満月荘殺人事件

東山圭文

文字の大きさ
上 下
11 / 16

■9■

しおりを挟む
■9■


 午前七時に、食堂スペースで食事が始まった。囲炉裏を囲むように自分から、諒さん、山下夫妻、君枝夫人という順で座っているけれども、夕食やレクレーションタイムのときと違ってみな無言だ。それに食もあまり進んでいない。そして共同台所にいる従業員三人にも会話がないようだ。囲炉裏の火の調整とお茶を淹(い)れるために真理先輩がこちらに出てくるが、自分とは目を合わそうとしない。そんなにこの宮崎圭が探偵をするのがお気に召さないのだろうか。大好きな先輩からこんな仕打ちを受けるのはとても悲しいことだけれども、真相を突き止めるのが大切だ。自分は注意深く、囲炉裏を囲む四人を観察した。
 四人の中でいちばん食べているのは、君枝夫人だ。食事開始から十分ほどでお茶碗一杯のご飯を食べ終わっている。豆腐の味噌汁と卵焼きは手を付けたが、血を連想してしまうからだろうか、鮭の塩焼きとトマトのサラダには手を付けていない。でも先ほどとは違って、すっかり落ち着きを取り戻したようだ。丸顔も血色がよく、背筋を伸ばして食事を採っている。今朝、ご主人を亡くされたばかりとは、とうてい信じられない落ち着きようだ。それにけっこうきつい化粧の匂いがする。泰然自若というか威風堂々というか、そんな感じだ。さすが容疑者レースの対抗馬。化粧の匂いとともに、怪しい匂いをぷんぷん漂わせている。
 そんな彼女の隣に座る直子老婆は対照的だ。殆ど食が進んでいない。先ほどから豆腐の味噌汁しか口にしていない。膳の上のお皿も出された時のままである。皺だらけの顔をよけい皺だらけにしかめて、顔色も悪い。青白い顔で囲炉裏の炭を見つめている。何だか石像のようだ。
 そして容疑者本命、智則老爺。お茶碗のご飯は半分ほど。鮭の切り身も味噌汁も半分ほど食べて、箸を置いている。先ほどから真理先輩が注いでくれたお茶ばかり口にし、時おり溜め息のようなものを漏らしている。視線がせわしくなく虚空(こくう)をさまよい、あちらこちらに飛んでいる――さすがは本命。落ち着きのないところが怪しい。
 最後に自分の隣に座る諒さんだ。彼は死体を見て気持ち悪くなったためか、食事にはまったく手を付けていない。始まってからお茶ばかり飲んでいる。それに顔も青白いように見える。無理もない。まさにスクラップされたロバの、血に濡れた変死体を見てしまったのだ。それも強烈な異臭付き。さすがに食欲も失せてしまうだろう。
 という自分も料理に手を付けていない。料理だけでなくお茶もだ。それは社長の死や遺体の凄惨さにショックを受けたというわけではない。朝食を食べるという習慣がないからだ。あえてあれを朝食と表現するなら、自分にとって朝食はブラックコーヒーに煙草である。日本茶でもない。
「ごちそうさまです」
 朝食開始十五分ほどで、自分は席を立った。煙草を吸うためだ。もう未成年ではないし、喫煙者であることはカミングアウトしたので、不良中高生みたいに隠れて吸うために自分の部屋に行く必要はない。スリッパを履いて洗濯室に入り、端にある喫煙スペースに丸椅子を寄せて座って、堂々と煙草に火を点けた。
 ニコチンが全身を駆け巡る。それに伴って脳細胞も活性化されてくる。さてこの冴(さ)えた頭で推理だ――
 死亡推定時刻は智則老爺が出しているのだからまったく当てにはならないが、いちおう午後九時から十一時の間。この間は食堂スペースでレクレーションタイムだった。それに参加していたのは、諒さん、哲郎先輩、真理先輩、浩之青年、そしてこの自分。ということは山下夫妻と君枝夫人には、今のところアリバイがない――ちょっと待てよ。十時くらいに哲郎先輩と浩之青年は、レクレーションタイムに出ていなかった山下夫妻とドラゴンたちに、ヤマメの塩焼きとビールを届けに行っているではないか。そうなると、殺害動機がある哲郎先輩も――脳(のう)挫傷(ざしょう)を起こしてしまうのでないかというくらい激しくかぶりを振って、不吉な考えを振り払った。そんなことがあるはずがない。なぜなら彼は浩之青年と一緒だったからだ。
