30 / 30
30
戴冠から数年。
ヴァルディア帝国は、アリミヤが主導した大規模な経済改革と教育支援により、大陸一の超大国として黄金時代を謳歌していた。
「……これで、今年度の北方開発の予算案は承認ですわ。フェリクス、後の実行管理は貴方に任せます」
「はっ。皇后陛下、完璧な采配でございます」
すっかり帝国の重鎮となったフェリクスが、深い敬意を込めて一礼し、執務室を去る。
アリミヤは羽ペンを置くと、バルコニーから差し込む暖かな午後の光に目を細めた。
そこへ、幼い子供の足音と、それを追う力強い足音が響いてくる。
「お母様! 見てください、上手に計算できました!」
「待て、レオ。アリミヤを驚かせるのは俺の役目だぞ」
レオンハルトに抱き上げられた、彼によく似た銀髪の少年が、小さな羊皮紙を差し出した。
アリミヤはそれを受け取り、一瞥すると、優雅に微笑んだ。
「あら。繰り上がりの計算に一箇所のミスもありませんわね。……ふふ、お気の毒様に。貴方はお父様に似ず、私の知性を引き継いでしまったようですわね?」
「なんだと? 俺だって最近は君の教育のおかげで、帳簿のミスを見抜けるようになったんだぞ」
レオンハルトが可笑しそうに笑い、アリミヤの額に口づけを落とす。
家族の笑い声が、平和な午後の執務室を満たしていた。
一方、その遥か北方。
かつてアストレア王国と呼ばれた地の、さらに外れにある寒村。
「……お、お姉様……。助けて、お姉様……」
修道院の片隅、光の届かない独房で、一人の女が虚空に向かって手を伸ばしていた。
かつての可憐な面影を完全に失い、白髪の混じった老婆のような姿になったエレーナだ。
彼女の記憶は、自分が最も輝いていたと信じている「捏造された過去」の中で止まっている。
そして、その村の道端。
泥にまみれた行き倒れの男が、雪に埋もれながら、震える手で道行く人の裾を掴もうとしていた。
「……私は……王子だ……。アリミヤの、婚約者だった……。金を……パンをくれ……」
「何だい、この汚い物乞いは。あっちへ行け!」
男は無慈悲に蹴り飛ばされ、氷のような泥の中に顔を埋めた。
ジュリアン・フォン・アストレア。
かつて自分を救うはずだった「鉄の令嬢」の価値を、誰よりも理解できずに踏みにじった男。
彼は今、その彼女が作った「効率的で無駄のない世界」において、最も不要な『数字のゴミ』として、誰に看取られることもなくその命を終えようとしていた。
(……ああ、アリミヤ……。君の言う通りだ……。本当にお気の毒なのは……私、だったんだ……)
彼の意識が消えゆく間際、脳裏に浮かんだのは、かつての卒業パーティーでのアリミヤの、あの慈悲深くも冷徹な微笑だった。
帝国皇宮。
夕闇が街を黄金色に染め上げる中、アリミヤはレオンハルトの腕の中で、極上の紅茶を啜っていた。
「……ねえ、レオンハルト様。ふと、古い計算違いを思い出しましたわ」
「ほう、珍しいな。君がミスをするなんて」
「ええ。……私、あの方たちを『復讐の対象』だと思っていた時期がありましたの。でも、それは間違いでした」
アリミヤは、遠く北方の空を見つめ、静かに、そして美しく微笑んだ。
「あの方たちは、私の人生において、一ペニーの価値もない『端数』に過ぎませんでしたわ。……切り捨てて正解でしたわね」
「……くくっ。全くだ。おかげで俺の人生は、君という名の莫大な黒字で埋め尽くされているよ」
レオンハルトは、最愛の妻を強く抱きしめた。
過去の残滓は、もうどこにも存在しない。
圧倒的な知性と、それ以上に深い愛に守られた「女神」の微笑みが、今宵も帝国を優雅に照らし続けていた。
「お気の毒様に? ……私は今、世界で一番幸せですわ」
――完――
ヴァルディア帝国は、アリミヤが主導した大規模な経済改革と教育支援により、大陸一の超大国として黄金時代を謳歌していた。
「……これで、今年度の北方開発の予算案は承認ですわ。フェリクス、後の実行管理は貴方に任せます」
「はっ。皇后陛下、完璧な采配でございます」
すっかり帝国の重鎮となったフェリクスが、深い敬意を込めて一礼し、執務室を去る。
アリミヤは羽ペンを置くと、バルコニーから差し込む暖かな午後の光に目を細めた。
そこへ、幼い子供の足音と、それを追う力強い足音が響いてくる。
「お母様! 見てください、上手に計算できました!」
「待て、レオ。アリミヤを驚かせるのは俺の役目だぞ」
レオンハルトに抱き上げられた、彼によく似た銀髪の少年が、小さな羊皮紙を差し出した。
アリミヤはそれを受け取り、一瞥すると、優雅に微笑んだ。
「あら。繰り上がりの計算に一箇所のミスもありませんわね。……ふふ、お気の毒様に。貴方はお父様に似ず、私の知性を引き継いでしまったようですわね?」
「なんだと? 俺だって最近は君の教育のおかげで、帳簿のミスを見抜けるようになったんだぞ」
レオンハルトが可笑しそうに笑い、アリミヤの額に口づけを落とす。
家族の笑い声が、平和な午後の執務室を満たしていた。
