9 / 16
■7■
しおりを挟む
■7■
午後七時半少し前に夕食が終わった。食欲が満たされたらニコチン欲だ。すっ飛んで1号室に戻った。
自分の住んでいるアパートの部屋と同じ広さか若干広いと思われる、満月荘のスィートルーム。そこに宿泊しているのは自分一人だ。もちろんノッポでもないし、デブでもない。これだけの広さで一人だから、ぜいたくなものである。普通なら就寝時には片付けるであろう座卓テーブルも出したまま、その奥に白い布団が敷かれていた。
座卓テーブルの座布団に腰を下ろすと、さっそく煙草に火を点ける。灰皿に吸い殻が溜ってきている。夜中にこっそり洗濯室のゴミ箱に捨てに行かないといけない。
「ここにはね、主人に殺意を抱いている人たちが集まっているの。あなたと、そして私もふくめて」
君枝夫人の言葉がほろ酔いの脳裏に貼り付く。やはり確実に何かが起こる。何かは当然、社長が何者かによって殺される事件だ。そう。満月荘殺人事件。
そう思って外を見た。ここは東北地方の西側で北陸地方の北側、つまり豪雪地帯日本代表みたいな極地。それに日本の気象庁は優秀だ。天気予報どおり、先ほど降り始めた雪は、窓を叩きつけるような吹雪になっていた。このぶんだと、あのバス停から満月荘にやって来るのは不可能だろう。ジープも出せないし、徒歩で来るのは危険だ。
そうなると、完全に、いま満月荘にいる人間の犯行になる――そう思うと気持ちは高ぶってきた――いったい、誰が社長を殺すのか。
強烈な殺害動機があるのは山下夫妻だ。彼らは息子の自殺の原因をこしらえてしまった塾の先生を社長だと認識している。動機としてはじゅうぶんすぎる。でも直子老婆は脚が悪いから、実際の犯行は無理であろう。となると、自然に智則老爺だ。
それに君枝夫人も赤丸急上昇中だ。社長の話がどこまで真実なのか分からないけれども、保険金に階段突き落とし、料理にヒ素混入とくる。この旅行を企画したのも彼女だし、彼女が受取人となっている生命保険も新たに契約しているという。社長が殺されれば得をするのは夫人一人だけなのだ。それにけっこう腹黒い。
そして――と、思ったところで胸がつぶれた――そうだったのだ。そのことを哲郎先輩に伝えなければならなかったのだ。智則老爺だけではない。君枝夫人も社長の命を狙っているから、哲郎先輩はわざわざご自分の手を汚すことはないのです――と。
吸っていた煙草を灰皿に押し潰して腰を浮かせたが、すぐにまた座布団に着地。問題はどんな言葉で先輩に伝えるかだ。
新しい煙草に火を点ける――本当は社長を恨んでいるのではないですか、とストレートに聞いてしまうか? これはストレートすぎる。だったら満月荘に加害者と被害者が宿泊していることを伝えようか? このことはきちんと哲郎先輩に伝えなければならないけれど、最初に伝える内容ではない。だったら何から?
まずは冬なのに満室だなんて、珍しいですね。なんて差し障(さわ)りのない内容なら入ることにしよう。それから社長の話だ。同じ日に宿泊するなんて、本当に偶然でびっくりしました、なんて話していけば自然の流れだ。
あとは流れに任せよう。昭和の名曲、川の流れのようにだ。使い方は違うような気がするが。
そうと決まれば、吸っていた煙草を灰皿に押し消す。そして口臭予防を兼ねて食後の歯ブラシ。息をチェック。問題なさそうだ。
部屋を出て鍵を閉める。浴室のドアには「男性入浴中」の青字の札が掛けられていた。S字コーナーになっている廊下を歩いて食堂スペースに行くと、何と運が良いことだろうか。そこにいたのは哲郎先輩一人だけだった。おそらく真理先輩と浩之青年は奥の共同台所でレクレーションタイムの用意をしているのだろう。声だけが聞こえる。彼は洗濯室へゴミを捨てに行くところだった。
「おう。宮崎。夕食はどうだったか?」
「はい。とてもおいしかったです。料理がとても上手なお嫁さんを貰って、本当に先輩が羨(うらや)ましいです」
「バカ言うな」
と言いつつも哲郎先輩は満更でもないご様子。酒も飲んでいないはずなのに、顔を上気させている。
そりゃあ、そうだ。真理先輩は料理が上手なだけではない。美人だし、スタイルもいいし、優しいし、性格もいいし、ほのぼのしているし、それに国宝級の天然だ。天然と言ってもち密な計算のもと作られたぶりっ子ではない。まさに天然記念物。折り紙と血統書付きだ。そんな彼女に言い寄られたりしたら、男なら誰だってコロッと堕(お)ちてしまうだろう。
周りを見回した。誰もいないようだ。哲郎先輩に従うように、洗濯室に入る。心臓の鼓動が早まった。
「先輩。少しお話しておきたいことがあるのですけれど、ちょっとお時間をいただいても、よろしいですか?」
「ああ。いいよ」
イケメンに似合いの爽やかすぎる笑顔。彼が会社を辞めるとき、本当にどれだけ多くの女性社員が涙を流したことか――
洗濯室の中には洗濯機と乾燥機が一台ずつ。その奥は喫煙スペースになっていて、灰皿の下に水が入った一斗缶が置かれている。そこに吸い殻を捨てるようだ。そして「缶、瓶、ペットボトル」「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」と書かれた青色のダストボックスがある。あとは場末のラーメン屋にあるような丸椅子が四つ。そのうちの一つに哲郎先輩が腰を下ろした。自分も先輩の正面に座る。
「三年前の夏に伺った時に、夏はけっこう予約が入るけれど、冬は殆ど入らないから、ジープが動かせるときは、いつきても大丈夫と先輩がおっしゃっていましたけれど、今日は満室なのですね?」
「ああ。俺もびっくりしているよ。こんな日は本当に珍しい」
哲郎先輩の声がそう言った。明るく爽やかな声だ。爽やかな笑顔で、この殺風景な洗濯室をお花畑に変えている。でもこれから喋る内容が内容だ。緊張しすぎて、先輩の顔を直視できない。うつむいたまま喋っている。
「それに社長夫妻が宿泊するなんて、本当に偶然です……」
「まさか、宮崎――」彼の声が急に低くなった。背中を急に押されたように、びくついてしまう。顔を上げると、彼の真剣な眼差しが刺さっていた。「お前、まさか、ドラゴンを恨んだりして――」
「とんでもないです。むしろ自分はあんな会社、辞めて良かったと思っていますので」と大きくかぶりを振った。もちろん自分に殺意などあるわけがない。むしろあるのは――
「だったらいいんだ。宮崎は間違っても変な考えを起こさないでほしい。いいな?」
諭(さと)すような哲郎先輩の言葉に大きく頷いた。頷いた後で「変な考え」という言葉が喉につかえた小魚の骨のように引っかかってくる。まさか、キリストと釈迦とマホメットを合わせたような哲郎先輩は、ヒトラーとスターリンと金正恩を合わせたようなドラゴンを殺そうとしているのではないだろうか。それはまずい。今すぐに悔い改めてもらわないといけない。
「先輩。変な考えって何ですか?」
「ああ。宮崎は本心で、何を考えているのか分からないところがあるからな。ドラゴンにいきなり罵声を浴びせたり、食って掛かったり、刺し殺したりしないかと、心配で仕方がないんだ」
哲郎先輩が冗談っぽく言った。さすがは先輩。本心で何を考えているのか分からないなんて、後輩のことをよく知っている。見破られてしまったのはショックだが、でも自分は冗談と受け取らない方が良いだろうと、咄嗟(とっさ)に判断した。
「先輩。自分は絶対にドラゴンを刺し殺したりはしません」社長を殺すのは智則老爺か君枝夫人だ。必死に脳をフル回転させて言葉を考えた。「でも、何だか不吉なことが起こるような気がするのです」
「不吉なこと?」哲郎先輩は首を傾げた。自分は先輩の顔を見ずに、大きく頷いた。これから言うことが、ぜひとも先輩に伝えたいことだ。
「ドラゴン夫妻の旅行って、ドラゴンの定年祝いですよね?」
「そう聞いているよ」彼の声は穏やかだ。
「予約したのは奥さんのほうですよね?」
「常識で考えたら普通そうだろ。何しろ今まで家族のために働いてくれてありがとう。そしてお疲れさまっていう意味の旅行なのだから」
唾を呑(の)み込んだ。そして哲郎先輩の顔を見る。
「先輩だから話しますけど、奥さんにドラゴンに対する殺意みたいなものを感じたのです……」
