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「たいへん、たいへんなのよ。あの人が! あの人が!」
サイレンみたいにけたたましい高い声とともに、頬を叩かれて半(なか)ば強制的に起こされた。視界に飛び込んできたのは、君枝夫人の丸顔だ。目が赤く染まっている。時計は六時少し前を示していた。
「夫が、夫が、夫が、とにかく、たいへんなのよ!」
どうやら自分は囲炉裏端で、そのまま横になって眠ってしまったらしい。身体には掛布団が乗せられていた。風邪をひいてはいけない、と先輩が掛けてくれたのだろう。その掛布団を蹴って飛び起きた。ダジャレではないけれども布団とともに眠気も吹っ飛ぶ。
本当に、大変なことが、起きたのだ。
「どうしましたか?」
騒ぎに哲郎先輩と真理先輩、そして浩之青年がやってきた。三人は共同台所で朝食の準備をしていたようだ。
「とにかく、来て、来てよ。夫が、夫が……」
君枝夫人を先頭に、スリッパを履いて食堂スペースから客室のほうへと移動する。トイレ、布団部屋(7号室)と続き、最初のカーブを曲がってすぐのところに6号室のドアがある。
君枝夫人が6号室のドアを開けた。開けた途端に襲ってきたのは、真冬だというのに南の島を思わせるようなムッとした暖気(だんき)だ。暖かいを通り越して暑い。明らかに暖房が点けっ放しになっている。それにきつすぎるほどの獣臭が鼻を突く。東京都新島のくさやの干物と台湾の臭豆腐の匂いを足したような強烈さだ。片方の手で額の汗を拭い、もう片方の手で鼻を摘まなければならないほどだ。
スリッパを脱いで上がった。凄惨(せいさん)な光景に、思わず目を逸らした。座卓テーブルに頭を打ち付けられ、後頭部が真っ赤になって死んでいるのだ。恐る恐る変死体を直視する。どれだけ叩かれたのだろうか、血だらけの頭部はその原型をとどめていない。球体というよりは、ぺちゃんこと表現した方が良いくらいで、間抜けなロバは本当にスクラップされてしまったのだ。
「すぐ警察に連絡!」
哲郎先輩の声が飛び、自分は持っていたスマホを使った。でもここは東北地方の西側で北陸地方の北側、つまり豪雪地帯日本代表ともいえる秘境の一軒宿。もっと詳しく説明すると、東北地方男鹿半島の西側で、北陸地方能登半島の北側、そんな極地に携帯電話の基地局などない。だからスマホが繋がるはずがない。
そんなことはとうに承知している真理先輩が、すでに部屋を飛び出ていた。
被害者は間違いなく社長である。彼の頭部はいわゆる鈍器というもので、何度も何度も殴られたのであろう。それは容易に察しがつく。ということは、そうとう彼に恨みのある人間の犯行だ――それにしても、何と期待どおりの展開なのだろう。この暑気のような暑さおかげもあって興奮で熱くなってくる。
真理先輩が戻ってきた。興奮で熱くなっている自分とは逆で、化粧っ気のない顔は蒼白だ。それでも美しさを湛(たた)えている。
「駄目だわ。何度電話しても繋がらない」
「ちゃんと台所にある電話を使ったか?」
「使ったわ。でも受話器を取っても、何にも言わないのよ。110番をかけてみても、なんの反応も無いわ」
「嘘だろ。じゃあ、俺がやってみる」
と今度は哲郎先輩が部屋を出ていく。
「死んじゃっているのよね、これって、死んじゃって」
部屋に入ってから金切り声を上げて興奮している君枝夫人を抱えるようにして、真理先輩は部屋を出た。隣の部屋のドアが開いたので、一緒に5号室に入ったのだろう。
代わりに「どうしましたか?」と入ってきたのは、3号室の諒さんだ。彼も寝起きなのだろうか、宿の浴衣(ゆかた)姿だ。
浩之青年が社長の変死体を指で示すと、「ウッ」と喉を詰まらせた。そして部屋を出てトイレに駆け込んでしまった。とにかく凄惨(せいさん)な光景で、強烈な匂いだ。
「駄目だ。繋がらない。電話線が切られていた」