 煙草を一本吸い終わると、浩之青年が洗濯室に入ってきた。自分の顔を見るなり、汚いものでも見るかのように、顔をしかめた。喫煙スペースは洗濯機とダストケースに挟まれていて、一人ぶんのスペースしかない。自分は追い出されるように洗濯室を出た。
 スリッパを脱いで食堂スペースに戻る。探偵の自分としては、全員が揃ったところで事件の概要と捜査方針を説明しなければならない。
 共同台所から哲郎先輩と真理先輩が出てきて、食堂スペースに上がってきた。そして煙草を吸い終えた浩之青年もやってくる。自分は立ち上がって、一同を見渡した。やはり真理先輩と浩之青年は自分のことを良く思っていないようだ。浩之青年はしかめっ面をしていて、真理先輩は美しい顔を台無しにしてしまうくらいに歪(ゆが)めている。
「楽しい旅行になるはずでしたが、こんな凄惨な事件が起きてしまい、まことに遺憾に思います。特にご遺族である郷君枝さんの心中お察しいたします」
 なんて言っている自分は、まるで政治家になったみたいだ。それに君枝夫人は心痛な面持ちで、自分の顔を見上げている。本当は死んで喜んでいるくせに。本当に笑える。だからといって笑うのは不謹慎(ふきんしん)だ。下唇を噛み締めて笑みを殺す。
「事件はドラ――いや郷龍次社長が宿泊している6号室で起こりました。頭部を鈍器のようなもので数回殴られ、大量の血を流して死亡しました。第一発見者は郷君枝さんですが、そのとき、部屋の鍵は閉まっていましたか?」
「開いていたわ」
 君枝夫人は頷いて答えた。口調も落ち着いている。
「次に死亡推定時刻ですが、医師であった山下さんの検死により、昨日の午後九時から十一時の間。これで間違いはございませんか?」
 自分と目が合うと、智則老爺は食事中の落ち着きのなさはどこへ置いてきたのか、今度は「間違いない」とはっきりした声で答えた。こんな若造に俺を捕まえることはできまい、とでも思って開き直っているのだろうか。だったら確実に罪を暴いてみせる。もう一度、下唇を噛み締めた。
「それで犯人ですが、郷龍次社長を殺害したあと、満月荘の電話線を切断しました。これは外部との連絡を遮断するためです。何しろここは男鹿半島の西側、能登半島の北側の携帯電話も使えない未開の地ですから、固定電話が使えなくなると、警察も呼ぶことができなくなります。それで余計に事件の解決が遅れてしまうわけです。それにこの自分に嫌疑がかかってしまいましたので、不躾(ぶしつけ)ながら自分が事件を解決しようと立ち上がったわけです。それで皆さんを一人ずつ聴取しようと思っています」
「チェッ。てめえがマッポに自首すりゃさあ、それで済むっつうの」
 舌打ちの後で、女の低い声がした――これは悪夢だ。悪夢に決まっている――声の主は、明らかに、優しいし、性格もいいし、ほのぼのしているし、それに国宝級の天然記念物である、あの真理先輩だ。恐る恐る彼女を見ると、腕を組み、顎をしゃくって、顔を大きく歪ませている。しかも目を吊り上げてこの宮崎圭を睨みつけて立っているのだ。今にも自分に襲い掛かって食ってきそうな形相(ぎょうそう)だ。
 こんな真理先輩を見るのは、もちろん初めてだ。思わず自分は怯(ひる)んで足がすくんだ。
「真理、いいから座れ。とにかくここは宮崎に任そう」
 と哲郎先輩が真理先輩の腕を引っ張って座らせようとすると、彼女は自分にも聞こえるような大きな舌打ちをして、渋々座った。座った後もいかにも不満そうに立膝(たてひざ)をつき、そっぽを向いている。まさに教師の言うことなどいっさい聞こうとしない不良生徒のようだ。でも自分は生活指導の体育教師のように、威厳を持って彼女を注意することなど出来るわけがない。ただ茫然(ぼうぜん)と立ち竦(すく)んでいるだけだ……
「だったら宮崎さん。私は今日までの宿泊ですので、なるべく早い時間にここを出て集落まで行って警察に連絡しようと思います。この吹雪でも、どうにかギリギリ集落まで行けるかもしれないので――」
 諒さんの提案に反応したのは哲郎先輩だ。
「この吹雪だと、かなり危険ですよ。大丈夫ですか?」
「大丈夫でなかったら、途中で引き返してきます。冬山登山の支度(したく)をしてきているのは、この中で私だけですから。とにかく人が死んでいるのです。早いところ警察に知らせないといけないでしょう。みなさん、異論ありませんね?」
