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1 残火
一
しおりを挟む深夜とはいえ、9月の夜はまだまだ蒸し暑い。
背中に県警のロゴが入った黒の活動用ベスト一枚分の厚みすらわずらわしく、堂島吾郎は無意識的に手で自分の顔をぱたぱたと仰いだ。着こんだ背中に汗が流れるのを感じる。
午後10時をわずかに過ぎたころに発生した火災は、木造家屋1棟を全焼し、その隣家に延焼して窓1枚の破損と、外壁を焦がして鎮圧した。
高齢女性の一人暮らしで、近隣住民は火災発生以降、誰もその姿を見ていないという。逃げ遅れた可能性が高いなと、現場にいる警察官や消防士らの間にはなんとも言えない消沈したムードが漂っている。
県警の刑事第一課強行犯係に所属している吾郎は、火災の発生と共に現場へ駆けつけた。
火点建物の住人の所在を調べ、その場に集っている住人たちへ聞き込みをし、事件性の有無を調べる。だが一通りの活動が終わってしまうと、あとは消防が火を消すまではできることはない。
消火が終わり、屋根も壁もおおむね焼け落ち、焦げて煤にまみれた柱が等間隔で空に向かって焼け細っている。すでに炎はないものの、白い煙がいまだ濛々と立ち上がっていた。
先ほどまで数えきれないほどの消防ホースから放水をしていた消防隊は、いまは小休憩に入っている。すでに火災は鎮圧しているため、あとは休憩をはさみながら残火を潰していくだけだということは吾郎にもわかっていた。
3、4人のオレンジの防火服を着た救助隊が、道路の隅にへたりこみ水分を摂っていた。
炎の輻射熱にくわえ、分厚い防火服を着こんだ火消しがどれほどの水分と体力を奪われるかは想像にかたくない。全員が全員、汗と消火水と煤で、顔も防火服もドロドロだ。
1人の隊員が飲んでいたペットボトルの水を頭からかぶり、髪をかきあげた。それで気づいたが、その隊員は吾郎の幼馴染である、人見新だった。
新の方も顔をあげた拍子に吾郎の存在に気づいたようだ。吾郎は軽く片手をあげ、新は軽くうなずいた。
吾郎と新は小学校と中学校をともに過ごした仲で、何故か不思議と同じクラスになることが多かった。中学から始まる部活動では、照らし合わせたわけでもないのに偶然同じ野球部に所属した。
ともに汗を流し白球を追いかける日々の中で、帰宅途中に一緒にラーメンを食べに行った記憶も、良い思い出として胸にしまわれている。
だが高校からは別の学校に進学したため会う機会もなく、卒業後再会したのは、とある火災現場だった。火災がひと段落した後に二言三言、言葉を交わしその時は別れたが、それからも何度か現場で会ううち、吾郎の方から新が勤める消防署に電話をかけ、連絡先を交換した。
再会した新は、子供の頃と変わらず、朗らかだった。吾郎の記憶の中にある屈託のない笑顔そのままに、図体だけがやけに大きくなっていた。
今でも、普段吾郎と話すとき新はにこにこと笑っているのだが、まれに事故や火災の現場で会った時には、新が笑うことはない。消防隊員は現場では絶対に歯を見せて笑うなと教育されているのだと、以前新が言っていたことを吾郎は思い出す。
それにしても、と吾郎は独りごちた。
真夏に防火服を着こんで燃え盛る炎と対峙し、長時間激しい活動を継続する。消防隊の体力は異常だと言わざるをえない。もちろん職務のために鍛えているのだろうが、見ているこちらが具合が悪くなりそうだ。
「よし、じゃあ戻ろうかー」
消防の指揮者──よく現場で顔を合わせるため、彼が“警防係長”であることは吾郎も知っている──が声を上げ、隊員たちは皆腰を上げて順次残火処理へと戻っていく。ホースからゆるく水を出しながら、燃えた家に満遍なく水をかけていくのだ。
消防が設置したライトの明かりが、不気味に燃えた家を浮かび上がらせている。炎が勢いを失くし、熱気をはらんだ白煙が辺りに漂い始めたころから、野次馬の数も減って、今は見つからない家主を心配する知人たちだけが遠巻きに消火活動を見守っていた。
家だったものの残骸に足を踏み入れていく隊員たちに、主任火災調査員が声をかけた。
「その辺、居住者の寝室だったらしいから、気を付けてくれ。あと、あっち辺り、多分火源だから。水は棒状じゃなくて拡散で当ててくれよ」
水は流体とはいえ、棒状で放水すればかなりの圧になる。焼け残った重要証拠が破損したり消滅したりする原因ともなるのだ。拡散とは、つまりシャワー状でじょうろのように水をかけてほしいということだった。
調査課のヒラ隊員がとび口をもって寝室であった場所をほじくり返している。しばらくして、「居たー」と間延びした声をあげた。暑さのせいで疲れ切っているのだろう(あるいは慣れか)、焼死体の憐れな見た目にも鼻をつく異臭にも鈍感になっている。
逃げ遅れ者の発見を知らせる声に導かれるように、警察官と消防の火災調査員たちが集まる。
近づくほどに、木や化学製品の燃えた臭いを軽く飛び越えるほどの異臭が強くなる。人が焼ける臭いだ。血の臭いや腐臭ほどは刺激は強くないものの、消火された家の残骸から立ち昇る湿気と合わさって、鼻の奥がツンと痛む。
思わず右手の甲で鼻を押さえた吾郎に、相棒の園田が声をかけた。
「行こう」
「ああ」
ふうっと大きく息を吐き、心を落ち着けると、吾郎は焼け落ちて瓦礫まみれの家屋だったものの中へ足を踏み入れた。
遺体の周囲には調査員や鑑識が集まっておりその姿は見えにくいものの、長身の吾郎は、腰を落として書き物をしている警察官の頭の上から、それを見た。
真っ黒に焦げた人型の何か。周囲の瓦礫と同化しており、発見した消防隊員はよくぞこれが人間とわかったなと感心するほどだったが、よくよく目をこらすと、そげ落とされたように焼失した胸の辺りからピンク色の内臓の一部分だけがわずかに顔をのぞかせていた。
両足は膝下から、左手は肘から先が焼失しており、成人女性のわりにずいぶん小さく見える。
広い肩幅にがっちりとした体格、髪にはぽつぽつと白いものが混ざり始めている消防の主任調査員が、遺体に鼻がつくほど顔を近づけて、くんくんと臭いをかぐ。
「油の臭いはしませんね」
警察の鑑識も同じようにかいで同意した。「そのようですね」
吾郎はその行為を何度見ても見慣れることができないし、そもそも人の焼けた臭いがきつすぎて、油の臭いなど判別できる気がしない……と思うものの、やはりその道のプロにはわかるのだろうと納得している。
その後、遺体が存していた場所を記録するため壁からの距離を測り、大体の出火場所を特定して、残りの調査は翌日の朝から実施する算段をつけて、見張りのための地域課の署員だけを残し、お開きとなった。
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