と声から先に哲郎先輩が戻ってきた。部屋の中は熱いというのに、彼も青白い顔をしている――なかなか真犯人もやるものだ。犯人は犯行後、外部との連絡を断つために電話線を切断した。まさに計画的な犯行ではないか。
そんな計画的な犯行の真犯人は、本命が智則老爺、そして対抗が君枝夫人だ。智則老爺は今さら言わずもがなだろう。そして君枝夫人は何だかおかしいのだ。確かに夫が殺害されて取り乱している感じはする。でも感じがするだけだ。泣いたり、わめいたり、騒いだり、そんな感じではいっさいない。それに智則老爺と同じく、殺害動機もある。だから対抗だ。本命、対抗どちらかは、死亡推定時刻のアリバイを当たってみなければならないが。
「そうなると、外部とまったく連絡ができないということですか?」と浩之青年が緊迫した声で聞く。
「ああ。外もすごい吹雪だからジープも出せないし、集落まで歩いていくのも冬山登山の装備をしていないと無理だし、今日だと時間もかかる。もしかしたら無理かもしれない」
哲郎先輩の言葉に浩之青年の溜息が聞こえてきた。無理もない。この満月荘には郷社長の変死体があり、そして社長を殺害した真犯人がいる。その真犯人が誰なのかまだ二人には分かっていない。だから不気味に感じてしまうのも無理はないのだ。
ここでホームズやポアロや明智小五郎と並ぶ名探偵、宮崎圭の出番だ。
「外部とまったく連絡が取れないとなると、我々で事件を究明しなければならないと思います」
もう、名探偵によってある程度、真実は究明されている。だが名探偵たる者、軽々しく真実を口にしない。
「そうですね。宮崎さんの言うとおりだと思います。誰が犯人なのか分からないのは、何だか気持ちが悪いです」
「そうだな。それは確かに気持ちが悪い――で、宮崎、何か手がかりがあるのか?」
哲郎先輩の目が自分の顔に向けられる。この臭くて暑い部屋の中にずっといると、何だか鼻も皮膚も慣れてきたようだ。額から汗も出なくなったし、匂いについても何とも思わなくなっていた。
「これはまず社長に対して、かなり恨みを持った人物の犯行です。何しろこれだけ後頭部を殴っているのですから。死んだ後も何度も何度も殴っていることでしょう。そして極めて計画的な犯行です。殺害後、外部との連絡を断つために、犯人は電話線を切ったのです。そしてもう一つ、犯行に使用された凶器です。鉄パイプのようなものと考えられますが、それが見当たりません。犯人は殺害後、その凶器をどこかに捨てたのでしょう。捨てる場所は簡単です。外ならどこでもいいのです。何しろこの吹雪ですから、あっという間に雪が凶器を隠してくれます。もしかしたら雪解けの季節まで、凶器は発見されないかもしれません。そしてこの雪、というより吹雪です」
自分は窓を指さした。硝子(がらす)窓を雪が叩きつけている。
「外部の人間がやって来て殺害するのは考えられません。必ず犯人はこの満月荘の中にいます!」
決まった。みんな自分の喋った推理が見事に的を射ているので、感心しているはず――だったが、哲郎先輩はそんな素振りも見せず、しゃがんで座卓テーブルの上を眺めている。座卓テーブルの上には、一合の徳利が二本とお猪口、皿に盛られたヤマメの塩焼き、それとガラス製の大きな灰皿が置かれていた。
「長野君の吸っている煙草の銘柄(めいがら)って何だっけ?」
「自分はキャスターですけれど」
哲郎先輩は「おかしいな」と言いながら首を傾げた。
「この灰皿の中、銘柄が違う二つの吸い殻があるのだ。一つはハイライト。こちらはドラゴンが吸っている銘柄だ。もう一つはセブンスターだな。二本、うん三本かな、セブンスターがハイライトに混ざっている。フィルターが茶色いのと白いのだからよくわかるけれど、このセブンスターを吸っていた人物が怪しくないか?」
「さすがオーナーです。そうですね。そうなると吸っていたのはいったい誰なんでしょう?」
