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第16話
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久しぶりに迎えた穏やかな週末だった。
暖かな日差しを感じながら、ベランダに洗濯物を干して、鼻からゆっくりと空気を吸った。春の訪れを感じさせるにおいがした。
もしかしたら、道端にオオイヌノフグリやタンポポが咲いているかもしれない。
散歩に出かけようと着替えて外に出ると、マンションのエントランスの前に中川さんが立っていた。
「ちゃんと嫁に向き合おうと思う」
中川さんが言った。
そんな報告は無用なのだが、とりあえず「それはよかったです」と答えておいた。
「最後に話がしたい」と中川さんが近づいてきた。
私は身の危険を感じ、マンションの中に駆け込もうとしたが、間に合わなかった。全力で抵抗したが、例の異常な力で中川さんは私を用意してきた車の中に押し込んだ。
車が走り出したのを確認してから、私は密かに警察に連絡しようとした。そして、携帯電話を家に置いてきてしまったことに気付いた。
散歩の途中に自販機でジュースを買うつもりで、ジーンズの後ろポケットに財布を入れておいた。確か、五千円札と百円玉がいくつか入っていたはずだ。公衆電話があれば、小銭がなくても警察に連絡できる。落ち着いて何をすべきか考えよう。
中川さんは左手で私の手首をつかみ、右手で片手運転していた。
どこを走っているのかもわからず不安だったが、どうやら遠くに移動しているわけではなく、似たような場所をぐるぐるとまわっているようだった。
日が暮れた頃になって、ようやく停車した。着いた場所は「中川」と表札のついた家の前で、中川さんの家だと思われた。助手席にしがみついて抵抗したが引きはがされ、私は家の中へと連れていかれた。
「いいからあがれよ」
中川さんに押されるようにして入った室内は薄暗く、人気がなくて物が散乱していた。もめ事があった後だということは、何となく察しがついた。台所のシンクに割れたペアグラスがあるのを見て、胸が痛んだ。
テーブルの傍の椅子に座るよう勧められ、仕方なく浅く腰かけた。
「お前に、これを食べさせようと思っていたんだ」
中川さんは冷蔵庫から透明パックに入った苺を取り出した。何日前から用意されていたのか、赤い苺の所々が白っぽく変色していて、少し離れたこの場所からでもその苺が傷んでいることがわかった。
「少し傷んでいるけど、大丈夫だろ。食べるか」
「いりません」
中川さんは、私の言葉など聞いていないかのように腐りかけた苺を流水で洗い始めた。そして一つ苺をつまんで、苺の白くぼやけた部分を右手の親指でえぐるようにして取り除き、食べた。
中川さんは、もう一つ、またもう一つと、苺をえぐりながら食べた。私は、それらの苺の赤と白から目が離せなかった。
急に苺を食べるのをやめて、中川さんは私を見た。
「俺、お前と一緒に死のうと思って。ずっと考えていたんだ」
私は嘘だと思った。今しがた苺の死んだ部分を取り除いて食べ、お腹を壊さないように気を付けていた彼が死ねるわけがない。
これまでの、中川さんの数々の虚言を鑑みても、彼が死ぬのはありえない。
そして、私を殺すことなど、彼にできるはずもない。
「帰ります」
私は玄関の方へ向かった。すると、中川さんは私をつかまえて床に押し倒し、私の喉元に親指を突き立てて圧迫してきた。
殺せるものなら殺してみろ。
私は中川さんを睨みつけた。自分の予想が当たっているのか確かめてみたいと思ったが、強く首を絞め続けられ、苦しくなってきたので方針を変更することにした。
私は大げさに両腕を床の上に広げて、脱力してみせた。それから白目をむいて顎をだらりと横に傾けた。
中川さんは、私が気を失ったか死んだかのどちらかだと思ったのだろう。すぐに手の力を緩めて、私の頬を軽くたたき肩を揺さぶりながら、
「おい、しっかりしろ」と怒鳴った。
きまった。女優、萌ちゃん爆誕
私は大げさにせき込み、生き返ったふりをした。二度目の演技は通用しないだろう。急いで外へ出なければならない。ちらりと中川さんを見ると、自分が作り出したはずのこの状況に放心したらしく、座り込んでいた。
