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汚れた小銭たち
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汚れた小銭たち
好きじゃなきゃ嫌いだよ。
白っぽい壁が眩しすぎて、僕は目を覆った。酒瓶の山を掻き分けて太陽が僕を見ているようで、虚しい。太陽も、白っぽい壁もずるいよ。どれも金にはなってくれない。似合い過ぎないって言葉を僕は信じてる。
「こら、健介、寝てんのか。酒買ってこい」
みんな知ってるのかな。馬鹿げている音って存在するんだ。その音はあの音楽とは違うんだ。絶対。
「あたしがいくから。服着るから待って」
「お前は服なんか着なくていいんだよ、そこ動くな。寝てねえで起きろ!早く行ってこいクソガキ」
そう言ってお父さんは僕の財布を漁り、小銭を僕に投げつけた。母さんの顔を真似した裸の女は、隣の部屋のベッドから憐れんだ顔をして僕を見つめている。僕を見ないでほしかったけど、僕は見たかった。裸の女性は母さんの顔真似をした女性でも美しいデザインだった。きっと神様は男の傲慢の代わりに美しい形にしたのだろう。僕は小銭を拾い集めながら泣いた。一円玉ってこんな形だったんだ。五円玉って真ん中に穴が…。二円玉ってどんな形だろう。百万円ってどんな形だろう。金持ちって、中流階級って、学校って、卒業式って、どんな形なんだろう。僕は白っぽい壁が太陽に揺れているのを一瞥して、小銭をジーンズに突っ込んで阿保くさいドアを開けた。太陽はまだいた。太陽は僕よりも貧乏だ。
酒屋のおじさんはいつも折れ曲がった背骨をして本を読んでいる。今も。目の前で。この人の顔はいつ見ても僕を和ませる。この奥深い目尻のシワに意味ありげな大きい鼻。指紋だらけの眼鏡の向こうにあるシャッター街のように半開きの目。声は確か…声は聞いた事が無かった。
僕はラガーの半ダースとジャックダニエルをレジのカウンターに置き、おじさんの反応を待った。おじさんは数秒ほど経ってからゆっくり本を閉じ、レジに置かれた商品をおもむろに袋へ入れていく。本にしおりを挟まなかった事が僕は気になった。このおじさんは本当にこの本が読みたいのだろうか。表紙にはインクの薄くなった文字で「夜行列車」と書かれていた。おじさんはきっとどこかへ行きたいんだな。「夜行」夜に。「列車」列車に揺られて、車窓を眺めて、心地の良いため息なんかを吐いて、長い鉄の箱はぼんやりとおじさんをユートピアに連れ去るんだろう。僕も連れてって欲しかった。そしてもっとおじさんが好きになった。だけど、僕は行けないよ。おじさん。おじさんが望んでも、僕は行けない。どこにも行けやしないよ。僕は子供で、おじさんは大人。僕は貧乏で、おじさんは商売人。いつも優雅に本を読んで、声も発する事なく金が舞い込んで来るんだ。おじさんは商品を袋に詰め終わると、僕に差し出してじっと僕の目を見つめていた。そう感じた。僕はおじさんの目を見れなかった。僕が実際に見ているのは自分の汚いコンバース。いつも解けている靴紐が、今日は結んである…。僕は商品の入った袋を鷲掴み、走って店を飛び出した。飛び出したっていう表現がぴったりだった。本当に僕は飛んだように走って、走って、転んで、走って、心臓のドラムロールはやがて大きくなり、松明が燃え上がり、ジャングルの茂みに隠れていた虎が僕に大きく噛み付いた。僕の住んでいた貧乏ったらしい街は、僕を見捨てて何処かへ消えた。今僕の目の前に並んでるのは豪邸の数々。青すぎる芝生と白すぎる外壁が僕の目を眩ませて、おじさんの顔を思い起こさせた。確か、おじさんの目は優しかった。
袋の重さとは裏腹に、僕の心は軽かった。犯罪人。僕は犯罪人の心の持ち主だったなんてね。そんな事生まれた時に教えてほしかったよ。お母さん。大きな家の数々の周りには綺麗な声の鳥が沢山いた。きっと心も綺麗だ。ここら辺の金持ちに給料でも貰って鳴いているのだろうか。そうだったら面白いのに。