哲郎先輩はプッと吹き出した。まるで自分の真剣な顔がおかしいとでも言いたげに。
「宮崎、考え過ぎだ。そんなわけないだろ」哲郎先輩は「無い、無い」と右手を顔の前で揺らし、左手で腹を抱えて笑った。「君枝さんは、いつも毒を吐いている人だよ。旦那をぶっ殺すとか、いつか刺し殺してやるなんて言っているけれど、それは昔から口癖みたいに言っていることだから真(ま)に受けちゃ駄目だぞ」
哲郎先輩は曲がったことが大嫌いだ。だから嘘なんかつかない。君枝夫人のことは本当なのだろう。だったら――
「だったら2号室の山下夫妻はどうですか? 彼らはドラゴンを殺したいほど憎んでいると思います」
哲郎先輩の浅黒い顔を注意深く観察する。細い眉の端が一瞬ピクリと吊(つ)り上がった。やはり哲郎先輩も自分と同じことを感じている。
「山下さんの息子さんのこと、知っているのか?」
「はい。ドラゴンの唾スリッパが原因で自殺したことも、そのドラゴンが今日泊まりに来ていることを知っていることも、自分は山下さんの奥さんから聞いています――」
吊り上がっていた先輩の目じりが下がった。薄い唇にも笑みが戻る。
「宮崎。本当にお前、考え過ぎ。まさか、山下さんがドラゴンを殺害するのでは、と心配になったのか?」
「そういうわけでは……」
ここで「そうです」と肯定するのもおかしい気がして、わざと口ごもる。でも、これから確実に、冬の満月荘殺人事件が起こってしまうことを、哲郎先輩は予想できていない。
「夕食のとき、見ただろ。山下さん夫妻もドラゴン夫妻も、楽しそうに会話を弾ませて食事をしていただろ。それに山下さんの奥さんのお身体(からだ)が悪いので、君枝さんがお風呂にも一緒に入って介助(かいじょ)してあげるそうだ」
「そうなんですけど……」
言いかけたところで、哲郎先輩がいきなり浅黒い顔を近づけてきた。毛穴まで確認できるような至近距離だ。今までこんな近くで彼の顔を拝んだことはない。たとえ女の子でなくても、胸が高まるであろう。
「余計なことは考えない方がいい。いいか?」
頷(うなづ)くしかなかった。哲郎先輩の顔が離れる。
「午後九時からレクレーションタイムを行うから、食堂スペースに来るように。瓶ビールは飲み放題だからな。今夜は特別サービスで宮崎のために地酒も飲み放題でつけるぞ」
まさに星がキラキラ輝く爽やかな笑顔を見て吹っ飛んだ。哲郎先輩はドラゴンに対する殺意など、持っているわけがないのだ。
哲郎先輩が丸椅子から腰を浮かした。
「先輩。自分にも何かお手伝いできることはありませんか?」
「そうだな。じゃあ、頼むか。真理の用意を手伝ってほしい」
「分かりました」直立不動で立ち上がる宮崎圭。「でも、その前にちょっと部屋に戻ります」
ニコチン欲が抑(おさ)えられず、S字コーナーを戻って1号室へ。慌てていて、うっかり鍵を掛けるのを忘れて出てきてしまった。
念のため部屋を確認する。財布とか貴重品は何も盗まれていないようだ。念には念を入れて荷物も確認。スーツケースの中身も荒らされた形跡はない。安心して煙草をくゆらせた。
哲郎先輩は否定していたけれども、確実に今夜あたり事件が起こる。今夜起こらなければ明晩だ。何しろ外が吹雪で、同じ屋根の下に被害者の親と加害者がいるのだ。こんな状況で、何も起こらないなんてミステリ小説では絶対に考えられない。事実は小説より奇なり。だったら絶対に何かが起こる! 絶対に智則老爺が社長を殺害する!
そう思うと期待で胸の鼓動が高まる。それにしても哲郎先輩は相変わらず、お人好しで甘い。すべて性善説で他人を見ている。そこが彼の社内で人気のあった理由の一つなのだろうけれども、自分はまったく逆なのだ。
煙草を二本吸い、いつもの口臭予防。息を確認して部屋を出る。今度はきちんと鍵を掛けた。浴室のドアはまだ「男性入浴中」になっていた。S字コーナーを抜け、食堂スペースへ。真理先輩が共同台所でレクレーションタイムの用意をしていた。
「先輩。何か手伝うことがありますか?」
「宮崎はお客さんだから、いいのよ。準備ができるのを囲炉裏の前で座って待っていて」
と真理先輩は背景にハートがたくさん描かれるような笑顔を浮かべ、串に刺さった川魚を持って食堂スペースに移動する。スリッパを脱いで食堂スペースに上がり、その串を囲炉裏の炭の回りに刺した。
「先輩、それ鮎(あゆ)ですか?」
真理先輩は首を振ってハートを振り撒く。
「川魚の女王と言われているヤマメよ。一人一本ずつあるわ。私も成長したと思わない? だってここに嫁(とつ)ぐ前は、魚と目が合っているような気がしちゃって、魚を串刺しにするなんて怖くて出来(でき)なかったんだから」
なんてハートをふりふり、頬を赤らめる。男なら、いや男でなくても、すべての人類がキュンとくるだろう。もちろん自分だって、そして超イケメンの哲郎先輩だって、キュンとなるのだから。
「天然もののヤマメですね。それって先輩みたいじゃないですか」
「あら。女王だなんて。宮崎は相変わらず口が上手なんだから」
そっちのつもりで言ったのではないのだけれど。でも年下の自分が言うのも何だけれども、可愛(かわい)いから許す。
「とにかくお手伝いしますよ。小田先輩からも手伝うように言われていますので」
「そう。だったら残りのヤマメ、囲炉裏に刺しといてくれる?」
「分かりました」
共同台所に残っていたヤマメは四本。それを囲炉裏に刺していく。合計で九本。宿泊者六名と従業員三名ぶんであろう。
ヤマメを刺し終えたとき、玄関が開き、冷気が入ってきた。玄関に立っていたのは哲郎先輩と浩之青年だ。二人で瓶ビールの入ったケースを持っている。
「今夜は酒豪がいるからな。倉庫からちょっと多めに持って来ておかないと」
哲郎先輩はビールのケースを下ろすと、雪をはたきながら爽やかな笑顔だ。こちらは背景にハートではなく星がキラキラ。冷気とハートと星で自分の頬がほのかに赤く染まったに違いない。
哲郎先輩に合わせるように、浩之青年も笑っている。変に誤解されてしまう。上気させている場合ではない。自分も反論しなければならない。
「先輩。自分だって後輩としてちゃんとわきまえています。先輩が飲めとおっしゃったら、先輩の命令は神様のお告げと同じで絶対じゃないですか」
「だったら、飲むな」
「そんな~、殺生な~」
うまく返したつもりだったけれど、倍返しを食らってしまった。哲郎先輩はしてやったりと、背景に星をキラキラと輝かせている。
「ちょっと早かったですか?」
と食堂スペースにやってきたのは諒さんだ。夕食の後で風呂に入ったのだろう。民宿の浴衣を着ている。
「どうぞどうぞ。もうすぐ用意ができますので」
哲郎先輩に促されて、諒さんは囲炉裏の前の座布団に腰を下ろした。
「今夜はヤマメですね」
「分かるんですか。すごいですね。自分は鮎だと思っていました」鮎とヤマメの区別できることがすごいとはちっとも思っていないけれども。
「鮎は鮎科に属していて、全体が銀色で背びれに黄色い斑点があるのが特徴です。コケなどを好んで食べます。それに対してヤマメって実は鮭科で肉食魚なのです。だから鮭を小さくした形をしているのです。そして繁殖期には黒っぽい色になります」
「言われてみれば、そうですね」
諒さんの言うとおりだ。こいつは体長が二十センチもないけれども、もっと成長すれば鮭になるような気がする。
「実は鮭もヤマメも卵が一緒なのですよ。どちらも幼魚のうちは川の上流域で育つのですけれど、そのうちエサを多く食べて成長が早く大きくなったのがヤマメになり、逆にあまりエサにありつけず小さい個体が無限のエサを求めて海に出たのが鮭になるのです。もちろん海のほうが、エサはたくさんありますからね。どんどん成長して、大きかったヤマメよりもさらに大きくなって、また産卵のために生まれた川に戻ってくるのです」
「へえ。そうなんですか」
諒さんの話に感心していると、「ビールにしますか、それとも日本酒にしますか?」と真理先輩が共同台所から顔だけをちょこんと出して聞いてきた。諒さんはビールを注文し、自分は熱燗(あつかん)だ。
共同台所にいた小田夫妻と浩之青年が、お酒や簡単なおつまみなどを持って囲炉裏にやってきた。五人で囲炉裏を囲むように座る。九時にはまだ時間がある。