しまった! それは自分だ。昨日、この部屋に社長に呼ばれたとき、吸ってしまったものだ……頭の中が真っ白になる。でもだ、これって、いま部屋を調べればわかってしまうこと。だったら、いっそのこと、正直に自分が吸った、実は喫煙者だとカミングアウトしてしまった方がいい。犯人と疑われるよりはずっとましだ。
「実は……その煙草……」
とカミングアウトしようとしたところで、入り口から本命、智則老爺が部屋に入ってきた。その後ろから真理先輩の顔も見える。
智則老爺はまず遺体に両手を合わせた。そしてテレビの上にある温度計で室温を見る。
「とりあえず、この部屋は暑いですから暖房を止めましょう。外はかなりの吹雪ですから、窓を開けるわけにはいきませんね。しばらく冷房にしておきますか」
言われるがまま哲郎先輩がエアコンを冷房運転に切り替えた。足もとに冷気が流れ込んでくる。
「女将さんから事情は聞きました。今は警察にも連絡ができない、そして警察が来るのも難しい状況です。死因は司法解剖をしないと断定できませんけれども、今なら簡単な検死で死亡推定時刻を割り出すことはできるでしょう。もう少し時間が経ってしまって死後硬直が完全になってしまうと、詳細な時間を割り出すことはできません。ですから今から自分がやってみようと思いますが、みなさん、異論はありませんか?」
「ありません」と異口同音に答えた。いつの間にか諒さんも戻ってきている。
「分かりました。やってみます」
智則老爺は黒い手袋を嵌(は)めて、遺体をチェックし始める。6号室に不気味な静寂が訪れていた。エアコンの冷気を吐き出す音と窓ガラスを雪が叩きつける音しかしていない。本当はこれで良かったのか、名探偵としては疑問が残るところだ。というのも、容疑者の本命が検死をして死亡推定時刻を割り出そうとしているのだから、自分のアリバイが成立する時刻を割り出しかねないからだ。冷静に考えればそうなのだけれど、自分の犯してしまったミス、つまりセブンスターの吸い殻のことで頭の中がいっぱいだった――
「昨日の午後十時といったところでしょう」しゃがんだままの姿勢で、智則老爺が静寂を破った。声が震えているように聞こえた。「午後十時というのも、冬なのに暖房で室温が二十四度もあったこと、そして老人や子どもの死後硬直は一般的に遅くなるということを考慮して割り出しました。しかしいろいろ特殊な条件が重なっているので、誤差も考えないといけません。誤差はプラスマイナス一時間くらい見ておいたほうがいいでしょう」
ここで沈黙。煙草のことをカミングアウトしなければならない。
「すいません……灰皿の中の煙草なんですけど、吸ったのは自分なんです……」
哲郎先輩、諒さん、浩之青年の顔に、驚きの色が見て取れた。自分は顔を俯かせてしまう。
「学生時代は吸ったことが無かったんです。でもあの会社に入ってから、仕事がきつくて、吸うようになりました。最初は本数も少なくて軽い煙草だったのですけれど、どんどん本数も増えて、重い煙草になっていって――今では完全にヘビースモーカーです」
「宮崎さん。まさか、あなたが?」
浩之青年の視線に、頭がくらくらしてきた。というのも彼が疑うような目を向けたからではなく、起床してからまだ一本も煙草を吸っていないからだ。起きると洗顔やトイレの前にまず煙草を吸うというのに、今朝はスクラップされた間抜けなロバの観察だ。だからよけいに頭がくらくらしてしまう。
そんなくらくらする頭を激しく振る。
「それは違います。自分がここに来たのは夕食前――何時だったか、そうそう、お風呂に入った後だから、午後五時前です。ちょうどこの部屋の前を通ったときに呼び止められて、中に入ってドラゴン、いや郷社長とお話をしていたのです……」
