事務長の業務日誌

川口大介

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第二章 事務長、劇的な悲恋に出くわす

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 山奥深く。
 リネットのかけた術の効果が切れて、ヨルゴスは正気を取り戻していた。
「ぅ、うっ? な、何がどうなったんだっけ? いつもの取引場で、デカいのに蹴り飛ばされて……どうして今、こんなとこにいるんだ? 何か、とんでもなく嫌なことがあったような気もするが。思い出せん」
 蹴り飛ばされた後のことは、いくら頭を捻っても思い出せない。だがその前のことなら覚えている。一応、取引はほぼ終了して、代金は受け取れた。結構な量の金貨が、皮袋に入れて腰に括りつけられている。無事だ。
 だが、あの大男はおそらく騎士団に通報するだろうし、あの場から逃げた奴はそれを言いふらすだろうから、もうあそこでの取引は無理だ。新しい場所を定めて、そのことを周知して……面倒なことだ。
「ヨルゴス。何があった」
 背後から聞こえた若い男の声に、ヨルゴスは振り返った。
「あ、ボス」
「久しぶりに取引を見に行ってみれば、客共が辺り一帯のあちこちに、重傷を負って散らばっていたが。あれはどういうことだ」
「わかりません。多分、たまたま出くわした旅の冒険者が、俺の賞金を狙って襲ってきたってところでしょう。ただ、あいつが騎士団に通報するかもしれませんので、今後は取引場所を変える必要があるかと」
「そうか。ではこの機会に、お前には次の仕事を頼みたい」
「次?」
「ああ。少し前にできた新製品を、そろそろ試そうと思っていたのでな。着いて来い」

