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28話 ← こっち?

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 Side:田原小鳩

 最近、メッセージアプリを利用することが増えた。
 それまでは両親と、学生時代の数少ない友だちと交換したきりだったのに、今では数日おきに奔馬ほんばさんが連絡をしてくるのだ。
 何をそんなに焦っているんだろう。次の、三ヶ月後の新人賞募集は長編賞だから、短編賞は六ヶ月後だ。
 まあ、僕としても、早く書けるようになりたいから良いんだけど、ちょっと勘違いしそうな気もする。
 いわゆるリハビリに協力してもらっている段階なのだ。熱心な介助士さんに当たったなあ、くらいに思っておけばいいんだ。熱心だけど、ちょっと強引にリハビリを進めようとする人。その気持ちだけありがたく受け取らないと。勘違いだけはダメだ。

 そんなことを考えるのは、ちょうど奔馬さんから連絡がくる頃合いだからだ。前回に連絡があったのは一昨日の夜九時。多少の前後はあるが、毎回時間は九時前後だ。
 前回から少しでも進んでいる様子を見せないといけない。これはプレッシャーでもあるが、ストレスにはならない。ただ困るのは、本文になかなか入れないところで、つまりまだそこまで僕が回復していないということだ。
 いざ書こうとしても、真っ白なPCの画面を前に、僕の指は動かなくなってしまう。
 それまでノートに書き出してきたアイデアは、随分とたまってきている。奔馬さんのアドバイスを聞きつつ、細かい設定や、登場人物、世界観、起こるイベント、そんなものでいっぱいだ。
 あとはここから、一番書きたい部分を掬い上げて、文字に起こしていくだけのはずだ。でもその「だけ」が出来ない。イップス状態に陥ってしまう。

 設定でいっぱいのノートのページを開いてみて、その書込みぶりが逆に書けない言い訳みたいな気がしてくる。
 ぽたり、とノートに雫がたれて、手の側面で拭う。
 それから頭に乗せてあるタオルで適当に髪の水分を取る。今日は帰宅が遅くなったので、焦ってシャワーを浴びたわけで、それは奔馬さんからの連絡を待ちのぞんでしまっているからだ。

「アホらし、ビール飲むか」

 自分の状態が、言い訳しようのない愚かな男という気がして、思わず独り言を呟いた。
 ローテーブルに置いた缶ビールのプルトップに指をかけたところで、スマホが着信を告げる。メッセージアプリの通話画面が表示されていた。
 慌てて腰を下ろし、受話器のアイコンをタップする。その際に表示された名前『奔馬ほんば鹿ノ子』に少し浮かれる自分を自覚して、苦々しい思いになる。

 それからのことは、思い出したくない。
 まず僕たちは、いつものとおり、今考えている秘密の怪盗養成女学園の話で盛り上がった。
 
聖歌せいかちゃんのアイテムについて考えてたんですよ。通信機とか、そういうのを可愛いものにして身につけさせられないかなって。あとはワイヤーロープが仕込まれたなにかとか。あくまでおしゃれで、憧れる美少女怪盗らしいものですよ?」

 奔馬さんがまず口火を切る。相変わらずの早口だ。
 
「メッセージでも頂いていた案ですよね。ロープはまだ考え中ですけど、イヤリング型の通信機器とかどうでしょう」

「うわあ! いいですねいいですね! ごく普通ぅ~の女の子の聖歌ちゃんが、ちょっと大人っぽく変身しちゃうわけですよね! 王道! って、わあ!」

 ガタン! という音がして、それからゴソゴソという雑音が入る。
 多分飲み物かなにかをこぼしたんだろう。興奮してくると手振りが大きくなるのか、通話中に物をこぼさなかったことがない。
 聞こえてくる雑音から、必死で片付ける彼女の様子を想像して思わず声を殺して笑う。

 話はころころと転がっていく。寄宿舎の不思議な伝統、変わったルームメイト、入寮試験、友だちが出来て、試験があって、それから、女学園の隣の敷地の、神学校の男子校の生徒であるヒーローとの出会いがある。
 ヒロインとヒーローはいい雰囲気になるが、一方でヒーローは怪盗養成学園に違和感を覚えて秘密を探ろうとする。二人が接近することに対する、周りの反対と応援。
 そして卒業試験で彼女がひいたクジには、歴代で一番難しいとされる課題が書かれていて……。
 というところまで、話が盛り上がったときだ。

「あー、早くことり先生の筆で読みたいです。執筆の方はいつから始めますか? 締切から逆算すると、そろそろ初稿に入ったほうが良いかなと思うんですが」

 そう、彼女が言った。超高速の早口で。
 
「え? 半年後ですよね」

「三ヶ月無いですよ?」

 そこで一瞬、お互いに無言になった。
 てんてんてん、という擬音が脳に響いた。
 
「出すの、長編の賞ですよね?」

 彼女が言って、それからはもう言い合いだ。
 確かに設定も登場人物もイベントも、結構なボリュームになっている。長編向けだという彼女の弁も分かる。
 しかし違うのだ。僕は、長編を書くつもりは毛頭なかった。
 出来上がった長いストーリーの中から、書けそう、かつ、書きたい場面を書くのが僕の書き方だ。その書き方を、よりによってスランプの最中に変えるつもりはない。

「あくまでも僕にとってでしかない」

 そう言葉にした瞬間、すぅ、と彼女の声の温度が下がるのが分かった。
 なにか重大な誤解が生まれている、と感じたが、それを解く前に通話は切られた。

「クソッ!」

 思わずスマホを投げ出して、ビール缶のプルトップを勢いよく開けた。先程開けかけて、放置されていたそれだ。
 ぬるくなったビールを一口流し込んでから、スマホを広いに膝で歩く。物に当たるなんて、子供のころ以来で、ひどく恥ずかしい。

「どうしろって言うんだよ」

 呟いて、またビールに口をつける。

「電話、鬼門なのか?」

 そうも呟いた。ヤケクソで、大の字に寝転がる。狭い部屋で、伸ばした脚がテレビ台に当たって音を立てた。
 
 やるからにはちゃんと書きたい。書きたいとは思っている。
 でも自信がない。
 それだけなのに。
 
 体を横向きにすると、初めて突撃された日に渡されたメモを貼った壁が目に入った。

 ◯ ポポン ← こっち
 ✕ リリン
 
 きっと彼女は、まだ「← こっち」を気にしている。
 僕がどっちに行けばいいのかは、分からなくなっている。現状まだ、イップス状態でなにも書けないのだから。
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