一際大きな家の二階の窓から一枚の写真が見えた。白い粒々?家の下まで行き目をこらしても、なんの写真だかさっぱり分からない。開花した犯罪人の魂はもう誰にも止められなかった。僕はその写真をどうしても近くで見たくなり、酒の入った袋を地面に捨てて、柵に足をかけ二階のベランダによじ登った。顔を窓に押し付けて部屋の中を覗いてみると、そこには沢山の大きな写真が飾ってあった。僕はどことなく不安な気持ちになり、もう元には戻れない事を原動力に窓に手を掛けた。思っていた反発力は皆無。窓は軽やかにスライドし、謎の写真部屋に僕をあっさり入れてしまった。そこに少しの虚しさを感じながら部屋に入ると、外から見えた白い粒々の写真が僕の目の前一面を占拠していた。それは三枚の白い貝殻だった。思っていたよりも大きいその写真は、僕の身長と並び、大きな三枚の貝殻と僕の目が合うようになっていた。周りを見渡すと、同じような貝殻の写真が額縁に入れられ、心地よさそうに壁に釣り下がっている。その写真たちと僕を照らす太陽は今にも気怠く沈みかかっていて、眠そうで、すべがスローになっていくのを感じる。あのおじさんの動きのように。僕はなんだか疲れてしまった。僕は三枚の貝殻の写真の前に置かれた革のソファにざぶんと座り、目の前の写真を見続けた。なんでこんなに美しいんだろう。なんで。海が写っていないのに、海が見える。なんでだよ。今まで疑問に思うことなんて何にも無かったじゃないか。起きる事にも寝る事にも、お父さんに蹴られる事も泣く事も、お母さんの代わりにお母さんの真似をした人がいつもうちにいる事にも。全てはスローで、全ては謎なんだな。
僕の目の前に三人、誰かいる。靄のかかった三人。一番右の背の高い人が笑っている。お父さん?真ん中の人は…。お父さんといつも一緒にいる裸の女性だ。一番左の人は…。お母さん。今にも泣き出しそうな顔をしている。僕と一緒だね。
「お母さんと思いたいだけだろ?靄はかかったままだ」
お父さんがニヤついた顔で僕に言った。
「あなたはかわいそうな子。他の子達はみんな中学校で勉強して、友達を作ってこの街を出ていくわ。あなたはなんてかわいそうな子」
やめてよ。こんなこと言わないでくれよ。僕をいつも哀れんだ目をして見るのはやめてよ!あんたはお母さんじゃない!
「お前の母さんだ!俺はお前の父親だ!お前は哀れなクソガキだ。さあ、買ってきた酒を出せ」
「出さなくていい」
僕の隣には酒屋のおじさんが立っていた。おじさんは思ったよりも背が高く、背筋もしっかりとしていた。目の前にいるお母さんが少し微笑んだ気がした。
「君は目の前にいる三人を区別しなくてはならない。誰が本物で誰が偽物か。その時が来たんだ」
「区別なんてできないよ。僕も本当にここにいるのかも分からないんだ」
「君は罪を犯したね?」
「僕は犯罪者の血を受け継いでいるみたい」
「誰がそんな虚しい事を」
「僕だ」
「ここにいるかどうかも分からない君にかい?」
その瞬間僕の周りには誰もいなくなって、僕はよく晴れた海辺にいた。涼しくて、暖かくて、きっと季節は…
「何をしてる」
目を開けると目の前は薄暗く、部屋の入り口から誰かがしわがれた静かな声で僕に言った。そして目の前が一瞬にして明るくなり、蛍光灯のパチパチという音が心地よく弾けている。
「君は一体いくら罪を犯すんだい?」
入り口から入ってきた男性の腰は折れ曲がっていて、思った通り背の低い酒屋のおじさんだった。右手には酒の入った袋を持っている。僕は理解や、運命といった類を忘れて絶望的な気分に浸る間もなく答えた。
「違うんです!僕はお金が無くて、お酒を頼まれて、それで、もう、全部どうでもよくなって…それで…写真を見つけて…」
「写真?」
「ええ。この写真を近くで見たくなって」
僕はおじさんの顔をやっぱり見れずに、三枚の貝殻の写真を指差した。おじさんから何年分かのため息が聞こえて、僕には犯罪者の才能などないと悟った。
「君は新藤さんとこの健介君だね」
「はい」
「君のお父さんを小さい時から知っているよ。悪ガキでね。僕が若い頃に近所に住んでいたからよく遊んであげたんだ。根はいい子だったんだけどね、一回の過ちが重なれば人の根なんてものは簡単に引っこ抜けてしまうのさ。分かるかい?」
「なんとなく」