結局手伝いと言っても、ヤマメを囲炉裏に刺しただけだけど、まあいいか。
「山下夫妻と郷夫妻はご一緒しないのですか?」聞いたのは諒さんだ。
「奥さん同士、お風呂に入られるようです。山下夫人はお身体が不自由なので、万が一に備えて郷夫人もご一緒するみたいですね。山下さんと郷さんは、お部屋でゴルフの話をされたいみたいですので、ヤマメが焼きあがったら、お酒と一緒に持っていきます」
哲郎先輩の話を聞いて、ワクワクしてきた。何しろ社長と智則老爺が二人きりになるのだ。ここで殺人事件? いや、これはダメだ。誰でも犯人が智則老爺だと推理できてしまう。これではミステリなんかにならない。
「宮崎ったら、なんで首なんか振っているの? ほら、とりあえず乾杯」
自分の隣に座った真理先輩のお酌で、お猪口(ちょこ)に熱燗がなみなみと注がれる。考えていたことがバレたのでは、と心配になって見回したが、どの顔も笑顔だ。真理先輩はハートをふりふり飛ばしているし、哲郎先輩はスターをきらきら輝かせている。浩之青年と諒さんは普通の笑顔だけれども。
年長者である諒さんの乾杯の合図で飲み始めた。
自分は最初から日本酒だ。でもみんなはビールを飲んでいる。哲郎先輩の説明だと、これは「冷海」という銘柄の地酒だそうだ。名前から想像できるような辛口で、重厚感がある。まるで斧(おの)でスパッと切ったかのような切れのいい後味。ツウ好みのお酒だ。
「ヤマメが焼き上がるまで、満月荘のスタッフの自己紹介で盛り上がりましょう。焼き上がるのにだいたい一時間くらいかかりますから」
哲郎先輩の提案で、自己紹介が始まった。
まずはアルバイトでもあり、もっとも年少者である浩之青年。
彼は東京生まれで、こちらの地元の育ち。現在雪尻大学経済学部の二年生。でも二十二歳。理由は突っ込まないでください、と笑いを取ったが、聞くのも二度目の自分は笑えない。いちおう来春は三年生に進級できる予定。趣味は高校時代に始めた登山部で、この辺りの山はだいたい制覇したそうだ。大学でも登山のサークルに入っているという。部員はユーレイばかりで人間は僕一人と、ここでも笑いを取った。こちらのほうは酔いも手伝って笑えた。
そんな彼の満月荘との出会いは六年前、高校の登山部の海岳登山の合宿で宿泊したときだそうだ。そのときは哲郎先輩のお母さんが満月荘を切り盛りしていたという。そして三年前の冬、つまり大学一年のときにもう一度、冬山登山のために宿泊し、その時、代替わりした小田夫妻と意気投合し、冬の間、ほとんど住み込みみたいな形でアルバイトさせてもらっているという。家族は雪尻の町で母親と二人暮らし。ジープの中で話していた過労死した父親のことは触れなかった。
よろしくお願いしますと浩之青年が座ると、拍手が起こった。うまい自己紹介だった。次に立ち上がったのは哲郎先輩だ。
彼は高校までこの地で育ち、大学から東京。冬の間は満月荘にいると学校に通えなくなるから、近くの集落にある親戚の家で寝泊まりしたそうだ。三流私立大学出身なんて自分を卑下(ひげ)するから、稲応のどこが三流大学なんですか、そんなこと言ったら自分なんか五流いや六流私立ですよ、と自分はツッコミを入れる。哲郎先輩はイケメンでなおかつ頭も良い。現在満月荘のオーナー。経営はがたがたで傾きかけているけれど、とジョークなのか本当なのか分からないことを言う。高校まではバスケ部。これは自分と一緒。大学は弁護士を目指して法学部に進むが、サークル活動にはまって勉学がおろそかになってしまい断念。ここでツッコミは入れなかったけれど、そうとう遊んでいて、女の子も泣かし続けてきたのだろう、と容易に推測できる。趣味は高校一年のときに始めたスノーボードで、宿泊客がいなくて天気の良い日は、ここからジープで三十分ほど行ったところにあるゲレンデに行くそうだ。
大学卒業後は真理先輩や自分と同じ会社に入社。真理先輩と出会う――そこですかさず、第一印象はどうだったんですか? と結婚式の二次会恒例のような自分の質問が飛ぶ。そのときは大学時代から付き合っていたカノジョがいたので、何とも思わなかった、と素っ気ない回答。いつから女性として意識し始めたのですか? と自分に負けじと浩之青年の質問。いつからだったかな? ととぼける哲郎先輩。で、入社してすぐに父親が他界し、五年前に母親が病気になって入院して満月荘で働けなくなる。同期と比べてもそれほど成績が良いわけではなかったし、だったら故郷の満月荘を継ごうと決意して、今に至るのだそうだ。なに、嘘を言っているんですか、成績も良かったじゃないですか、と自分が抗議すると、いやいや、もっとすごい同期がいただろ、と数人の名前を出してくる。でも本当に数人だ。イケメンで、頭が良くて、仕事もできる。本当に自分にとって理想の先輩であり、憧れの上司だったのだ。で、柏木先輩との馴れ初(そ)めは? と自分が質問を飛ばすと、はい、バトンタッチ、と哲郎先輩は星付きの笑顔を輝かせ、真理先輩の手の平を叩いて腰を下ろしてしまった。
もう、やりにくいわね、と薄いピンクの唇を尖(とが)らせて、真理先輩が立ち上がった。
真理先輩は埼玉生まれの東京育ち。血液型はA型。高校までは地元の公立高校。今は「おだまり」だけれども、小学生のときのあだ名はなぜか「ひだまり」。それ、分かります、と自分が言ったら睨まれた。高校時代はカルタ部に所属。カルタと言っても「犬も歩けば棒に当たる」「ハイッ」というのではなくて、本格的な百人一首の部活動らしい。だから本当は反射神経がすごいと言うけれど、自分と浩之青年は「エーッ」と声を張り上げた。すると、中学時代は制服のスカートを膝上(ひざうえ)十五センチ以上と思い切り短くしていて、ルーズソックスを履いてネックレスなんかもつけて登校していたから、先生に目を付けられて追いかけられたけれど、いつも振り切ったと反論してくる。きっと先生は竹馬とか三輪車とかに乗って追いかけていたのだろう。真理先輩にすばしっこいなんてイメージはぜんぜん無い。
大学は本当に三流だから、と大学名は割愛。教師になりたいという夢があったので、教育学部に進学し、大学では勉強もしっかりやっていたらしい。カレシは何人できたのですか? という自分の質問にはブイサインで答えた。二人という意味だろう。でも教員採用試験にことごとく落ちてしまい、哲郎先輩や自分と同じ会社に就職した。以上って言って、座布団に腰を沈めようとしたので、自分が「ちょっと待ったあ!」と声を荒げた。
哲郎先輩の第一印象は? と自分が質問を投げ掛けると、絶対に遊んでいると印象だったと答える。とにかく一年目はチャラかったと真理先輩が付け加えると、すかさず哲郎先輩も、お前も同期の中で、いちばんの厚化粧でケバかっただろ、本気でキャバ嬢だと思っていた、と反撃してくる。先輩同士にらみ合って、漫画で描くなら真ん中で視線がぶつかって火花がはじけているといったところ。これは火花を沈下させて、早くスターとハートが飛び交う笑顔にさせないといけない、と自分は質問を次々に繰(く)り出す。
いちばん最初のデートは、お台場だったらしい。どちらが最初に付き合おうと言い出したのかは、意外にも真理先輩のほうだった。一年間同じ部署で働いて、何度も哲郎先輩が失敗をフォローしてくれて、その優しさに惹かれていったそうだ。プロポーズの言葉は秘密で、哲郎先輩が会社を辞めて満月荘を継ぐことを伝えたときに、真理先輩も会社を辞めることを決意したそうだ。結婚式はお互いの親族を呼び地元で挙げたのだけれども、披露(ひろう)宴(えん)と新婚旅行は民宿の仕事が忙しくて、なかなかできないらしい。
「そろそろ、ヤマメ、大丈夫みたい」
囲炉裏の炭の周りのヤマメは、茶色い焼き色が全体についているものが多くなった。
「この四本、もう食べられるわ」
と真理先輩がこんがりと焼き上がった四本のヤマメを取り分ける。
「じゃあ、俺がお酒とともに山下さんとドラゴンのところに持っていくよ。お酒はドラゴンが日本酒で他はビールだったな」
哲郎先輩と浩之青年が四本のヤマメの串刺しとお酒を手に、客室に向かった。囲炉裏に残ったのは真理先輩と諒さんと自分だ。
「あとは焼き上がるまで少し時間が掛かっちゃうわね」
