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帰宅
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「ただいま~。」
湯浅が家に帰ると、妻の陽子がタオルを持って迎えに来る。
「雨ひどかった?」
そう言って、彼の鞄を受け取り、水滴を拭う。
「土砂降り。花音は?」
「動画観てる。お風呂沸いてるから、すぐ入って。」
「そうか。」
陽子にジャケットを渡して、脱衣所の扉を開ける。
昨日までは鬱陶しいほどの晴れが続き、気温は連日30℃を超えた。人々は猛暑に困憊していた。そんな日々が続いて、お茶の間を和ませようと、一部の地域では雨乞いの儀式が行われたと、面白おかしく報道された。しかし、そんなテレビ局の思惑とは裏腹に、人々はこのニュースを真面目に受け取ったのだった。それほどまでに、この暑さはどうしようもなかった。
こうした祈りに応えるように、昨夜から降り始めた雨は、1日でそれまでの遅れをほとんど帳消しにした。数カ月ぶりに汚れが洗われた傘は、まるで意味をなさなかった。横殴りの雨と、地面から跳ね返った水滴で、服はびしょ濡れになった。おまけに、人々の期待に反して、気温は大して下がらなかった。そのせいで、体から噴き出す汗と雨粒で全身が濡れて、この上なく不快だった。
湯浅は、この最悪の天気に苛立っていた。だから、家に着くなり風呂に入れるのはちょうど良かった。
脱衣所の棚には、バスタオルとハンドタオルが綺麗に畳んで重ねられてある。陽子の几帳面さがよく表れている。今月買ったばかりの新しい洗濯機の上には、バスタオルと湯浅の着替えが用意されていた。ベタベタと全身にまとわりつく服を脱いで、洗濯カゴに放り込む。靴下までぐっしょりと濡れている。後で靴も乾かすように頼んでおかなければいけないと思うと、面倒でため息が出る。しかし、陽子のことだから、靴が濡れていることに気づいて、風呂に入っている間に乾かしてくれるのではないかとも思った。
パンツ以外を脱ぎ終えたところで、洗面台の鏡の前に移動する。30になって、20代の頃よりは多少肉がついたし、衰えを感じるが、それでもジム通いを続けている湯浅の肉体は引き締まっている。胸を張ったり、体を左右に捻じったりしてみる。胸や腹筋の影を際立たせて満足する。
風呂桶を手に取り、浴槽からお湯を掬う。それを頭から被って、全身の汗を流す。シャワーを使わず、浴槽のお湯を使うのが湯浅の変わった癖だ。しかし、一杯では足りず、さらに2杯のお湯を被る。
髪を洗っていると、頭に今日の出来事が次々と浮かんできた。その中でふと、帰宅中に絡んできた男が現れる。確か赤星とか言ったか。歌手だったと思うが、さほど興味がなく、詳しくは知らない。陽子は知っているのだろうか。風呂上がりにでも聞いてみよう。
チビが自分を見あげながら、粛々と喋る様子を思うと、滑稽で笑えてくる。記憶を手繰って、テレビの映像を頭に浮かべる。テレビで見る限りさほど小さなイメージは無かったが、実際に見ると随分小さいものだ。湯浅はその映像を思い出して、あることに気が付いた。そういえば、赤星がテレビに出るときは、いつも1人だ。バラエティはおろか、誰かとの共演は見たことがない。比べる対象がいないから、分からなかったのか。しかも、いつも座っているじゃないか。事務所のイメージ戦略でもあるんだろうか。
風呂から上がり、アカホシマサイチについて聞こうと思い、陽子を探す。陽子はキッチンで夕飯を温めていた。肉の焼ける良い匂いがする。どうやら今日はハンバーグらしい。キッチンの入り口に立って、陽子を眺める。暑いからと言って、最近はずっと髪を後ろで結んでいる。しかし、このクソ暑い中、陽子はスリッパを履いている。床にベタベタと素足が触れるのは不快なのだそうだ。湯浅にはそれが全く理解できなかった。冬場ならまだしも、こうも暑いと、少しでも身に着けるものは少なくしたい。