「それでいい。それでいい。ところで君はいつも怪我をしていて、君の家の前を通るといつもお父さんの怒鳴り声が聞こえる。これは偶然かい?」
「うちはお金が無いんです。お母さんの真似をしている人がいつもうちにお金を持って来てくれて、その時だけお父さんは僕にいくらかくれて、多分、全部偶然なんだと思います」
「お母さんに会いたいかい?」
「会いたいです。いつも夢でお母さんと家にいる二人が現れて、お母さんと僕はいつも二人にいじめられる」
「はっは。まるでこの写真のようだね」
僕はこの美しい三枚の貝殻の写真一度見てから、おじさんの半開きの目を見た。
「この貝殻、大きいと思うかい?いやいや、小さいと思うかい?この貝殻は君みたいに小さいんだよ。小さいものを大きく見せて何が悪い。所詮貝殻なんだよ。貝殻に命は無いんだ。命があるのは中身でね。だけど、お酒を買いに来る君のその傷だらけの貝に僕はいつも心を打たれていたよ。ごらん、この写真。ここにある貝殻の写真は全部傷が付いていたり、どこか欠けているんだ。どういう事か分かるかい?一生懸命中身を守っていたんだよ。君のその貝も何かを守ろうとしているんじゃないのかい」
蛍光灯のパチパチという音はいつしか当たり前になっていて、一瞬の静寂の中からまた息を吹き返したように聞こえてきた。僕の貝が守ろうとしているものは、そんなに大事なものなのだろうか。酒を盗んだこの手も飛んだように走ったこの足も全部僕の貝に大事に守られていた中身がやった事だったなんて。小さい頃お父さんと銭湯に入った時、お父さんの身体中が傷だらけだったのを思い出した。酔っ払ったお父さんが転びながら、よくお母さんに解放されて帰ってきてたっけ。お父さんの中にも守るべき何かがあるんだろうか。
お母さんを守っていた貝もきっと傷だらけだったんだろう。
僕はジーンズのポケットから小銭を全部引っ張り出し、木のテーブルの上に置いた。
「いいよ。お金は。今日は久しぶりに晩酌でもしようと思っていたんだ。君も一杯やるかい?はっは。そうだ、君に写真を教えてあげるよ」
そう言っておじさんは暖かく笑い、背を向けて部屋を出て行った。おじさんのお尻のポケットから、インクの薄れた「夜行列車」という字が僕を見ている。テーブルに置かれた二十一円は、なんだか貝殻みたいだ。
好きじゃなきゃ嫌いだよ。
白っぽい壁が眩しすぎて、僕は目を覆った。酒瓶の山を掻き分けて太陽が僕を見ているようで、虚しい。太陽も、白っぽい壁もずるいよ。どれも金にはなってくれない。似合い過ぎないって言葉を僕は信じてる。
「こら、健介、寝てんのか。酒買ってこい」
みんな知ってるのかな。馬鹿げている音って存在するんだ。その音はあの音楽とは違うんだ。絶対。
「あたしがいくから。服着るから待って」
「お前は服なんか着なくていいんだよ、そこ動くな。寝てねえで起きろ!早く行ってこいクソガキ」
そう言ってお父さんは僕の財布を漁り、小銭を僕に投げつけた。母さんの顔を真似した裸の女は、隣の部屋のベッドから憐れんだ顔をして僕を見つめている。僕を見ないでほしかったけど、僕は見たかった。裸の女性は母さんの顔真似をした女性でも美しいデザインだった。きっと神様は男の傲慢の代わりに美しい形にしたのだろう。僕は小銭を拾い集めながら泣いた。一円玉ってこんな形だったんだ。五円玉って真ん中に穴が…。二円玉ってどんな形だろう。百万円ってどんな形だろう。金持ちって、中流階級って、学校って、卒業式って、どんな形なんだろう。僕は白っぽい壁が太陽に揺れているのを一瞥して、小銭をジーンズに突っ込んで阿保くさいドアを開けた。太陽はまだいた。太陽は僕よりも貧乏だ。
酒屋のおじさんはいつも折れ曲がった背骨をして本を読んでいる。今も。目の前で。この人の顔はいつ見ても僕を和ませる。この奥深い目尻のシワに意味ありげな大きい鼻。指紋だらけの眼鏡の向こうにあるシャッター街のように半開きの目。声は確か…声は聞いた事が無かった。