 ヨルゴスの取引場を中心にして、三人は三手に分かれて辺りを探索することにした。
 ミレイアが一人になるのは少し危険もあるが、呼子は携帯しているし、日が落ちてきたら取引場にまた集まるよう定めたので、他の二人とも大して離れはしないはずだ。
 また、明確に敵意を抱いている人間ならともかく、ただ大きいだけの動物であれば、そう積極的に襲ってくることもないだろう。それにあの、暴れ牛事件の時は動揺して失敗したが、一瞬の閃光や小爆発の術ぐらいはミレイアだって使えるのだ。しっかり気を張って、心構えをしていれば、いくら大きくてもただの獣ぐらい、追い払える。はずだ。
 ということで、ミレイアは一人で山中を調べている。
「……ん?」
 何か、感じる。視認はできないが、何かある。魔術で張られた結界か何かがあるような。
 だが、魔術ではないようにも思える。
「法術かな? 調べてみよう」
 魔力を使った術のことを魔術といい、魔術師の専門分野である。これに対し、僧侶が法力を用いて行使する術を法術と呼ぶ。魔術と法術、二つの総称が【魔法】だ。
 この二つは全く別系統のものであり、両方を使える者は普通いない。それができるのは極々稀な天才だけであり、ミレイアはそうではない。
 だが初歩の、基本的な術の中には、両系統で同じ効果を持った術もある。例えるなら、プロの料理人用の道具であれば肉を切る包丁と野菜を切る包丁は全くの別物だが、そこらの素人が自炊する時に使う安物包丁に、そんな分類は無い、というような。
 ミレイアが今、使用しているのもそんな術。魔法探査の術だ。魔術であれ法術であれ、そこに存在していれば判るというもので、特殊な力を秘めた武器や道具を鑑定したり、罠の発見に使える。高度な術になれば、対象物にどんな術がかかっているかまで判明するが、ミレイアが今やっているのは「魔術もしくは法術がその場にあるか否か」だけの簡単なものだ。
 とはいえ、詳細は判らないものの、あれば必ず発見できる。見落とすことは決してない。
 そんな術で、ミレイアは辺りを調べてみる。
 ……その結果、ここいらには何の術もかけられていない、ということが判明した。
「うーん。わたしの気のせいか。やっぱりまだ、事務長としての初仕事で緊張してるのかな。でも、何か、なあ。すっきりしない」
 ミレイアはどうにも納得いかず、辺りをきょろきょろ見渡した。まだ昼間なので、木々が生い茂る山中とはいえ、日光が差し込んできており明るい。
 獣や鳥の声は聞こえるが、どれも遠いらしく、ミレイアの周囲にそんな影はない。人間もいそうにない。平和なものだ。
 それでもミレイアの感覚には、何かが引っかかっている。
「そう、ここよ。この辺りに、何かありそうで」
 大きく太い、二本の大木の間。ミレイアが両腕を広げたよりも少し広い間隔がある、その空間。そこに、何かあるような気がしてならない。
 だが魔法探査で引っかからず、自分の目にも何も見えていない。
 ミレイアは、手をその空間に入れてぐるぐる回したり、ばたばた上下動させたりしてみる。だが何の抵抗もないし、何かが揺らいで見えるわけでもない。
 やはり気のせいか、と思ったミレイアが手を引っ込めて、別の場所へ行こうとした。が。
 念入りに確認した、何もないはずの空間に、異変が起こった。
 そこに突然、一匹の兎が現れたのだ。まるで、ずっと向こうから全力疾走してきたかのような勢いで。だが「向こう」から走って来る姿は見えなかったし、足音もなかった。にもかかわらず、そうとしか思えない勢いで、大木と大木の間に突然現れた兎が突進し、勢いよくミレイアの腹にぶつかった。
「うぐぼっっ!」
 鍛えられた戦士ならともかく、肉体的にはごく普通の少女であるミレイアにとっては、強烈な打撃であった。不意を突かれたこともあり、後方に突き飛ばされる。
 数歩後ろの木に背中からぶつかって、どうにか倒れずに済んだ。
「は、はぅっ……何なの、一体……って、ああああぁぁっ!」
 ミレイアにぶつかって跳ね返り、その場に着地して、キョロキョロしている兎。
 そいつが、デカいのだ。小さくうずくまって尚、直立したミレイアの膝くらいある。兎としては明らかに異常、巨大。だから、今の激突の威力も凄かったわけだ。
 間違いない。こいつが噂の、巨大動物だ。
『お、落ち着きなさいよミレイア。とりあえず、実在は確認できた、と。まるでどこかから転移してきたみたいな出現だったけど、そんな大がかりな魔術の気配は絶対になかった。ということは……? あ、そうだ、呼子』
 ミレイアは呼子を取り出し、力いっぱい吹いてクラウディオとリネットを呼んだ。音に驚いた兎が逃げる恐れはあるが、一人で対処して取り逃がすという方が困る。この巨体ではこの兎、パワーもスピードも並ではなかろう。だから音に驚いて逃げるにせよ、あるいは襲ってくるにせよ、とにかく動かれたらそれだけで、ミレイアには捕まえられる自信がない。
 また、もし兎がここから逃げ出しても、もしかしたらこちらへ向かってくる二人と鉢合わせになるかもしれない。そうすれば、捕まえてもらえるだろう。
 幸い、兎は呼子の音に驚かなかった。キョロキョロしながら、何やら極度の警戒態勢のまま、動こうとしない。そういえばミレイアとぶつかってから、ずっとそんな様子だ。
 何かに強く怯えているような。出現時の突進も、もともと何かからの必死の逃走中だったのかもしれない。その何かが、とりあえず今ここにいないから、ヘタに動かずこの場に留まっている、ということか。
 だとすると。その何かは、兎を追ってここに来る? もし来るとしたらそれは、
「そこ、から……」
 まるで狙ったかのようなタイミングで、そこからそれは出てきた。追跡者たちが、兎と同じように出現し、兎と同じように突進!
「ひっ!」
 ミレイアの立ち位置がズレていたので、今度は衝突は避けられた。そしてそいつらは、兎を見つけるや猛然と襲いかかり、喰らいついた。
 それは、やはり巨大な、二匹の犬。狼ではない。顔つき体つきからして間違いなく野犬だ。だが立ち上がらずに四つん這いの状態で、頭部がミレイアの胸ぐらいの高さにある。もちろんそれだけの脚の長さに見合う胴体があり、筋肉があり、そして牙がある。
 その牙を駆使して、二匹は奪い合うようにして兎を喰いちぎり、喰い漁り、喰い尽くしていく。文字通り、喰い「尽くしていく」。信じ難いことに兎の肋骨も頭蓋骨も全て、ガリゴリと噛み砕いて、きっちりと咀嚼して、飲みこんでいくのだ。
 ただ大きいだけではない。もっと根本的なところから、普通の犬ではない。異常すぎる。
「……」
 言葉を失って立ち尽くすミレイアを無視して、犬たちの牙により兎は跡形なく、この地上から消滅した。血肉や臓物はもちろん、骨も体毛も残っていない。全て犬たちの腹の中だ。兎は巨大だったが、犬たちはそれ以上に巨大、且つ食欲旺盛だったので、喰い尽くすのに大した時間はかからなかった。
 そして、まだ喰い足りないといった顔を、ミレイアに向けた。
 美味そうな獲物がいる、と思ったのか、兎の血混じりの涎が垂れる。
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