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第1話
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勢いよく放り投げられた海の中でもがく。
自分の位置は疎か、上下左右すらわからない。
息ができずに苦しい。自分の無防備さが憎い。こんなところで死にたくない。でも、もがくより諦めたほうが楽かもしれない。
目を閉じて体の力を抜いた瞬間、ぐいと肩をつかまれる。頭で考える間もなく、誰かもわからない大きな手にしがみつく。
手を引かれて海面へと導かれる。空気を吸い込んで安堵し、命の恩人へ感謝を告げようとした時、違和感を覚える。
まだ海中で握られたままだった手が、いつの間にか、絡まるようなつなぎ方に変えられていることに気付いて。
医学部に入学した当初は、希望通りの完璧な人生だった。
まずは一人暮らしを始めた。
「国立大に進んで学費の負担を軽減するから」と両親に頼み込んで、しぶしぶ了承を得た、念願の一人暮らしだった。
大学から程近い女子専用マンションの一室に入居し、ようやく自由を手にした気がした。
そして、勉学に励みつつ、合間を縫って家庭教師や単発のイベントスタッフなど、様々なアルバイトをした。大したお金にはならなかったけど、学生以外の立場を味わい、異業種の人たちに刺激を受け、何より人のために役立ち感謝されることに心底満足していた。
さらに幸運だったのは、同級生の谷口万里子に出会えたことだ。
万里子は、一般的な女子大学生とは全く違っていた。明るくて社交的で、リーダー性があり、ファッションにしても将来の進路にしても、自分なりのこだわりを持っていた。万里子のそういうところは、正反対の私からすると憧れだった。一方で、どこか抜けていて不器用な性格や、男性との恋愛経験が皆無という共通点を私たちは持ち合わせていた。
自由と自立心と友情のどれもが新鮮で、私は満たされていた。
何かが狂い始めたのは、大学二年生の冬だった。友達の友達、つまりはよく知らないメンバーが集まる飲み会に参加しないかと誘われた。
飲み会をする場所が、男子学生の家というので一度は断った。しかし、飲み会の数日前になってやっぱり参加することにした。
交友関係を広げたいという気持ちが少々、何より大きかったのは、万里子が行くと言ったからだった。
思ったよりも汚くない。それが初めて男子学生の部屋に入った感想だった。
その部屋の主は藤木君といって、同じ学科の人だけど一度も会話をしたことはなかった。
部屋には、藤木君と松本君、藤木君の部活の先輩にあたる桜井さん、二歳年上で後輩の市川君の計四名の男子がいた。先の二人は、同学科ながら初めてに近い程度の知り合い、後の二人は全くの初対面だ。女子の方はよく知った面々で、万里子と私を含めて四名だった。
八畳ほどの広さのワンルームには、本棚と勉強机とベッドがそれぞれ壁際に置かれており、中央には、部屋の広さに不釣り合いな大きさの炬燵があった。
ちょうどその頃、炬燵の購入を検討していた私には、それが百二十センチ幅のファミリーサイズだとわかった。
ネットで見るとサイズ感がつかめないものだ。買う前にこれを見られて良かった。藤木君はなぜこの炬燵を選んだのだろうか。まあ、人それぞれ事情が異なるし、感覚も違うからどうでもいいのだけど。
大きな炬燵でも、八名もの成人が囲んで座るとさすがに窮屈に感じた。私は炬燵の角にあたる位置に膝をたたんで座り、膝の上に少しだけ炬燵布団をかけた。
足を伸ばして温まるよう藤木君に勧められたが遠慮した。オレンジ色に光る炬燵の中で、四方から四本ずつ、計十六本の男女の足が中心部に向かって伸びる様子を想像すると、そのような距離感はまだ私には受け付けられないと思ったからだ。
予め用意されていた缶チューハイが切れたのは午前零時をまわった頃で、それをきっかけに解散するだろうと密かに期待していた。