くらくらする頭を激しく振って、よけいにくらくらした頭部を恐る恐る上げてみる。浩之青年の目には嫌疑の色が残っていたものの、他の人たちの顔にはこの宮崎圭を疑うような表情は見て取れない。そして哲郎先輩ときたら、疑うというよりは蔑(さげす)んだ目で見ている……
「皆さんはこんな自分のことを疑っていると思います。そうですよね、殺害現場に自分の遺留品があったわけですから、疑われるのも当然です。分かりました。こうなったら、ドラいや郷社長を殺害した真犯人を、この自分が突き止めてみせます。昨日の自己紹介でも申し上げましたが、古今東西のミステリに精通していますから」
こうなりゃ、汚名返上、名誉挽回だ。じっちゃんの名にかけて、必ず下手人(げしゅにん)を挙げてみせる!――と意気込む宮崎圭。本物のじっちゃんは儲(もう)けが第一の商売人だったから、金田一耕助に職業ではなく名前の感じは似ている。
「山下さん。確認しますが、あなたの検死では郷社長の死亡推定時刻は昨日の午後九時から十一時の間ということですね?」
名探偵の質問に智則老爺は頷いた。まあ、容疑者レースの本命の男の検死結果だ。どうせ自分のアリバイが証明できる時間に決まっている。当てにはならない。後でその油っ気のないしわがれた細い身体に僅かに残っている油をしぼるだけしぼって、すべての罪を白状させるのだ。じっちゃんの名にかけて。
「そうと決まったら、まずはこの部屋を出ましょう。連絡がついてから警察にも現場検証をしてもらわないといけませんから、現状保存するために6号室はこれから立ち入り禁止とさせていただきます。まあ、警察の出番はおそらく無いと思いますが」
本命は智則老爺、対抗は君枝夫人。トップを争うこの二人のどちらかで決まりだ。二人が共犯だったということも考えられる。いずれにしても名探偵の事情聴取で明らかにしてみせる――
「ちょっと待って」と高い声で待ったをかけたのは真理先輩。「あたしたち、どうして宮崎の言うとおりにしなくちゃいけないの? あたしたちの中で宮崎がいちばん怪しいじゃない」
当然のことながら、自分はショックを受けた。優しいし、性格もいいし、ほのぼのしているし、それに国宝級の天然記念物である真理先輩が、明らかにこの宮崎圭を犯人扱いしている。自分の頭の中が相変わらずくらくらしているのは、ショックではなくニコチン切れのせいだが。
「そうですよ。僕も宮崎さんが怪しいと思います。だって、ここに宿泊する目的ですけど、他のお客さんには明確な理由があります。郷さんは定年祝い、山下さんは奥さんの療養を兼ねた湯治、小池さんは登山。でも宮崎さんには何もないじゃないですか。それに――」
としわがれた声で浩之青年が言ったところで、哲郎先輩が手の平で肩を抑えて制してくれた。
「まあ、いいではないか。宮崎は自分にかかった嫌疑を晴らすために、真相を究明したいと思っているのだ。そうだろ?」
「はい!」
さっきまで蔑んだ表情だった哲郎先輩がたくさんの星を輝かせている。そんな彼の笑顔を見て、自分は直立不動の姿勢ではきはきと返事をした。もし自分が犬だったら千切(ちぎ)れんばかりに尾っぽを振っただろうし、チンパンジーだったら腕が痛くなるくらいにシンバルを叩き続けただろう。それくらい嬉しくて力になった。
「分かったわ。あなたがそこまで言うのなら……」
釈然としない様子で真理先輩が部屋から出ていく。彼女に続いて浩之青年も出ていった。悲しいことに、二人は宮崎圭があの会社を辞めたことに根を持って社長を殺害したと思っているのだろう――でも、いい。真実が明らかになれば、二人とも跪(ひざまず)いて平伏して、自分の非を詫びることになるだろう。
「それで、どうしますか、探偵さん?」
哲郎先輩の優しいお言葉、それに背景にスターが輝く素敵な笑顔だ。この様子だと、喫煙してしまっているという不良行為も許してくれているようだ。嬉し泣きしそうになるのを必死に堪えた。
自分は声を振り絞って言った。
「もう朝食の時間です。まずは皆さんを食堂スペースに集めましょう」