僕はラガーの半ダースとジャックダニエルをレジのカウンターに置き、おじさんの反応を待った。おじさんは数秒ほど経ってからゆっくり本を閉じ、レジに置かれた商品をおもむろに袋へ入れていく。本にしおりを挟まなかった事が僕は気になった。このおじさんは本当にこの本が読みたいのだろうか。表紙にはインクの薄くなった文字で「夜行列車」と書かれていた。おじさんはきっとどこかへ行きたいんだな。「夜行」夜に。「列車」列車に揺られて、車窓を眺めて、心地の良いため息なんかを吐いて、長い鉄の箱はぼんやりとおじさんをユートピアに連れ去るんだろう。僕も連れてって欲しかった。そしてもっとおじさんが好きになった。だけど、僕は行けないよ。おじさん。おじさんが望んでも、僕は行けない。どこにも行けやしないよ。僕は子供で、おじさんは大人。僕は貧乏で、おじさんは商売人。いつも優雅に本を読んで、声も発する事なく金が舞い込んで来るんだ。おじさんは商品を袋に詰め終わると、僕に差し出してじっと僕の目を見つめていた。そう感じた。僕はおじさんの目を見れなかった。僕が実際に見ているのは自分の汚いコンバース。いつも解けている靴紐が、今日は結んである…。僕は商品の入った袋を鷲掴み、走って店を飛び出した。飛び出したっていう表現がぴったりだった。本当に僕は飛んだように走って、走って、転んで、走って、心臓のドラムロールはやがて大きくなり、松明が燃え上がり、ジャングルの茂みに隠れていた虎が僕に大きく噛み付いた。僕の住んでいた貧乏ったらしい街は、僕を見捨てて何処かへ消えた。今僕の目の前に並んでるのは豪邸の数々。青すぎる芝生と白すぎる外壁が僕の目を眩ませて、おじさんの顔を思い起こさせた。確か、おじさんの目は優しかった。
袋の重さとは裏腹に、僕の心は軽かった。犯罪人。僕は犯罪人の心の持ち主だったなんてね。そんな事生まれた時に教えてほしかったよ。お母さん。大きな家の数々の周りには綺麗な声の鳥が沢山いた。きっと心も綺麗だ。ここら辺の金持ちに給料でも貰って鳴いているのだろうか。そうだったら面白いのに。
一際大きな家の二階の窓から一枚の写真が見えた。白い粒々?家の下まで行き目をこらしても、なんの写真だかさっぱり分からない。開花した犯罪人の魂はもう誰にも止められなかった。僕はその写真をどうしても近くで見たくなり、酒の入った袋を地面に捨てて、柵に足をかけ二階のベランダによじ登った。顔を窓に押し付けて部屋の中を覗いてみると、そこには沢山の大きな写真が飾ってあった。僕はどことなく不安な気持ちになり、もう元には戻れない事を原動力に窓に手を掛けた。思っていた反発力は皆無。窓は軽やかにスライドし、謎の写真部屋に僕をあっさり入れてしまった。そこに少しの虚しさを感じながら部屋に入ると、外から見えた白い粒々の写真が僕の目の前一面を占拠していた。それは三枚の白い貝殻だった。思っていたよりも大きいその写真は、僕の身長と並び、大きな三枚の貝殻と僕の目が合うようになっていた。周りを見渡すと、同じような貝殻の写真が額縁に入れられ、心地よさそうに壁に釣り下がっている。その写真たちと僕を照らす太陽は今にも気怠く沈みかかっていて、眠そうで、すべがスローになっていくのを感じる。あのおじさんの動きのように。僕はなんだか疲れてしまった。僕は三枚の貝殻の写真の前に置かれた革のソファにざぶんと座り、目の前の写真を見続けた。なんでこんなに美しいんだろう。なんで。海が写っていないのに、海が見える。なんでだよ。今まで疑問に思うことなんて何にも無かったじゃないか。起きる事にも寝る事にも、お父さんに蹴られる事も泣く事も、お母さんの代わりにお母さんの真似をした人がいつもうちにいる事にも。全てはスローで、全ては謎なんだな。
僕の目の前に三人、誰かいる。靄のかかった三人。一番右の背の高い人が笑っている。お父さん?真ん中の人は…。お父さんといつも一緒にいる裸の女性だ。一番左の人は…。お母さん。今にも泣き出しそうな顔をしている。僕と一緒だね。
「お母さんと思いたいだけだろ?靄はかかったままだ」
お父さんがニヤついた顔で僕に言った。
「あなたはかわいそうな子。他の子達はみんな中学校で勉強して、友達を作ってこの街を出ていくわ。あなたはなんてかわいそうな子」
やめてよ。こんなこと言わないでくれよ。僕をいつも哀れんだ目をして見るのはやめてよ!あんたはお母さんじゃない!
