◯✕▢そしてニコッ△

鵜海喨

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プロローグ「始まる春の一輪に」

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 私の腕の中で、一人の子供が眠っている。艷やかな髪。歳は今日で二歳。最近では、「これ、なあに?」なんて、訊いてきて、可愛らしい他ない。
 名前は小葉。私よりもか弱く、女の子らしく生きてほしい。
 寝息の音を立てスヤスヤと眠っている。
 縁側に腰を掛け木漏れ日を感じ、遠くをそっと眺めた。ここは岐阜の山。濃尾平野や三川が穏やかに過ごす様子がよく分かる。船乗りは人を運び、川の港は商人で繁盛した。
 尾張は、随分と復興した。海や川の港を中心に建物が増えていく。あの事件から五年立つ。完全には復興はしてはいないけれど、元の活気は戻りそう。
 この五年で多くの事があった。何もしてないのに、この子を授かったり。好きな人が蒸発したり。

 五年前、私が家に帰ったら、村民のみんなは明るく迎えてくれた。だけど、私の寒天のような傷口を見て、悟ったのだろう。明るさは一瞬にして心配に変わった。
 男勝りな私だから、心配された事に戸惑いながらも受け入れ、笑みを浮かべた。
 でもあの人の姿がない。村での唯一の友達。私は歓喜の熱りほとぼりの冷めた後、彼の家に向った。

 彼は寂しそうな様子で食事に使う座椅子に腰を掛けていた。異様にちゃぶ台の一点を見つめ、微動だにしない。近くに丸い染み。
「行ってほしくなかった」
 彼は、寂しくそう呟く。

 男は泣いている。泣き声こそ上げないものの、その容貌は潤んだ涙そのものだった。悲しさが強く結びついている。そう咄嗟に感じる。
 私は、染みを拭き取りながら畳を這い、彼に近づき、抱きつく。人の温もりと、冷ややかな緊張。好きな人に首を絞められているよう。
「私は帰ってきたよ」

 彼は、女性特有の妖素こそ持っていないけど、その未来を予知する能力は長けていた。恐らく、私が危ない目にあるのだろうと、知っていて止めたのだと思う。でも、彼は私が行かない方の惨事も見えて、私をいつもより強く止めなかった。

「腕」
 涙の音と同時に彼は震える。
「海月」
 彼の肩から力が抜けた。
「空を覆う」
 カタカタと歯の打つかる音が聞こえる。
「崩れた鯨」
 回した腕に脂汗が垂れた。
「神が来る」

 湿気った空は、笑ったようだった。
 濡れた畳は、呆れたようにため息をつく。
 人二人は、温かさを分け合っている。

「大丈夫」
 根拠はないけれど、なんとなくそう感じる。
 声は虚しく抜けていくように、部屋に響いた。余韻など無い。ただ夜のような寒気と静けさ。
 葉の擦れる音。輪郭の消えた木漏れ日。風が吹く。森の匂いがする。
 鳥が鳴いた。烏が泣いた。イタチは可笑しいと笑う。

 ただ、人が消えたような空間。悲しむ時など流れないように。
 ただ、時が止まったように。
 ただ、眠りについたように。
 ただ、変わらず存在するように。

 只管に、深海に沈む樹木のように。
 私達は、溶け切ったのかもしれない。

 その後の記憶はない。開けたはだけた衣服に、彼の寝息。それだけが脳裏に残っている。
 
 目が覚めたのは、自分の布団の中。以後、彼は姿を完全に消した。姿を消しただけでは済まない。彼の家や存在した形跡すらも始めから無かったように。
 それに、左薬指が消えていた。傷口は右腕的同様、薄く緑に色付いたわらび餅のようになっている。左足付け根。まるで切り落とされたかのように、赤く充血した皮膚が一周、線となり覆っていた。お腹には殴られたかのような赤紫色の打撲痕。

 少し肉の乗ったお腹に、痛々しく浮かぶ傷。内出血を起こしているようで、赤い斑点が映っている。触れると後に引かない鈍い痛み。おそらく出来て暫くも経っていないのだと思う。

 記憶は靄を纏って、上手く思い出せない。意図的に思い出させないようにしているようにも感じる。

「一人で生きられないようにしてやる」

 そんな言葉が脳を泳ぐ。同時に寒い程の寝汗をかいていた事に気付いた。
 首を傾げる。同時に魚が脈打つ。頭を打ったかのような、酷く残る視界の残像。喉は開き反対に胃は収縮する。顎を津たり落ちていく汗。震える手。
 魚が水を蹴る。水面のように脳が潰される。
 声になら無い嗚咽を繰り返す。体に膿が溜まっているよう。
 頑張って息を繰り返す。それなのに苦しくなっていく。

 蛇は微笑んだ。
 蛇は笑い声を上げる。
 蛇は嘲笑する。
 蛇は苦笑する。
 
 何が言いたいの?

 蛇は自分の尾を呑む。輪廻。廻り廻る。鍵をするように蛇は、尾を自切し、呑みきった。

 頭の魚は姿を消していた。胸が撫で下ろせる程に、息が整っていく。


「これ、なあに?」
 そんな声で我に返る。
 小葉の掌。丸い涙が光を反射している。

「涙って言うかな」
 小葉は不思議そうな目で私を見る。それは緊張する程に真っ直ぐな瞳。

「かなしいの?」
 吸い込まれていきそうな目が少し潤んでいるように見える。

「そうかな」
 私は苦笑いを浮かべて答える。

 狐の姿が見えた気がした。
「こは、まもる! おかあさんのこと!」
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