満月荘殺人事件

東山圭文

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 真理先輩がやってくるまでの間、スイートルームの四畳半のほうの和室で煙草を吸った。
 時おり窓ガラスを激しく雪が叩きつける音がした。吹雪はより激しさを増しているようだ。窓の外は白一色の不気味さが増してきている。
 ぞんざいにドアをノックする音が響いた。「開いています」と告げると、真理先輩は何も言わずに入ってきた。当然のことながら自分は、座布団のないほうへ正座で腰を下ろす。彼女は何も言わず座布団を使って座った。
「タバコ」
「部屋が煙草臭いですか?」自分は申し訳なさそうに、真理先輩の仏頂面を上目づかいで確認して言った。彼女は顔を大きく歪(ゆが)める。
「違え! ヤニを吸わせろって言ってんの」
 真理先輩の高い声で、自分の身体は髪の毛からつま先までピンと張るように緊張した。「あ、はいっ」と彼女の前に煙草とライターを置き、四畳半からガラスの灰皿を急いで持ってくる。真理先輩は手慣れた手つきで煙草に火を点けて、鼻と口から煙を吐き出した。
「先輩も……吸うんですか?」
「久しぶりだけど、悪(わり)いか?」
 蛇に睨まれる蛙よろしくぶるぶる首を横に振った。真理先輩はハートを振り撒(ま)くような愛らしい顔を持ちながら、泣く子をさらに泣かせる元ギャルだ。真面目な学生生活を送ってきた自分でさえ、煙草のニコチンとタールが好きなのだ。元ギャルの彼女が煙草くらい吸うのは当然のこと。ひょっとしたら、両手が後ろに回されるような代物だって過去には吸っていたかもしれない。
「哲郎から宮崎の質問には答えてやれと釘(くぎ)を刺されたから答えてやるけどよ。あたし、中学ん時からずっと吸ってたんだよねえ。それまで付き合うカレシも吸うやつばっかだったから良かったんだけどさ、哲郎の奴、吸わねえじゃん。それでも見つからないように隠れて吸ってたんだけどさ。三日前に煙草を切らしちゃって、それで買い忘れちゃったから、吸うのもチョー久しぶりっていうわけ」
 苦笑いを浮かべながら真理先輩の顔を眺めた。彼女はピンクの唇を緩めて、恍惚(こうこつ)そうに煙を吐き出している。美人なだけに、そんな表情も悪くない。煙草を吸う女は男から敬遠されるというけれど、彼女なら悪くない。いや、とてもいい。
 そんなことよりも彼女の気持ちが変わらぬうちに、質問をしてしまった方が良さそうだ。自分はメモ帳を開いて目の前に置いた。
「では、まずは名前と年齢と職業をお願いします」
「そんなことまで答えねえといけねえの?」
「はい。お願いします」慇懃(いんぎん)に頭を下げておく。
「小田真理――って、やっぱ、チョーおかしいし。病院で名前呼ばれたらさ、みんなあたしのこと、興味本位で見るんだぜ。この時のあたしの気持ち、分かる?」
 真理先輩はおかしいのか怒っているのか分からない。ピンクの唇は緩み、大きな瞳の奥は座っている。おそらく両方なのだろう。
「ぶっ殺したくなるんですか?」
「何やってもいいんなら、そうするし。中学のときはそうしてたから。で、年齢は三十二、職業はいちおう主婦」
「それでドラゴン――郷社長との関係は?」
 真理先輩は頬杖をついて煙草をくゆらせ始めた。
「これって、黙秘権アリ?」
「えっ?」
 真理先輩の顔は魅惑的な笑みを浮かべていた。もしそんな顔で言い寄られたりしたら、どんな男でもコロッとやられてしまうだろう。彼女への好意を捨てた自分でさえ、ドキッと心臓が跳ね上がったのだから。
「だから黙秘権。当然、あたしにも認められているんでしょ?」
「まあ……そうですが……」
「だったら、この質問は黙秘権。じゃあ、次」
 真理先輩ときたら、今度は満面笑顔だ。もう背景にハートをふりふりさせていないけれども。後輩の自分に対して怒っているというよりは、からかっているように見える。
