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第三章
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春太が泣いている。
どうしてそんなに悲しそうな顔をするのだろう。
笑っていてほしい。
そう思うのに。
-春太、こんなところにいたの?
春太が後ろを振り返る。
春太の後ろには見たことのない男が立っていて、随分親しげに春太の名を呼ぶ。
-雪帆!
声の主を確認すると、春太はパッと笑顔を浮かべた。そのまま駆け寄り抱きしめる。
雪帆と呼ばれた男の顔は見えない。
それでも、自分はなぜかその男の顔を知っているような気がした。
どういうわけか、目の前の光景を見て懐かしいと、そう思うのだ。
-行こう、春太
雪帆が春太と手を繋ぎ歩いていく。
よく見ると遠くに光がさしている。
二人はその光に向かって歩き始める。
手を伸ばしても届かないし、いくら大声で名前を呼んでも春太は振り返ろうとしない。
光はどんどん強くなって、ついには目を開けていられなくなった。
光の向こうに消えていく雪帆と春太。
それをただ、なす術なく眺めている。
気がつくと目の前には扉が立っていて、光はそこから溢れていた。
こちらとあちらを繋ぐモノ。
自分はこの先には行けない。
扉は閉じていく。
光の帯は見る間に細くなって、ついには途絶えてしまう。
真っ暗な闇の中に、取り残される。
***
「ヤナギ…ヤナギ…!!」
揺すり起こされてヤナギはハッと目を覚ました。
体が重だるく、頭はぼんやりとしている。
どうやら熱があるらしい。
「大丈夫?」
視線をあげると春太が心配そうな顔をして覗き込んでいた。
「すごくうなされてたよ。熱、なかなか下がらないし…苦しい?なにか欲しいものある?」
あの夜から丸三日、ヤナギは眠り続けていた。
ようやく目を覚ましたはいいものの、今度は熱が出た。それが一向に下がらない。
「ヤナギ?」
あんな夢を見たからだろうか、ヤナギは無意識のうちに春太に手を伸ばしていた。
何も言わずに抱きしめる。
いきなりこんなことをされて、春太はどう思っているだろうか。
とくんとくんと鼓動が伝わる。
より強くそれを感じたくてヤナギはさらにぎゅっと春太を抱いた。
「ヤナギ…痛いよ…」
春太にそう言われてハッと我に返った。
ぱっと手を離すと春太は困惑した顔で俯いていた。耳まで真っ赤になっている。
とりあえず嫌というわけではなさそうだが。
「えっと、今のは…?」
改まって春太に問われると、さすがのヤナギも平静さを保ってはいられなかった。
「いや、なんか変な夢見て、だから、その…」
春太は珍しく狼狽するヤナギを見てふふっと笑う。
「熱出た時ってなんか心細くなったりするもんね」
そういうものなんだろうか。
ヤナギにはよく分からなかったけれど、とりあえずそういうことにしておいた。
「喉乾いたでしょ。水、とってくるよ」
特に今水分を欲していたわけではなかったのだが、返事をする前に春太はそそくさと部屋から出て行ってしまった。
ヤナギはぽつんとベッドの上に取り残されて、なんとも言えない気分を味わう。
ごろんと天井を仰ぎ見るように寝転がる。
体はまだ熱い。
火照った頭は依然として使い物にならない。
落ち着こうと目を閉じると、今度は先程の夢の光景が甦ってきた。
光に消えていく背中。
春太は自分と違ってちゃんと帰るべき場所を覚えているのだ。ここに来た目的も、守るべきものも、全てをしっかり手にしたまま、この世界に立っている。
ならば、すべてが解決したらあるべき場所に帰るのが自然だろう。
誰がどう考えても、それが春太にとって幸せな結末だということは明白だ。
(それを悲しいと思うのは…どうしてだろう?)
最初は厄介な拾い物をしてしまったくらいにしか思っていなかった。
それがいつのまにか、放って置けないという気持ちになった。
そこまでは良かった。
問題はそこから自分の中の気持ちが加速度的に変化してしまったということだ。
今回のことがあって、春太を失うことを考えるようになった。
失うというのも変な話だ。
そもそも自分はまだ春太と出会って間もないというのに。
たしかに短い期間にしては色濃すぎる時間を共有しているとは思うけど、それにしたってこんな風に離れがたいと感じるのはおかしい。
ヤナギはふと、春太と初めて出会った頃に抱いた感覚を思い出した。
何かに導かれるような、そして強く惹かれるような感覚。本能を呼び起こすような何か。
実質的な匂いとも違う、気配と呼ぶのがおそらく最も相応しい。
(俺は…獣として惹かれてるのか?)
