満月荘殺人事件

東山圭文

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 名探偵の予想どおりだった。浩之青年の父親は、八年くらい前に過労死で亡くなった高原さん。自分の大先輩だったのだ――
「良かったら、お父さんのお話、詳しく聞かせてもらえる?」
「いいですよ」彼は大きな鼻の穴から煙を吐き出しながら頷いた。
 八年前、彼が中2のときのゴールデンウィークの初日に突然父親が心筋梗塞で突然死したこと、父親は残業も多く休日もなく働き続けていたこと、しかしタイムカード上でそのような記録が残されていなかったこと、そんな死をあの会社の社長――つまり郷龍次――は残業や休日出勤は無かったと言ったばかりか対応がひどかったこと。ジープの中で話してくれたことばかりだったが、自分は山下夫妻の息子さんのように注意して耳を傾けていなかったので、聞き逃してしまったところもあった。
 そして社長のことを「絶対に許せない男」とまで言っているのだ。これは慎重に聴取しなければならなくなった。
「長野君が高原さんの息子さんだということは、郷龍次社長は気づいていた?」
 浩之青年は煙草の煙を吐き出しながら、かぶりを振った。
「気付いていなかったと思います。昨日、ジープで迎えに行った時、僕からは何も言いませんでしたし、名字も母のほうに変えていますし、それに中学の時と顔も体格もずいぶん変わりましたから。あの時は中学生なのに小学生に間違えられたくらい童顔で、がりがりに痩せていたのです」
 そりゃあ、そうだ。昭和の大スターの若かりし頃みたいに濃い顔の中学生なんかいたら、ちょっと不気味だ。自分も五年くらい塾の先生をしていたが、最近は男子でもけっこうすっきりした顔の少年が多い。そして我々の中学生時代よりも、確実に痩せている子が多くなっている。年々、男子中学生のスマート化という傾向が続いているのだろう。
「でも長野君は郷社長のこと、覚えていたわけだね?」
「はい。あの気持ち悪い顔も、そして声も」
 まあ、そうだろう。社長は一度出会ってしまったら最後だ。あの間抜けなロバをスクラップしたかのような顔は、どんな悪霊よりもしつこく記憶に残る。お祓(はら)いしたところでなかなか退散してくれないだろう。
「ところで、長野君は満月荘に住み込みでアルバイトをしているんだよね?」
「はい」返事をしながら、短くなった煙草を灰皿の底で揉み消した。
「満月荘でのアルバイトは毎年している?」
「はい。冬期限定で二か月ほど。と言っても今年で三年目ですけれども」
 それでいま大学二年生なのだから、大学に入ってからアルバイトをしていると考えると一浪一留しているわけだ。だけどそこは突っ込まない。ヘビースモーカーの自分は灰皿の上で短くなった煙草を消して、新しい煙草に火を点けた。
「それで、今年はいつから?」
「毎年そうなのですが、大学のテストが終わる一月の末からお世話になっています」
「すると新学期が始まるまでのアルバイトだね?」
「そのとおりです」
「満月荘でアルバイトを始めたきっかけは?」
「高校時代に一度、登山部の合宿で来たことがありました。それも柏木先生と同期の先生のご実家だということを知って、お世話になったのです。実は僕、柏木先生の大ファンだったのです」と言って浩之青年は四角い顔を赤らめた。「彼女、普段は優しくて可愛らしいのに、怒るときは本気(マジ)だったのです。てめえらなあ、どんだけてめえらのことを考えて宿題を出していると思っているんだ? 舐(な)めているんじゃねえよ、なんて言って睨みつけていました。ギャップ萌(も)えってやつだと思うのですけれど、生徒からの人気は高かったです。僕なんか叱られたくて、わざと宿題を忘れたことだってありましたから」
 意外な展開に驚いた。浩之青年は真理先輩の教え子だったのだ。
「すると、長野君がこっちに引っ越してからも、柏木先生と連絡は取っていたんだ?」
「そうなのです。教師と生徒がメアドを交換することは、本当はいけないのでしょうけれど。と言っても、誤解しないでほしいのですけれど、恋愛感情は無かったです。先生とはちょうどアイドルとファンのような関係です。先生がオーナーと付き合うようになった、そして結婚するようになったと知った時も、素直に応援したり祝福したりしていました。そして、こっちで民宿をやるようになったと知らされたとき、僕は浪人生だったのですけれど、絶対大学に合格して会いに行くのだと受験勉強を頑張りましたから」
 一人の教師との出会いが、一人の生徒の人生をも変える話はよくある。彼にとって人生を変えてもらった教師は、きっと真理先輩なのだろう。そう考えると、果たして自分はどうだったのだろうか? あの五年間で劇的に人生を変えられた生徒って存在しているのだろうか?