 この宮崎圭以外、全員が異論ないようだ。
「で、宮崎さんは?」諒さんは自分を見上げた。「宮崎さんは事件を解決しようとしていますから、まず私を聴取してからのほうがいいと思います。たとえ私が集落までたどり着けて警察に通報できたとしても、この雪だと警察も来られないということはじゅうぶんに考えられますから」
「はい……分かりました……」
 声も小声になってしまう。とにかく真理先輩だ。そっぽを向いていた彼女が、急に自分の顔を睨みつけてきたからだ。身がすくむ思いがする。
 そこで哲郎先輩が立ち上がった。
「だったら、こうしましょう。宿泊客のみなさんは、それぞれお部屋で待機していてください。宮崎がお部屋にお邪魔して、みなさんのお話を伺うと思います。ちなみに午前中の入浴時間は十一時までになっています。こちらは好きなときに入浴してください。また我々従業員も宮崎の聴取に応じないといけません。小池さんが終わったら、誰をいつ呼んでも構わないからな」
 哲郎先輩がスターをたくさん輝かせた笑顔を見せる。でも隣の真理先輩が怖すぎだ。しかめっ面を何度もしゃくりあげている。これでは美女と野獣ではなく、美女の野獣だ。自分は彼女を避けるようにして、部屋へ向かった。
「3号室で私の聴取をやってもらっていいですか?」諒さんの言葉にこくりと頷いた。
 諒さんは几帳面な性格のようだ。今日宿を出るという予定だからだろうか、荷物は昨日のうちに整理した様子だ。布団がきちんとたたまれている。布団の前に自分の身体くらいあろうかという大きな赤いリュックが置いてあり、その前に何着ものウェアーとゴーグル、手袋がたたんで置かれている。これを身に着けて大きなリュックを背負えば、そのまま満月荘を出られるといったところだ。
 座卓テーブルをはさんで、諒さんと自分は対峙する形で座った。
「宮崎さん。かなり落ち込んでいるようですけれど、よろしいでしょうか。とにかくあなたは真犯人を突き止めることが重要なのです。そうすれば女将さんがあなたに抱く疑念も晴れるでしょう。そのために私も必死になって集落に向かいますので、あなたも頑張ってください」
 諒さんの言葉が失っていた自信とやる気を取り戻した。回れ右の号令を掛けられたみたいに、後ろ向きな心が前向きになった。おだてられて木に登る豚のように、自分はけっこう単純な人間だ。それでいて裏もあるという複雑さも兼ね備えているけれども、もともと人間なんて矛盾の集合体ではないのか。
 自分は大仰(おおぎょう)に頷いて、メモ帳とペンを座卓テーブルの上に置いた。いつでも聴取ができるようにと、朝食前に用意してセカンドバッグに入れておいたものだ。
「用意がいいですね」
「はい。朝食前はやる気満々でしたので」
 朝食前は、こんな事件、これこそ朝飯前だと思っていたのだ。なぜなら容疑者は二人に絞られているからだ。動機がなければ殺人など起こるはずがない。そしていくら動機があっても、哲郎先輩が殺人犯だなんてあり得ない。だから今でもこの事件は朝飯前だと思っている。実際にまだ朝食は食べていないから、まだ朝飯前だし。
「まずはあなたの名前と年齢と職業をお願いします」
 探偵たるもの、まずは聴取する相手の確認だ。どの名探偵もやっているし、探偵マニュアルなんてあったら、そんなことは最初に書かれているに違いない。
「小池諒で五十三歳。東京都下で書店を経営しています」
 諒さんも、聴取の受け方マニュアルどおり神妙に答えてくれた。
「この満月荘にいつから滞在していますか?」
「四日前です」
「いつまでのご予約ですか?」
「今日までです」
「そうなると、三泊四日の予約ということですね?」
「はい」
「満月荘に宿泊した目的は何ですか?」
「海岳登山です。その下山途中でここに寄るのが習慣みたいになっていますので」
 ここまでは自分も知っている。それに彼は容疑者ではない。容疑者でなくても形式どおり聴取を行うということは、きっと探偵マニュアルにも書いてあるはずだ。形式どおりの聴取をするのは、新しい発見があるかもしれないからだ。