好きという感情とは別の、獣としての生体反応。
これはそういうものなのだろうか。
だからこんなにも離れがたく、いなくなってしまうことを…恐れてしまうのか。
それでは、雪帆と春太が再会して、春太が元の世界に帰るという時、自分は一体どうするのだろう。
その時、自分はちゃんと笑顔で別れを言えるのだろうか。
そう考えただけで、胸が痛んだ。
「ヤナギ?」
そっと扉が開き、春太がそこから顔を覗かせる。
「ハクさんがこれ飲むようにって」
「なんだそれ」
「なにって、薬だよ?熱によく効く薬草だって言ってた。すごい色してるけどたしかに効きそうだよね」
「げ…」
春太が手にした盆を覗き込むと、ヤナギは露骨に嫌そうな顔をした。そんなヤナギを見て春太は楽しそうに笑う。
「ヤナギにも苦手なものってあるんだ」
「当たり前だ。お前俺をなんだと思ってんだよ」
さっきのことは春太の中で無かったことになったのだろうか。
いつもと変わらない様子に戻った春太にちょっとだけ残念がっている自分がいることにヤナギは気付いた。
「よし、じゃあ薬ちゃんと飲めたらヤナギにご褒美ね」
「は?ご褒美だ?」
「なんでもいいよ、大金持ちになりたいとか言われたら無理だけど、俺にできることなら」
春太は自分がとんでもない発言をしたことに気がついていないのだろうか。
だとしたら、迂闊にもほどがある。
「本当になんでもいいのか?」
春太はきょとんと首を傾げつつ「うん」と肯定する。
ヤナギは少しだけ考えて、春太の手にした盆から薬の入った小瓶を摘み上げた。
風邪用シロップを何倍にも濃縮したエグ味の塊のような液体を、ヤナギは意を決してひと息に飲み干す。
「お、ちゃんと飲めたね。えらいえらい」
ヤナギは茶化す春太を涙目になって睨みつけた。春太から水を受け取り、それもまた飲み干す。ほんの少しだけ復活を果たしたヤナギは春太の顔をじっと覗き込んだ。
「…約束は?」
春太はにっこりと笑みを浮かべたまま、もちろん、なんでもいいよと答えた。
「本当に、なんでもいいんだな?」
「うん。どうしたの?さっきからなんか変…」
春太の言葉を遮るように、ヤナギは春太の体を引き寄せ、そのままベッドに押し倒す。
ドサッと音を立ててベッドに倒れ込んだ春太は呆然としたままヤナギを見上げていた。
「ヤ…ナギ…?」
視線を交わすだけで体が奥から熱くなるような気がした。
指と指を絡めるように握る。
ヤナギは春太の呼吸を、体温を、その全てを忘れないように、自分の中に刻み込もうとした。
いつか来るさよならに備えて自分がそうしようとしていることを、なんとなく自覚していた。
そのまま、ヤナギはそっと顔を近付ける。
春太の顔が間近に見えた。
丸い瞳に自分の姿が映り込む。
(このままずっと、俺のことを映してくれてればいいのに)
そう思った時、春太の瞳が濡れているのに気が付いた。
泣いている、そう思った途端、ヤナギは咄嗟に絡めた指を解いていた。
身を起こし、春太に背を向ける。
「ヤナギ…?」
春太が声をかけても、ヤナギは背を向けたまま振り返ろうとしなかった。
いや、正確に言えば振り返ることができなかった。
「…なんでも言うこと聞くとか、そんなこと簡単に言ってんじゃねえよ」
春太は何かを言いかけて、そのまま言葉を飲み込む。
「…ごめん」
沈黙で満たされた部屋は窒息してしまいそうなほど苦しくて、ヤナギは立ち上がるとそのまま自室のドアノブに手をかけた。
「どこ行くの?」
「外の空気吸いに行く」
「体は?まだ熱だって…」
「心配なら、お前も来るか?」
卑怯だと思った。
今のこの状況でそれを聞くのは。
春太は案の定答えられずにまごついている。
ヤナギはその反応を視界の隅で確認し、扉を開けた。
全てを熱のせいに出来るほど、自分は理性を欠いちゃいない。
それどころか、落ち着いて物を考えられるほどには冷静だった。
「悪かった。忘れてくれ」
ヤナギはそのまま逃げるように扉を閉めた。春太をそこに閉じ込めようとするみたいに。
「俺、こんなにずるいやつだったんだ」
誰に言うでもなくそう呟いて、そっと笑った。
どうしてそんなに悲しそうな顔をするのだろう。
笑っていてほしい。
そう思うのに。
-春太、こんなところにいたの?