「すると柏木先生に誘われてアルバイトをするようになったってわけ?」
「先生ではなく僕からです。食事と寝る場所さえいただければ、給料も要(い)らないって言って」と彼ははにかんだ。「それに、今日だけは特別ですけれど、冬期はこんな秘境の地までお客さんは来ませんから、アルバイト代を出せるような状況ではないことも分かっています。でもいつもオーナーはバイト代を出してくれますが」
 ここは男鹿半島の西側、能登半島の北側の極地。冬は北西の季節風で筋状の雲が、一日で背丈ほどの雪を降らせることもある。そんな白一色の色のない世界に、わざわざ泊まりにくる客は本当に少ない。
「では、そろそろ本題に入るけれど、われわれ宿泊客が夕食をいただいた後だけれども、長野君は何をしていた?」
「それってアリバイ確認ですね」と彼は笑顔を見せた。「確かお客さんの夕食を終えたのが七時半ごろだったと思いますが、そのあとまずはオーナーと先生とで夕食を済ませました。時間にして二十分くらいだったと思います。そのあとはレクレーションタイムの用意をしていました」
「レクレーションタイムの用意は誰と?」
「なるべく詳しく思い出した方がいいですよね」と彼は顔をしかめて首を傾げた。真剣に思い出してくれているようだ。「最初は共同台所で夕食の片づけやレクレーションの料理の準備をしていました。そのときは三人揃っていましたが、途中でオーナーがゴミ捨てで抜けました。何時何分に抜けたのかははっきりと覚えていないのですけれど、時間にして二十分くらいだったと思います。その間は台所で先生がさばいたヤマメを串にさす作業をしていました。そしてオーナーが戻ってきたあと、外の納屋(なや)に保管してあるビールやジュースのケースをオーナーと二人で運び入れいました。こちらは二十分かかっていなかったと思います」
「すると、その時間の長野君のアリバイは、お二人に聞けば成立するわけだね?」
「そうだと思います」
 メモ帳に証言どおり記入する。七時半から二十分だから七時五十分までは三人で夕食、その後は三人で夕食の片づけとレクレーションタイムの準備、それぞれ二十分で真理先輩と二人で準備と、哲郎先輩と二人で運び入れ。二人がビールケースを運んでいるのは自分も目撃している。その時間は八時四十分くらい。だとすると、三人で片づけと準備は八時くらいまで、真理先輩と準備は八時二十分くらいまで、ということになる。八時から八時二十分の間の哲郎先輩は洗濯室で自分と一緒だったから、八時二十分から四十分までの真理先輩のアリバイはないことになる。その間、自分はこの部屋にいたはずだ。
「それから十一時までレクレーションタイムだったけれど――」と言ったところで重要なことに気がついた。自分だけではない。途中で彼も食堂スペースを離れたではないか。「確か十時くらいに長野君も食堂スペースを離れたけれど、あれって?」
「オーナーと一緒に、山下さんと郷さんのぶんの焼き上がったヤマメとお酒を、部屋に持って行ったではないですか」
 確かにそうだった。部屋から声がしたのを覚えている。
「そうすると2号室と5号室と6号室に寄ったということ?」
 彼はかぶりと振った。「5号室には寄っていません。山下さんと郷さんの奥さん同士で、入浴されているということでしたので」
 それも思い出した。煙草を吸い終わって部屋を出たとき、浴室のドアは「女性入浴中」の札が掛けられていた。あのとき、二人は入浴中だと思って、食堂スペースに向かったではないか。自分は短くなった煙草を灰皿の側面で揉み消した。