「では小池さんの、昨日の夕食後の行動を教えてください。まず夕食が終わったあと、あなたは何をなさっていましたか?」
 死亡推定時刻に幅を持たせて聞いたのも、智則老爺が死亡推定時刻を操作している疑いがあるからだ。自分が最後に社長の姿を確認したのは夕食のとき、つまり午後七時半だ。それ以降は見ていない。だからすべての人間の夕食後のアリバイを確認する必要がある。
「はい。夕食の後はまずお風呂に入りました」
 手帳に「入浴」と記入する。確かにあのとき自分も確認したけれども、風呂のドアは「男性入浴中」の札が掛けられていた。
「そのとき、どなたかと一緒ではなかったですか?」
「はい。最初は一人でしたが、途中で郷さんが入ってきました」
「社長が!」色めいた。夕食後すぐに殺されたのではないということが分かったということで色めいたのではなく、獣臭がするあの社長が入浴した事実に色めいたのだ。でもいちおう時間を聞いておかなければならない。「社長が入ってきたのは何時だったか覚えていますか?」
「私が洗い場でシャンプーしていた時には内湯に浸かっていました。あれはたぶん八時くらいだったと思います」
 ということは少なくとも午後八時は、社長が生きていたことになるだろう。でも裏が取れていないから証言の信憑性(しんぴょうせい)は今のところ低い。
「そのとき社長と何か会話しましたか?」
「いいえ、何も」
「風呂に入っていたことを証明してくれる方は、どなたかいらっしゃいますか?」
「それは、アリバイ確認ですね」と言ってから諒さんは軽く首を振った。「私たち二人だけでしたから」
 まあ、そうだろう。智則老爺は夕食前に入浴しているし、従業員は入浴時間外に入浴するはずだ。となると、諒さんの入浴中のアリバイは裏が取れない。でも、そんなことはたいした問題ではないはずだ。
「では入浴の後は?」
「はい。部屋に戻って荷物の整理をしていました。もちろん一人でしたから、それを証明してくれる人はいませんが」
 裏が取れなくても、嘘ではないだろう。立つ鳥跡を濁(にご)さず、とはまさにこのことだ。
「小池さんがお風呂を出たとき、まだ社長は入浴中でしたか?」
「はい。ずいぶん長いこと内湯に浸かっていたと思います」
「小池さんがお風呂から出た時間を覚えていますか?」
 諒さんは小首を傾げた。「おそらく八時十分か、十五分くらいだったと思いますが」
「社長は何時に風呂を上がったか、分かりますか」
「分かりません」と諒さんは答えた。
 ということは少なくとも十分間以上、社長は内湯に浸かっていたわけである――あの獣臭がお湯に浸透していくのである。そんな湯に浸かるなんて、考えただけでもぞっとする。昨日は一番風呂に入って正解だった。
「部屋で荷物を整理した後はどうされましたか?」
「はい。レクレーションタイムに出席するために、食堂のほうへ」
「その時間は?」
「九時前です。八時四十分とか四十五分とか」
 そこからは覚えている。少なくとも午後十一時までは、彼のアリバイは証明できる。もちろん彼も自分のアリバイを証明してくれるだろう。
「では、レクレーションタイムの後を教えてほしいのですか……」待てよ。あのとき自分は途中で記憶を飛ばしてしまったのだ。気づいたら囲炉裏端(いろりばた)で寝ていた。だから最後のほうは覚えていない。「小池さんはレクレーションタイムに最後まで参加していましたか?」
「していましたよ。宮崎さん、けっこう酔っていて、自己紹介が終わると、眠りに堕ちてしまいました。覚えていますか?」
「ええ……まあ……はい……」
 自分でも覚えているような覚えていないような……それもあるのだけれど、酒豪を自負しているだけに酔い潰れてしまったことが恥ずかしい。学生時代に当時付き合っていた恋人とカーセックスをしていたときに、近所の人から変な声がすると通報されて警察官がやって来てしまったとき以来の恥(は)ずかしさだ。
 でも探偵たるもの動揺してはいけない。咳払いして態勢を立て直す。
「レクレーションタイムは何時に終わりましたか?」
「十一時ちょうどです。それで眠ってしまった宮崎さんに、ご主人が布団を掛けていましたよ」
 哲郎先輩って本当に優しい。そんなさりげない優しさに思わず感謝の言葉を叫びそうになる。だからといって、感謝の言葉を叫んではいけない。早いところ諒さんの聴取を終わらせて、次だ。
