◯✕▢そしてニコッ△

鵜海喨

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第一章-春節「駆け出す蛇の一噛に」

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 その客車は、壁に対し垂直に長い滑り台の並ぶ至って普通の物だった。でも小雪ちゃんは「ちゃっちい」と言っていい少し乗る気が無くなっている。そうは言ってるけどその客車自体の長椅子は綿が敷き詰められ、乗り心地は良い。なのに、これが安っぽいなんて、私には良くわからない。
 乗り込んでから、少し時間が空いて出発の時間。動き出した汽車の窓から外を眺めている。知っている景色から、知らない景色へと代わり行く世界。小雪は「どこも同じ」と言っているけど、私には違って見える。私の町で見た糸とは違う絡み方。面白いし興味深い。ただ、車輪が凹みを蹴る音と振動、知らない世界。それらで、私は黄昏れていた。

 周りでは、すぴーすぴーと寝息ちょくちょく聞える。さほど大きくない音だけれど、聞く度に安心感と安堵感が私を襲った。汽車は止まらない。私は少し背伸びをして、壁に身を任せる。しばらくして、小雪ちゃんも私に太腿に寝そべってきた。幸せそうな笑み。そして健やかな息。
 その後に私は眠ったのだと思う。暖かい陽気と、人の温もりが未だに残っている。
 汽車が、金切り声を上げて停車した。同時に車内放送。
「緊急停車申し訳ありません。車内水蒸気機関室への攻撃を確認されました。攻撃者は謎とされます。現在、乗車員総出で対処、駆除に当たっておりますが、運行復旧までは暫くお待ちください」
 との事。攻撃者は不明だけど、復旧しているから待ってね。みたいな感じだと思う。
 しかし、すぐに私の予想は外れているとわかった。想像以上に客車内がザワツイている。「謎だって。殺されないかな。大丈夫だよね」と物騒な事すら聞こえてくる。殺される? そんな高速で移動している汽車に乗り込んできて、殺傷能力のある生き物は居ないはず。半信半疑。私の心情はその言葉のみで表せる。

 ふと、客車前方、物音がした。ダンダンダンと、荒い足音と「なんで術が使えないの?!」との声。そして得体知れない鳴き声。「ギュギュギュギュ」そんな音。今聞けば足音は消え、生物じみた鳴き声だけが客車に近付いてくる。
 木の軋む音と同時に、扉に赤い何かが滲む。
 そんな様子を私は座席に立って見ていた。
 黒い犬?
 口から、血肉を垂らせ普段の犬とは異る鳴き声を発している。荒い息、強い殺意、そして温かな鉄の匂い。
 止まっている姿は数瞬だけだった。客車最前列に座っている生徒に、噛みつき、血の雨を降らせる。首の動脈が切れたのだろう、血は吹き出しボトボトと油の匂い。
 断末魔なんて発する余裕なんて無かったのだろう、代わりに周りの絶叫のみが車内に反響する。
 手に小雪ちゃんの体が触れた。べっとりと冷や汗をかき、私の手にもその湿り気が伝わってくる。だけど様子がおかしい。有刺鉄線に巻かれたような容貌をしている。
「大丈夫?」
 と背中を撫でるも、反応は無い。そればかりか浅く速い息。酷い震え。顔を見ようとした瞬間だった。
妖像ようぞう!」
 と一際大きな声で叫んだかと思えば、その体から力が抜けた。同時に、背中から幽霊のように真っ白い兎が飛び出し、前方に駆け出していく。座席からずり落ちそうな小雪ちゃんを支え、兎の向かう方向も見るも犬と乱闘しているのか、その姿はよく見えない。
 何かが弾ける音。その腐敗臭と生臭さがが客車内に充満し、音を立てて床に赤黒い液体が飛び伸びる。
 人の泣き叫ぶ声、突如として起こる出来事に意識が混沌とする。

「役目の支える理に、許容否定の渚時なぎさどき。妖像、赤」
 前方からそんな声が聞こえれば、天井一杯に赤単色の魚が溢れた。種類はわからない。けど、確かにそれは魚と分かる抽象的な物。
 既に中腹にまで進行している何かに向かい槍のように降り注いだ。肉が殴られる鈍い音。そして、一層濃くなる腐敗した血肉の匂い。
「昼寝を邪魔されたと思えば、謎の襲撃って感じかしら」
 そんな声と共に、一つ前の席から誰かが立った。それは背が高く髪の短い女の子。
「呪文、役目が作る理に、作り消える万物ものの価値。剥奪」
 聞き覚えのある声。喫茶店にいた娘だ。