「最初に訪れたのはどちらの部屋だった?」
「2号室です。そこで奥さんが入浴中だということを知りました」
「2号室はご主人一人だったわけだね?」
「そうです」
 彼の顔が引き攣(つ)ったように見えた。不安からかもしれぬ。そう、社長の死亡推定時刻である午後十時。その時間、2号室に一人でいた智則老爺にアリバイがないのだ。
 自分の身体が前のめりになる。
「その後で、6号室だと思うんだけど、そのとき郷社長は?」
「満月荘の浴衣を着て、テレビを見ていました」浩之青年は神妙な面持ちになる。「僕が生きている彼を見たのは、それが最後です」
「その時間は?」
 固唾(かたず)をのみ込み、アオカビに囲まれたような、彼の唇が発する言葉を待つ。太くて真っ赤なその唇は、明らかに答えるのを躊躇(ためら)っているかのようだった。
「午後十時です……」
 そうだったのだ。哲郎先輩に確認する必要があるが、十時まで社長は生きていた。そうなると午後十時以降に犯行が行われたことになる。
「それで、6号室を出た後は?」
「食堂スペースに戻って、十一時までレクレーションタイムでした」
 この時間については、レクレーションタイムに出ていた五人のアリバイは、相互に証明できる。問題はその後の時間だ。
「レクレーションタイムが終了した後はどうしていた?」
「はい。もう一度、ヤマメを届けに2号室と5号室に行ったら、山下さんの奥さんも郷さんの奥さんも、もうお腹がいっぱいとおっしゃったので、持って帰ってオーナーと一緒にいただきまして、レクレーションタイムの片づけです」
「それは三人で?」
「はい。というより食堂スペースには四人いましたけれど」
 とようやく浩之青年の表情が緩み、自分の顔に視線を流した。カーセックスの時に駆け付けた警察官の目に似ている。恥ずかしさを胡麻化すために咳払いをして、酒豪の自分が眠ってしまった事実を振り払った。
「それで、片づけは何時に終わった?」
「今日の朝食の用意もしながらでしたが、だいたい〇時でした。その後にお風呂に入って布団部屋で寝ました」
「お風呂は哲郎先輩と一緒だね?」
「先生も一緒ですよ」
「えーっ!」
 思わず声を荒げた理由は、言うまでもない。先輩と混浴だなんて、羨ましすぎだ。そんなことが出来るのなら、是非、自分も満月荘で一緒に働かせていただきたい。もちろん給料なんか要らない。
「でも宮崎さん、誤解しないでほしいのです。僕が先生の裸を見たところでどうかなってしまうということは神に誓ってありませんし、当然ですけれど先生もそうなのです。そんなことよりも、次の日の朝が早いので素早く風呂に入って休むことのほうが重要ですから、みんなカラスの行水ですよ」
 先輩の裸体を拝めるなんて、そんなことでは済まされない。それに拝んでどうかならないなんて、どうかしている。脳裏には想像上だけれども、先輩の裸体が浮かんでくる。
「いつもそうなの?」
「特にお客さんが今日みたいに多いときは……」
 執拗(しつよう)なまでの自分の質問に、浩之青年は明らかに引いている。気が付くと彼は怪訝(けげん)そうな目で眺めていたし、自分も上体をのけ反らせていた。照れ隠しのために、もう一度大きな咳払い。自分の脳裏に貼り付いた、想像上の先輩の裸体(らたい)も払いのける。
 そんなことよりも浩之青年の行動確認だ。
「それで寝たのは?」
「一時前には寝ました」
 もう一つ、確認しなければならないことがある。
