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王立宮殿の第一王子執務室は、かつてないほどの惨状を呈していました。
豪華なマホガニーのデスクは、天井に届かんばかりの書類の山に占拠され、足の踏み場もありません。
「……おい。これは、何の嫌がらせだ?」
ヴィルフリート王子は、目の前の「未処理」と書かれた札が乗った紙の束を指差し、引き攣った声を出しました。
彼の前では、数人の文官たちが真っ青な顔で立ち尽くしています。
「申し訳ございません、殿下! ですが、これは全て本日中に裁決をいただかねばならない、各領地からの急ぎの案件でして……」
「そんなことは分かっている! 私が聞いているのは、なぜこれほどまでに効率が悪いのかということだ! 以前は、私がここへ来る頃には、重要事項にだけ付箋が貼られ、完璧に整理されていたはずだろう!」
ヴィルフリートが怒鳴りつけると、最古参の文官が震えながら口を開きました。
「……それは、エレナ様が……」
「エレナ? またあの女の名か!」
「はい。以前はエレナ様が、朝の茶会の前にここへ立ち寄られ、全ての書類に目を通されておりました。複雑な関税計算も、領民の嘆願書の精査も、彼女が裏で完璧に処理されていたのです」
「なんだと……? 彼女は、ただ私の隣で茶を飲んでいただけではなかったのか?」
文官たちは顔を見合わせ、絶望的な沈黙を共有しました。
彼らにとってエレナは、王子の無能さを完璧にカバーする「影の宰相」のような存在だったのです。
「……エレナ様がいらっしゃった頃は、殿下が判を押すだけの状態まで、全てが整えられておりました。ですが、今は……」
「今は、何だ!」
「誰も、彼女のように複数の術式計算を同時にこなしつつ、正確に状況を判断できる者がおりません! おかげで、輸出入の許可が三週間も遅れております!」
ヴィルフリートは椅子に深く沈み込み、頭を抱えました。
彼が「傲慢で可愛げのない女」と蔑んでいたエレナは、実はこの国の心臓部を動かしていた張本人だったのです。
そこへ、扉が遠慮なく開き、甘い香水の匂いと共にメアリーが姿を現しました。
「ヴィル様ぁ! お忙しいのは分かりますけれど、今週末の舞踏会のドレス、まだ選べていないのですわ!」
メアリーは書類の山など目に入っていない様子で、ヴィルフリートの腕に絡みつきました。
「メアリー……今、私はそれどころではないんだ。見て分からないか、この状況を」
「ええっ、そんなの文官の方たちにやらせればいいじゃないですか。それよりも、お姉様が使っていたあの『ティアラ』、どこにあるかご存知? 私、あれが着けたいんですの」
ヴィルフリートは、初めてメアリーの言葉を「耳障りだ」と感じました。
「……あのティアラは、ロラン公爵家の家宝だ。追放の際に、エレナが持っていったはずだろう」
「えーっ、ケチですわね。罪人のくせに。……あ、そうだわ! お姉様がいなくなってから、お城のケーキが全然美味しくないんですのよ。ヴィル様から料理長に厳しく言ってくださらない?」
ヴィルフリートの脳裏に、かつてエレナが「最近、騎士団の食事が偏っているようですわ」と控えめに提案していた姿がよぎりました。
彼女が口を出すたびに、城内の運営は円滑になり、皆が満足していた。
それに引き換え、メアリーが口にすることと言えば、自分の贅沢か、誰かへの不満ばかりです。
「……メアリー。今は、下がっていなさい」
「ヴィル様……? なぜそんなに冷たいのですか? 私、悲しいですわっ」
メアリーがいつものように涙を浮かべましたが、ヴィルフリートはそれに応える余裕もありませんでした。
「(なぜだ……。エレナを追い出せば、全てが上手くいくはずだったのに……)」
窓の外を見れば、本来なら実りの秋を迎えるはずの畑が、原因不明の立ち枯れで茶色く染まっています。
王都の気温も、例年より明らかに低くなっていました。
「……ハンスはどうした。偵察に出した騎士ハンスからの報告は、まだないのか!」
「……ハンス卿からは、一言だけ報告書が届いております」
文官が差し出した一枚の紙には、殴り書きでこう記されていました。
『エレナ様は、かつてないほど幸せそうに笑っておられます。もう戻る気は一ミリもないようです。以上』
ヴィルフリートは、その報告書を握りつぶしました。
「……ふざけるな。私を置いて、自分だけ幸せになるなど……そんなことは許さんぞ、エレナ!」