私は、自分のいる場所から玄関までの距離を見た。今、慌てて逃げ出せば、玄関ドアの前で中川さんに追いつかれて危害を加えられる可能性がある。
「こんな時は、飲みに出かけましょう」
私は家から出たい一心で誘った。
中川さんは虚ろな目で「そうだな」と答えた。
繁華街まで歩いて、古いビルの一室にあるバーに入った。
すらりとしたバーテンダーは、こちらを一瞥しただけで、普通の客とは違うと感じたようだった。ボックス席で談笑する華やかな客とは離れたカウンターの奥へと案内された。
私は散歩に出かけるつもりだったので、ジーンズにスニーカーを履いていた。こういう素敵な店に、いつかおしゃれをして訪れる日は来るのだろうか。
お茶目な空気感を演出しながら、バーテンダーが話しかけてきた。
「お客さんたち、もしかしてあれですか」
「なんでわかるんですか」と中川さんは驚いたように言った。
私は何も答えずに、頬杖をついて二人の会話を眺めた。
「実は、僕も経験者なのでわかるんですよ」とバーテンダー。
「そうなんですか。どんな感じだったんですか」中川さんが尋ねた。
バーテンダーは、不倫相手と海外で暮らすことになって空港で出発時刻を待っていたところ、妻から電話があり、幼い息子が体調を崩したのですぐに戻ってきてほしいと言われ、息子を思うあまり飛行機には乗らなかったというような話を流暢な口調で語った。
「それで、その彼女とはどうなったんですか」
ドラマの最終回を楽しみにする女子のように、中川さんはうきうきと尋ねた。
「それっきりですよ。彼女と別れて、離婚して、仕事も失い、今ここでバーテンダーをしています」
バーテンダーは微笑んだ。中川さんは一人白けていた。
突然、バーテンダーは話題を変え、男たちが喜びそうな下品な話をした。
中川さんが狂ったように笑う傍で、私は朝食以降、何も食べていなかったことに気付き、目の前に出されたミックスナッツを一粒ずつ食べた。
中川さんがトイレに立った時、一人になった私にバーテンダーが言った。
「いつか大恋愛したって思える日が来ますよ」
私は口元だけ微笑んでみせた。
暖かな日差しを感じながら、ベランダに洗濯物を干して、鼻からゆっくりと空気を吸った。春の訪れを感じさせるにおいがした。
もしかしたら、道端にオオイヌノフグリやタンポポが咲いているかもしれない。
散歩に出かけようと着替えて外に出ると、マンションのエントランスの前に中川さんが立っていた。
「ちゃんと嫁に向き合おうと思う」
中川さんが言った。
そんな報告は無用なのだが、とりあえず「それはよかったです」と答えておいた。
「最後に話がしたい」と中川さんが近づいてきた。
私は身の危険を感じ、マンションの中に駆け込もうとしたが、間に合わなかった。全力で抵抗したが、例の異常な力で中川さんは私を用意してきた車の中に押し込んだ。
車が走り出したのを確認してから、私は密かに警察に連絡しようとした。そして、携帯電話を家に置いてきてしまったことに気付いた。
散歩の途中に自販機でジュースを買うつもりで、ジーンズの後ろポケットに財布を入れておいた。確か、五千円札と百円玉がいくつか入っていたはずだ。公衆電話があれば、小銭がなくても警察に連絡できる。落ち着いて何をすべきか考えよう。
中川さんは左手で私の手首をつかみ、右手で片手運転していた。
どこを走っているのかもわからず不安だったが、どうやら遠くに移動しているわけではなく、似たような場所をぐるぐるとまわっているようだった。
日が暮れた頃になって、ようやく停車した。着いた場所は「中川」と表札のついた家の前で、中川さんの家だと思われた。助手席にしがみついて抵抗したが引きはがされ、私は家の中へと連れていかれた。
「いいからあがれよ」
中川さんに押されるようにして入った室内は薄暗く、人気がなくて物が散乱していた。もめ事があった後だということは、何となく察しがついた。台所のシンクに割れたペアグラスがあるのを見て、胸が痛んだ。
テーブルの傍の椅子に座るよう勧められ、仕方なく浅く腰かけた。
「お前に、これを食べさせようと思っていたんだ」