「では、十一時以降は?」
「ちょうど部屋に戻ろうとしたら、トイレから出てきた5号室の奥さんと鉢合わせになりました。それでこの部屋で十二時くらいまで二人で冷蔵庫の缶ビールとおつまみをいただいきました。寝たのはそのあとすぐですから、十二時くらいです」
 これで終わらせてもいいと、腰を浮きかけたところで、いちおう社長との関係を聞いておいた方がいいと、最後の質問を発した。
「ところで、殺されたドラ――いや郷龍次社長ですが、小池さんは彼のことをご存知でしたか?」
 この質問に、明らかに諒さんは表情を曇らせた。
「隠すつもりはまったく無かったのですが、実は昨日の昼食のときにお話したノブコのことですが、彼女、郷氏の会社に勤めていたのです――」
「ええっ!」
 まさに天地がひっくり返るような衝撃を受けた。恋人がサンタクロースだと思っていたら大黒様だった、というような衝撃だ。すると諒さんの婚約者だった女性は、自分の大先輩だったわけである。こうなると、もう少しこの部屋に留まらなくてはならぬ。浮きかけた腰を座布団の上におろした。
「そのノブコさんの自殺の原因について、もう一度お聞かせ願いませんでしょうか?」
 彼は昨日話してくれたことをもう一度、簡潔に話してくれた。長時間労働、サービス残業、休日出勤、そして上司のパワハラとセクハラ。そして何よりもいちばん大きいのは、諒さんの気持ちが固まらず彼女にプロポーズできなかったこと。それが自殺の原因だろう、と。
「遺書のほうは……確か……?」不吉な予感がした。
「無かったです」
 やはりそうだ。夕食前、社長が怯えていたのは山下夫妻ではなかった。きっと諒さんだったのだ――諒さんの顔を見据えた。
「ドラ――いや社長は小池さんのことを気付いていた様子でしたか?」
「はい。ちょうど社長夫妻が到着されたとき、私は娯楽室にいたのですが、それで挨拶をしたら、明らかに顔を強張(こわば)らせました。私の顔に見覚えがあったようです」
 やっぱり、そうだったのだ。そうなると諒さんにも殺害の動機があったことになる。話がややこしくなってくるではないか。諒さんがもし犯人なら――
「いま宮崎さんは、この私も疑わしい人物だと思っていますね?」
「いやいや、とんでもありません。小池さんはアリバイがしっかり成立していますから」
 と言いながら、高速で頭の中を回転させている。彼が殺害に及べる時間帯は、午後十一時以降のアリバイを君枝夫人が証明してくれれば、この部屋で荷物を整理していたという入浴後の三十分だけだ。でも、社長が諒さんを警戒しているとしたら、そんな人物を部屋に入れるだろうか? 可能性はゼロとは言えないが、限りなくシロに近いと言えるだろう。
「でも私は彼を殺したいくらい憎んでいましたよ」
 そりゃあ、そうだろう。結婚まで考えた愛する女性の自殺の原因を作った人物なのだから。
「分かりました。ご協力、ありがとうございます」
「必ず宮崎さんの手で真実を突き止めてくださいね」
 今度は立ち上がって、部屋を出た。出たところで布団を抱えて廊下を歩く浩之青年に出くわした。ちょうど良かった。彼に質問したいことが急に浮かんできたからだ。
「宮崎さんの部屋、いま布団あげておきましたから」
 少しぶっきら棒な言いようだ。やはりこの宮崎圭が怪しいと思っているのだろう。でも誤解は早く解かなければならない。
「ありがとう。これから長野君の話を聞かせてくれる?」
 昨日のレクレーションタイムで打ちすっかり解けて、年下の彼にはもう敬語を使って話していない。
「お部屋で待っていてください。これ置いたらすぐ行きます」
 言われたとおりに1号室に入った。自分の部屋だというのに、何だかとても久しぶりに入ったような気がする。昨日はそのまま囲炉裏端で寝てしまったし、今朝も起きてから戻っていない。座卓テーブルの上の灰皿もきれいになっていた。きっと浩之青年が片付けてくれたのだろう。
 座布団のあるほうに胡坐(あぐら)をかいて座り、セブンスターに火を点けた。ニコチンが脳内をかき回す。久しぶりに吸う煙草はとてもうまい。