入り口に佇む湯浅の存在に気が付いた陽子が何かを言ったが、換気扇と肉の焼ける音でよく聞こえなかった。
「何て?」
「そろそろできるから、花音を座らせておいて。」
「分かった。」
そう答えたが、それくらいならすぐに済むだろうと、先に気になっていることを聞くことにした。
「アカホシマサイチって分かるか?」
「ん~?あぁ赤星さんね。もちろん。知らない人なんていないんじゃない?」
「ふーん。」
「そう、赤星さんといえばね、花音と同じクラスの優花ちゃんのママが、すっごい大好きで、この間もライブに行ってきたって、お土産くれたでしょう。」
「そうか。陽子は?」
「ん?私?そりゃ好きよ。CDも全部持ってるし、ライブとかは行ったこと無いけど。花音も好きなんだから。運動会で年中さんが『ピーナツ』踊るのすごく羨ましがってる。私もやりたいーって。だから、あの子の前であんまりその話はしないでね。ぐずると大変なんだから。」
想像以上にアカホシが自分の周りに浸透していることに寒気を覚える。まさか陽子だけでなく花音までとは。
夕飯を食べながら、もう一度陽子に聞いてみる。
「え、そんなに人気?アカホシ。」
一瞬、花音の方を見た陽子は、振り返って恨めしそうに答える。
「そうねぇ、単純には比べられないけど、1番人気なんじゃない?最近はアイドルもほとんどいなくなっちゃったし。赤星さん雑誌のモデルとかもしてるみたいだから、ほら今も。」
そう言って、陽子はテレビの方を指さす。画面を見ると、どこかで聞いたことのあるような曲とともに、シャンプーのCMが流れている。そして、白いワンピースを着た、誰だか知らない女優の長い黒髪が風に靡く映像の合間に、アカホシが映る。それは確かに、今日会った男の顔だった。何とも気色の悪い光景だ。
湯浅が家に帰ると、妻の陽子がタオルを持って迎えに来る。
「雨ひどかった?」
そう言って、彼の鞄を受け取り、水滴を拭う。
「土砂降り。花音は?」
「動画観てる。お風呂沸いてるから、すぐ入って。」
「そうか。」
陽子にジャケットを渡して、脱衣所の扉を開ける。
昨日までは鬱陶しいほどの晴れが続き、気温は連日30℃を超えた。人々は猛暑に困憊していた。そんな日々が続いて、お茶の間を和ませようと、一部の地域では雨乞いの儀式が行われたと、面白おかしく報道された。しかし、そんなテレビ局の思惑とは裏腹に、人々はこのニュースを真面目に受け取ったのだった。それほどまでに、この暑さはどうしようもなかった。
こうした祈りに応えるように、昨夜から降り始めた雨は、1日でそれまでの遅れをほとんど帳消しにした。数カ月ぶりに汚れが洗われた傘は、まるで意味をなさなかった。横殴りの雨と、地面から跳ね返った水滴で、服はびしょ濡れになった。おまけに、人々の期待に反して、気温は大して下がらなかった。そのせいで、体から噴き出す汗と雨粒で全身が濡れて、この上なく不快だった。
湯浅は、この最悪の天気に苛立っていた。だから、家に着くなり風呂に入れるのはちょうど良かった。
脱衣所の棚には、バスタオルとハンドタオルが綺麗に畳んで重ねられてある。陽子の几帳面さがよく表れている。今月買ったばかりの新しい洗濯機の上には、バスタオルと湯浅の着替えが用意されていた。ベタベタと全身にまとわりつく服を脱いで、洗濯カゴに放り込む。靴下までぐっしょりと濡れている。後で靴も乾かすように頼んでおかなければいけないと思うと、面倒でため息が出る。しかし、陽子のことだから、靴が濡れていることに気づいて、風呂に入っている間に乾かしてくれるのではないかとも思った。