中川さんは冷蔵庫から透明パックに入った苺を取り出した。何日前から用意されていたのか、赤い苺の所々が白っぽく変色していて、少し離れたこの場所からでもその苺が傷んでいることがわかった。
「少し傷んでいるけど、大丈夫だろ。食べるか」
「いりません」
中川さんは、私の言葉など聞いていないかのように腐りかけた苺を流水で洗い始めた。そして一つ苺をつまんで、苺の白くぼやけた部分を右手の親指でえぐるようにして取り除き、食べた。
中川さんは、もう一つ、またもう一つと、苺をえぐりながら食べた。私は、それらの苺の赤と白から目が離せなかった。
急に苺を食べるのをやめて、中川さんは私を見た。
「俺、お前と一緒に死のうと思って。ずっと考えていたんだ」
私は嘘だと思った。今しがた苺の死んだ部分を取り除いて食べ、お腹を壊さないように気を付けていた彼が死ねるわけがない。
これまでの、中川さんの数々の虚言を鑑みても、彼が死ぬのはありえない。
そして、私を殺すことなど、彼にできるはずもない。
「帰ります」
私は玄関の方へ向かった。すると、中川さんは私をつかまえて床に押し倒し、私の喉元に親指を突き立てて圧迫してきた。
殺せるものなら殺してみろ。
私は中川さんを睨みつけた。自分の予想が当たっているのか確かめてみたいと思ったが、強く首を絞め続けられ、苦しくなってきたので方針を変更することにした。
私は大げさに両腕を床の上に広げて、脱力してみせた。それから白目をむいて顎をだらりと横に傾けた。
中川さんは、私が気を失ったか死んだかのどちらかだと思ったのだろう。すぐに手の力を緩めて、私の頬を軽くたたき肩を揺さぶりながら、
「おい、しっかりしろ」と怒鳴った。
きまった。女優、萌ちゃん爆誕
私は大げさにせき込み、生き返ったふりをした。二度目の演技は通用しないだろう。急いで外へ出なければならない。ちらりと中川さんを見ると、自分が作り出したはずのこの状況に放心したらしく、座り込んでいた。
私は、自分のいる場所から玄関までの距離を見た。今、慌てて逃げ出せば、玄関ドアの前で中川さんに追いつかれて危害を加えられる可能性がある。
「こんな時は、飲みに出かけましょう」
私は家から出たい一心で誘った。
中川さんは虚ろな目で「そうだな」と答えた。
繁華街まで歩いて、古いビルの一室にあるバーに入った。
すらりとしたバーテンダーは、こちらを一瞥しただけで、普通の客とは違うと感じたようだった。ボックス席で談笑する華やかな客とは離れたカウンターの奥へと案内された。
私は散歩に出かけるつもりだったので、ジーンズにスニーカーを履いていた。こういう素敵な店に、いつかおしゃれをして訪れる日は来るのだろうか。
お茶目な空気感を演出しながら、バーテンダーが話しかけてきた。
「お客さんたち、もしかしてあれですか」
「なんでわかるんですか」と中川さんは驚いたように言った。
私は何も答えずに、頬杖をついて二人の会話を眺めた。
「実は、僕も経験者なのでわかるんですよ」とバーテンダー。
「そうなんですか。どんな感じだったんですか」中川さんが尋ねた。
バーテンダーは、不倫相手と海外で暮らすことになって空港で出発時刻を待っていたところ、妻から電話があり、幼い息子が体調を崩したのですぐに戻ってきてほしいと言われ、息子を思うあまり飛行機には乗らなかったというような話を流暢な口調で語った。
「それで、その彼女とはどうなったんですか」
ドラマの最終回を楽しみにする女子のように、中川さんはうきうきと尋ねた。
「それっきりですよ。彼女と別れて、離婚して、仕事も失い、今ここでバーテンダーをしています」
バーテンダーは微笑んだ。中川さんは一人白けていた。
突然、バーテンダーは話題を変え、男たちが喜びそうな下品な話をした。
中川さんが狂ったように笑う傍で、私は朝食以降、何も食べていなかったことに気付き、目の前に出されたミックスナッツを一粒ずつ食べた。
中川さんがトイレに立った時、一人になった私にバーテンダーが言った。
「いつか大恋愛したって思える日が来ますよ」
私は口元だけ微笑んでみせた。
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