王子の叫びは、虚しく山積みの書類の中に消えていくのでした。
豪華なマホガニーのデスクは、天井に届かんばかりの書類の山に占拠され、足の踏み場もありません。
「……おい。これは、何の嫌がらせだ?」
ヴィルフリート王子は、目の前の「未処理」と書かれた札が乗った紙の束を指差し、引き攣った声を出しました。
彼の前では、数人の文官たちが真っ青な顔で立ち尽くしています。
「申し訳ございません、殿下! ですが、これは全て本日中に裁決をいただかねばならない、各領地からの急ぎの案件でして……」
「そんなことは分かっている! 私が聞いているのは、なぜこれほどまでに効率が悪いのかということだ! 以前は、私がここへ来る頃には、重要事項にだけ付箋が貼られ、完璧に整理されていたはずだろう!」
ヴィルフリートが怒鳴りつけると、最古参の文官が震えながら口を開きました。
「……それは、エレナ様が……」
「エレナ? またあの女の名か!」
「はい。以前はエレナ様が、朝の茶会の前にここへ立ち寄られ、全ての書類に目を通されておりました。複雑な関税計算も、領民の嘆願書の精査も、彼女が裏で完璧に処理されていたのです」
「なんだと……? 彼女は、ただ私の隣で茶を飲んでいただけではなかったのか?」
文官たちは顔を見合わせ、絶望的な沈黙を共有しました。
彼らにとってエレナは、王子の無能さを完璧にカバーする「影の宰相」のような存在だったのです。
「……エレナ様がいらっしゃった頃は、殿下が判を押すだけの状態まで、全てが整えられておりました。ですが、今は……」
「今は、何だ!」
「誰も、彼女のように複数の術式計算を同時にこなしつつ、正確に状況を判断できる者がおりません! おかげで、輸出入の許可が三週間も遅れております!」
ヴィルフリートは椅子に深く沈み込み、頭を抱えました。
彼が「傲慢で可愛げのない女」と蔑んでいたエレナは、実はこの国の心臓部を動かしていた張本人だったのです。
そこへ、扉が遠慮なく開き、甘い香水の匂いと共にメアリーが姿を現しました。
「ヴィル様ぁ! お忙しいのは分かりますけれど、今週末の舞踏会のドレス、まだ選べていないのですわ!」
メアリーは書類の山など目に入っていない様子で、ヴィルフリートの腕に絡みつきました。
「メアリー……今、私はそれどころではないんだ。見て分からないか、この状況を」
「ええっ、そんなの文官の方たちにやらせればいいじゃないですか。それよりも、お姉様が使っていたあの『ティアラ』、どこにあるかご存知? 私、あれが着けたいんですの」
ヴィルフリートは、初めてメアリーの言葉を「耳障りだ」と感じました。
「……あのティアラは、ロラン公爵家の家宝だ。追放の際に、エレナが持っていったはずだろう」
「えーっ、ケチですわね。罪人のくせに。……あ、そうだわ! お姉様がいなくなってから、お城のケーキが全然美味しくないんですのよ。ヴィル様から料理長に厳しく言ってくださらない?」
ヴィルフリートの脳裏に、かつてエレナが「最近、騎士団の食事が偏っているようですわ」と控えめに提案していた姿がよぎりました。
彼女が口を出すたびに、城内の運営は円滑になり、皆が満足していた。
それに引き換え、メアリーが口にすることと言えば、自分の贅沢か、誰かへの不満ばかりです。
「……メアリー。今は、下がっていなさい」
「ヴィル様……? なぜそんなに冷たいのですか? 私、悲しいですわっ」
メアリーがいつものように涙を浮かべましたが、ヴィルフリートはそれに応える余裕もありませんでした。
「(なぜだ……。エレナを追い出せば、全てが上手くいくはずだったのに……)」
窓の外を見れば、本来なら実りの秋を迎えるはずの畑が、原因不明の立ち枯れで茶色く染まっています。
王都の気温も、例年より明らかに低くなっていました。
「……ハンスはどうした。偵察に出した騎士ハンスからの報告は、まだないのか!」
「……ハンス卿からは、一言だけ報告書が届いております」
文官が差し出した一枚の紙には、殴り書きでこう記されていました。
『エレナ様は、かつてないほど幸せそうに笑っておられます。もう戻る気は一ミリもないようです。以上』
ヴィルフリートは、その報告書を握りつぶしました。
「……ふざけるな。私を置いて、自分だけ幸せになるなど……そんなことは許さんぞ、エレナ!」
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