パンツ以外を脱ぎ終えたところで、洗面台の鏡の前に移動する。30になって、20代の頃よりは多少肉がついたし、衰えを感じるが、それでもジム通いを続けている湯浅の肉体は引き締まっている。胸を張ったり、体を左右に捻じったりしてみる。胸や腹筋の影を際立たせて満足する。
風呂桶を手に取り、浴槽からお湯を掬う。それを頭から被って、全身の汗を流す。シャワーを使わず、浴槽のお湯を使うのが湯浅の変わった癖だ。しかし、一杯では足りず、さらに2杯のお湯を被る。
髪を洗っていると、頭に今日の出来事が次々と浮かんできた。その中でふと、帰宅中に絡んできた男が現れる。確か赤星とか言ったか。歌手だったと思うが、さほど興味がなく、詳しくは知らない。陽子は知っているのだろうか。風呂上がりにでも聞いてみよう。
チビが自分を見あげながら、粛々と喋る様子を思うと、滑稽で笑えてくる。記憶を手繰って、テレビの映像を頭に浮かべる。テレビで見る限りさほど小さなイメージは無かったが、実際に見ると随分小さいものだ。湯浅はその映像を思い出して、あることに気が付いた。そういえば、赤星がテレビに出るときは、いつも1人だ。バラエティはおろか、誰かとの共演は見たことがない。比べる対象がいないから、分からなかったのか。しかも、いつも座っているじゃないか。事務所のイメージ戦略でもあるんだろうか。
風呂から上がり、アカホシマサイチについて聞こうと思い、陽子を探す。陽子はキッチンで夕飯を温めていた。肉の焼ける良い匂いがする。どうやら今日はハンバーグらしい。キッチンの入り口に立って、陽子を眺める。暑いからと言って、最近はずっと髪を後ろで結んでいる。しかし、このクソ暑い中、陽子はスリッパを履いている。床にベタベタと素足が触れるのは不快なのだそうだ。湯浅にはそれが全く理解できなかった。冬場ならまだしも、こうも暑いと、少しでも身に着けるものは少なくしたい。
入り口に佇む湯浅の存在に気が付いた陽子が何かを言ったが、換気扇と肉の焼ける音でよく聞こえなかった。
「何て?」
「そろそろできるから、花音を座らせておいて。」
「分かった。」
そう答えたが、それくらいならすぐに済むだろうと、先に気になっていることを聞くことにした。
「アカホシマサイチって分かるか?」
「ん~?あぁ赤星さんね。もちろん。知らない人なんていないんじゃない?」
「ふーん。」
「そう、赤星さんといえばね、花音と同じクラスの優花ちゃんのママが、すっごい大好きで、この間もライブに行ってきたって、お土産くれたでしょう。」
「そうか。陽子は?」
「ん?私?そりゃ好きよ。CDも全部持ってるし、ライブとかは行ったこと無いけど。花音も好きなんだから。運動会で年中さんが『ピーナツ』踊るのすごく羨ましがってる。私もやりたいーって。だから、あの子の前であんまりその話はしないでね。ぐずると大変なんだから。」
想像以上にアカホシが自分の周りに浸透していることに寒気を覚える。まさか陽子だけでなく花音までとは。
夕飯を食べながら、もう一度陽子に聞いてみる。
「え、そんなに人気?アカホシ。」
一瞬、花音の方を見た陽子は、振り返って恨めしそうに答える。
「そうねぇ、単純には比べられないけど、1番人気なんじゃない?最近はアイドルもほとんどいなくなっちゃったし。赤星さん雑誌のモデルとかもしてるみたいだから、ほら今も。」
そう言って、陽子はテレビの方を指さす。画面を見ると、どこかで聞いたことのあるような曲とともに、シャンプーのCMが流れている。そして、白いワンピースを着た、誰だか知らない女優の長い黒髪が風に靡く映像の合間に、アカホシが映る。それは確かに、今日会った男の顔だった。何とも気色の悪い光景だ。
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