6 / 14
5話 鮭が還る川をつくる、その一歩
しおりを挟む
潮見の翁の小屋の縁側で、ヘイジは風に吹かれながら地図を広げていた。
サール川上流から河口まで、いくつもの支流と旧水路の線が、古地図のように刻まれている。
「……戻すには、時間がかかる」
翁は、湯飲みを手にしながら静かに言った。
「だが、まず“川を記憶させる”必要がある。稚魚を、ここで生ませ、育てるんだ。
川の匂い、水の成分、土の味……それを身にしみこませた稚魚なら、やがてこの川に戻ってくる」
「養殖か」
「そうだ。ただし、ただの箱に閉じ込めて育てるんじゃ意味がねぇ。
できる限り、自然に近い流れを作ってやることだ。浅瀬、石、せせらぎ……奴らは“流れ”の記憶で川を覚える」
ヘイジは静かにうなずいた。
「――やってみせます」
* * *
その日から、ヘイジは動き出した。
まず呼び寄せたのは、河川工事を共に成し遂げてきた、かつての仲間たちだった。
無骨な土木職人、測量士、役所の古い記録文書を整理する書記官、整備士、さらには元猟師だった男まで。
「また変なこと始めるんですかい、旦那」と笑ったのは、用水路担当だったイオ。
「面白そうだ。鮭が戻れば、漁も観光も変わるぜ」と声を上げたのは、石工のリーダーだったガイル。
かつての信頼と絆が、再び結集していく。
* * *
急ピッチで養殖場を整備し、少ないながらも稚魚の生育を開始した
雪解け水が川の音を高くし、緩やかに澱んだ冬の気配を洗い流していく時期。
サール川の河口近く、海と川の境界線にあたるその一帯は、かつて鮭の大群で水面が泡立つような光景が見られたという。
「昔はな、あそこいら一面が銀色になったもんよ」
海を指差しながら、老漁師が笑った。
「海の栄養をたんまり溜めた鮭がな、群れになって戻ってくる。熊が川っぺりで待っててな、オオワシが空から舞い降りてきて……まるで戦いくさだ」
かつての光景を思い浮かべながら、ヘイジたちは準備を進めた。
稚魚を育てる池は、単なる人工の箱ではない。できる限り自然に近い形を目指した。
石を敷き、流れを分岐させ、水温を一定に保つための伏流水も引き込む。
一部には浅瀬を設け、川底には藻を植え、川虫がすみつくよう細工した。
「この川を思い出せるように。育った流れを、体に刻ませるために」
潮見の翁の助言は、まるで儀式のように皆の手を動かした。
* * *
だが、ヘイジにはもう一つの目的があった。
それは、“川に命を戻すこと”だった。
かつて、鮭が遡上していたころ、この地域の生態系は今とは比べものにならないほど豊かだった。
産卵を終えた鮭、それが川の命を支えていたのだ。
「腐るなんてとんでもない。あれが土になる。山に、川に、命を返すんだ」
翁がそう語った言葉が、ヘイジの胸に残っていた。
熊やオオワシが命を奪い、キツネやカラスが食い散らかし、残った身は虫や微生物の糧となる。
それが土へと帰り、山を潤し、川虫を育て、小魚を育て、やがてそれが――また鮭を育てる。
「……この川は、鮭だけじゃない。全部で成り立ってるんだ」
稚魚を育てる養殖池の整備が進む一方で、ヘイジは川そのものの環境改善にも目を向け始めていた。
「この川は、“水を流すための溝”じゃない。命が帰ってくる場所なんだ」
かつて治水事業の一環で行われた直線的な新水路の建設は、確かに洪水の危険を大きく減らした。
大雨のたびに氾濫していた川は穏やかになり、周辺には農地が広がり、住宅も建ち、人々の暮らしは安定した。
それは、ヘイジ自身も携わった治水事業の成果だった。
だが、その整備の陰で、川から命の気配が少しずつ消えていった。