「たいへん、たいへんなのよ。あの人が! あの人が!」
サイレンみたいにけたたましい高い声とともに、頬を叩かれて半(なか)ば強制的に起こされた。視界に飛び込んできたのは、君枝夫人の丸顔だ。目が赤く染まっている。時計は六時少し前を示していた。
「夫が、夫が、夫が、とにかく、たいへんなのよ!」
どうやら自分は囲炉裏端で、そのまま横になって眠ってしまったらしい。身体には掛布団が乗せられていた。風邪をひいてはいけない、と先輩が掛けてくれたのだろう。その掛布団を蹴って飛び起きた。ダジャレではないけれども布団とともに眠気も吹っ飛ぶ。
本当に、大変なことが、起きたのだ。
「どうしましたか?」
騒ぎに哲郎先輩と真理先輩、そして浩之青年がやってきた。三人は共同台所で朝食の準備をしていたようだ。
「とにかく、来て、来てよ。夫が、夫が……」
君枝夫人を先頭に、スリッパを履いて食堂スペースから客室のほうへと移動する。トイレ、布団部屋(7号室)と続き、最初のカーブを曲がってすぐのところに6号室のドアがある。
君枝夫人が6号室のドアを開けた。開けた途端に襲ってきたのは、真冬だというのに南の島を思わせるようなムッとした暖気(だんき)だ。暖かいを通り越して暑い。明らかに暖房が点けっ放しになっている。それにきつすぎるほどの獣臭が鼻を突く。東京都新島のくさやの干物と台湾の臭豆腐の匂いを足したような強烈さだ。片方の手で額の汗を拭い、もう片方の手で鼻を摘まなければならないほどだ。
スリッパを脱いで上がった。凄惨(せいさん)な光景に、思わず目を逸らした。座卓テーブルに頭を打ち付けられ、後頭部が真っ赤になって死んでいるのだ。恐る恐る変死体を直視する。どれだけ叩かれたのだろうか、血だらけの頭部はその原型をとどめていない。球体というよりは、ぺちゃんこと表現した方が良いくらいで、間抜けなロバは本当にスクラップされてしまったのだ。
「すぐ警察に連絡!」
哲郎先輩の声が飛び、自分は持っていたスマホを使った。でもここは東北地方の西側で北陸地方の北側、つまり豪雪地帯日本代表ともいえる秘境の一軒宿。もっと詳しく説明すると、東北地方男鹿半島の西側で、北陸地方能登半島の北側、そんな極地に携帯電話の基地局などない。だからスマホが繋がるはずがない。
そんなことはとうに承知している真理先輩が、すでに部屋を飛び出ていた。
被害者は間違いなく社長である。彼の頭部はいわゆる鈍器というもので、何度も何度も殴られたのであろう。それは容易に察しがつく。ということは、そうとう彼に恨みのある人間の犯行だ――それにしても、何と期待どおりの展開なのだろう。この暑気のような暑さおかげもあって興奮で熱くなってくる。
真理先輩が戻ってきた。興奮で熱くなっている自分とは逆で、化粧っ気のない顔は蒼白だ。それでも美しさを湛(たた)えている。
「駄目だわ。何度電話しても繋がらない」
「ちゃんと台所にある電話を使ったか?」
「使ったわ。でも受話器を取っても、何にも言わないのよ。110番をかけてみても、なんの反応も無いわ」
「嘘だろ。じゃあ、俺がやってみる」
と今度は哲郎先輩が部屋を出ていく。
「死んじゃっているのよね、これって、死んじゃって」
部屋に入ってから金切り声を上げて興奮している君枝夫人を抱えるようにして、真理先輩は部屋を出た。隣の部屋のドアが開いたので、一緒に5号室に入ったのだろう。
代わりに「どうしましたか?」と入ってきたのは、3号室の諒さんだ。彼も寝起きなのだろうか、宿の浴衣(ゆかた)姿だ。
浩之青年が社長の変死体を指で示すと、「ウッ」と喉を詰まらせた。そして部屋を出てトイレに駆け込んでしまった。とにかく凄惨(せいさん)な光景で、強烈な匂いだ。
「駄目だ。繋がらない。電話線が切られていた」
と声から先に哲郎先輩が戻ってきた。部屋の中は熱いというのに、彼も青白い顔をしている――なかなか真犯人もやるものだ。犯人は犯行後、外部との連絡を断つために電話線を切断した。まさに計画的な犯行ではないか。