時計を確認する。十時十分くらい前。ニコチン中毒のこの自分が、一時間もニコチンを我慢してアルコールを摂取しているなんて、奇跡に近いことだ。睡眠時間以外では、自分がニコチンを我慢できる時間は、サッカー選手が休憩なしでピッチに立てる時間とだいたい一緒で四十五分間だ。
「だったら、ちょっと――」と言って立ち上がった。トイレに行く振りをして、煙草を吸うためだ。でも洗濯室の喫煙スペースで吸うわけにはいかない。哲郎先輩が戻ってきて見られてしまうかもしれないからだ。それなら自分の部屋に行って、誰の目も気にすることなく一服するのがいちばん良い。
食堂スペースを下り、スリッパを履いて客室のS字コーナーを進む。2号室の中から声がした。いま二人は山下夫妻にヤマメとお酒を届けているのだろう。正面の風呂のドアは「女性入浴中」の赤い札が掛けられていた。
1号室の鍵をあけて中に入る。正面の窓に雪が激しく叩きつけていた。かなり強い吹雪だ。座布団に胡坐(あぐら)で座って煙草に火を点ける。勢いよく煙を吐き出す。うまい。だけれどももう少し切れがあってもいい。普段吸っているのはセブンスターだけれど、これからはもっとニコチンとタールが多めのハイライトにしようか? でもこれ以上強くしてしまうと、完全にオッサンじゃないか。まだ若いし、やはりセッターが限界だろう。
一本吸い終わると、トイレに行きたくなる。部屋のトイレで用を済ますと、もう一度煙草が吸いたくなってきて煙草に火を点けた。時計を確認すると、十時をちょっとだけ過ぎている。
事件が起きるのならそろそろではないのか。でも、いま起きてしまってはまずいことになる。なぜなら自分はいまこうして部屋で、一人で煙草を吸っているからだ。十時ちょうどに殺されましたなんて検死の結果が出されてしまったら、自分のアリバイは誰も証明してくれない。いや、もっと重要な問題がある。アリバイを正直に自白したら、自分が喫煙者で、しかもセブンスターなんてオッサン一歩手前の煙草を吸っていることが、哲郎先輩に露見(ろけん)してしまうではないか。
これは悠長(ゆうちょう)に煙草をくゆらしている場合ではないぞ。まだじゅうぶんに楽しめる煙草を灰皿に押し潰して、急いで口臭対策。そしてツッコミにも使えるスリッパを履いて、急いで部屋を出る。
鍵を掛けるときに風呂のドアが目に入った。まだ「女性入浴中」だ。きっと直子夫人の足腰が悪いから時間がかかるだろう。2号室のドアの中からは声が漏れてこなかった。勝負を分けるS字コーナーの途中にある3号室と5号室はお風呂に入っていたり、食堂スペースにいたりして誰もいないだろう。6号室はどうか。ドアに近づき、耳を澄ましたけれども、こちらも声は漏れてきていない。S字を無事通り抜け、便所前ストレート、そしてゴールの食堂スペースへ。給油(ニコチン注入)時間を含めて十分強、タイムはまずまずだ。でもゴールすると、一着ではなかった。コックピット(1号室)での給油時間が長すぎたようだ。哲郎先輩と浩之青年は囲炉裏に戻ってきていて、ビールを飲み始めている。自分もスリッパを脱いで食堂スペースに上がった。
「君枝さんと山下さんの奥さんが入浴中だから、焼き上がったヤマメ、宮崎、先に食べて」
と真理先輩が串からほぐしたヤマメが盛られた皿を自分に渡してくれた。うまい。真理先輩が身をほぐしてくれたのだから、よけいだ。
「お酒もいっぱいあるから飲んでね。今日は日本酒も飲み放題だから」
真理先輩が熱燗(あつかん)をお猪口(ちょこ)に注いでくれる。真理先輩のお酌で飲む熱燗は本当においしい。まるで料亭の美人女将のようだ。そんな美人女将のお酌で、毎晩しかもタダで飲める哲郎先輩が羨ましい限りである。空になったお猪口に、もう一杯注がれる。これではどんどん酒が進む。
「では、後半はお客様の自己紹介と言うことで」と哲郎先輩が言うと、「じゃあ、私から行きましょう。あまり面白いエピソードもないからトリは絶対に嫌なので」と諒さんが立ち上がった。「やられたあ」と思わず声を荒げる自分。その空になったお猪口にまた熱燗が注がれる。
3号室に宿泊している小池諒。今年の夏で五十四歳になるという。東京生まれの東京育ち。東京といっても23区内ではない。そんな市があるの? という町らしい。でも夏の国というプールで有名なレジャー施設があるという。そこなら行ったことがある、と他の四人が異口同音に言った。高校そして大学と東京都内で、山岳部に所属。特に大学は山に登ってばかりで授業にも出なかったため、六年間も通っていたらしい。おすすめの山は日本では剱(つるぎ)岳(だけ)と海岳。海岳登山の際は、必ず満月荘に寄るという。あとは谷川岳だが、実は谷川岳が世界でいちばん死亡率が高い山らしい。外国で登ったことのある山はモンブランのみ。外国の山まで登ったことがあるのですか、いいなあ、と浩之青年が反応した。どこかのテレビで女芸人が世界六大陸と南極大陸の最高峰を制覇したと言うけれど、自分もお金があるのならやってみたい、暇はいくらでもあるから、とおどけた。そこは本当みたいだからあえて突っ込むのはやめておいた。
彼の満月荘との出会いは十年前。やはり先代が切り盛りしていた時代だ。それから五回ほど来ていて、最近では二年前の冬。一度、満月荘が休業中の五年前にも登っているので、これで海岳登山は七回目だそうだ。しかもすべて冬山。やはり冬の海岳の魅力はあらゆる生命を拒絶するような張り詰めた空気だと言う。そんな中で死を意識しながら登る。そして登頂した後に味わえる感動。そこは冬山の魅力らしいが、他の日本の山では味わえない魅力が海岳にはあるそうだ。手に取るように日本海が見え、三百六十度の大パノラマが展開する。しかも日本だけでなく、外国の姿も見られるらしい。手に取るように日本海が見えて、その海原の上に、北にはロシアのシホテアリニ山脈、西には朝鮮半島。うんうん頷きながら聞いていた浩之青年は、そうですよね、あの景色は日本では海岳しか見られないですよね、と大きく頷いていた。最初の冬山登山は危険だから経験者が付いていくのがいいので、みなさんも冬の海岳に登られるようなら、自分がご一緒します、なんて言って座った。諒さんは意外に長く、三十分近くも話し続けていた。
じゃあ、トリは宮崎ね、真理先輩に言われて自分は立ち上がった。すると頭がクラクラして足がよろけた。諒さんの自己紹介中も、彼女は料亭の美人女将よろしく、お酌をしてくれていたのだ。徳利(とっくり)が空になると、台所から持って来てくれて、またお酌をしてくれる。飲み始めてまだ三合くらいしか飲んでいないと思うけれども、これしきで酔っ払ってしまうとは、本当に自分らしくない。美人女将に酔わされてしまったのだろうか? いやいや、人妻に酔わされるなんてことがあってはならない。気を引き締めた。
名前と年齢から。二十七歳と聞いて、自分の年齢を知らなかった浩之青年が、同い年くらいだと思ったと反応。圭という名前でいろいろいじられる。いちばん嬉しいのは保田圭。嬉しくないのは、の質問が飛び、清水圭と答えた。理由は、テレビに出ていないし誰だかあまりよく分からないから。好きな飲み物のところで可愛らしくオレンジジュースなんて言ったら、酒だろと厳しいツッコミ。趣味は読書で推理小説を読むことなんて言ったら、これもパチンコだろと突っ込まれる。一年間、一緒に仕事をしていたけれど、宮崎が読書をしているところなんか見たことがない、と哲郎先輩。能ある鷹は爪を隠すっていうじゃないですか、と反論したが、みんなに笑われた。
学生時代はさらっと紹介する。ここは質問もツッコミもなくスルー。その後、哲郎先輩と真理先輩が働く会社、というより郷社長の経営する会社に入社し、最初の一年は哲郎先輩の指導のもと働き始める。そのときの自分の印象は? と哲郎先輩に逆質問。彼は、とにかく一生懸命だったし、礼儀なんかもきちんとわきまえていて、かわいい後輩だった、と答えてくれた。嬉しくなる。そんなかわいい後輩は、先輩たちが退職された後も、期待どおりに成長して、ついにあの会社の屋台(やたい)骨(ぼね)を支える大黒柱までに成長した。と言ったところで、そんな大黒柱が辞めるなんて言ったとき、あの郷社長が放っておくかしら? と今度は真理先輩のツッコミが入る。まあ、そうなんですけれど、無理やり辞めてきたのです、と大声で返す。そんな自分は完全に酔っ払っている。そして眠い。頬を平手で叩くが、眠気が取れない――
