濡れ衣を被せられた悪役令嬢

愛野かこ

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昨夜の夢のようなダンスから一夜明け、北の地には珍しく、雲ひとつない快晴の朝が訪れました。


窓から差し込む陽光が、磨き上げたカウンターを白く照らしています。


私は少しだけ火照った頬を冷ましながら、開店前の静かな店内で、コーヒー豆を挽いていました。


「……昨夜のことは、思い出すだけで心臓に悪いですわね」


カイル様の大きな手。温かな体温。そして、あの独占欲の塊のような言葉。


王都では「政略の道具」としてしか見られていなかった私が、ここでは一人の女性として大切にされている。


その事実が、何よりも私の心を甘く、そして強く縛り付けていました。


「おはよう、エレナ。……顔が赤いぞ。風邪でも引いたか?」


低い声と共に、カイル様が裏口から入ってきました。


手には、獲れたてだという大きな川魚と、新鮮な冬野菜の籠を持っています。


「お、おはようございます、カイル様! いえ、風邪ではありませんわ。暖炉の火が少し強すぎただけです」


「そうか。……無理はするな。貴様に倒れられると、私の生活が立ち行かなくなる」


カイル様はそう言って、ぶっきらぼうに籠を置きました。


「……エレナ。王都から、また妙な報せが届いている」


カイル様がカウンターの端に座り、険しい顔で一枚の書状を取り出しました。


「殿下が……ヴィルフリート王子が、近々こちらへ視察に来るそうだ。名目は『辺境の防衛状況の確認』だが、真の目的は貴様だろう」


その名前を聞いても、以前のような嫌悪感や恐怖は湧き上がってきませんでした。


ただ、遠い昔に見た、出来の悪い芝居の配役を思い出したような、そんな奇妙な無関心さ。


「視察、ですか。ご苦労なことですわね。こんな寒い場所まで」


「……連れ戻しに来るつもりだろう。あちらの国政は今、泥沼だと聞く。貴様という優秀な『実務家』を失った穴を、誰も埋められなかったようだな」


カイル様は、私の反応を探るようにじっと見つめてきました。


「……エレナ。もし、殿下が非を認めて謝罪し、王妃の座を用意すると言ったら、貴様はどうする」


私は豆を挽く手を止め、ゆっくりとカイル様に向き直りました。


そして、これ以上ないほどに晴れやかな笑顔を浮かべました。


「カイル様。私はもう、公爵令嬢のエレナ・ロランではありませんわ」


「……何?」


「私は、このカフェ『ルミナス』の店主です。美味しいコーヒーを淹れ、お菓子を焼き、街の皆様の笑顔を見る。それが今の私の全てですの」


私は一歩、カイル様の方へ歩み寄りました。


「豪華なドレスも、冷たい王宮も、今の私には必要ありません。私が今、一番心地よく、私らしくいられる場所は……」


私は彼の大きな手に、自分の手をそっと重ねました。


「……カイル様の隣だけですわ。ですから、あの方が何を仰ろうと、私はどこへも行きません」


カイル様は目を見開き、一瞬だけ呼吸を止めたようでした。


やがて、彼は私の手をギュッと握り返し、少しだけ乱暴に視線を逸らしました。


「…………そうか。……ならいい」


「あら、安心してくださいました?」


「……当然だ。貴様がいないと、私は明日から何を食べていいか分からなくなる。……それだけの話だ」


耳まで真っ赤にして言い張るカイル様に、私は思わずクスクスと笑ってしまいました。


「はい。では、今日もとびきり美味しい朝食を作りますわね。あの方が来る前に、お腹をいっぱいにしておきましょうか」


王都での身分を捨て、自分の足で立つ決意。


それは、カイル様という大きな支えがあってこそ、確かなものになったのだと感じます。


どんな嵐が来ようとも、この温かなカフェの灯りだけは、私が守り抜いてみせますわ。
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