ところが、桜井さんが飲み足りないと言い出し、藤木君が追加の缶チューハイを買いに行くことになった。
「一緒に買いに行こう」
と藤木君に言われた時、本当は断りたかった。
でも、部屋にまであがってお世話になった手前、断れなかった。助けを求めるようにちらっと万里子を見ると、万里子は半目になって眠気と格闘していた。
寒空の下、夜中に男女が二人で並んで歩く姿は、はたから見れば恋人なのだろう。
けれども今隣にいる藤木君は、つい先ほど初めて話した人で、知っていることといえばバレーボール部に所属し、呉服屋を経営しているご両親の一人息子だということぐらいだ。
「吉永さんって、付き合っている人とかいるの?」
コンビニで買い物を済ませた帰り道、唐突に藤木君が聞いてきた。
「特にいないけど」
そう答えると、藤木君は黙ってしまった。
気まずい空気を感じて、何か気の利いたことを言おうとしたが思いつかなかった。先に口を開いたのは藤木君だった。
「そこの公園にさ、星がきれいに見えるところがあるけど、ちょっと行ってみない?」
徒歩圏内の移動で星の見え方が劇的に変わるはずはない。
澄んだ夜空を見上げると、街明かりによって星はほとんど見えなかった。変なことを言う人だなと思いつつ、ちらりと藤木君を見ると、彼は「本当だから」と笑った。
信憑性の低い藤木君の話を鵜呑みにしたわけではなかった。ただ、頭ごなしに否定してかかるのも悪い気がして、どうすべきなのか迷いながら後をついていった。
夜の公園には人気があるはずもなく、今さらながら何か嫌な予感がした。
少し前を歩いていた藤木君が振り返って、上を指さしながら言った。
「ほら、見てみて」
言われた通りに見上げてみたが、予想通り、道路沿いで見た夜空と同じだった。
私が怪訝に思って藤木君を見たのと、藤木君がキスしてきたのは同時だった。生温い感触と酒臭さがあまりに不快で、思考が停止した。
藤木君は微笑みながら、呆然とする私の手を握り、皆の待つ部屋へと帰っていった。
自分の位置は疎か、上下左右すらわからない。
息ができずに苦しい。自分の無防備さが憎い。こんなところで死にたくない。でも、もがくより諦めたほうが楽かもしれない。
目を閉じて体の力を抜いた瞬間、ぐいと肩をつかまれる。頭で考える間もなく、誰かもわからない大きな手にしがみつく。
手を引かれて海面へと導かれる。空気を吸い込んで安堵し、命の恩人へ感謝を告げようとした時、違和感を覚える。
まだ海中で握られたままだった手が、いつの間にか、絡まるようなつなぎ方に変えられていることに気付いて。
医学部に入学した当初は、希望通りの完璧な人生だった。
まずは一人暮らしを始めた。
「国立大に進んで学費の負担を軽減するから」と両親に頼み込んで、しぶしぶ了承を得た、念願の一人暮らしだった。
大学から程近い女子専用マンションの一室に入居し、ようやく自由を手にした気がした。
そして、勉学に励みつつ、合間を縫って家庭教師や単発のイベントスタッフなど、様々なアルバイトをした。大したお金にはならなかったけど、学生以外の立場を味わい、異業種の人たちに刺激を受け、何より人のために役立ち感謝されることに心底満足していた。
さらに幸運だったのは、同級生の谷口万里子に出会えたことだ。
万里子は、一般的な女子大学生とは全く違っていた。明るくて社交的で、リーダー性があり、ファッションにしても将来の進路にしても、自分なりのこだわりを持っていた。万里子のそういうところは、正反対の私からすると憧れだった。一方で、どこか抜けていて不器用な性格や、男性との恋愛経験が皆無という共通点を私たちは持ち合わせていた。
自由と自立心と友情のどれもが新鮮で、私は満たされていた。
何かが狂い始めたのは、大学二年生の冬だった。友達の友達、つまりはよく知らないメンバーが集まる飲み会に参加しないかと誘われた。