「先輩! こんな感じで、よろちいでちゅか?」
呂(ろ)律(れつ)も回らなくなっている。哲郎先輩を見ているのだが、目のほうも焦点が合わなくなってきている。哲郎先輩の顔が二重にぼやけているのだ。
「ああ。いいだろう。笑わせてもらったよ」
「ありがとうございまちゅ」
と頭を下げて、よろけた身体を真理先輩が支えてくれながら、何とか自分の座布団に着地できた。それからはもう覚えていない。そのまま自分は深い眠りに堕ちてしまったようだ――
午後七時半少し前に夕食が終わった。食欲が満たされたらニコチン欲だ。すっ飛んで1号室に戻った。
自分の住んでいるアパートの部屋と同じ広さか若干広いと思われる、満月荘のスィートルーム。そこに宿泊しているのは自分一人だ。もちろんノッポでもないし、デブでもない。これだけの広さで一人だから、ぜいたくなものである。普通なら就寝時には片付けるであろう座卓テーブルも出したまま、その奥に白い布団が敷かれていた。
座卓テーブルの座布団に腰を下ろすと、さっそく煙草に火を点ける。灰皿に吸い殻が溜ってきている。夜中にこっそり洗濯室のゴミ箱に捨てに行かないといけない。
「ここにはね、主人に殺意を抱いている人たちが集まっているの。あなたと、そして私もふくめて」
君枝夫人の言葉がほろ酔いの脳裏に貼り付く。やはり確実に何かが起こる。何かは当然、社長が何者かによって殺される事件だ。そう。満月荘殺人事件。
そう思って外を見た。ここは東北地方の西側で北陸地方の北側、つまり豪雪地帯日本代表みたいな極地。それに日本の気象庁は優秀だ。天気予報どおり、先ほど降り始めた雪は、窓を叩きつけるような吹雪になっていた。このぶんだと、あのバス停から満月荘にやって来るのは不可能だろう。ジープも出せないし、徒歩で来るのは危険だ。
そうなると、完全に、いま満月荘にいる人間の犯行になる――そう思うと気持ちは高ぶってきた――いったい、誰が社長を殺すのか。
強烈な殺害動機があるのは山下夫妻だ。彼らは息子の自殺の原因をこしらえてしまった塾の先生を社長だと認識している。動機としてはじゅうぶんすぎる。でも直子老婆は脚が悪いから、実際の犯行は無理であろう。となると、自然に智則老爺だ。
それに君枝夫人も赤丸急上昇中だ。社長の話がどこまで真実なのか分からないけれども、保険金に階段突き落とし、料理にヒ素混入とくる。この旅行を企画したのも彼女だし、彼女が受取人となっている生命保険も新たに契約しているという。社長が殺されれば得をするのは夫人一人だけなのだ。それにけっこう腹黒い。
そして――と、思ったところで胸がつぶれた――そうだったのだ。そのことを哲郎先輩に伝えなければならなかったのだ。智則老爺だけではない。君枝夫人も社長の命を狙っているから、哲郎先輩はわざわざご自分の手を汚すことはないのです――と。
吸っていた煙草を灰皿に押し潰して腰を浮かせたが、すぐにまた座布団に着地。問題はどんな言葉で先輩に伝えるかだ。
新しい煙草に火を点ける――本当は社長を恨んでいるのではないですか、とストレートに聞いてしまうか? これはストレートすぎる。だったら満月荘に加害者と被害者が宿泊していることを伝えようか? このことはきちんと哲郎先輩に伝えなければならないけれど、最初に伝える内容ではない。だったら何から?
まずは冬なのに満室だなんて、珍しいですね。なんて差し障(さわ)りのない内容なら入ることにしよう。それから社長の話だ。同じ日に宿泊するなんて、本当に偶然でびっくりしました、なんて話していけば自然の流れだ。
あとは流れに任せよう。昭和の名曲、川の流れのようにだ。使い方は違うような気がするが。
そうと決まれば、吸っていた煙草を灰皿に押し消す。そして口臭予防を兼ねて食後の歯ブラシ。息をチェック。問題なさそうだ。
部屋を出て鍵を閉める。浴室のドアには「男性入浴中」の青字の札が掛けられていた。S字コーナーになっている廊下を歩いて食堂スペースに行くと、何と運が良いことだろうか。そこにいたのは哲郎先輩一人だけだった。おそらく真理先輩と浩之青年は奥の共同台所でレクレーションタイムの用意をしているのだろう。声だけが聞こえる。彼は洗濯室へゴミを捨てに行くところだった。
「おう。宮崎。夕食はどうだったか?」
「はい。とてもおいしかったです。料理がとても上手なお嫁さんを貰って、本当に先輩が羨(うらや)ましいです」
「バカ言うな」
と言いつつも哲郎先輩は満更でもないご様子。酒も飲んでいないはずなのに、顔を上気させている。
そりゃあ、そうだ。真理先輩は料理が上手なだけではない。美人だし、スタイルもいいし、優しいし、性格もいいし、ほのぼのしているし、それに国宝級の天然だ。天然と言ってもち密な計算のもと作られたぶりっ子ではない。まさに天然記念物。折り紙と血統書付きだ。そんな彼女に言い寄られたりしたら、男なら誰だってコロッと堕(お)ちてしまうだろう。
周りを見回した。誰もいないようだ。哲郎先輩に従うように、洗濯室に入る。心臓の鼓動が早まった。
「先輩。少しお話しておきたいことがあるのですけれど、ちょっとお時間をいただいても、よろしいですか?」
「ああ。いいよ」
イケメンに似合いの爽やかすぎる笑顔。彼が会社を辞めるとき、本当にどれだけ多くの女性社員が涙を流したことか――
洗濯室の中には洗濯機と乾燥機が一台ずつ。その奥は喫煙スペースになっていて、灰皿の下に水が入った一斗缶が置かれている。そこに吸い殻を捨てるようだ。そして「缶、瓶、ペットボトル」「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」と書かれた青色のダストボックスがある。あとは場末のラーメン屋にあるような丸椅子が四つ。そのうちの一つに哲郎先輩が腰を下ろした。自分も先輩の正面に座る。
「三年前の夏に伺った時に、夏はけっこう予約が入るけれど、冬は殆ど入らないから、ジープが動かせるときは、いつきても大丈夫と先輩がおっしゃっていましたけれど、今日は満室なのですね?」
「ああ。俺もびっくりしているよ。こんな日は本当に珍しい」
哲郎先輩の声がそう言った。明るく爽やかな声だ。爽やかな笑顔で、この殺風景な洗濯室をお花畑に変えている。でもこれから喋る内容が内容だ。緊張しすぎて、先輩の顔を直視できない。うつむいたまま喋っている。
「それに社長夫妻が宿泊するなんて、本当に偶然です……」
「まさか、宮崎――」彼の声が急に低くなった。背中を急に押されたように、びくついてしまう。顔を上げると、彼の真剣な眼差しが刺さっていた。「お前、まさか、ドラゴンを恨んだりして――」
「とんでもないです。むしろ自分はあんな会社、辞めて良かったと思っていますので」と大きくかぶりを振った。もちろん自分に殺意などあるわけがない。むしろあるのは――
「だったらいいんだ。宮崎は間違っても変な考えを起こさないでほしい。いいな?」
諭(さと)すような哲郎先輩の言葉に大きく頷いた。頷いた後で「変な考え」という言葉が喉につかえた小魚の骨のように引っかかってくる。まさか、キリストと釈迦とマホメットを合わせたような哲郎先輩は、ヒトラーとスターリンと金正恩を合わせたようなドラゴンを殺そうとしているのではないだろうか。それはまずい。今すぐに悔い改めてもらわないといけない。
「先輩。変な考えって何ですか?」
「ああ。宮崎は本心で、何を考えているのか分からないところがあるからな。ドラゴンにいきなり罵声を浴びせたり、食って掛かったり、刺し殺したりしないかと、心配で仕方がないんだ」
哲郎先輩が冗談っぽく言った。さすがは先輩。本心で何を考えているのか分からないなんて、後輩のことをよく知っている。見破られてしまったのはショックだが、でも自分は冗談と受け取らない方が良いだろうと、咄嗟(とっさ)に判断した。
「先輩。自分は絶対にドラゴンを刺し殺したりはしません」社長を殺すのは智則老爺か君枝夫人だ。必死に脳をフル回転させて言葉を考えた。「でも、何だか不吉なことが起こるような気がするのです」
「不吉なこと?」哲郎先輩は首を傾げた。自分は先輩の顔を見ずに、大きく頷いた。これから言うことが、ぜひとも先輩に伝えたいことだ。