 まるで女悪魔のようだ。彼女の背中に黒い羽根が、頭には黒い角が、そして尻から長くて黒い尻尾が生えているのかもしれない。そんな女悪魔にいたぶられたいというエムっ気たっぷりの人々もいるが、あいにく自分にはそんな趣味はない。
「分かりました。じゃあ、先輩がドラゴンのことをどのように思っていたのか、伺(うかが)いたいのですけれども……」
「それも黙秘権じゃね。そんなこと、マジで白状しちゃったら、このあたしが疑われちゃうじゃん」
「だとすると、妬(ねた)みや嫉(そね)みや恨みの感情があったということですか?」
 真理先輩はピンクの唇の前で、両方の人差し指をバッテンに交差させた。やはり楽しんでいるようにも、からかっているようにも見える。ここでも黙秘権の行使だ。笑顔でこんな仕草をされたら、たいていの男は千切れんばかりに尻尾を振り回すだろう。哲郎先輩もそうだったに違いない。エムっ気はないけれども、この宮崎圭だって尻尾を振りそうになってしまう。
 でも、真理先輩と社長との間に何があったのかは知らないけれども、彼女に妬み嫉み恨みの感情があったのは確実だろう。やはり怪しい。智則老爺を抑えて、殺人犯の本命にしてもいいくらいだ。ここは慎重にいかねばならない。
「じゃあ、先輩の昨日の行動を確認しますが――」
 メモ帳を確認する。夕食後の午後七時半からアリバイを確認するべきか、それとも社長が生きていた午後十時から確認するべきか、迷う。
「いいわよ――で、煙草、もう一本、くれる?」
「はい」
 真理先輩は肌理の細かい繊細そうな指先で火の点いた煙草を灰皿の底で揉み消し、その指でセブンスターの箱から新しい煙草を摘み出した。マニュキュアすら塗られていない指の爪は、きれいな色をしていた。ピンクの唇に煙草を押し込んで火を点けて煙を吐き出す。
 もう、アリバイの確認は午後十時以降でいいだろう。
「昨日のレクレーションタイムのときですが、先輩はずっと食堂スペースにいらっしゃいましたか?」
「いたわよ。あたしとずっと一緒だったと小池さんが言ってくれたでしょ?」
「まあ、そうなんですが――」
 問題は午後十時の十分間――哲郎先輩と浩之青年がお酒とヤマメの塩焼きを持って2号室と6号室を訪れ、自分が喫煙とトイレのため1号室に滞在していた十分ちょっとの時間――はすっかり失念していて、諒さんに聞くのを忘れていたのだ。だからその時間帯の真理先輩と諒さんのアリバイはない。この自分もだけれども――
 真理先輩はピンクの唇を緩め、首を傾げて、上目遣いで自分の顔を眺めた。
「そういえば、あんた、途中でいなくなったじゃん。あれって確か、午後十時だったよね。マジで怪(あや)しくね?」
 悪魔に憑(つ)りつかれた中世のパリ市民のように、自分は激しく首を振って抵抗する。
「先輩が信じてくれるかどうか分からないけれど、トイレに行きたくなって、そして煙草が吸いたくなって、この部屋に来たんです。客室の前のトイレだとトイレしか済ませないし、洗濯室だと煙草しか吸えないじゃないですか。だからこの部屋まで来て、両方済ませたんです。本当です。先輩、本当なんです」
「そんな姿、哲郎には見られたくねえもんな?」
 真理先輩は自分の顔に向かって煙を吹き付けた。ここで怯(ひる)んでしまってはダメだ。しっかりと真理先輩に対峙しなければならない。気持ちを引き締めて、居住まいを正した。
「先輩が自分の行動を信じてくださって、とても嬉しく思います」真理先輩の顔を見た。彼女は唇を歪(ゆが)めている。「では、レクレーションタイムが終わった後、つまり自分が先輩のお酌で酔ってしまって食堂スペースで寝てしまった後の、先輩の行動を確認したいのですが、先輩はその後、何をされていましたか?」
「片づけに用意に風呂」
 彼女は言葉も発するのが面倒くさそうに答えた。しかもしかめっ面だ。
「片づけと用意は食堂スペースと台所でしたか?」
「そうだけど」
「そのときは三人でしたか?」
「風呂もね」