「夜中に誰かが共同台所に入って来たのに気付いた?」
「朝まで起きませんでしたから」と言って、彼はかぶりを振った。共同台所にある電話線を誰が切ったのかは分からない。
「いろいろ話を聞かせてくれて、ありがとう」
 そう言って、浩之青年と一緒に1号室を出た。S字コーナーを抜け、食堂スペースのほうに向かうと、諒さんが大きな登山用のリュックを背負って玄関に立っていた。哲郎先輩と真理先輩も出てきている。自分に気付くと、真理先輩はピンクの唇をゆがめて、自分の顔を一瞥(いちべつ)した。
「本当にお気をつけて。ご無理はなさらないでください」
 真理先輩はついさっき睨んだとは思えぬ高くて柔らかい声だ。
「今まで自分も経験したことのないような嵐ですから、厳しいようでしたらすぐに戻ってきてください」
 哲郎先輩も柔らかい声で、ぺこぺこ頭を下げている。
「分かっています。無理だと判断したら、すぐに戻りますから。それではご主人に、女将さん、それと長野君、お世話になりました。そして宮崎さんも」
 頭を下げて諒さんはドアを開けた。その向こうは、地も天もまさに白一色の、他の色がまったく見えない世界だった。強風に煽(あお)られて、自分の顔にも冷たいものが飛んでくる。きっと登山用の何枚ものウェアーを重ね着しているに違いない。まるで千葉県船橋市の非公認キャラクターのように、ぶくぶくに太った諒さんの黄色い身体と赤いリュックが、色のない世界に放たれて行った。
 諒さんを見送ると、哲郎先輩が自分の顔を見た。
「探偵さん。次は誰の事情聴取かな?」
 まずは真理先輩と思い、恐る恐る彼女を伺う。しかし彼女は自分を無視するように、共同台所の方へ引っ込んでしまった。あんなに大好きな先輩なのに、そして後輩としてとても可愛がってくれていたのに……怒っている先輩を改めて見て、泣き出したいくらい落ち込んだ。なぜそんなに自分のことが気に食わなくなったのか、真理先輩の聴取は、それを確認してからのほうが良さそうだ。
「先輩、お願いします」
「じゃあ、1号室のほうがいいかな。五分くらいで行くから少し待っていて」
 部屋に戻ると、まずは灰皿だ。別に自分は未成年ではないし、満月荘のお客さんだし、哲郎先輩から喫煙者としての公認(?)も得ているのだから、別に吸っても構わない。でもいちおう自分だって、体育会系の人間だ。道徳というか、儒教的な思想というか、そういうものはきちんと弁(わきま)えているつもりである。もしここがお隣の国ならば、哲郎先輩の前で喫煙するなら、口元を隠して吸わなければならない。それに哲郎先輩は喫煙者ではない。それならと、灰皿を別間のテーブルの上に移動させた。
 そして座布団だ。後輩の自分が座布団の上に座るのは、いくらお客であっても、やはり気が引ける。座布団も先輩に譲るべきだ。もちろん自分は畳の上に正座するべきだ――
 そんなことを考えていると、ドアをノックする音が聞こえた。「はい」という返事とともに、飛び掛かるような勢いでドアを開けた。
 全身からスターを放ちながら、哲郎先輩が入ってくる。座卓テーブルの座布団のないほうへ自分が立って座布団に座るように勧めると、彼は座布団を避(よ)けて、「悪いけれど胡坐(あぐら)をかかせてもらうよ」と腰を下ろした。自分は畳の上に正座だ。
「聴取を始める前に、柏木先輩のことなんですけれど……」
「宮崎も怖いか?」いたずらっぽく哲郎先輩は笑う。宮崎も、ということは哲郎先輩も怖いと思っているのだろうか?