そんな計画的な犯行の真犯人は、本命が智則老爺、そして対抗が君枝夫人だ。智則老爺は今さら言わずもがなだろう。そして君枝夫人は何だかおかしいのだ。確かに夫が殺害されて取り乱している感じはする。でも感じがするだけだ。泣いたり、わめいたり、騒いだり、そんな感じではいっさいない。それに智則老爺と同じく、殺害動機もある。だから対抗だ。本命、対抗どちらかは、死亡推定時刻のアリバイを当たってみなければならないが。
「そうなると、外部とまったく連絡ができないということですか?」と浩之青年が緊迫した声で聞く。
「ああ。外もすごい吹雪だからジープも出せないし、集落まで歩いていくのも冬山登山の装備をしていないと無理だし、今日だと時間もかかる。もしかしたら無理かもしれない」
哲郎先輩の言葉に浩之青年の溜息が聞こえてきた。無理もない。この満月荘には郷社長の変死体があり、そして社長を殺害した真犯人がいる。その真犯人が誰なのかまだ二人には分かっていない。だから不気味に感じてしまうのも無理はないのだ。
ここでホームズやポアロや明智小五郎と並ぶ名探偵、宮崎圭の出番だ。
「外部とまったく連絡が取れないとなると、我々で事件を究明しなければならないと思います」
もう、名探偵によってある程度、真実は究明されている。だが名探偵たる者、軽々しく真実を口にしない。
「そうですね。宮崎さんの言うとおりだと思います。誰が犯人なのか分からないのは、何だか気持ちが悪いです」
「そうだな。それは確かに気持ちが悪い――で、宮崎、何か手がかりがあるのか?」
哲郎先輩の目が自分の顔に向けられる。この臭くて暑い部屋の中にずっといると、何だか鼻も皮膚も慣れてきたようだ。額から汗も出なくなったし、匂いについても何とも思わなくなっていた。
「これはまず社長に対して、かなり恨みを持った人物の犯行です。何しろこれだけ後頭部を殴っているのですから。死んだ後も何度も何度も殴っていることでしょう。そして極めて計画的な犯行です。殺害後、外部との連絡を断つために、犯人は電話線を切ったのです。そしてもう一つ、犯行に使用された凶器です。鉄パイプのようなものと考えられますが、それが見当たりません。犯人は殺害後、その凶器をどこかに捨てたのでしょう。捨てる場所は簡単です。外ならどこでもいいのです。何しろこの吹雪ですから、あっという間に雪が凶器を隠してくれます。もしかしたら雪解けの季節まで、凶器は発見されないかもしれません。そしてこの雪、というより吹雪です」
自分は窓を指さした。硝子(がらす)窓を雪が叩きつけている。
「外部の人間がやって来て殺害するのは考えられません。必ず犯人はこの満月荘の中にいます!」
決まった。みんな自分の喋った推理が見事に的を射ているので、感心しているはず――だったが、哲郎先輩はそんな素振りも見せず、しゃがんで座卓テーブルの上を眺めている。座卓テーブルの上には、一合の徳利が二本とお猪口、皿に盛られたヤマメの塩焼き、それとガラス製の大きな灰皿が置かれていた。
「長野君の吸っている煙草の銘柄(めいがら)って何だっけ?」
「自分はキャスターですけれど」
哲郎先輩は「おかしいな」と言いながら首を傾げた。
「この灰皿の中、銘柄が違う二つの吸い殻があるのだ。一つはハイライト。こちらはドラゴンが吸っている銘柄だ。もう一つはセブンスターだな。二本、うん三本かな、セブンスターがハイライトに混ざっている。フィルターが茶色いのと白いのだからよくわかるけれど、このセブンスターを吸っていた人物が怪しくないか?」
「さすがオーナーです。そうですね。そうなると吸っていたのはいったい誰なんでしょう?」
