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第5話
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大学の附属病院で研修している間に、私は武田さんという先輩に出会った。
偶然にも武田さんは、私の高校時代にお世話になった先生の息子さんで、私はそのことに親近感を抱き、いつしか身内のように何でも相談するようになっていた。
実の兄とは違い、落ち着いた物言いと楽観的な物の見方をする武田さんは、理想の兄のような存在だった。
慣れない環境に、何かと気疲れすることが多かった私を気づかって、武田さんは時々車でドライブに連れ出してくれた。
車に乗ると繰り広げられる、武田さんとの独特のふざけたやり取りは、私にとって癒しだった。
「萌さん、今日はどちらへ行きましょうか」
「とりあえず南へ向かいましょう」
「了解です」
武田さんと出かけるときは、いつも行先は決まっていなかった。
南へ向かうように提案したけれど、私は南に行きたいわけではなく、武田さんも実際に南へ車を走らせるわけでもない。
そのぼんやりと設定された目的地は、走り出すきっかけが欲しい、ただそれだけのためのもので、口から発されると同時に役目を終えていた。
車窓から流れるように過ぎていく見知らぬ景色は、自分がどこにいるのかさえ把握できない自由を味わわせてくれた。
大きな川に行き当たり、私たちは車を降りた。
既に葉桜となった土手の桜並木を横目で見ながら、斜面を少し下ったところに二人で座った。
座ってからは、しばらく一言も会話をすることなく、私は目の前を流れる川の水面に、午後の日差しが反射してきらめく様子をただただ眺めた。
武田さんは何も声をかけずにいてくれた。
ふと、地面から草のにおいを感じた。向こう岸の河川敷に目を移すと、小学生くらいの子供たちが大勢で楽しそうに遊んでいる姿が見えた。
「小学生に戻りたい」
私が呟くと、武田さんはふきだすようにして笑った。
「萌は、中身は子供だもんな」
子供と言われると普通は腹が立つのだろうが、武田さんに言われても不思議となんとも思わなかった。むしろ、その通りだと納得した。
「みんなと同じように成長してきたつもりだったけど、なんで私はいまだに子供みたいなんだろうか」
心の中で自問したつもりが、声となって漏れ出た。
すると、武田さんは諭すように言った。
「心を開いて他人と関わると、ぶつかったり争ったりもするけど、その時に自分自身を相手の中に見つけることがあるんだよ。自分の認めたくないくらい醜い部分とかさ、そういうものを受け入れて、人は大人になっていくんじゃないかな」
私の頭の中に藤木君が浮かんだ。彼との会話が成立しないのは、彼のせいだけではなかった。
強引に私を恋人にしたものの、藤木君は私の提示した条件を守り続けていた。どんなに優しくされても頑なに彼を拒絶し続ける自分は、利己的で冷酷なやつだと、彼が傷ついたような顔を見せるたびにどこかで思っていた。
でも、彼を受け入れることは私の心が許さなかった。自分が望まない形で恋愛に持ち込まれ、流されるなんてありえない。
「自分に合う人と付き合えば、お互いにぶつかることもなくて、嫌な自分を出さずにすむような気もするけど、人は争いを避けられないものなんでしょうかね。よくわからないけど、付き合うとか付き合わないとか、そんな口約束に縛られているのが恋愛なら、私は今後も恋愛することはないだろうな」
愚痴だとわかってはいても、言わずにはいられなかった。
「恋愛ってどういうものだと思う?」
武田さんに尋ねられて、私はずっと考えてきたことを吐き出した。
「恋愛は、前提にお互いを思いやる気持ちがあって、そこから始まるものなんじゃないのかなって。お互いの人格を大切にしながら、一緒に笑ったり、つらい時は励ましあったり、意見の食い違いがある時は話し合えるような関係。そういうのを恋愛っていうんだと私は思うんですけど」
「理想はそうだけど、現実はなかなかそうもいかないものだよな」
武田さんはぼやくように言った。
「もっと気楽に遊んでしまえばいいのに。俺だったらそうする」
そう言うと、武田さんは立ち上がり、土手を駆け下りてそのまま川へと飛び込んだ。
水面に体を浮かせて手足を大の字に広げ、空を見上げながら武田さんが大声で言った。
「萌も飛び込んで来い。何も考えずに浮かんでみろ」
「絶対に嫌だ。服が汚れるし、それに、もともと泳げない」
土手から私も大声で答えた。幼い頃に通っていた水泳教室で溺れた経験があり、私は水が苦手だった。
しばらくしてから、武田さんはずぶ濡れになって岸に上がってきた。
「俺の高校時代からの友達にさ、見た目と中身の違いに悩んでいたやつがいて、萌の話を聞いてそいつを思い出したよ。そいつは自分の見た目を受け入れて楽になったみたいだけど。今度紹介しようか」
「折角ですけど遠慮します。知らない男の人に会うのは少し抵抗があるので」
よく知らない男の人に、急に接近される経験は二度としたくない。
いつもなら、私が断ると「そっか」と言って笑うのに、その日の武田さんは違った。
「萌には絶対に触らないように伝えておくから、二人で会ってみてほしい」
全身びしょ濡れの武田さんは、いつになく真剣な顔をしていた。
「絶対に、ですか」
