番じゃない僕らの恋~俺の唯一だった君~

伊織

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第1章

4 誰にも渡せない

 帰り道、陽の足が止まった。
 次の瞬間、喉の奥から苦しげな声が漏れる。


「はっ……ごめ……ちょっと……」

 そのまま、道端にへたり込んだ陽は、肩で息をするように荒く呼吸している。
 カバンを開けて何かを取り出す陽。その手には、一枚の紙が握られていた。
 渡してきたのは、「Ω避難施設」の案内だった。

「これ……ごめ、ここに連絡して……頼む…っ」

 震える指で差された番号の横には、“バース発現時の緊急対応窓口”とあった。

 陽の手が震えている。
 ……まさか、本当に、ヒートが。


 ヒート中のオメガを保護する――その名目で、登録されたアルファが「対処」する場所。
 それが何を意味するのか、俺は知ってる。

 陽が、知らない誰かに体を預ける──そんな光景が頭に浮かんで、吐き気がした。
 他の誰かが陽に触れるのを想像しただけで、虫唾が走る。

「陽! 抑制剤は持ってる?」

「…持って、ない」

 持ってないのか、どうする?
 この状態で薬局に連れて行くわけにもいかないし、施設に行かせたくもない。
 そのとき、ヒート中のオメガを受け入れてくれるホテルのことを思い出した。

「陽、ごめん」
 俺は紙を受け取らず、スマホを取り出してタクシーを呼ぶ。
 待つ間、自分用に持っていた緊急時の抑制剤を飲み込んだ。

 行き先は、政府認可のヒート対応ホテル。
 抑制剤も、必要な物も、すべて揃っているはずだ。

 陽の両親にも連絡を入れ、避難することを伝えた。
 これが、今の俺にできる最善だと思った。

 車内、陽はシャツの胸元を握りしめ、荒い呼吸を繰り返している。
 眉間にしわを寄せて目を閉じ、必死に耐えるような表情。
 時折、小さく俺の名前を呼んだ。

 こんな陽を前にして、冷静でいられるはずがない。
 でも――今、俺が陽を守らないで、どうするんだ……。


 湧き上がってくるアルファの本能を、理性で無理やり抑え込んだ。

 ホテルに着くと、専用通路を通って部屋へ向かう。
 部屋に着く頃には、陽の意識は朦朧としていた。

 ベッドに陽を横たえ、抑制剤を探そうと立ち上がる。
 その時、グッと腕を引っ張られた。

「……れん、っ……」

「大丈夫。抑制剤を取ってくるだけだから」

 俺の顔を見つめたあと、陽は手を放した。

 テーブルの上に抑制剤と水、それからネックガードを見つける。

 本当に、何でも揃ってるんだな…

 ベッドに戻り、「ごめん」と告げながら、陽の首にネックガードをつけた。

 そして抑制剤を飲ませようとしたそのとき――

「いやだ!」

 陽が、俺の手を振り払った。

「でも、飲まないと……」

「薬はいやだ……。いやなんだ……」

 涙をこぼす陽を見て、俺は薬を飲ませることができなかった。


「……れんっ、ごめっ……いかないで……こわい……っ」

 俺のシャツを握って離さない陽の手を、そっと両手で包む。

「……どこにも行かないよ。大丈夫、何もしないから。俺は、そばにいるだけだから」

 そう伝えたはずだった。
 なのに、もう片方の陽の手が俺の手に乗せられてーー


「……たすけて……」


 ──その一言で、理性の糸がかすかに揺れた。


 陽の目も声も、熱を帯びた肌も、甘い香りも。
 すべてが、俺を試してくる。

「……ごめ……も、おれ、…おかしく、っ…なりそ……」

 その姿に、もう嘘はつけなかった。

「……陽、俺が助けるよ。誰にも、触れさせない」
「俺が、したい」

「……俺も、……れんが、いい……」

 その一言で、ぎりぎりだった理性が崩れる音がした。

 止める言葉はなかった。
 抵抗も、なかった。

 ただ、その目が俺を求めていた。

 触れる手も、言葉も、優しく、慎重に。
 苦しさから逃れるように、俺に縋る陽。
 陽の熱が治まるまで、俺たちは何度も肌を重ねた。

 ──俺たちは一線を越えた。



 三日間続いたヒート。
 今、陽は静かに寝ている。

 床に落ちていた「Ω避難施設」の紙が目に入った。

「俺がいい」――そう言った陽は、きっと正気じゃなかった。
 それで正当化していいはずがない。

 ……もしかして、俺は、陽を傷つけたんじゃないか。

 でも、何が正しかったのかなんて、今も分からない。


 ただ──


「……俺じゃ、だめだったのか?」


 そう、思ってしまった。
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