しまった! それは自分だ。昨日、この部屋に社長に呼ばれたとき、吸ってしまったものだ……頭の中が真っ白になる。でもだ、これって、いま部屋を調べればわかってしまうこと。だったら、いっそのこと、正直に自分が吸った、実は喫煙者だとカミングアウトしてしまった方がいい。犯人と疑われるよりはずっとましだ。
「実は……その煙草……」
とカミングアウトしようとしたところで、入り口から本命、智則老爺が部屋に入ってきた。その後ろから真理先輩の顔も見える。
智則老爺はまず遺体に両手を合わせた。そしてテレビの上にある温度計で室温を見る。
「とりあえず、この部屋は暑いですから暖房を止めましょう。外はかなりの吹雪ですから、窓を開けるわけにはいきませんね。しばらく冷房にしておきますか」
言われるがまま哲郎先輩がエアコンを冷房運転に切り替えた。足もとに冷気が流れ込んでくる。
「女将さんから事情は聞きました。今は警察にも連絡ができない、そして警察が来るのも難しい状況です。死因は司法解剖をしないと断定できませんけれども、今なら簡単な検死で死亡推定時刻を割り出すことはできるでしょう。もう少し時間が経ってしまって死後硬直が完全になってしまうと、詳細な時間を割り出すことはできません。ですから今から自分がやってみようと思いますが、みなさん、異論はありませんか?」
「ありません」と異口同音に答えた。いつの間にか諒さんも戻ってきている。
「分かりました。やってみます」
智則老爺は黒い手袋を嵌(は)めて、遺体をチェックし始める。6号室に不気味な静寂が訪れていた。エアコンの冷気を吐き出す音と窓ガラスを雪が叩きつける音しかしていない。本当はこれで良かったのか、名探偵としては疑問が残るところだ。というのも、容疑者の本命が検死をして死亡推定時刻を割り出そうとしているのだから、自分のアリバイが成立する時刻を割り出しかねないからだ。冷静に考えればそうなのだけれど、自分の犯してしまったミス、つまりセブンスターの吸い殻のことで頭の中がいっぱいだった――
「昨日の午後十時といったところでしょう」しゃがんだままの姿勢で、智則老爺が静寂を破った。声が震えているように聞こえた。「午後十時というのも、冬なのに暖房で室温が二十四度もあったこと、そして老人や子どもの死後硬直は一般的に遅くなるということを考慮して割り出しました。しかしいろいろ特殊な条件が重なっているので、誤差も考えないといけません。誤差はプラスマイナス一時間くらい見ておいたほうがいいでしょう」
ここで沈黙。煙草のことをカミングアウトしなければならない。
「すいません……灰皿の中の煙草なんですけど、吸ったのは自分なんです……」
哲郎先輩、諒さん、浩之青年の顔に、驚きの色が見て取れた。自分は顔を俯かせてしまう。
「学生時代は吸ったことが無かったんです。でもあの会社に入ってから、仕事がきつくて、吸うようになりました。最初は本数も少なくて軽い煙草だったのですけれど、どんどん本数も増えて、重い煙草になっていって――今では完全にヘビースモーカーです」
「宮崎さん。まさか、あなたが?」
浩之青年の視線に、頭がくらくらしてきた。というのも彼が疑うような目を向けたからではなく、起床してからまだ一本も煙草を吸っていないからだ。起きると洗顔やトイレの前にまず煙草を吸うというのに、今朝はスクラップされた間抜けなロバの観察だ。だからよけいに頭がくらくらしてしまう。
そんなくらくらする頭を激しく振る。
「それは違います。自分がここに来たのは夕食前――何時だったか、そうそう、お風呂に入った後だから、午後五時前です。ちょうどこの部屋の前を通ったときに呼び止められて、中に入ってドラゴン、いや郷社長とお話をしていたのです……」
くらくらする頭を激しく振って、よけいにくらくらした頭部を恐る恐る上げてみる。浩之青年の目には嫌疑の色が残っていたものの、他の人たちの顔にはこの宮崎圭を疑うような表情は見て取れない。そして哲郎先輩ときたら、疑うというよりは蔑(さげす)んだ目で見ている……