「うん、絶対に」
武田さんがそこまで言うのは何かあるのだろう。私はその友人と会うことにした。
偶然にも武田さんは、私の高校時代にお世話になった先生の息子さんで、私はそのことに親近感を抱き、いつしか身内のように何でも相談するようになっていた。
実の兄とは違い、落ち着いた物言いと楽観的な物の見方をする武田さんは、理想の兄のような存在だった。
慣れない環境に、何かと気疲れすることが多かった私を気づかって、武田さんは時々車でドライブに連れ出してくれた。
車に乗ると繰り広げられる、武田さんとの独特のふざけたやり取りは、私にとって癒しだった。
「萌さん、今日はどちらへ行きましょうか」
「とりあえず南へ向かいましょう」
「了解です」
武田さんと出かけるときは、いつも行先は決まっていなかった。
南へ向かうように提案したけれど、私は南に行きたいわけではなく、武田さんも実際に南へ車を走らせるわけでもない。
そのぼんやりと設定された目的地は、走り出すきっかけが欲しい、ただそれだけのためのもので、口から発されると同時に役目を終えていた。
車窓から流れるように過ぎていく見知らぬ景色は、自分がどこにいるのかさえ把握できない自由を味わわせてくれた。
大きな川に行き当たり、私たちは車を降りた。
既に葉桜となった土手の桜並木を横目で見ながら、斜面を少し下ったところに二人で座った。
座ってからは、しばらく一言も会話をすることなく、私は目の前を流れる川の水面に、午後の日差しが反射してきらめく様子をただただ眺めた。
武田さんは何も声をかけずにいてくれた。
ふと、地面から草のにおいを感じた。向こう岸の河川敷に目を移すと、小学生くらいの子供たちが大勢で楽しそうに遊んでいる姿が見えた。
「小学生に戻りたい」
私が呟くと、武田さんはふきだすようにして笑った。
「萌は、中身は子供だもんな」
子供と言われると普通は腹が立つのだろうが、武田さんに言われても不思議となんとも思わなかった。むしろ、その通りだと納得した。
「みんなと同じように成長してきたつもりだったけど、なんで私はいまだに子供みたいなんだろうか」
心の中で自問したつもりが、声となって漏れ出た。
すると、武田さんは諭すように言った。
「心を開いて他人と関わると、ぶつかったり争ったりもするけど、その時に自分自身を相手の中に見つけることがあるんだよ。自分の認めたくないくらい醜い部分とかさ、そういうものを受け入れて、人は大人になっていくんじゃないかな」
私の頭の中に藤木君が浮かんだ。彼との会話が成立しないのは、彼のせいだけではなかった。
強引に私を恋人にしたものの、藤木君は私の提示した条件を守り続けていた。どんなに優しくされても頑なに彼を拒絶し続ける自分は、利己的で冷酷なやつだと、彼が傷ついたような顔を見せるたびにどこかで思っていた。
でも、彼を受け入れることは私の心が許さなかった。自分が望まない形で恋愛に持ち込まれ、流されるなんてありえない。
「自分に合う人と付き合えば、お互いにぶつかることもなくて、嫌な自分を出さずにすむような気もするけど、人は争いを避けられないものなんでしょうかね。よくわからないけど、付き合うとか付き合わないとか、そんな口約束に縛られているのが恋愛なら、私は今後も恋愛することはないだろうな」
愚痴だとわかってはいても、言わずにはいられなかった。
「恋愛ってどういうものだと思う?」
武田さんに尋ねられて、私はずっと考えてきたことを吐き出した。
「恋愛は、前提にお互いを思いやる気持ちがあって、そこから始まるものなんじゃないのかなって。お互いの人格を大切にしながら、一緒に笑ったり、つらい時は励ましあったり、意見の食い違いがある時は話し合えるような関係。そういうのを恋愛っていうんだと私は思うんですけど」
「理想はそうだけど、現実はなかなかそうもいかないものだよな」
武田さんはぼやくように言った。
「もっと気楽に遊んでしまえばいいのに。俺だったらそうする」
そう言うと、武田さんは立ち上がり、土手を駆け下りてそのまま川へと飛び込んだ。
水面に体を浮かせて手足を大の字に広げ、空を見上げながら武田さんが大声で言った。
「萌も飛び込んで来い。何も考えずに浮かんでみろ」
「絶対に嫌だ。服が汚れるし、それに、もともと泳げない」
土手から私も大声で答えた。幼い頃に通っていた水泳教室で溺れた経験があり、私は水が苦手だった。
しばらくしてから、武田さんはずぶ濡れになって岸に上がってきた。
「俺の高校時代からの友達にさ、見た目と中身の違いに悩んでいたやつがいて、萌の話を聞いてそいつを思い出したよ。そいつは自分の見た目を受け入れて楽になったみたいだけど。今度紹介しようか」
「折角ですけど遠慮します。知らない男の人に会うのは少し抵抗があるので」
よく知らない男の人に、急に接近される経験は二度としたくない。
いつもなら、私が断ると「そっか」と言って笑うのに、その日の武田さんは違った。
「萌には絶対に触らないように伝えておくから、二人で会ってみてほしい」
全身びしょ濡れの武田さんは、いつになく真剣な顔をしていた。
「絶対に、ですか」
「うん、絶対に」
武田さんがそこまで言うのは何かあるのだろう。私はその友人と会うことにした。
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