「ドラゴン夫妻の旅行って、ドラゴンの定年祝いですよね?」
「そう聞いているよ」彼の声は穏やかだ。
「予約したのは奥さんのほうですよね?」
「常識で考えたら普通そうだろ。何しろ今まで家族のために働いてくれてありがとう。そしてお疲れさまっていう意味の旅行なのだから」
唾を呑(の)み込んだ。そして哲郎先輩の顔を見る。
「先輩だから話しますけど、奥さんにドラゴンに対する殺意みたいなものを感じたのです……」
哲郎先輩はプッと吹き出した。まるで自分の真剣な顔がおかしいとでも言いたげに。
「宮崎、考え過ぎだ。そんなわけないだろ」哲郎先輩は「無い、無い」と右手を顔の前で揺らし、左手で腹を抱えて笑った。「君枝さんは、いつも毒を吐いている人だよ。旦那をぶっ殺すとか、いつか刺し殺してやるなんて言っているけれど、それは昔から口癖みたいに言っていることだから真(ま)に受けちゃ駄目だぞ」
哲郎先輩は曲がったことが大嫌いだ。だから嘘なんかつかない。君枝夫人のことは本当なのだろう。だったら――
「だったら2号室の山下夫妻はどうですか? 彼らはドラゴンを殺したいほど憎んでいると思います」
哲郎先輩の浅黒い顔を注意深く観察する。細い眉の端が一瞬ピクリと吊(つ)り上がった。やはり哲郎先輩も自分と同じことを感じている。
「山下さんの息子さんのこと、知っているのか?」
「はい。ドラゴンの唾スリッパが原因で自殺したことも、そのドラゴンが今日泊まりに来ていることを知っていることも、自分は山下さんの奥さんから聞いています――」
吊り上がっていた先輩の目じりが下がった。薄い唇にも笑みが戻る。
「宮崎。本当にお前、考え過ぎ。まさか、山下さんがドラゴンを殺害するのでは、と心配になったのか?」
「そういうわけでは……」
ここで「そうです」と肯定するのもおかしい気がして、わざと口ごもる。でも、これから確実に、冬の満月荘殺人事件が起こってしまうことを、哲郎先輩は予想できていない。
「夕食のとき、見ただろ。山下さん夫妻もドラゴン夫妻も、楽しそうに会話を弾ませて食事をしていただろ。それに山下さんの奥さんのお身体(からだ)が悪いので、君枝さんがお風呂にも一緒に入って介助(かいじょ)してあげるそうだ」
「そうなんですけど……」
言いかけたところで、哲郎先輩がいきなり浅黒い顔を近づけてきた。毛穴まで確認できるような至近距離だ。今までこんな近くで彼の顔を拝んだことはない。たとえ女の子でなくても、胸が高まるであろう。
「余計なことは考えない方がいい。いいか?」
頷(うなづ)くしかなかった。哲郎先輩の顔が離れる。
「午後九時からレクレーションタイムを行うから、食堂スペースに来るように。瓶ビールは飲み放題だからな。今夜は特別サービスで宮崎のために地酒も飲み放題でつけるぞ」
まさに星がキラキラ輝く爽やかな笑顔を見て吹っ飛んだ。哲郎先輩はドラゴンに対する殺意など、持っているわけがないのだ。
哲郎先輩が丸椅子から腰を浮かした。
「先輩。自分にも何かお手伝いできることはありませんか?」
「そうだな。じゃあ、頼むか。真理の用意を手伝ってほしい」
「分かりました」直立不動で立ち上がる宮崎圭。「でも、その前にちょっと部屋に戻ります」
ニコチン欲が抑(おさ)えられず、S字コーナーを戻って1号室へ。慌てていて、うっかり鍵を掛けるのを忘れて出てきてしまった。
念のため部屋を確認する。財布とか貴重品は何も盗まれていないようだ。念には念を入れて荷物も確認。スーツケースの中身も荒らされた形跡はない。安心して煙草をくゆらせた。
哲郎先輩は否定していたけれども、確実に今夜あたり事件が起こる。今夜起こらなければ明晩だ。何しろ外が吹雪で、同じ屋根の下に被害者の親と加害者がいるのだ。こんな状況で、何も起こらないなんてミステリ小説では絶対に考えられない。事実は小説より奇なり。だったら絶対に何かが起こる! 絶対に智則老爺が社長を殺害する!
そう思うと期待で胸の鼓動が高まる。それにしても哲郎先輩は相変わらず、お人好しで甘い。すべて性善説で他人を見ている。そこが彼の社内で人気のあった理由の一つなのだろうけれども、自分はまったく逆なのだ。
煙草を二本吸い、いつもの口臭予防。息を確認して部屋を出る。今度はきちんと鍵を掛けた。浴室のドアはまだ「男性入浴中」になっていた。S字コーナーを抜け、食堂スペースへ。真理先輩が共同台所でレクレーションタイムの用意をしていた。
「先輩。何か手伝うことがありますか?」
「宮崎はお客さんだから、いいのよ。準備ができるのを囲炉裏の前で座って待っていて」
と真理先輩は背景にハートがたくさん描かれるような笑顔を浮かべ、串に刺さった川魚を持って食堂スペースに移動する。スリッパを脱いで食堂スペースに上がり、その串を囲炉裏の炭の回りに刺した。
「先輩、それ鮎(あゆ)ですか?」
真理先輩は首を振ってハートを振り撒く。
「川魚の女王と言われているヤマメよ。一人一本ずつあるわ。私も成長したと思わない? だってここに嫁(とつ)ぐ前は、魚と目が合っているような気がしちゃって、魚を串刺しにするなんて怖くて出来(でき)なかったんだから」
なんてハートをふりふり、頬を赤らめる。男なら、いや男でなくても、すべての人類がキュンとくるだろう。もちろん自分だって、そして超イケメンの哲郎先輩だって、キュンとなるのだから。
「天然もののヤマメですね。それって先輩みたいじゃないですか」
「あら。女王だなんて。宮崎は相変わらず口が上手なんだから」
そっちのつもりで言ったのではないのだけれど。でも年下の自分が言うのも何だけれども、可愛(かわい)いから許す。
「とにかくお手伝いしますよ。小田先輩からも手伝うように言われていますので」
「そう。だったら残りのヤマメ、囲炉裏に刺しといてくれる?」
「分かりました」
共同台所に残っていたヤマメは四本。それを囲炉裏に刺していく。合計で九本。宿泊者六名と従業員三名ぶんであろう。
ヤマメを刺し終えたとき、玄関が開き、冷気が入ってきた。玄関に立っていたのは哲郎先輩と浩之青年だ。二人で瓶ビールの入ったケースを持っている。
「今夜は酒豪がいるからな。倉庫からちょっと多めに持って来ておかないと」
哲郎先輩はビールのケースを下ろすと、雪をはたきながら爽やかな笑顔だ。こちらは背景にハートではなく星がキラキラ。冷気とハートと星で自分の頬がほのかに赤く染まったに違いない。
哲郎先輩に合わせるように、浩之青年も笑っている。変に誤解されてしまう。上気させている場合ではない。自分も反論しなければならない。
「先輩。自分だって後輩としてちゃんとわきまえています。先輩が飲めとおっしゃったら、先輩の命令は神様のお告げと同じで絶対じゃないですか」
「だったら、飲むな」
「そんな~、殺生な~」
うまく返したつもりだったけれど、倍返しを食らってしまった。哲郎先輩はしてやったりと、背景に星をキラキラと輝かせている。
「ちょっと早かったですか?」
と食堂スペースにやってきたのは諒さんだ。夕食の後で風呂に入ったのだろう。民宿の浴衣を着ている。
「どうぞどうぞ。もうすぐ用意ができますので」
哲郎先輩に促されて、諒さんは囲炉裏の前の座布団に腰を下ろした。
「今夜はヤマメですね」
「分かるんですか。すごいですね。自分は鮎だと思っていました」鮎とヤマメの区別できることがすごいとはちっとも思っていないけれども。
「鮎は鮎科に属していて、全体が銀色で背びれに黄色い斑点があるのが特徴です。コケなどを好んで食べます。それに対してヤマメって実は鮭科で肉食魚なのです。だから鮭を小さくした形をしているのです。そして繁殖期には黒っぽい色になります」
「言われてみれば、そうですね」
諒さんの言うとおりだ。こいつは体長が二十センチもないけれども、もっと成長すれば鮭になるような気がする。
「実は鮭もヤマメも卵が一緒なのですよ。どちらも幼魚のうちは川の上流域で育つのですけれど、そのうちエサを多く食べて成長が早く大きくなったのがヤマメになり、逆にあまりエサにありつけず小さい個体が無限のエサを求めて海に出たのが鮭になるのです。もちろん海のほうが、エサはたくさんありますからね。どんどん成長して、大きかったヤマメよりもさらに大きくなって、また産卵のために生まれた川に戻ってくるのです」