「皆さんはこんな自分のことを疑っていると思います。そうですよね、殺害現場に自分の遺留品があったわけですから、疑われるのも当然です。分かりました。こうなったら、ドラいや郷社長を殺害した真犯人を、この自分が突き止めてみせます。昨日の自己紹介でも申し上げましたが、古今東西のミステリに精通していますから」
こうなりゃ、汚名返上、名誉挽回だ。じっちゃんの名にかけて、必ず下手人(げしゅにん)を挙げてみせる!――と意気込む宮崎圭。本物のじっちゃんは儲(もう)けが第一の商売人だったから、金田一耕助に職業ではなく名前の感じは似ている。
「山下さん。確認しますが、あなたの検死では郷社長の死亡推定時刻は昨日の午後九時から十一時の間ということですね?」
名探偵の質問に智則老爺は頷いた。まあ、容疑者レースの本命の男の検死結果だ。どうせ自分のアリバイが証明できる時間に決まっている。当てにはならない。後でその油っ気のないしわがれた細い身体に僅かに残っている油をしぼるだけしぼって、すべての罪を白状させるのだ。じっちゃんの名にかけて。
「そうと決まったら、まずはこの部屋を出ましょう。連絡がついてから警察にも現場検証をしてもらわないといけませんから、現状保存するために6号室はこれから立ち入り禁止とさせていただきます。まあ、警察の出番はおそらく無いと思いますが」
本命は智則老爺、対抗は君枝夫人。トップを争うこの二人のどちらかで決まりだ。二人が共犯だったということも考えられる。いずれにしても名探偵の事情聴取で明らかにしてみせる――
「ちょっと待って」と高い声で待ったをかけたのは真理先輩。「あたしたち、どうして宮崎の言うとおりにしなくちゃいけないの? あたしたちの中で宮崎がいちばん怪しいじゃない」
当然のことながら、自分はショックを受けた。優しいし、性格もいいし、ほのぼのしているし、それに国宝級の天然記念物である真理先輩が、明らかにこの宮崎圭を犯人扱いしている。自分の頭の中が相変わらずくらくらしているのは、ショックではなくニコチン切れのせいだが。
「そうですよ。僕も宮崎さんが怪しいと思います。だって、ここに宿泊する目的ですけど、他のお客さんには明確な理由があります。郷さんは定年祝い、山下さんは奥さんの療養を兼ねた湯治、小池さんは登山。でも宮崎さんには何もないじゃないですか。それに――」
としわがれた声で浩之青年が言ったところで、哲郎先輩が手の平で肩を抑えて制してくれた。
「まあ、いいではないか。宮崎は自分にかかった嫌疑を晴らすために、真相を究明したいと思っているのだ。そうだろ?」
「はい!」
さっきまで蔑んだ表情だった哲郎先輩がたくさんの星を輝かせている。そんな彼の笑顔を見て、自分は直立不動の姿勢ではきはきと返事をした。もし自分が犬だったら千切(ちぎ)れんばかりに尾っぽを振っただろうし、チンパンジーだったら腕が痛くなるくらいにシンバルを叩き続けただろう。それくらい嬉しくて力になった。
「分かったわ。あなたがそこまで言うのなら……」
釈然としない様子で真理先輩が部屋から出ていく。彼女に続いて浩之青年も出ていった。悲しいことに、二人は宮崎圭があの会社を辞めたことに根を持って社長を殺害したと思っているのだろう――でも、いい。真実が明らかになれば、二人とも跪(ひざまず)いて平伏して、自分の非を詫びることになるだろう。
「それで、どうしますか、探偵さん?」
哲郎先輩の優しいお言葉、それに背景にスターが輝く素敵な笑顔だ。この様子だと、喫煙してしまっているという不良行為も許してくれているようだ。嬉し泣きしそうになるのを必死に堪えた。
自分は声を振り絞って言った。
「もう朝食の時間です。まずは皆さんを食堂スペースに集めましょう」
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