「はい……あんな先輩を見るの、初めてですので……」
「俺の前だとあんなの日常茶飯事。ここだけの話だけど、中学と高校時代の真理はかなり問題児だったのだぞ」
「そうなんですか?」
 自分の中の真理先輩の清楚で可憐なイメージが音を立てて崩れていく。哲郎先輩は唇を歪(ゆが)めて頷いた。
「真理は付き合っているときから学生時代の写真とかなかなか見せてくれなかったのだけど、去年の冬に初めて卒業アルバムを見せてくれたのだ。そしたら中学と高校時代の真理は完全にギャル。集合写真を見る限り、彼女が通っていた中学はけっこう荒れていたようだったけれど、真理は女の子の中でいちばん派手だったよ。高校でも問題を起こして、退学寸前だったらしい。本人は若気(わかげ)の至りとか黒歴史とか言って、恥ずかしがっていたけどね」
「そうだったんですかあ……」
「そう。宮崎が入社した時はすっかり落ち着いていたけれど、俺たちが新人の時は本当にけばけばしかった。大学時代はバイトでキャバ嬢もしていて、そこのお客がドラゴンだったから採用されたなんて、同期の中で噂になったくらいだ」
 真理先輩のキャラは完全に崩壊してしまった。自分が中高生の時代にはトキやスマトラトラといった絶滅危惧種のように、ギャルという生物は絶滅の危機に瀕していたので、幼いころにしか見たことがない。そんな彼女らは、立っているだけで尻が見えそうな超ミニスカートで、噂によると二メートルほどある長さのルーズソックスを履き、派手な化粧をして、長い金髪をくるくるに巻いて、いかにも遊んでいるという感じだった。きっと真理先輩もそんなギャルだったのだ。
「それで、柏木先輩がどうして自分に対してあんなに怒っているのか、知りたいのですけれど……」
「やはり宮崎がドラゴン殺しの犯人だと、本気で思っているのだと思うよ」
 やはりそうなのだ……自分は肩を落とした。大好きだった真理先輩から容疑者扱いされて、涙が出てきそうだ。
「でも、宮崎が真犯人を挙げれば、真理も謝ると思う。喧嘩とか言い争うことはよくあるけれど、妻は自分が悪いと認めたら涙を流して素直に過ちを認めて、俺に謝ることもあるから」
 いいなあ、妻か――そんなことを思いながら、自分は大きく頷いた。
 疑惑を晴らすには、自分にかかった容疑を晴らすしかないのだ。唇を噛み締め、背筋を伸ばして、哲郎先輩に対峙した。
「では先輩。まずは名前と年齢と職業をお願いします」
「まるで他人行儀だな」哲郎先輩は苦笑した。
「ええ。でもここから聴取が始まりますので……」
「分かった。小田哲郎で三十二歳、民宿満月荘のオーナー、でいいかな?」
「はい。じゅうぶんです」哲郎先輩の浅黒い顔を見て頷いた。「まずは被害者とのご関係は?」
「会社勤めをしていた時の社長です」
 なぜか哲郎先輩まで畏(かしこ)まって敬語を使っている。たぶんこんなことは初めてだ。何だかこそばゆくなってくる。だけど彼は気づいていないようである。
「そんな郷社長に対して、先輩はどう思っていましたか?」
「そうだなあ、昔のタイプの社長だな」先輩を強調して質問したのが功を奏したのか、哲郎先輩の言葉が普通に戻った。「いわゆる彼は団塊(だんかい)の世代だからね。みんなが休みなく働くことでより良い暮らしが待っていた高度成長期をよく知っている。それを今の時代でも通用すると思ってしまったのだろう」
 哲郎先輩は相変わらず頭が良い。どんな状況でも客観的に物事を分析できるのだ。
「先輩の個人的な感情はどうですか?」
 彼は真顔になった。
「こんなことを言ったら、宮崎に疑われてしまうけれど、憎んだり恨んだりしていないなんて言ったら嘘になる」
「どうしてですか?」大好きで尊敬する先輩と言えど、追及の手は緩めない。すべて真相究明のためだ。
「俺が必要なときに、ドラゴンが有給を取らせてくれなかったからだよ」哲郎先輩はいまいましさを言葉ににじませた。「あのとき、俺の母親は本当に俺のことが必要だった。本当にたった一週間の休みだ。その休みが与えられたら、彼女をもっと専門的な病院に運び、しっかりした医療を受けさせることができた。本当にわずかだけれども、親孝行もできたと思う。確かに早かれ遅かれ彼女が死んでしまうのは間違いなかったのだけれど、三年生も大事な冬期講習の時期だということで却下された。それも『親なんか死なないと休めない、俺もそうだったからな』なんて言われたのだ」