飲み会をする場所が、男子学生の家というので一度は断った。しかし、飲み会の数日前になってやっぱり参加することにした。
交友関係を広げたいという気持ちが少々、何より大きかったのは、万里子が行くと言ったからだった。
思ったよりも汚くない。それが初めて男子学生の部屋に入った感想だった。
その部屋の主は藤木君といって、同じ学科の人だけど一度も会話をしたことはなかった。
部屋には、藤木君と松本君、藤木君の部活の先輩にあたる桜井さん、二歳年上で後輩の市川君の計四名の男子がいた。先の二人は、同学科ながら初めてに近い程度の知り合い、後の二人は全くの初対面だ。女子の方はよく知った面々で、万里子と私を含めて四名だった。
八畳ほどの広さのワンルームには、本棚と勉強机とベッドがそれぞれ壁際に置かれており、中央には、部屋の広さに不釣り合いな大きさの炬燵があった。
ちょうどその頃、炬燵の購入を検討していた私には、それが百二十センチ幅のファミリーサイズだとわかった。
ネットで見るとサイズ感がつかめないものだ。買う前にこれを見られて良かった。藤木君はなぜこの炬燵を選んだのだろうか。まあ、人それぞれ事情が異なるし、感覚も違うからどうでもいいのだけど。
大きな炬燵でも、八名もの成人が囲んで座るとさすがに窮屈に感じた。私は炬燵の角にあたる位置に膝をたたんで座り、膝の上に少しだけ炬燵布団をかけた。
足を伸ばして温まるよう藤木君に勧められたが遠慮した。オレンジ色に光る炬燵の中で、四方から四本ずつ、計十六本の男女の足が中心部に向かって伸びる様子を想像すると、そのような距離感はまだ私には受け付けられないと思ったからだ。
予め用意されていた缶チューハイが切れたのは午前零時をまわった頃で、それをきっかけに解散するだろうと密かに期待していた。
ところが、桜井さんが飲み足りないと言い出し、藤木君が追加の缶チューハイを買いに行くことになった。
「一緒に買いに行こう」
と藤木君に言われた時、本当は断りたかった。
でも、部屋にまであがってお世話になった手前、断れなかった。助けを求めるようにちらっと万里子を見ると、万里子は半目になって眠気と格闘していた。
寒空の下、夜中に男女が二人で並んで歩く姿は、はたから見れば恋人なのだろう。
けれども今隣にいる藤木君は、つい先ほど初めて話した人で、知っていることといえばバレーボール部に所属し、呉服屋を経営しているご両親の一人息子だということぐらいだ。
「吉永さんって、付き合っている人とかいるの?」
コンビニで買い物を済ませた帰り道、唐突に藤木君が聞いてきた。
「特にいないけど」
そう答えると、藤木君は黙ってしまった。
気まずい空気を感じて、何か気の利いたことを言おうとしたが思いつかなかった。先に口を開いたのは藤木君だった。
「そこの公園にさ、星がきれいに見えるところがあるけど、ちょっと行ってみない?」
徒歩圏内の移動で星の見え方が劇的に変わるはずはない。
澄んだ夜空を見上げると、街明かりによって星はほとんど見えなかった。変なことを言う人だなと思いつつ、ちらりと藤木君を見ると、彼は「本当だから」と笑った。
信憑性の低い藤木君の話を鵜呑みにしたわけではなかった。ただ、頭ごなしに否定してかかるのも悪い気がして、どうすべきなのか迷いながら後をついていった。
夜の公園には人気があるはずもなく、今さらながら何か嫌な予感がした。
少し前を歩いていた藤木君が振り返って、上を指さしながら言った。
「ほら、見てみて」
言われた通りに見上げてみたが、予想通り、道路沿いで見た夜空と同じだった。
私が怪訝に思って藤木君を見たのと、藤木君がキスしてきたのは同時だった。生温い感触と酒臭さがあまりに不快で、思考が停止した。
藤木君は微笑みながら、呆然とする私の手を握り、皆の待つ部屋へと帰っていった。
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