一方、その遥か北方。
かつてアストレア王国と呼ばれた地の、さらに外れにある寒村。
「……お、お姉様……。助けて、お姉様……」
修道院の片隅、光の届かない独房で、一人の女が虚空に向かって手を伸ばしていた。
かつての可憐な面影を完全に失い、白髪の混じった老婆のような姿になったエレーナだ。
彼女の記憶は、自分が最も輝いていたと信じている「捏造された過去」の中で止まっている。
そして、その村の道端。
泥にまみれた行き倒れの男が、雪に埋もれながら、震える手で道行く人の裾を掴もうとしていた。
「……私は……王子だ……。アリミヤの、婚約者だった……。金を……パンをくれ……」
「何だい、この汚い物乞いは。あっちへ行け!」
男は無慈悲に蹴り飛ばされ、氷のような泥の中に顔を埋めた。
ジュリアン・フォン・アストレア。
かつて自分を救うはずだった「鉄の令嬢」の価値を、誰よりも理解できずに踏みにじった男。
彼は今、その彼女が作った「効率的で無駄のない世界」において、最も不要な『数字のゴミ』として、誰に看取られることもなくその命を終えようとしていた。
(……ああ、アリミヤ……。君の言う通りだ……。本当にお気の毒なのは……私、だったんだ……)
彼の意識が消えゆく間際、脳裏に浮かんだのは、かつての卒業パーティーでのアリミヤの、あの慈悲深くも冷徹な微笑だった。
帝国皇宮。
夕闇が街を黄金色に染め上げる中、アリミヤはレオンハルトの腕の中で、極上の紅茶を啜っていた。
「……ねえ、レオンハルト様。ふと、古い計算違いを思い出しましたわ」
「ほう、珍しいな。君がミスをするなんて」
「ええ。……私、あの方たちを『復讐の対象』だと思っていた時期がありましたの。でも、それは間違いでした」
アリミヤは、遠く北方の空を見つめ、静かに、そして美しく微笑んだ。
「あの方たちは、私の人生において、一ペニーの価値もない『端数』に過ぎませんでしたわ。……切り捨てて正解でしたわね」
「……くくっ。全くだ。おかげで俺の人生は、君という名の莫大な黒字で埋め尽くされているよ」
レオンハルトは、最愛の妻を強く抱きしめた。
過去の残滓は、もうどこにも存在しない。
圧倒的な知性と、それ以上に深い愛に守られた「女神」の微笑みが、今宵も帝国を優雅に照らし続けていた。
「お気の毒様に? ……私は今、世界で一番幸せですわ」
――完――
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
「やはり鍛えることは、大切だな」
イチイ アキラ
恋愛
「こんなブスと結婚なんていやだ!」
その日、一つのお見合いがあった。
ヤロール伯爵家の三男、ライアンと。
クラレンス辺境伯家の跡取り娘、リューゼットの。
そして互いに挨拶を交わすその場にて。
ライアンが開幕早々、ぶちかましたのであった。
けれども……――。
「そうか。私も貴様のような生っ白くてか弱そうな、女みたいな顔の屑はごめんだ。気が合うな」
上手に騙してくださらなかった伯爵様へ
しきど
恋愛
アイルザート・ルテシオ伯爵は十七歳で家督を継いだ方だ。
文武両道、容姿端麗、人柄も良く領民の誰からも愛される方だった。そんな若き英雄の婚約者に選ばれたメリッサ・オードバーン子爵令嬢は、自身を果報者と信じて疑っていなかった。
彼が屋敷のメイドと関係を持っていると知る事になる、その時までは。
貴族に愛人がいる事など珍しくもない。そんな事は分かっているつもりだった。分かっていてそれでも、許せなかった。
メリッサにとってアイルザートは、本心から愛した人だったから。
悪女と呼ばれた王妃
アズやっこ
恋愛
私はこの国の王妃だった。悪女と呼ばれ処刑される。
処刑台へ向かうと先に処刑された私の幼馴染み、私の護衛騎士、私の従者達、胴体と頭が離れた状態で捨て置かれている。
まるで屑物のように足で蹴られぞんざいな扱いをされている。
私一人処刑すれば済む話なのに。
それでも仕方がないわね。私は心がない悪女、今までの行いの結果よね。
目の前には私の夫、この国の国王陛下が座っている。
私はただ、
貴方を愛して、貴方を護りたかっただけだったの。
貴方のこの国を、貴方の地位を、貴方の政務を…、
ただ護りたかっただけ…。
だから私は泣かない。悪女らしく最後は笑ってこの世を去るわ。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ ゆるい設定です。
❈ 処刑エンドなのでバットエンドです。
帰国した王子の受難
ユウキ
恋愛
庶子である第二王子は、立場や情勢やら諸々を鑑みて早々に隣国へと無期限遊学に出た。そうして年月が経ち、そろそろ兄(第一王子)が立太子する頃かと、感慨深く想っていた頃に突然届いた帰還命令。
取り急ぎ舞い戻った祖国で見たのは、修羅場であった。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)