マトリックズ:ルピシエ市警察署 特殊魔薬取締班のクズ達

衣更月 浅葱

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単発短編集

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「ナターシャさん!」

医務室のベッドの上に彼女はいた。
身体を起こしていて、ぼんやりと覚めきらない眠気を纏った眼がゆっくりこちらを振り返る。
そんな彼女と目が合った時には、ぎゅうと抱きしめていた。傷口が開くとか、自分がびしょ濡れだとか、そんなことはとっくに忘れてただ、彼女の鼓動が聞こえて初めて、ほっと息がつけた気がした。

「いったぁ……」

掠れ苦しそうな声が耳元でする。背中に回した手が感じる湿った温かさは、傷口を触っているせいかもしれない。それでも、離れられずには居られなかった。
今の今まで生きた心地がしなかったのだ。

生きていて、よかった……

「ナターシャさん、死んだものだと……」
「生きてるわよ。もういいでしょ?離して頂戴よ」

べりっと剥がされる。
彼女の病服は雨水を染み込み濡れていた。
代わりに俺の手は、先程の感触を肯定するかのように赤い血がついている。
じとりと、責めるような視線が突き刺さった。

「最低」
「…申し訳ありません」
「でも悪かったわ。ここまで連れてきてくれたんでしょ?」
「当たり前です」
「ありがと、また助けられたわね」
「?また、とは」
「ねえ、マリウスは?」

またの意味に答えは返って来ず。
彼女の問に首を振った。そう、と彼女は残念そうに眉を下げる。
会いたかったのだろうか。自分に魔薬を投与した兄に。

彼女に死んで欲しくはなかったが為に、と言っていたがやはり酷な人だと思う。
魔薬を投与されて実質的なデメリットは感じた事がない。傷はすぐに治り、基礎体力は上がり、むしろメリットが多いのだろう。だが問題は他人の認識なのだ。どんなに魔薬が無害であったとしても、悪魔だと人に罵られる日々を与えたことになるのだから。

俺は、知らぬ間にそうなっていた。
取り調べと称した拷問が実験に変わり違和感を覚え、与えられた屈辱的な傷がすぐに消えていくのを目の当たりにした時、自分自身に恐怖を覚えた。

人の体温まで見える目なんて、
意識しなければ暗闇で目が光るような人間なんて、おおよそ人とは言えない。
冤罪で投獄された時にすら感じたことの無い絶望と喪失感だった。
人でなくなってしまったのだ。
これからどうすればいい、もう戻りようはない……。
そんな決断を彼女もまた、自分の知らぬ所で下されたのだ。しかも身内に。恨みはしないのだろうか。

「…なに」怪訝そうにナターシャさんが見つめ返してくるので首を振る。聞けるはずもない。
彼女とは服用者同士だが、お互いにその話題は避けてきた程なのだから。
だから今は、彼女の傍に座って目を見て言ってやった。

「もう、無理をなさらないでください」

こんな気持ちになるのはもう懲り懲りだ。だが、

「何言ってるの。アナタを守る為ならムリくらいするわ」

あまりの即答に面食らう。

「それで今、死にかけたんですよ?」
「でも生きてるじゃない」
「だからって、やめてください。そんな、そもそもそこまで俺にする筋合いはないでしょう」
「あるわ、私にはあるの。アンタは死んでも私が守るわ」
「どうして…」そこまで俺に。

きゅっと奥歯がなった。

分からない。いつも彼女はそうだ。その理由のない恩恵ばかりを俺に与えて。
なんの為に、彼女になんの益があって……。

「そんな顔しないで頂戴よ、レディ」

いつもより冷たい彼女の手が、俺の手を掴む。

「……俺は、嫌なんです」
「なんでよ。アナタの苗字は長いじゃない、レディアノフって」
「呼び名なんて、どうでもいい…」
「じゃあ、なんなの」
「……、俺は、貴女が尽くしてくださる事が嫌なんです。貴女の考えも分からないし、尽くされる謂れもないのに。
 っ何故俺と司法取引なんて結んだんです、何故俺を無罪と信じられます、赤の他人でしょう!」
「私がアナタの助けになりたいと思ったのよ、それじゃダメかしら」
「嫌です。止めてください、そういうの。…怖いんです」

容疑がかけられてから、初めて罪人としてではなく、個人として接してくれたのが彼女だった。
なのに、助けになりたいだなんて。

そんな気まぐれで朧気な理由なんて不安だ。
いつか我に返った時が怖い。
簡単に見限られてしまうのではないか…

ああ、馬鹿だ。余計な事まで口が滑って。
こんな事、言うつもりじゃなかったのに。

はあ、とナターシャさんは息を吐いた。
どんな感情でかは知らないが、今の今までずっと握られていた手を掬われたかと思えば、そっと両手に包まれる。そして言うのだ。

「ねえ聞いて。私が今こうして生きてられるのはアナタのお陰なの」と。

「…イヤがると思ったから言わなかったけど。
アナタに魔薬が投与されてなかったら、私の身に投与されはしなかったわ。人体の投与なんて、実行するまでに段階を踏まなきゃだもの、だから…。
 こんな風に言われたらイヤよね。分かってるの。でも現に私は助かったワケだから…、アナタに感謝してるのよ」