「へえ。そうなんですか」
諒さんの話に感心していると、「ビールにしますか、それとも日本酒にしますか?」と真理先輩が共同台所から顔だけをちょこんと出して聞いてきた。諒さんはビールを注文し、自分は熱燗(あつかん)だ。
共同台所にいた小田夫妻と浩之青年が、お酒や簡単なおつまみなどを持って囲炉裏にやってきた。五人で囲炉裏を囲むように座る。九時にはまだ時間がある。
結局手伝いと言っても、ヤマメを囲炉裏に刺しただけだけど、まあいいか。
「山下夫妻と郷夫妻はご一緒しないのですか?」聞いたのは諒さんだ。
「奥さん同士、お風呂に入られるようです。山下夫人はお身体が不自由なので、万が一に備えて郷夫人もご一緒するみたいですね。山下さんと郷さんは、お部屋でゴルフの話をされたいみたいですので、ヤマメが焼きあがったら、お酒と一緒に持っていきます」
哲郎先輩の話を聞いて、ワクワクしてきた。何しろ社長と智則老爺が二人きりになるのだ。ここで殺人事件? いや、これはダメだ。誰でも犯人が智則老爺だと推理できてしまう。これではミステリなんかにならない。
「宮崎ったら、なんで首なんか振っているの? ほら、とりあえず乾杯」
自分の隣に座った真理先輩のお酌で、お猪口(ちょこ)に熱燗がなみなみと注がれる。考えていたことがバレたのでは、と心配になって見回したが、どの顔も笑顔だ。真理先輩はハートをふりふり飛ばしているし、哲郎先輩はスターをきらきら輝かせている。浩之青年と諒さんは普通の笑顔だけれども。
年長者である諒さんの乾杯の合図で飲み始めた。
自分は最初から日本酒だ。でもみんなはビールを飲んでいる。哲郎先輩の説明だと、これは「冷海」という銘柄の地酒だそうだ。名前から想像できるような辛口で、重厚感がある。まるで斧(おの)でスパッと切ったかのような切れのいい後味。ツウ好みのお酒だ。
「ヤマメが焼き上がるまで、満月荘のスタッフの自己紹介で盛り上がりましょう。焼き上がるのにだいたい一時間くらいかかりますから」
哲郎先輩の提案で、自己紹介が始まった。
まずはアルバイトでもあり、もっとも年少者である浩之青年。
彼は東京生まれで、こちらの地元の育ち。現在雪尻大学経済学部の二年生。でも二十二歳。理由は突っ込まないでください、と笑いを取ったが、聞くのも二度目の自分は笑えない。いちおう来春は三年生に進級できる予定。趣味は高校時代に始めた登山部で、この辺りの山はだいたい制覇したそうだ。大学でも登山のサークルに入っているという。部員はユーレイばかりで人間は僕一人と、ここでも笑いを取った。こちらのほうは酔いも手伝って笑えた。
そんな彼の満月荘との出会いは六年前、高校の登山部の海岳登山の合宿で宿泊したときだそうだ。そのときは哲郎先輩のお母さんが満月荘を切り盛りしていたという。そして三年前の冬、つまり大学一年のときにもう一度、冬山登山のために宿泊し、その時、代替わりした小田夫妻と意気投合し、冬の間、ほとんど住み込みみたいな形でアルバイトさせてもらっているという。家族は雪尻の町で母親と二人暮らし。ジープの中で話していた過労死した父親のことは触れなかった。
よろしくお願いしますと浩之青年が座ると、拍手が起こった。うまい自己紹介だった。次に立ち上がったのは哲郎先輩だ。
彼は高校までこの地で育ち、大学から東京。冬の間は満月荘にいると学校に通えなくなるから、近くの集落にある親戚の家で寝泊まりしたそうだ。三流私立大学出身なんて自分を卑下(ひげ)するから、稲応のどこが三流大学なんですか、そんなこと言ったら自分なんか五流いや六流私立ですよ、と自分はツッコミを入れる。哲郎先輩はイケメンでなおかつ頭も良い。現在満月荘のオーナー。経営はがたがたで傾きかけているけれど、とジョークなのか本当なのか分からないことを言う。高校まではバスケ部。これは自分と一緒。大学は弁護士を目指して法学部に進むが、サークル活動にはまって勉学がおろそかになってしまい断念。ここでツッコミは入れなかったけれど、そうとう遊んでいて、女の子も泣かし続けてきたのだろう、と容易に推測できる。趣味は高校一年のときに始めたスノーボードで、宿泊客がいなくて天気の良い日は、ここからジープで三十分ほど行ったところにあるゲレンデに行くそうだ。
大学卒業後は真理先輩や自分と同じ会社に入社。真理先輩と出会う――そこですかさず、第一印象はどうだったんですか? と結婚式の二次会恒例のような自分の質問が飛ぶ。そのときは大学時代から付き合っていたカノジョがいたので、何とも思わなかった、と素っ気ない回答。いつから女性として意識し始めたのですか? と自分に負けじと浩之青年の質問。いつからだったかな? ととぼける哲郎先輩。で、入社してすぐに父親が他界し、五年前に母親が病気になって入院して満月荘で働けなくなる。同期と比べてもそれほど成績が良いわけではなかったし、だったら故郷の満月荘を継ごうと決意して、今に至るのだそうだ。なに、嘘を言っているんですか、成績も良かったじゃないですか、と自分が抗議すると、いやいや、もっとすごい同期がいただろ、と数人の名前を出してくる。でも本当に数人だ。イケメンで、頭が良くて、仕事もできる。本当に自分にとって理想の先輩であり、憧れの上司だったのだ。で、柏木先輩との馴れ初(そ)めは? と自分が質問を飛ばすと、はい、バトンタッチ、と哲郎先輩は星付きの笑顔を輝かせ、真理先輩の手の平を叩いて腰を下ろしてしまった。
もう、やりにくいわね、と薄いピンクの唇を尖(とが)らせて、真理先輩が立ち上がった。
真理先輩は埼玉生まれの東京育ち。血液型はA型。高校までは地元の公立高校。今は「おだまり」だけれども、小学生のときのあだ名はなぜか「ひだまり」。それ、分かります、と自分が言ったら睨まれた。高校時代はカルタ部に所属。カルタと言っても「犬も歩けば棒に当たる」「ハイッ」というのではなくて、本格的な百人一首の部活動らしい。だから本当は反射神経がすごいと言うけれど、自分と浩之青年は「エーッ」と声を張り上げた。すると、中学時代は制服のスカートを膝上(ひざうえ)十五センチ以上と思い切り短くしていて、ルーズソックスを履いてネックレスなんかもつけて登校していたから、先生に目を付けられて追いかけられたけれど、いつも振り切ったと反論してくる。きっと先生は竹馬とか三輪車とかに乗って追いかけていたのだろう。真理先輩にすばしっこいなんてイメージはぜんぜん無い。
大学は本当に三流だから、と大学名は割愛。教師になりたいという夢があったので、教育学部に進学し、大学では勉強もしっかりやっていたらしい。カレシは何人できたのですか? という自分の質問にはブイサインで答えた。二人という意味だろう。でも教員採用試験にことごとく落ちてしまい、哲郎先輩や自分と同じ会社に就職した。以上って言って、座布団に腰を沈めようとしたので、自分が「ちょっと待ったあ!」と声を荒げた。
哲郎先輩の第一印象は? と自分が質問を投げ掛けると、絶対に遊んでいると印象だったと答える。とにかく一年目はチャラかったと真理先輩が付け加えると、すかさず哲郎先輩も、お前も同期の中で、いちばんの厚化粧でケバかっただろ、本気でキャバ嬢だと思っていた、と反撃してくる。先輩同士にらみ合って、漫画で描くなら真ん中で視線がぶつかって火花がはじけているといったところ。これは火花を沈下させて、早くスターとハートが飛び交う笑顔にさせないといけない、と自分は質問を次々に繰(く)り出す。
いちばん最初のデートは、お台場だったらしい。どちらが最初に付き合おうと言い出したのかは、意外にも真理先輩のほうだった。一年間同じ部署で働いて、何度も哲郎先輩が失敗をフォローしてくれて、その優しさに惹かれていったそうだ。プロポーズの言葉は秘密で、哲郎先輩が会社を辞めて満月荘を継ぐことを伝えたときに、真理先輩も会社を辞めることを決意したそうだ。結婚式はお互いの親族を呼び地元で挙げたのだけれども、披露(ひろう)宴(えん)と新婚旅行は民宿の仕事が忙しくて、なかなかできないらしい。
「そろそろ、ヤマメ、大丈夫みたい」
囲炉裏の炭の周りのヤマメは、茶色い焼き色が全体についているものが多くなった。