「お前の母さんだ!俺はお前の父親だ!お前は哀れなクソガキだ。さあ、買ってきた酒を出せ」
「出さなくていい」
僕の隣には酒屋のおじさんが立っていた。おじさんは思ったよりも背が高く、背筋もしっかりとしていた。目の前にいるお母さんが少し微笑んだ気がした。
「君は目の前にいる三人を区別しなくてはならない。誰が本物で誰が偽物か。その時が来たんだ」
「区別なんてできないよ。僕も本当にここにいるのかも分からないんだ」
「君は罪を犯したね?」
「僕は犯罪者の血を受け継いでいるみたい」
「誰がそんな虚しい事を」
「僕だ」
「ここにいるかどうかも分からない君にかい?」
その瞬間僕の周りには誰もいなくなって、僕はよく晴れた海辺にいた。涼しくて、暖かくて、きっと季節は…
「何をしてる」
目を開けると目の前は薄暗く、部屋の入り口から誰かがしわがれた静かな声で僕に言った。そして目の前が一瞬にして明るくなり、蛍光灯のパチパチという音が心地よく弾けている。
「君は一体いくら罪を犯すんだい?」
入り口から入ってきた男性の腰は折れ曲がっていて、思った通り背の低い酒屋のおじさんだった。右手には酒の入った袋を持っている。僕は理解や、運命といった類を忘れて絶望的な気分に浸る間もなく答えた。
「違うんです!僕はお金が無くて、お酒を頼まれて、それで、もう、全部どうでもよくなって…それで…写真を見つけて…」
「写真?」
「ええ。この写真を近くで見たくなって」
僕はおじさんの顔をやっぱり見れずに、三枚の貝殻の写真を指差した。おじさんから何年分かのため息が聞こえて、僕には犯罪者の才能などないと悟った。
「君は新藤さんとこの健介君だね」
「はい」
「君のお父さんを小さい時から知っているよ。悪ガキでね。僕が若い頃に近所に住んでいたからよく遊んであげたんだ。根はいい子だったんだけどね、一回の過ちが重なれば人の根なんてものは簡単に引っこ抜けてしまうのさ。分かるかい?」
「なんとなく」
「それでいい。それでいい。ところで君はいつも怪我をしていて、君の家の前を通るといつもお父さんの怒鳴り声が聞こえる。これは偶然かい?」
「うちはお金が無いんです。お母さんの真似をしている人がいつもうちにお金を持って来てくれて、その時だけお父さんは僕にいくらかくれて、多分、全部偶然なんだと思います」
「お母さんに会いたいかい?」
「会いたいです。いつも夢でお母さんと家にいる二人が現れて、お母さんと僕はいつも二人にいじめられる」
「はっは。まるでこの写真のようだね」
僕はこの美しい三枚の貝殻の写真一度見てから、おじさんの半開きの目を見た。
「この貝殻、大きいと思うかい?いやいや、小さいと思うかい?この貝殻は君みたいに小さいんだよ。小さいものを大きく見せて何が悪い。所詮貝殻なんだよ。貝殻に命は無いんだ。命があるのは中身でね。だけど、お酒を買いに来る君のその傷だらけの貝に僕はいつも心を打たれていたよ。ごらん、この写真。ここにある貝殻の写真は全部傷が付いていたり、どこか欠けているんだ。どういう事か分かるかい?一生懸命中身を守っていたんだよ。君のその貝も何かを守ろうとしているんじゃないのかい」
蛍光灯のパチパチという音はいつしか当たり前になっていて、一瞬の静寂の中からまた息を吹き返したように聞こえてきた。僕の貝が守ろうとしているものは、そんなに大事なものなのだろうか。酒を盗んだこの手も飛んだように走ったこの足も全部僕の貝に大事に守られていた中身がやった事だったなんて。小さい頃お父さんと銭湯に入った時、お父さんの身体中が傷だらけだったのを思い出した。酔っ払ったお父さんが転びながら、よくお母さんに解放されて帰ってきてたっけ。お父さんの中にも守るべき何かがあるんだろうか。
お母さんを守っていた貝もきっと傷だらけだったんだろう。
僕はジーンズのポケットから小銭を全部引っ張り出し、木のテーブルの上に置いた。
「いいよ。お金は。今日は久しぶりに晩酌でもしようと思っていたんだ。君も一杯やるかい?はっは。そうだ、君に写真を教えてあげるよ」
そう言っておじさんは暖かく笑い、背を向けて部屋を出て行った。おじさんのお尻のポケットから、インクの薄れた「夜行列車」という字が僕を見ている。テーブルに置かれた二十一円は、なんだか貝殻みたいだ。
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