だから、"また"助けられた、と言ったのか。
彼女の言いたいことは恐らく、自分に魔薬の投与が施されたのは、俺という治験体によって、人体への実験段階を済ませていたからという事だろう。
なら俺は、人体への投薬を実現させる為の前段階として利用されたというわけか……

「……アナタがされたのは、許されるコトじゃないと思ってるわ。私だけじゃないわよ。アナタを人でなくした未研の連中は、マリウスが全員追放したもの。すごい剣幕だったんだから」
「…………」
「でも私にとってアナタは命の恩人だから。助けたいと思うのは、その恩返しのつもりでもあったの。元々酷いことをしたのは警察なのに、勝手よね。…ごめんなさい」

申し訳なさそうに彼女の視線が下がっていく。あんなにいつも前を向いていたというのに。
だがそんな彼女を前にしても、なんと言えばいいのか分からなかった。

実験の為だけにこんな身体にさせられて、悪魔と成り果てて、絶望した、今もだ。だが彼女はそのお陰で生きられたと言う。どう落所をつければいいのか。

ただ、

「…貴女が謝る事ではないでしょう。貴女に関係の無い事です」

彼女に頭を下げられる事なんて望んでなんてない。

言えたのはそれだけだった。
結果的に彼女の助けになっただけ、彼女が謝る事でも感謝する事でもない。俺にとっても関係の無い事だ。
ただ、実験体だったとは。
アヘン事件の容疑なんて掛けられなければ、こんな事にはならなかったのに……

悔しくて歯噛みした。

「アレン」

彼女が呼ぶように、包んでいた手をくいくいと引く。ゆっくり眼を持ち上げると、

「大好きよ」
「は?」

困った様に彼女は笑う。

「アナタにとって、私がどうかは知らないけど、私にとってアナタは大切な人だわ。私の初めての信頼出来る部下なんだから。それは変わらないのよ」
「……偶然です。貴女を救った、なんて」
「だとしても、今回は助けてもらったんだから同じことでしょ?それにね、アナタを人として信用してる。何故アナタの無実を信じるのか私に聞いたわね。
 答えは知らないわ。でも私はアナタが悪人でない事ぐらい分かる」
「分かるなんて簡単に言わないでください。1つも証拠がないんです」

何度となく牢屋の中で言われてきた、無実の根拠がない、証拠がないと。だから一向に容疑は晴れなかった。
なのに彼女はそんな事を無視して、片眉をあげるのだ。

「根拠なんて必要なのは理論の間だけよ。私とアナタは人と人、信じるのに客観性なんていらないわ。私はアナタが悪人じゃないって知ってる。それが理由よ。私の勘は当たるのよ、アレン。違う?

アナタは堂々としてればいいのよ」

悪戯っぽく彼女は笑う。
ああ、いつもそうだった。ナターシャさんはこうも強気でいつも前ばかり向いていた。他人の批判など全く気にせず、耳も貸さず、常に自分の信じる道を堂々と。
罪人だと後ろ指さされる俺でさえも身を呈して守って……

そんな事、一番近くで見て知っていたではないか。
何を考えてるのか分からないからこそ恐ろしかったが、彼女は自分の決めた道ばかりを見つめているのだ。他人の意思が読めない様に、俺に想像がつくはずもない。
敵わない。なんて人だろうか。

「だからアレン」彼女は言う。

「私が絶対守るからついてきてくれないかしら。一緒にアヘン事件を解決しましょ。アナタが無罪だってコト、私が間違ってないってコト、証明してみせてよ」
「証明してみせます。ですが、」

予想外の言葉が続いたせいか、キョトンと目を瞬かせるナターシャさん。そんな彼女の前に膝をつき、彼女の手を取り額に当てた。

「次こそは俺が貴女を守ります。ですからどうか、最後までついて行かせてください」


そう誓うと彼女は、満足気に頷くのだった。





***





走馬灯の話を聞いたことがある。
死を打開する為だとか、死の恐怖を忘れさせる為だとか、色々聞いていたが。

なるほど、きっとこれは生を渇望するためだろう。
まだ生きていたいなんて、土壇場になってそう思わせられるとは、思わなかった。

パンパン、発砲音ばかりが聞こえる。
焦げ臭い臭いばかりが鼻をつく。
彼女は今頃何処に居るだろう。いやいい、きっと彼女なら大丈夫だろう。2度も死の淵から蘇ったのだから今回だって。




「ナターシャさん、どうか……」


ご無事で。
俺が居なくとも。


(偏に風の前の塵に同じ、に捧げる)
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