 三口くらい吸ったところで、ドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」と言うと、「失礼します」と恭(うやうや)しく頭を下げて浩之青年が入ってきた。
「座って」と促されて、自分と対峙する格好で座る。彼は座布団のない畳の上に、畏(かしこ)まるように正座した。
「まずは名前と年齢と職業を」
「長野浩之、二十二歳、雪尻大学経済学部の二年生です――けれども、宮崎さん、あなたもお願いできますか?」
「えっ、どういうこと?」
お互いに自己紹介するなんてお見合いじゃあるまいし。というか、これは事情聴取なんだから、探偵の自分が自己紹介などする必要はない。
「宮崎さん、言っておきますけど、僕も宮崎さんがいちばん怪(あや)しいと思っています。だからそれを晴らさないといけませんよね?」
 僕も、というのは真理先輩も、という意味を含んでいるのだろう。そこまで言われると従うしかない……
「宮明圭、二十七歳、無職独身」独身はおまけというか、サービスというか、ノリで付けてしまった。
「では最初に、殺された郷龍次氏に対して、あなたは憎んだり恨んだりしていましたか?」
「そういった気持ちはまったくない」
 それは本当だ。神様仏様じっちゃんにも誓って。
「嫌ったりはしていましたか?」
「確かに、好きでは無かったかな」
 正直に答えておく。人間的に彼のことが好きだというのは、本当にボランティア精神あふれる奇特な人物だ。彼に近寄ろうとする者は自分の知る限り、莫大な遺産目当てか、それとも社内での出世目当ての腰巾着(こしぎんちゃく)のどちらかだ。
「具体的に彼のどんなところが好きではなかったのですか?」
「う~ん、そう聞かれても……」実に答えづらい質問だ。「全部かな。うん、全部です」
「その中でも、特にいちばん嫌いなところは?」
「性格かな。ねっちこくてしつこいところです」
 性格だけでない。顔も匂いも濃くてしつこい。浩之青年の四角い顔はにやりと笑った。
「では、昨日の午後十時にあなたは何をしていましたか?」
「レクレーションタイムで、食堂スペースにいたでしょう」
 自分は少し声を荒げて答えた。このアリバイは浩之青年も証明してくれるはずだからだ。
「宮崎さん、違います。あなたは十時ごろ、十分くらいの時間ですが、食堂スペースにいませんでした。その間、どこで何をしていたのか聞いているのです」
「ああ……その時間……そうそう、この部屋にきていた――この部屋に来て、煙草を吸っていた!」
「なぜ、この部屋で? 喫煙なら洗濯室でもできます。現に今朝は洗濯室で吸っていましたし」
 この質問にはさすがに困った。正直に答えるわけにはいかない。と思ったら、良い言い訳が頭に思い浮かんだ。
「煙草を部屋に忘れて。それで部屋に戻ったわけ」
 短くなった煙草を灰皿に押し潰(つぶ)す。ヘビースモーカーたる者、寝ているとき以外、煙草は肌身離さずに身に着けている。でも、浩之青年はこの嘘を信じてくれた様子。まだ朝だというのにアオカビが生えているかのような髭(ひげ)の剃(そ)り跡を緩ませた。
「僕の質問は以上です。では宮崎さん、今度はあなたの番です」
 そういって浩之青年は居住まいを正した。それにしても、今度は自分が質問をする番って、本当にお見合いみたいだ。見合いなんか一度もしたことはないから、本当のお見合いがどういうものか分からないけれども。
「これでこの自分に対する疑念は晴れた?」
「というよりも、僕の質問に正直に答えてくれたことに感謝しています――ところで僕も煙草を吸わせてもらっていいですか?」
「うん」と頷くと、彼は「失礼します」と慇懃(いんぎん)に頭を下げて煙草に火を点けた。自分も新しい煙草を銜えて火を点ける。
 最初にする質問は決めている。これしかないのだ。
「長野君。もしかして郷社長のこと、前から知っていた?」
 名探偵の予想は、当然知っていた――彼のこめかみがピクリと動いた。そして太い眉(まゆ)の端を吊り上げた。
「知っていました。僕の父を死に追いやった絶対に許せない男です」
「もしかして、お父さんは――」
「はい。僕の父親は高原陽一といいます」

しおりを挟む

処理中です...