春太が後ろを振り返る。
春太の後ろには見たことのない男が立っていて、随分親しげに春太の名を呼ぶ。
-雪帆!
声の主を確認すると、春太はパッと笑顔を浮かべた。そのまま駆け寄り抱きしめる。
雪帆と呼ばれた男の顔は見えない。
それでも、自分はなぜかその男の顔を知っているような気がした。
どういうわけか、目の前の光景を見て懐かしいと、そう思うのだ。
-行こう、春太
雪帆が春太と手を繋ぎ歩いていく。
よく見ると遠くに光がさしている。
二人はその光に向かって歩き始める。
手を伸ばしても届かないし、いくら大声で名前を呼んでも春太は振り返ろうとしない。
光はどんどん強くなって、ついには目を開けていられなくなった。
光の向こうに消えていく雪帆と春太。
それをただ、なす術なく眺めている。
気がつくと目の前には扉が立っていて、光はそこから溢れていた。
こちらとあちらを繋ぐモノ。
自分はこの先には行けない。
扉は閉じていく。
光の帯は見る間に細くなって、ついには途絶えてしまう。
真っ暗な闇の中に、取り残される。
***
「ヤナギ…ヤナギ…!!」
揺すり起こされてヤナギはハッと目を覚ました。
体が重だるく、頭はぼんやりとしている。
どうやら熱があるらしい。
「大丈夫?」
視線をあげると春太が心配そうな顔をして覗き込んでいた。
「すごくうなされてたよ。熱、なかなか下がらないし…苦しい?なにか欲しいものある?」
あの夜から丸三日、ヤナギは眠り続けていた。
ようやく目を覚ましたはいいものの、今度は熱が出た。それが一向に下がらない。
「ヤナギ?」
あんな夢を見たからだろうか、ヤナギは無意識のうちに春太に手を伸ばしていた。
何も言わずに抱きしめる。
いきなりこんなことをされて、春太はどう思っているだろうか。
とくんとくんと鼓動が伝わる。
より強くそれを感じたくてヤナギはさらにぎゅっと春太を抱いた。
「ヤナギ…痛いよ…」
春太にそう言われてハッと我に返った。
ぱっと手を離すと春太は困惑した顔で俯いていた。耳まで真っ赤になっている。
とりあえず嫌というわけではなさそうだが。
「えっと、今のは…?」
改まって春太に問われると、さすがのヤナギも平静さを保ってはいられなかった。
「いや、なんか変な夢見て、だから、その…」
春太は珍しく狼狽するヤナギを見てふふっと笑う。
「熱出た時ってなんか心細くなったりするもんね」
そういうものなんだろうか。
ヤナギにはよく分からなかったけれど、とりあえずそういうことにしておいた。
「喉乾いたでしょ。水、とってくるよ」
特に今水分を欲していたわけではなかったのだが、返事をする前に春太はそそくさと部屋から出て行ってしまった。
ヤナギはぽつんとベッドの上に取り残されて、なんとも言えない気分を味わう。
ごろんと天井を仰ぎ見るように寝転がる。
体はまだ熱い。
火照った頭は依然として使い物にならない。
落ち着こうと目を閉じると、今度は先程の夢の光景が甦ってきた。
光に消えていく背中。
春太は自分と違ってちゃんと帰るべき場所を覚えているのだ。ここに来た目的も、守るべきものも、全てをしっかり手にしたまま、この世界に立っている。
ならば、すべてが解決したらあるべき場所に帰るのが自然だろう。
誰がどう考えても、それが春太にとって幸せな結末だということは明白だ。
(それを悲しいと思うのは…どうしてだろう?)
最初は厄介な拾い物をしてしまったくらいにしか思っていなかった。
それがいつのまにか、放って置けないという気持ちになった。
そこまでは良かった。
問題はそこから自分の中の気持ちが加速度的に変化してしまったということだ。
今回のことがあって、春太を失うことを考えるようになった。
失うというのも変な話だ。
そもそも自分はまだ春太と出会って間もないというのに。
たしかに短い期間にしては色濃すぎる時間を共有しているとは思うけど、それにしたってこんな風に離れがたいと感じるのはおかしい。
ヤナギはふと、春太と初めて出会った頃に抱いた感覚を思い出した。
何かに導かれるような、そして強く惹かれるような感覚。本能を呼び起こすような何か。
実質的な匂いとも違う、気配と呼ぶのがおそらく最も相応しい。
(俺は…獣として惹かれてるのか?)
