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真っ白なベールを脱ぎ捨て、煌びやかなドレスをエプロンに着替えてから数日。
カフェ「ルミナス」には、以前と変わらない、けれど少しだけ特別な朝が訪れていました。
「……カイル様。そこ、もう少し右に。そう、そのお花はそこに飾ってくださいな」
私が指示を出すと、この国最強の騎士であるはずの辺境伯様が、真剣な顔で小さな花瓶の位置を微調整しました。
「……こうか? 剣を振るより、この細かな作業の方が神経を使うな」
「ふふ、でもおかげで店内がパッと明るくなりましたわ。ありがとうございます、旦那様」
「旦那様」という響きに、カイル様の動きがピタリと止まりました。
彼は耳まで真っ赤に染め、咳払いを一つ。
「…………その呼び方は、まだ慣れん。心臓に悪い」
「あら、結婚したのですから当然ではありませんか。それとも、嫌でした?」
私がわざと悲しそうな顔をして覗き込むと、カイル様は慌てて私の肩を抱き寄せました。
「……嫌なわけがあるか。ただ、貴様にそう呼ばれるたびに、自分が世界で一番の幸運者だと自覚させられて……落ち着かないのだ」
カイル様は私の額に、羽が触れるような優しい口づけを落としました。
そんな甘い空気を切り裂くように、店の扉が勢いよく開きました。
「おはよーございまーす! お嬢様……あ、今は奥様ですね! 朝一番のコーヒーをください!」
元気よく入ってきたのは、ハンスさん率いる騎士団の面々でした。
「こら、ハンス。開店早々騒がしいぞ。それと、彼女をあまり奥様と呼ぶな。私が照れる」
「閣下、それは無理な相談です! こんなに幸せそうな二人を見せつけられて、黙っていられるわけがないでしょう!」
騎士たちは笑いながら、いつもの席に陣取りました。
「奥様、今日は新作があるって本当ですか?」
「ええ、もちろんですわ。王都から届いた極上のハチミツを使った『ハニーナッツのパンケーキ』よ」
私がキッチンに立ち、手際よくフライパンを熱すると、甘く香ばしい香りが店内に広がります。
カイル様は私の隣で、慣れない手つきながらもコーヒー豆を挽くのを手伝ってくれました。
「……エレナ。貴様は、本当に後悔していないのか。公爵令嬢としての生活も、王都の華やかさも、すべて捨ててしまったというのに」
カイル様がふと、真面目な声で尋ねてきました。
私はパンケーキをひっくり返しながら、迷いなく答えました。
「後悔? まさか。あんな窮屈な場所に戻るくらいなら、ここで一生、カイル様のためにパンケーキを焼いている方が、数千倍も幸せですわ」
「……そうか」
「それに、見てください。この景色を」
窓の外には、厳しい寒さを乗り越えようとする力強い街の人々の姿がありました。
彼らは店を通るたびに笑顔で手を振り、私の淹れたコーヒーで一日を始めます。
「私は今、誰かの引き立て役でも、政略の道具でもありません。自分の足で立ち、自分の手で誰かを笑顔にしている。……これ以上の贅沢があるかしら?」
私が焼き上がったパンケーキを皿に盛り、たっぷりのハチミツをかけると、カイル様は満足げに目を細めました。
「……貴様がそう言うなら、私も全力でこの日常を守り抜こう。例えどんな嵐が来ようともな」
「ええ、期待していますわ。私の最強の護衛騎士様」
二人の視線が重なり、甘いパンケーキの香りがそれを祝福するように包み込みます。
濡れ衣を被り、悪役として追い出された日から始まったこの物語。
けれど、辿り着いた先は、どんなお伽話よりも温かな「日常」という名の奇跡でした。
カフェ「ルミナス」には、以前と変わらない、けれど少しだけ特別な朝が訪れていました。
「……カイル様。そこ、もう少し右に。そう、そのお花はそこに飾ってくださいな」
私が指示を出すと、この国最強の騎士であるはずの辺境伯様が、真剣な顔で小さな花瓶の位置を微調整しました。
「……こうか? 剣を振るより、この細かな作業の方が神経を使うな」
「ふふ、でもおかげで店内がパッと明るくなりましたわ。ありがとうございます、旦那様」
「旦那様」という響きに、カイル様の動きがピタリと止まりました。
彼は耳まで真っ赤に染め、咳払いを一つ。
「…………その呼び方は、まだ慣れん。心臓に悪い」
「あら、結婚したのですから当然ではありませんか。それとも、嫌でした?」
私がわざと悲しそうな顔をして覗き込むと、カイル様は慌てて私の肩を抱き寄せました。
「……嫌なわけがあるか。ただ、貴様にそう呼ばれるたびに、自分が世界で一番の幸運者だと自覚させられて……落ち着かないのだ」
カイル様は私の額に、羽が触れるような優しい口づけを落としました。
そんな甘い空気を切り裂くように、店の扉が勢いよく開きました。
「おはよーございまーす! お嬢様……あ、今は奥様ですね! 朝一番のコーヒーをください!」
元気よく入ってきたのは、ハンスさん率いる騎士団の面々でした。
「こら、ハンス。開店早々騒がしいぞ。それと、彼女をあまり奥様と呼ぶな。私が照れる」
「閣下、それは無理な相談です! こんなに幸せそうな二人を見せつけられて、黙っていられるわけがないでしょう!」
騎士たちは笑いながら、いつもの席に陣取りました。
「奥様、今日は新作があるって本当ですか?」
「ええ、もちろんですわ。王都から届いた極上のハチミツを使った『ハニーナッツのパンケーキ』よ」
私がキッチンに立ち、手際よくフライパンを熱すると、甘く香ばしい香りが店内に広がります。
カイル様は私の隣で、慣れない手つきながらもコーヒー豆を挽くのを手伝ってくれました。
「……エレナ。貴様は、本当に後悔していないのか。公爵令嬢としての生活も、王都の華やかさも、すべて捨ててしまったというのに」
カイル様がふと、真面目な声で尋ねてきました。
私はパンケーキをひっくり返しながら、迷いなく答えました。
「後悔? まさか。あんな窮屈な場所に戻るくらいなら、ここで一生、カイル様のためにパンケーキを焼いている方が、数千倍も幸せですわ」
「……そうか」
「それに、見てください。この景色を」
窓の外には、厳しい寒さを乗り越えようとする力強い街の人々の姿がありました。
彼らは店を通るたびに笑顔で手を振り、私の淹れたコーヒーで一日を始めます。
「私は今、誰かの引き立て役でも、政略の道具でもありません。自分の足で立ち、自分の手で誰かを笑顔にしている。……これ以上の贅沢があるかしら?」
私が焼き上がったパンケーキを皿に盛り、たっぷりのハチミツをかけると、カイル様は満足げに目を細めました。
「……貴様がそう言うなら、私も全力でこの日常を守り抜こう。例えどんな嵐が来ようともな」
「ええ、期待していますわ。私の最強の護衛騎士様」
二人の視線が重なり、甘いパンケーキの香りがそれを祝福するように包み込みます。
濡れ衣を被り、悪役として追い出された日から始まったこの物語。
けれど、辿り着いた先は、どんなお伽話よりも温かな「日常」という名の奇跡でした。
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