 そうだった。この時間の風呂は従業員で混浴。真理先輩がとんでもない悪女でも、やはり満月荘の従業員は魅力的だ――
「寝たのは何時でしたか?」
「一時」
「共同台所に誰か入ってきたのには気付きましたか?」
「分かんねえけど」
 言った後で煙草を灰皿に押し潰す。煙草はフィルターのところで「く」の字に大きく曲がった。
「昼食の準備もまだだし、もういいかしら?」
 真理先輩はつっけんどんに聞いてくる。「はい」と答えると、彼女は煙草とライターをポケットの中に突っ込んで、立ち上がった。「それ自分のです」と言えない自分――
 真理先輩が部屋から出ていくと、スーツケースの中から新しい煙草と予備のライターを取り出して、煙草に火を点けた。一服しながらメモ帳を眺める。
 午後十時まで社長が生きていたとして、真理先輩に犯行可能な時間帯があるのか? 十一時以降は完全に無いのだ。となると午後十時の十分間しかない。この十分間も、諒さんがアリバイを証明したら犯行が不可能となる――となると、やはり本命は智則老爺ということになるのか――
 でもその前に君枝夫人だ。夫人の話を聞いて彼女もシロだと判断してから2号室だ。
 煙草を吸い終わり部屋を出た。S字カーブの向こうが何だか騒がしい。早歩きで行ってみると、二人の先輩と浩之青年、それに君枝夫人まで出てきていて、玄関に黄色く大きな体の諒さんが座っていた。
「吹雪がひどくて戻ってきたみたいです」
 小声で状況を教えてくれたのは浩之青年だ。諒さんは登山靴を脱ぎ終わると、立ち上がった。何枚も重ね着した黄色いウェアーには白い雪が大量に付着している。諒さんの顔は、太い眉にも白いものが見えて何だかとてもやつれているように見えた。
「本当にみなさん、申し訳ないです。途中で1メートル先も確認できないくらい猛烈な吹雪になりまして、情けないことにホワイトアウト状態になってしまったのです。それでもと来た道を戻ってきたわけなのです」
 何しろここは男鹿半島の西側、能登半島の北側の絶海の孤島ともいえる極地だ。ホワイトアウトも起きるだろう。そのホワイトアウトというのは、一面が白一色になって、視界が奪われて方向などがまったく分からなくなる現象だということを聞いたことがある。だけれども自分は登山、ましてや冬山登山など経験したことがないから、当然のことながら言葉を聞いたことがあるだけだ。
「そんなことより、無事で何よりです。とにかくお部屋へ。そしてお風呂で温まってください」
 哲郎先輩の言葉に諒さんは頷いて、黄色いウェアーを脱いだ。その下から赤いウェアーが現れた。脱いだウェアーは雪で濡れているのだろう、受け取った真理先輩がハンガーに掛けて玄関の壁に干した。
 そこで振り向いた君枝夫人と目が合った。その目が腫(は)れているように見える。昨日は何か起こりそうな気がしない、なんて言っていたが、実際に起こってしまい、泣いていたのかもしれない。
「君枝さん。これからお部屋でお話を伺わせてもらってよろしいでしょうか?」
「いいわよ。早く主人殺しの犯人を見つけてほしいから」
 声が沈んでいるように聞こえた。いくら莫大な遺産や保険金が手に入るとはいえ、自分の夫の死を外部に報せることができないのがショックなのだろう。
 君枝さんに従うような形で、5号室に入った。座卓テーブルの上にビールの空き缶が一つ置いてある以外は、散らかっていない。スーツケースも閉じて部屋の隅に置かれている。座布団のあるほうを譲ってくれたが、自分は座布団の横に正座した。
「このたびはご愁傷(しゅうしょう)さまです……」
 声にならないような言葉と共に深く頭を下げる。頭を上げて君枝夫人の顔を見ると、彼女は頷いて口紅も塗られていない唇を真一文字に結んでいた。
「本当にお辛いこととは存じますが、真犯人を挙げるためにご協力、お願いいたします」
 再び頭を下げる。「分かっているわ」と低い声がした。
「ではまずはお名前と年齢とご職業を」
「郷君枝、六十三歳、職業は……」
「あっ、そこは結構です――それでは今回のこの旅行の目的は何でしたか?」
「主人が現役を退いたから、今まで本当にご苦労様でした、という旅行よ」
「この旅行はどちらが企画されたのですか?」
「あたし……」
 君枝夫人は俯いて溜め息を漏らした。俯くと顎のラインが消えて、丸顔と丸い胴体が一体になる。
「部屋を別々にされたのはどうしてですか?」
「主人と一緒に寝るのが嫌なのよ。煙草の匂いが大嫌いだし、寝ているときはいびきに歯ぎしりもうるさいから。あたしたち、家でも別々の部屋で寝ているのよ」
 これが家庭内別居とか仮面夫婦とか言われるものか。そうなると妻は、夫が早いところポックリあの世に逝(い)ってくれないかと望むようになる。それが重症になってくると妻に殺意が芽生え夫を殺してしまう――君枝夫人は被害者だが実は加害者でもある。もちろん考えられることだ。朝食だって誰よりも食べていたし。慎重に話を聞かなければならない。
「満月荘の予約を取られたのは君枝さんということですが、ここが小田先輩――元社員である小田哲郎さんが経営する民宿だということは、ご存知でしたか?」
「ええ。知っていたわ」
「なぜ、ご存じだったのですか?」
「彼が退職するとき、挨拶に来てくれたのよ。そのとき、わざわざ連絡先まで教えてくれたから。それで」
「ド――いや郷社長はそのことをご存知でしたか?」
「知らなかったわ。サプライズにと思って、小田君が経営している民宿に泊まることも教えなかったから」
君枝夫人は首を――というより顔を横に振った。まるでこけしの首が回っているように見えた。
 ここまでは真新しい情報はそれほどない。これからがF1ならばガードレールの壁がマシンに迫るモナコグランプリを迎えるといったところ。ドライバーはテクニックの見せ所であるように、名探偵も腕の見せ所だ。
「満月荘に着いてから、社長の様子はいかがでしたか?」
「喜んでいたみたい。小さくてもいい宿だと言っていたわ。混浴も好きだから」
 混浴に期待してしまうって、それじゃあ、自分とまったく同じではないか。ドラゴンの奴、いい年して、どこまでドスケベなんだと心の内で毒づく。
 でも違う。自分はそんなことを聞いているんじゃない――
「小田哲郎さんの民宿だと知って、社長の様子はいかがでしたか?」
「喜んでいたわ。とても可愛がっていたから」
 君枝夫人は唇を嚙み締めた。それは嘘だ。社長は喜んでなんかいない。哲郎先輩に、そして諒さんに(昨日までは山下夫妻だと思っていたけれど)、怯(おび)えていたはずなのだ――
「社長がとても可愛がっていたのですか?」
「ええ、そうよ」忌(い)まわし気に顔をしかめた。「あの女、真理って子――」
 ええええええっ! 自分は、腰が抜け、心臓が止まり、目の玉が飛び出るくらいに驚いた。ひょっとして、それって、愛人というやつではないのか?
「いわゆる――」言いかけた自分の言葉に、君枝夫人は言葉を重ねてくる。
「そう。愛人ってやつ」
 吐き捨てるように言い放つ。先輩たちの間で囁かれていた噂というやつは本当だったのだ。でも、そんなことよりも、なぜ真理先輩はドラゴンなんかの愛人になってしまったのだろうか。相手は獣臭が強烈な、スクラップされたロバだ。あれだけ美人なのだから、愛人を選ぶにしてもより取り見取りだったろうに……絶対に、ドラゴンの財力目当てだったに違いない。
「君枝さんはそのことをどうやって知ったのですか?」
「五年ほど前に興信所で調査させたわ。で、この写真」
 君枝夫人はスマホを操作して、それを自分の前に置いた。驚くことに、画面にはコートを着た社長と、こちらもコートの真理先輩が、身体を寄せ合わせて腕を組んでいる姿が映し出されていた。それも真理先輩は本当に素敵な笑顔。それもホテルの玄関――やっぱり噂は本当だったのだ。それにしてもこれだけ身体をくっつけてしまって、真理先輩の鼻が獣臭で曲がらないのだろうか。
 君枝夫人は続けた。
「この写真はホテルから出てきた二人がタクシーに乗り込むところ。五年前の冬に撮られたものなの。興信所の調査によると、ホテルの部屋も前日に予約を取っていて、宿泊もしていたらしいわ。この写真の日は二月で、あの人の誕生日の翌日。ちょうど五年前の明日になるわね。このとき、真理って女、どんな状況だったのか、分かる?」
「小田先輩と婚約していた……?」
「そのとおり。だから小田君の民宿だと知って狼狽(うろた)えるかと思ったら、逆に混浴と聞いてのぼせあがって。本当にいい年して、何を考えているのだか」
 君枝夫人は唇を大きく歪めた――これで満月荘に集うすべての人間に、社長に対して殺意があったと言って良いのではないか。山下夫妻は息子の自殺、諒さんは婚約者の自殺、哲郎先輩は母親の死、浩之青年は父親の死、というそれぞれの死の原因は社長にあったわけだし、死には直接関係がないけれども、君枝夫人と真理先輩はいわゆる痴情(ちじょう)のもつれというやつだ。全員にしっかりとした殺害の動機がある――
 でもちょっと待てよ。気になることがある。
「でも今朝、君枝さんは気分が悪くなって、柏木先輩に抱えられるようにして部屋にもどりましたよね?」
「あの女に介抱されるの、堪らなく嫌だったわ。でもあの女、あたしが浮気のことを知っていることは知らないから。だから普通に接しないとダメでしょ。いちおうあたしだって分別のある大人だから」
「君枝さんが浮気というか不倫をご存知だと、社長は知っていましたか?」
「知らなかったんじゃないかしら。あの人、どんくさいから」
 唇の端を緩めた。君枝夫人も怖い女だ。メモ帳を開く。そんな彼女のアリバイを確認しなければならない。
「いちおう全員に伺っているのですが、昨日の夕食以降の君枝さんの行動を伺いたいのですが……?」
「いいわよ」自分が居住まいを正したのに合わせるようにして、君枝夫人も居住まいを正した。
「昨日、最後に社長の姿を確認したのは何時でしたか?」
「そうねえ……」首を傾げたようだが、顎の肉によって首が消えてしまっているので分からない。「夕食のときが最後だったわ」
「夕食の後はどうされましたか?」
「山下さんを誘ってお風呂に入ろうかと思って――あたし、小田君から頼まれていたのよ。山下さんというけっこう脳に重い病気をなさったお客さんが泊まりに来るので、お風呂の時だけ介助してくれないかって――それで、お風呂のほうに行ったら、男性入浴中になっていたわ。きっと主人が入っていたのね。それで仕方なく山下さんのお部屋にお邪魔して、お話していたってわけ」
「その時、山下さんは2号室にいらっしゃいましたか?」
「ええ」
「ご主人も?」
「そうよ」
「その山下ご夫妻と、以前に面識はありましたか?」
「いいえ。昨日が初めて」
 君枝夫人の丸顔を覗き込む。嘘なのか本当なのか、表情からは判断がつかない。
「でしたら3号室の小池さんはいかがでしょうか?」
「初めてだわ」
 やはり分からない。でも社長は小池さんに怯えていたのは確かだ。でも昨日の夕食の時、山下夫妻と郷夫妻はとても親しそうに話をしていたではないか。いくら何でも、昨日初対面の者同士、あんなに仲良くなれるのであろうか。
「でも山下さんたちとは、昨日の夕食のとき、どう見ても初対面のようには見えませんでしたが……?」
「そうね。でも昨日、あたしたちが到着した時に小田くんが紹介してくれたんだけど、本当にそれが初めて。で、旦那さんはゴルフをやるし、奥さんは元気だったときに食べ歩きが趣味だったというから、趣味があたしたちと完全に一致したわけね」
 そうか。おじさんとはゴルフ、おばさんに限らず女性とはグルメ。それがいちばん盛り上がる話題なわけだ。道理で、ゴルフにもグルメにも詳しくない自分は、世の中のおじさんと女性とは話が盛り上がらないというわけだ。だとすると、パチンコとF1に詳しい自分は、いったいどんな人種となら話が盛り上がれるのだろうか?
 そんなことよりも、アリバイだ。
「2号室にいらっしゃった時間は?」
「奥さんとお店の話ですっかり盛り上がってしまって、九時半ごろだったかしら? そこでお風呂を確認したら、入浴可になっていたから、奥さんを連れてお風呂に入ったわ」
 確かにそうだった。更衣室までは確認しなかったけれど。
「お風呂は何時まで入っていましたか?」
「十時半に出たわ」
 メモ帳に彼女の行動を記して、自分の身体は前のめりになった。彼女が夫を殺害するとしたら、この後だ。
「脱衣所を出たあと、まずどこに行きましたか?」
「2号室。山下さん、脚が悪いから」何とか歩ける状態の直子老婆の支えになって、部屋まで送ったのだろう。
「そのとき、2号室に山下さんのご主人はいらっしゃいましたか?」
「いらっしゃらなかったわ」
 いない……そいつは大いに怪しい……
「彼がどちらに行かれたか、ご存知ですか?」
「ずっと6号室に……あっ!」君枝夫人の丸顔が一気に赤く染まった。そしてすぐに首を――いや首は肉に埋もれてしまって無いから、頭を、激しく横に振る。「違う、ずっとはいなかったわ。ご主人、あたしたちが2号室に帰って来てから、すぐに戻ってきたじゃない」
「戻ってきた時間は?」
「十時四十分。それくらいだと思うわ」彼女は呼吸を荒立(あらだ)てて言った。興奮冷めやらず、と言ったところだ。
 メモ帳を凝視する――哲郎先輩と浩之青年が6号室にヤマメの塩焼きと熱燗を持って行ったのは十時くらいだったから、十時から十時四十分の間に智則老爺は6号室に行ったのだ――
「それで、君枝さんは山下さんのご主人が6号室にいると、どうして分かったのですか?」
「夕食が終わった後、二人で話していたのよ。ゴルフなんか他の者は興味がなさそうだから、二人で話の続きは6号室でやりましょうって。何しろうちの主人、お酒が入ると煙草を吸わずにはいられなくなるから」
 社長の気持ちは自分にも分かる。現に今だって煙草を我慢している自分は、ニコチンの禁断症状なのか、指先が細かく震えているのだ。
 早くこの部屋を出て、2号室で山下夫妻の聴取――ではなくて、1号室で思い切り煙草を吸いたい。
「山下さんのご主人が2号室に戻ってきたときのご様子はいかがでしたか?」
「特に、何も」と言って、彼女は唇を真一文字に結んだ。変わったところが無かったのか、有ったのか、よく分からない。
「それでは、その後の君枝さんの行動を教えていただきたいのですが?」
「ご主人が戻られたから2号室を出て自分の部屋に戻ったわ。それで十一時くらいだったかしら。長野君が部屋を訪ねてきて、焼いたヤマメを持って来てくれたけれど要らないって答えたわ。それからトイレに行ったら3号室の小池さんと鉢合わせになって飲んだのよ」
「小池さんとは午後十一時から十二時の間と考えていいですか?」
「そうね」と大きく頷いた。「それからすぐにこの部屋に来て寝たわ」
「ところでご主人の部屋、つまり6号室の鍵を君枝さんはお持ちですか?」
「持っていないわ」と頭を横に振った。
「どうしてですか? 普通なら持っていると思うのですけれども」
 というか、本当に普通なら一緒の部屋だ。
「お互いに行く必要はないでしょ。それより知らない間にあたしの部屋に入られたら、嫌だし」
 まさに家庭内別居を引き摺り込んだ民宿内別居。完全に冷え切っている――
「その後は部屋からは出ませんでしたか?」
「一回だけトイレに起きたわ。午前二時だったわね」
 5号室にはトイレが付いていない。外のトイレを使用しなくてはならないはずだ。
「そのとき、何か変わった様子はありませんでしたか?」
「無かったわ。誰にも会わなかったし――でも食堂のほうから、動物の叫び声みたいのが聞こえたかしら?」
 君枝夫人はいたずらっぽく自分の顔に視線を流した。それはきっと自分のいびきか寝言だ。たぶん社長に負けず劣らず、自分のいびきと寝言もかなりの大音量だ。
 気を取り直して、どうしても君枝夫人に聞きたいことがある。それを聞かなければならない。
「最後に君枝さんは社長に対して、どのような感情を持っていましたか?」
「憎かったわ。あの泥棒猫と同じくらいに」
 君枝夫人はそう言って分厚い下唇を噛み締めた。

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