好きという感情とは別の、獣としての生体反応。
これはそういうものなのだろうか。
だからこんなにも離れがたく、いなくなってしまうことを…恐れてしまうのか。
それでは、雪帆と春太が再会して、春太が元の世界に帰るという時、自分は一体どうするのだろう。
その時、自分はちゃんと笑顔で別れを言えるのだろうか。
そう考えただけで、胸が痛んだ。
「ヤナギ?」
そっと扉が開き、春太がそこから顔を覗かせる。
「ハクさんがこれ飲むようにって」
「なんだそれ」
「なにって、薬だよ?熱によく効く薬草だって言ってた。すごい色してるけどたしかに効きそうだよね」
「げ…」
春太が手にした盆を覗き込むと、ヤナギは露骨に嫌そうな顔をした。そんなヤナギを見て春太は楽しそうに笑う。
「ヤナギにも苦手なものってあるんだ」
「当たり前だ。お前俺をなんだと思ってんだよ」
さっきのことは春太の中で無かったことになったのだろうか。
いつもと変わらない様子に戻った春太にちょっとだけ残念がっている自分がいることにヤナギは気付いた。
「よし、じゃあ薬ちゃんと飲めたらヤナギにご褒美ね」
「は?ご褒美だ?」
「なんでもいいよ、大金持ちになりたいとか言われたら無理だけど、俺にできることなら」
春太は自分がとんでもない発言をしたことに気がついていないのだろうか。
だとしたら、迂闊にもほどがある。
「本当になんでもいいのか?」
春太はきょとんと首を傾げつつ「うん」と肯定する。
ヤナギは少しだけ考えて、春太の手にした盆から薬の入った小瓶を摘み上げた。
風邪用シロップを何倍にも濃縮したエグ味の塊のような液体を、ヤナギは意を決してひと息に飲み干す。
「お、ちゃんと飲めたね。えらいえらい」
ヤナギは茶化す春太を涙目になって睨みつけた。春太から水を受け取り、それもまた飲み干す。ほんの少しだけ復活を果たしたヤナギは春太の顔をじっと覗き込んだ。
「…約束は?」
春太はにっこりと笑みを浮かべたまま、もちろん、なんでもいいよと答えた。
「本当に、なんでもいいんだな?」
「うん。どうしたの?さっきからなんか変…」
春太の言葉を遮るように、ヤナギは春太の体を引き寄せ、そのままベッドに押し倒す。
ドサッと音を立ててベッドに倒れ込んだ春太は呆然としたままヤナギを見上げていた。
「ヤ…ナギ…?」
視線を交わすだけで体が奥から熱くなるような気がした。
指と指を絡めるように握る。
ヤナギは春太の呼吸を、体温を、その全てを忘れないように、自分の中に刻み込もうとした。
いつか来るさよならに備えて自分がそうしようとしていることを、なんとなく自覚していた。
そのまま、ヤナギはそっと顔を近付ける。
春太の顔が間近に見えた。
丸い瞳に自分の姿が映り込む。
(このままずっと、俺のことを映してくれてればいいのに)
そう思った時、春太の瞳が濡れているのに気が付いた。
泣いている、そう思った途端、ヤナギは咄嗟に絡めた指を解いていた。
身を起こし、春太に背を向ける。
「ヤナギ…?」
春太が声をかけても、ヤナギは背を向けたまま振り返ろうとしなかった。
いや、正確に言えば振り返ることができなかった。
「…なんでも言うこと聞くとか、そんなこと簡単に言ってんじゃねえよ」
春太は何かを言いかけて、そのまま言葉を飲み込む。
「…ごめん」
沈黙で満たされた部屋は窒息してしまいそうなほど苦しくて、ヤナギは立ち上がるとそのまま自室のドアノブに手をかけた。
「どこ行くの?」
「外の空気吸いに行く」
「体は?まだ熱だって…」
「心配なら、お前も来るか?」
卑怯だと思った。
今のこの状況でそれを聞くのは。
春太は案の定答えられずにまごついている。
ヤナギはその反応を視界の隅で確認し、扉を開けた。
全てを熱のせいに出来るほど、自分は理性を欠いちゃいない。
それどころか、落ち着いて物を考えられるほどには冷静だった。
「悪かった。忘れてくれ」
ヤナギはそのまま逃げるように扉を閉めた。春太をそこに閉じ込めようとするみたいに。
「俺、こんなにずるいやつだったんだ」
誰に言うでもなくそう呟いて、そっと笑った。
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