川がまっすぐにされ、岸が石塊で固められ、深く速い流れだけが残った水路。
そこに、鮭の産卵に適した“変化”はほとんど残されていなかった。
「自然の川は、ただの曲がりくねった道じゃないんだな……」
翁がある日そう言った。
水の緩やかな“よどみ”、日陰をつくる倒木、魚が身をひそめる小さな石の陰。
流れがぶつかって渦巻く場所、水深の浅い瀬、深く掘られた淵、枝分かれする流れ――
それら全てが、命の居場所になっていた。
* * *
ヘイジは、旧来の水路を使いながらも、川の“多様性”を取り戻す工事に乗り出す決意をする。
激しい流れの一部を分水し、旧河川の蛇行部を復元。浅瀬を復元し、岸辺には湿地帯の再生を図った。
流速を弱めるために、岩を組み合わせて流れを“くねらせ”、その合間には中洲を設け、鳥や小動物の休憩地にもなるように設計した。
「ここの石はあえて崩れやすいようにしとけ。稚魚が身を隠せる場所になる」
かつて土木現場で培った知識を応用し、人工と自然の調和を図る作業だった。
石塊で直流にするだけでなく、自然素材と構造力学を組み合わせ、“安全かつ自然に近い”川づくりを目指した。
* * *
さらに、流域全体を見直すため、上流域では森林と湿地の保全にも着手する。
山が水を蓄え、少しずつ川へ流す働きがある以上、森林の健康が川の命に直結するからだ。
地元の林業者や、研究者とも連携を取り始めたヘイジにとって、もう土木だけでは語れない領域だった。
「俺たちは、川に道をつけ直すんじゃない。命に帰る道をつくってるんだ」
そう言った時、誰も笑わなかった。
むしろ、静かにうなずく者がいた。
* * *
自然と安全。
矛盾するようでいて、実はどちらも人の暮らしにとって必要なものである。
その両立を模索しながら、ヘイジたちは、鮭の命が帰れる川を、地道に、確かに作り直し始めていた。
サール川上流から河口まで、いくつもの支流と旧水路の線が、古地図のように刻まれている。
「……戻すには、時間がかかる」
翁は、湯飲みを手にしながら静かに言った。
「だが、まず“川を記憶させる”必要がある。稚魚を、ここで生ませ、育てるんだ。
川の匂い、水の成分、土の味……それを身にしみこませた稚魚なら、やがてこの川に戻ってくる」
「養殖か」
「そうだ。ただし、ただの箱に閉じ込めて育てるんじゃ意味がねぇ。
できる限り、自然に近い流れを作ってやることだ。浅瀬、石、せせらぎ……奴らは“流れ”の記憶で川を覚える」
ヘイジは静かにうなずいた。
「――やってみせます」
* * *
その日から、ヘイジは動き出した。
まず呼び寄せたのは、河川工事を共に成し遂げてきた、かつての仲間たちだった。
無骨な土木職人、測量士、役所の古い記録文書を整理する書記官、整備士、さらには元猟師だった男まで。
「また変なこと始めるんですかい、旦那」と笑ったのは、用水路担当だったイオ。
「面白そうだ。鮭が戻れば、漁も観光も変わるぜ」と声を上げたのは、石工のリーダーだったガイル。
かつての信頼と絆が、再び結集していく。
* * *
急ピッチで養殖場を整備し、少ないながらも稚魚の生育を開始した
雪解け水が川の音を高くし、緩やかに澱んだ冬の気配を洗い流していく時期。
サール川の河口近く、海と川の境界線にあたるその一帯は、かつて鮭の大群で水面が泡立つような光景が見られたという。
「昔はな、あそこいら一面が銀色になったもんよ」
海を指差しながら、老漁師が笑った。
「海の栄養をたんまり溜めた鮭がな、群れになって戻ってくる。熊が川っぺりで待っててな、オオワシが空から舞い降りてきて……まるで戦いくさだ」
かつての光景を思い浮かべながら、ヘイジたちは準備を進めた。