 こんなに感情を剝き出しにする哲郎先輩を初めて見た。そして先輩が話した時期というのは、自分も新入社員として哲郎先輩の下で働いていたけれども、母親のことで苦しみ悩む素振りはおくびにも出さなかった。というより、そんな事実を知ったのは、ずいぶんと後になってからだ。
 でもだからと言って、真相究明のためには自分も心を鬼にしなければならない。
「ドラゴンが満月荘に宿泊すると聞いたとき、先輩はどのように思われましたか?」
「正直言うと、とてもいまいましかったよ。来てほしくないというのが本音だね」
「先輩のそういう気持ちがドラゴンに伝わっていましたか?」
「きっと伝わってしまったと思うよ」
 そのとおりだ。社長が満月荘にやって来て自分を6号室に入れたとき、真っ先に出てきたのが哲郎先輩の名前だったからだ。
「では昨日の夜の先輩の行動を確認したいのですが」と言ってメモ帳を見る。本当はもう午後十時以降を確認すれば良いのだろうけれど、いちおう念のため七時半以降だ。「宿泊客が夕食を終えた七時半ですが、まず先輩は何をなさいましたか?」
「真理と長野君の三人で、我々も食事をいただいたよ。そのあとは夕食の片づけとレクレーションタイムの準備だ」
 浩之青年の供述と一致する。間違いはないようだ。でも一つ確認しなければならない。
「自分が洗濯室で君枝夫人や山下さんのことを先輩に話したあと、先輩は何をされていましたか?」
「ああ、あのときか」と言って首を傾げた。「ああ、思い出した。長野君と一緒に納屋(なや)から飲み物を運んできたな」
 浩之青年の供述に偽りはないようだ。
「そのとき柏木先輩は共同台所にいましたか?」
「たぶんいたと思うな」
「確認しましたか?」
「いいや――」不審そうに自分の顔を眺める。「その時間って重要かな? 長野君が話したかどうかは知らないけれど、午後十時にドラゴンは確実に生きていたぞ」
「まあ、そうですが……」
 とお茶を濁した。今となっては真理先輩もかなり怪しく思えてくる。なぜなら彼女の天然は国宝級の天然記念物などではなく、緻密に計算され作り出された天然だったからだ。そんな彼女は何食わぬ顔で緻密な殺害計画を練り、何食わぬ顔で社長を殺害し、何食わぬ顔で犯行を隠しているのかもしれない。さすがにはっきりとした動機がないだけに本命ではないにしろ、動機がなくとも対抗にしても良いくらいだ。
「ところでその午後十時なんですが、ドラゴンが生きていたと先輩はどうして証言できるのですか?」
「彼の部屋にヤマメの塩焼きと日本酒を持って行ったからだよ」
「それは先輩お一人で?」
「長野君と一緒だ」
 ここでも浩之青年と証言が一致した。やはり午後十時までは社長は生きていたのだろう。
「ではレクレーションタイムが終わったあと、午後十一時以降の先輩の行動を教えてください」
「宮崎が食堂スペースで寝てしまった後だな?」
 哲郎先輩ときたら、いちいち確認しなくてもいいことまで聞いてくる。今までどんなに飲んでも酔い潰れたことが無かったのに酔い潰れて眠ってしまったなんて、まさに陸上で最も速いチーターがわけも分からぬ動物に速さで負けてしまったような思いだ。顔から火どころか炎まで出てくる。
「そうです。布団までかけてくださってありがとうございます……」
「あの後は日付が変わるまでレクレーションタイムの片付けや次の日の朝食の準備などしていたよ。それから風呂に入ってから寝たな」
「どなたと一緒でしたか?」
「風呂までは妻と長野君、風呂を上がってからは妻だけだ」
「そこから朝までに、共同台所に入って来た人はいませんでしたか?」
「分からないなあ。朝まではぐっすり寝てしまっていたから」と哲郎先輩は首を傾げた。電話線を切ったのは誰だか、やはり分からない。もしかしたら、従業員の三人が入浴中に切られたのかもしれない。
「ご協力、ありがとうございます」
 哲郎先輩に深々と頭を下げた。
「次は妻かな?」と、哲郎先輩は背景に星を輝かせながら腰を浮かせた。自分は深呼吸して頷いた。


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