 通路に出たその娘は未だ犬の唸る中、その犬を一点に見つめた。
 ボトボトとそんな音が聞こえれば、私の足に生ぬるい何かが付いた。気づけば小雪ちゃんが苦しそうに咳をしている。
 他と違う、太く苦しそうに張り詰める関係が見えた。それは、迷うことなく小雪ちゃんとなにかの犬に対して抉れるように繋がっている。小雪ちゃんに大きな傷。飲み込んだ釣り針を無理やり引き抜かれようとしている。そんな感じだった。
 無理に引っ張られ苦しむのなら、切ってあげたい。そう強く思う。
 糸には触れたことはないけど、今日は出来る気がした。違う、切ってあげなきゃならない。
「きれちゃえ!!」
 そう、指で触れた瞬間、緑に輝き容易くそれは切れてしまった。拍子抜けとも言える感覚は残るけど、小雪ちゃんの息や震えが徐々に収まっていくのが分かる。

 天井の魚が動きを止め、薄くなり消えていく。
「大丈夫?」と驚きながら駆け寄ってきた娘は、小雪の顔を見た後に、「安静にしていれば大丈夫。ちょっと緊迫して混乱しちゃっただけみたい」と明るい顔色で言った。

「うちの名前は小梅。赤色の占師よ。よろしくね」
 事は終わったのだろう、再び汽車が動き出した。小雪ちゃんも寝息のような息をついている。小梅と名乗った少女は、恰も何事も無かったように平然と涼しい顔をしている。本当に何もなければ良いけど。

「私小葉、小雪。よ、よろしく」
 動揺で言葉が詰まる。殆ど反射的に漏れ出てくるものだった。
「小葉ね。わかったわ。あ、それからしばらく前方は見ないでね。大変な事になってるから」
 自然に、何事もなかったと言わんばかりに行動する小梅ちゃんに少し驚きながらも、「どうなったの?」と訊く勇気は何処にもない。

「じゃあ、うちは片付けをしてくるから、また何かあったら呼んでね」
 そう言い残して、私達の目の前から去っていった。

 残留した血の匂い。嗅ぐ機会は多いものの、これ程に濃いものは初めてだった。緊張が解れてきたのか、吐き気が強くなっていく。甘酸っぱい果実と苦い香り。決していい匂いではない。ただ、暴れる腹の虫を籠のように耐え、口を押さえるだけ。
 
「あらら、吐いちゃったのね。仕方ないわ。こんなの見たら吐いちゃうのも無理ないわ。大丈夫。よしよし」
 お腹を抱え何度も咳をする私に、小梅ちゃんは何かを唱えながら背中を擦ってくれる。触れる度、酷く体から力が抜けていき、お腹の圧迫感も弱くなる。
「後はうちに任せて、ゆっくりお休み」
 消え薄れる意識の中、彼女の母みたいな言葉が流れ込み漬け込まれていく。
「何も無かった大丈夫」
 私は、目を閉じた。

 朦朧とする意識の中、夢なのか真なのか分からぬまま、声が聞こえた。
「翼を広げる一輪に、冠する未来の未来事。忘却、改変」

 比べて大きな揺れが私を起こした。やけに減った人の声と、未だに残る幽かな錆の匂い。
 咳が出る。続いて嗚咽。
「ほら小葉、あんた緑の術使えるでしょ、無駄なトラウマなんて切っちゃって」
 私の周り、取り囲むような赤黒い糸。奇妙な光沢を放って舞っている。
 触れた。それは燃え尽きたかのように塵になって消えていった。

 スッと鼻や喉が通るようになり息が整う。
「よし、切れたわ。ふぅ。自分の色以外を使うとやっぱり疲れるわね」
 前部座席の上から覗き込んでいる小梅さん。その頬には、少し血が付いていた。
「小葉ちゃん。大丈夫?」
 右腕に人の柔らかさがある。そこに、心配そうな顔をする小雪ちゃんがいた。
「ほら、小雪も心配してるわよ」

 私は「ありがとう」と頭を撫で、改めて小梅さんの顔を見た。
「あのね小葉ちゃん。小雪、小梅ちゃんから色々教えてもらった。医療の事とか妖像の事とか」
 小雪ちゃんは相変わらずの様子で、興奮気味に言った。体が良くなったようで良かった。
「まあね。元々病院で働いてたし。それぐらい簡単よ」
 自慢気に鼻を鳴らす小梅は少し嬉しそうに胸を張った。

 ただ、二人の調子に心がついていけない。
「人が死んだのになんでそんなに元気なの?」
 自分で聞いてもかぼそい声。それは、二人を硬直させるには丁度良かったようで、数秒後に返答が返ってきた。
「小葉? 誰も死んで無いわよ。大丈夫?」
「え?」
 でも、あの鮮血は確かに覚えている。絶叫や断末魔。それは、耳が痛くなるほど。
 冷汗が顎から飛び落ち、足に着地する。ただ只管に、あの形相が頭の中で跳ねるのがわかる。
「小葉ちゃん。混乱してる?」
 小雪は、私を撫でる。

「でも、」

 そう言いかけた時だった。無造作な車内放送が鳴り響き、私も言葉の邪魔をする。
「集音器確認。集音器確認。一刻後または一時間後に「桜」に到着いたします。皆様方に昼食のご連絡です。単刀直入に申し上げますと、先の謎襲撃により配給予定だった昼食が駄目になってしまいました。お詫び申し上げます。代わりにも成りえませんが、非常時用の堅麺麭かたぱんを配給いたしますので、ご容赦のほど、よろしくお願い致します」
 車内に時計が無い為、正確な時刻は分からないけど、言われてみればお腹がやんわりと空いていた。だけど食べる気にはなれない。
「かたぱん?」

 首を傾げる小雪。正直、私も物がある事は知っているが、それがどのような物なのかは詳しく知らない。

「堅麺麭は、平たい四角形で小麦の焼き物をより素朴にした味よ。胡麻風味だけども堅くて美味しくはないと聞くわ」

「小麦の焼き物ってパン? 小雪、パンなら知ってる、美味しいやつ」

 パンなら私も知っている。小麦を練って焼いた外国の主食だったはず。

「小葉も小雪も、食べて顎を動かしたら気分もさっぱりするはずだわ。とは言っても根拠もクソもないけども」

 そう話していると、客車前方に「自由に取ってね」と書かれた張り紙と籠を咥える黒いさぎが入ってきた。その籠の中には、綺麗に並んだ正方形の堅麺麭らしき物がある。

「鷺さんありがとう。うれしい」
 小雪ちゃんが堅麺麭を取りお礼をするも、鷺は籠を床に置き、溜息を吐いた。

「あーあ、また間違えられた。私は鵜飼い漁で活躍していたカツオドリ目ウ科ウ属の海鵜うみうです。ペリカン目サギ科の鳥と一緒にしないでください」

 もう、鳥が喋る事に違和感を抱かない小雪ちゃんは、「うー?」とポカンとした。

「鵜飼いね。木曽川鵜飼いで時たま見るわよ。でもあれって川鵜じゃないの?」

「あんな体が小さく色気のない奴と一緒にしないでください。私は、体が大きく頑丈な海鵜です。だから鵜飼いに選ばれるのです」

 背もたれの上から、顔を出す小梅ちゃんは、少し顔を引きつらせて、「そんな耐久力だけの理由だったのね」と困惑していた。

「耐久力だけって言わないでください。泣いてしまいます。あと困惑しないでください。どれも私の立派な誇りです」

 よくわからない言い合いもそうだけど、さっきと大きく変わる光景に、クスッと笑えてしまった。いまだに傾げたままの小雪ちゃん。薄っぺらい理由を自信満々に言われ、少し引く小梅ちゃん。そしてそれを怒る、を落とした海鵜さん。

 本当に何も無かった、悲惨は無かったと告げる世界の調子。私の夢だったのかな、なんて思えてしまう。でも、あれは現実なはず。

 心なしに、手に持っていた堅麺麭を口に運び、豪快に齧る。でもそれは石だった。
 小梅の言う通り、食べると気分が変わると思い行動した矢先、歯を欠けかけた。
「かったぁ」
 困惑すらする。これは食べ物なのかと疑うも、かえって食べ物であろう理由が分からなくなる。私はキツネ色の石版を食べ物と思い込んで食べようとした、と言う方が自然だし、理解しやすい。
「小葉、それだと歯が割れるわよ。唾液でふやかすの。乾燥昆布みたいに」
 もっと早く言ってほしかったと思いながら、「うん。そうする」と角を口に含んだ。

「歯が割れる?」
 小雪ちゃんは、疑いながら堅麺麭を割ろうと、手に力を加えていた。しかし細かな粉しか出来ず、依然として板状に存在している。

「にしても硬いかったいわね。これ。顎が疲れるわ」
 多分、奥歯で削り取るように食べ始めた小梅に対して海鵜さんは、「術でより乾燥させ、硬度も強化させてます。除湿効果は米を凌駕するでしょうね」と話した。

 そんな物が唇に張り付くのを剥がしながら、柔らかくして食べていく。味は胡麻に小麦粉まぶしたようで、特にない。少なからず美味しいとは言い難い物を食べ進める三人を「大丈夫そうですね。では私はこれで」と去って行った。

「あの海鵜、なんかむかつくわね。乾燥して硬いって言ってるのだから、水ぐらい持ってきてくれてもいいのに」
「分かる。小雪、喉乾いた」
 なんて話ながら私達は、到着の時を待っていた。私だけの曖昧な事はあえて話さず。何もなかったように。到着を待った。
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