稚魚を育てる池は、単なる人工の箱ではない。できる限り自然に近い形を目指した。
石を敷き、流れを分岐させ、水温を一定に保つための伏流水も引き込む。
一部には浅瀬を設け、川底には藻を植え、川虫がすみつくよう細工した。
「この川を思い出せるように。育った流れを、体に刻ませるために」
潮見の翁の助言は、まるで儀式のように皆の手を動かした。
* * *
だが、ヘイジにはもう一つの目的があった。
それは、“川に命を戻すこと”だった。
かつて、鮭が遡上していたころ、この地域の生態系は今とは比べものにならないほど豊かだった。
産卵を終えた鮭、それが川の命を支えていたのだ。
「腐るなんてとんでもない。あれが土になる。山に、川に、命を返すんだ」
翁がそう語った言葉が、ヘイジの胸に残っていた。
熊やオオワシが命を奪い、キツネやカラスが食い散らかし、残った身は虫や微生物の糧となる。
それが土へと帰り、山を潤し、川虫を育て、小魚を育て、やがてそれが――また鮭を育てる。
「……この川は、鮭だけじゃない。全部で成り立ってるんだ」
稚魚を育てる養殖池の整備が進む一方で、ヘイジは川そのものの環境改善にも目を向け始めていた。
「この川は、“水を流すための溝”じゃない。命が帰ってくる場所なんだ」
かつて治水事業の一環で行われた直線的な新水路の建設は、確かに洪水の危険を大きく減らした。
大雨のたびに氾濫していた川は穏やかになり、周辺には農地が広がり、住宅も建ち、人々の暮らしは安定した。
それは、ヘイジ自身も携わった治水事業の成果だった。
だが、その整備の陰で、川から命の気配が少しずつ消えていった。
川がまっすぐにされ、岸が石塊で固められ、深く速い流れだけが残った水路。
そこに、鮭の産卵に適した“変化”はほとんど残されていなかった。
「自然の川は、ただの曲がりくねった道じゃないんだな……」
翁がある日そう言った。
水の緩やかな“よどみ”、日陰をつくる倒木、魚が身をひそめる小さな石の陰。
流れがぶつかって渦巻く場所、水深の浅い瀬、深く掘られた淵、枝分かれする流れ――
それら全てが、命の居場所になっていた。
* * *
ヘイジは、旧来の水路を使いながらも、川の“多様性”を取り戻す工事に乗り出す決意をする。
激しい流れの一部を分水し、旧河川の蛇行部を復元。浅瀬を復元し、岸辺には湿地帯の再生を図った。
流速を弱めるために、岩を組み合わせて流れを“くねらせ”、その合間には中洲を設け、鳥や小動物の休憩地にもなるように設計した。
「ここの石はあえて崩れやすいようにしとけ。稚魚が身を隠せる場所になる」
かつて土木現場で培った知識を応用し、人工と自然の調和を図る作業だった。
石塊で直流にするだけでなく、自然素材と構造力学を組み合わせ、“安全かつ自然に近い”川づくりを目指した。
* * *
さらに、流域全体を見直すため、上流域では森林と湿地の保全にも着手する。
山が水を蓄え、少しずつ川へ流す働きがある以上、森林の健康が川の命に直結するからだ。
地元の林業者や、研究者とも連携を取り始めたヘイジにとって、もう土木だけでは語れない領域だった。
「俺たちは、川に道をつけ直すんじゃない。命に帰る道をつくってるんだ」
そう言った時、誰も笑わなかった。
むしろ、静かにうなずく者がいた。
* * *
自然と安全。
矛盾するようでいて、実はどちらも人の暮らしにとって必要なものである。
その両立を模索しながら、ヘイジたちは、鮭の命が帰れる川を、地道に、確かに作り直し始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる