えませんよ。今後、芝居の女役は男が仕草と声色を変えて演じるようですが、自分としては違和感があって、とても見ようとは思いませんな」
「確かに。しかし、そうした違和感もまた時が経てば馴染んでくるものかもしれんぞ」
嘉兵衛は冗談はやめてくれとと言わんばかりに手を横に振った。寒多郞は苦笑したが、これもまた薬売りのことを忘れようとして無理して笑っていることに気づき、かぶりを振った。自分がこの時代に馴染むにはもう少し時間がかかるらしい。
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