「この四本、もう食べられるわ」
と真理先輩がこんがりと焼き上がった四本のヤマメを取り分ける。
「じゃあ、俺がお酒とともに山下さんとドラゴンのところに持っていくよ。お酒はドラゴンが日本酒で他はビールだったな」
哲郎先輩と浩之青年が四本のヤマメの串刺しとお酒を手に、客室に向かった。囲炉裏に残ったのは真理先輩と諒さんと自分だ。
「あとは焼き上がるまで少し時間が掛かっちゃうわね」
時計を確認する。十時十分くらい前。ニコチン中毒のこの自分が、一時間もニコチンを我慢してアルコールを摂取しているなんて、奇跡に近いことだ。睡眠時間以外では、自分がニコチンを我慢できる時間は、サッカー選手が休憩なしでピッチに立てる時間とだいたい一緒で四十五分間だ。
「だったら、ちょっと――」と言って立ち上がった。トイレに行く振りをして、煙草を吸うためだ。でも洗濯室の喫煙スペースで吸うわけにはいかない。哲郎先輩が戻ってきて見られてしまうかもしれないからだ。それなら自分の部屋に行って、誰の目も気にすることなく一服するのがいちばん良い。
食堂スペースを下り、スリッパを履いて客室のS字コーナーを進む。2号室の中から声がした。いま二人は山下夫妻にヤマメとお酒を届けているのだろう。正面の風呂のドアは「女性入浴中」の赤い札が掛けられていた。
1号室の鍵をあけて中に入る。正面の窓に雪が激しく叩きつけていた。かなり強い吹雪だ。座布団に胡坐(あぐら)で座って煙草に火を点ける。勢いよく煙を吐き出す。うまい。だけれどももう少し切れがあってもいい。普段吸っているのはセブンスターだけれど、これからはもっとニコチンとタールが多めのハイライトにしようか? でもこれ以上強くしてしまうと、完全にオッサンじゃないか。まだ若いし、やはりセッターが限界だろう。
一本吸い終わると、トイレに行きたくなる。部屋のトイレで用を済ますと、もう一度煙草が吸いたくなってきて煙草に火を点けた。時計を確認すると、十時をちょっとだけ過ぎている。
事件が起きるのならそろそろではないのか。でも、いま起きてしまってはまずいことになる。なぜなら自分はいまこうして部屋で、一人で煙草を吸っているからだ。十時ちょうどに殺されましたなんて検死の結果が出されてしまったら、自分のアリバイは誰も証明してくれない。いや、もっと重要な問題がある。アリバイを正直に自白したら、自分が喫煙者で、しかもセブンスターなんてオッサン一歩手前の煙草を吸っていることが、哲郎先輩に露見(ろけん)してしまうではないか。
これは悠長(ゆうちょう)に煙草をくゆらしている場合ではないぞ。まだじゅうぶんに楽しめる煙草を灰皿に押し潰して、急いで口臭対策。そしてツッコミにも使えるスリッパを履いて、急いで部屋を出る。
鍵を掛けるときに風呂のドアが目に入った。まだ「女性入浴中」だ。きっと直子夫人の足腰が悪いから時間がかかるだろう。2号室のドアの中からは声が漏れてこなかった。勝負を分けるS字コーナーの途中にある3号室と5号室はお風呂に入っていたり、食堂スペースにいたりして誰もいないだろう。6号室はどうか。ドアに近づき、耳を澄ましたけれども、こちらも声は漏れてきていない。S字を無事通り抜け、便所前ストレート、そしてゴールの食堂スペースへ。給油(ニコチン注入)時間を含めて十分強、タイムはまずまずだ。でもゴールすると、一着ではなかった。コックピット(1号室)での給油時間が長すぎたようだ。哲郎先輩と浩之青年は囲炉裏に戻ってきていて、ビールを飲み始めている。自分もスリッパを脱いで食堂スペースに上がった。
「君枝さんと山下さんの奥さんが入浴中だから、焼き上がったヤマメ、宮崎、先に食べて」
と真理先輩が串からほぐしたヤマメが盛られた皿を自分に渡してくれた。うまい。真理先輩が身をほぐしてくれたのだから、よけいだ。
「お酒もいっぱいあるから飲んでね。今日は日本酒も飲み放題だから」
真理先輩が熱燗(あつかん)をお猪口(ちょこ)に注いでくれる。真理先輩のお酌で飲む熱燗は本当においしい。まるで料亭の美人女将のようだ。そんな美人女将のお酌で、毎晩しかもタダで飲める哲郎先輩が羨ましい限りである。空になったお猪口に、もう一杯注がれる。これではどんどん酒が進む。
「では、後半はお客様の自己紹介と言うことで」と哲郎先輩が言うと、「じゃあ、私から行きましょう。あまり面白いエピソードもないからトリは絶対に嫌なので」と諒さんが立ち上がった。「やられたあ」と思わず声を荒げる自分。その空になったお猪口にまた熱燗が注がれる。
3号室に宿泊している小池諒。今年の夏で五十四歳になるという。東京生まれの東京育ち。東京といっても23区内ではない。そんな市があるの? という町らしい。でも夏の国というプールで有名なレジャー施設があるという。そこなら行ったことがある、と他の四人が異口同音に言った。高校そして大学と東京都内で、山岳部に所属。特に大学は山に登ってばかりで授業にも出なかったため、六年間も通っていたらしい。おすすめの山は日本では剱(つるぎ)岳(だけ)と海岳。海岳登山の際は、必ず満月荘に寄るという。あとは谷川岳だが、実は谷川岳が世界でいちばん死亡率が高い山らしい。外国で登ったことのある山はモンブランのみ。外国の山まで登ったことがあるのですか、いいなあ、と浩之青年が反応した。どこかのテレビで女芸人が世界六大陸と南極大陸の最高峰を制覇したと言うけれど、自分もお金があるのならやってみたい、暇はいくらでもあるから、とおどけた。そこは本当みたいだからあえて突っ込むのはやめておいた。
彼の満月荘との出会いは十年前。やはり先代が切り盛りしていた時代だ。それから五回ほど来ていて、最近では二年前の冬。一度、満月荘が休業中の五年前にも登っているので、これで海岳登山は七回目だそうだ。しかもすべて冬山。やはり冬の海岳の魅力はあらゆる生命を拒絶するような張り詰めた空気だと言う。そんな中で死を意識しながら登る。そして登頂した後に味わえる感動。そこは冬山の魅力らしいが、他の日本の山では味わえない魅力が海岳にはあるそうだ。手に取るように日本海が見え、三百六十度の大パノラマが展開する。しかも日本だけでなく、外国の姿も見られるらしい。手に取るように日本海が見えて、その海原の上に、北にはロシアのシホテアリニ山脈、西には朝鮮半島。うんうん頷きながら聞いていた浩之青年は、そうですよね、あの景色は日本では海岳しか見られないですよね、と大きく頷いていた。最初の冬山登山は危険だから経験者が付いていくのがいいので、みなさんも冬の海岳に登られるようなら、自分がご一緒します、なんて言って座った。諒さんは意外に長く、三十分近くも話し続けていた。
じゃあ、トリは宮崎ね、真理先輩に言われて自分は立ち上がった。すると頭がクラクラして足がよろけた。諒さんの自己紹介中も、彼女は料亭の美人女将よろしく、お酌をしてくれていたのだ。徳利(とっくり)が空になると、台所から持って来てくれて、またお酌をしてくれる。飲み始めてまだ三合くらいしか飲んでいないと思うけれども、これしきで酔っ払ってしまうとは、本当に自分らしくない。美人女将に酔わされてしまったのだろうか? いやいや、人妻に酔わされるなんてことがあってはならない。気を引き締めた。
名前と年齢から。二十七歳と聞いて、自分の年齢を知らなかった浩之青年が、同い年くらいだと思ったと反応。圭という名前でいろいろいじられる。いちばん嬉しいのは保田圭。嬉しくないのは、の質問が飛び、清水圭と答えた。理由は、テレビに出ていないし誰だかあまりよく分からないから。好きな飲み物のところで可愛らしくオレンジジュースなんて言ったら、酒だろと厳しいツッコミ。趣味は読書で推理小説を読むことなんて言ったら、これもパチンコだろと突っ込まれる。一年間、一緒に仕事をしていたけれど、宮崎が読書をしているところなんか見たことがない、と哲郎先輩。能ある鷹は爪を隠すっていうじゃないですか、と反論したが、みんなに笑われた。
学生時代はさらっと紹介する。ここは質問もツッコミもなくスルー。その後、哲郎先輩と真理先輩が働く会社、というより郷社長の経営する会社に入社し、最初の一年は哲郎先輩の指導のもと働き始める。そのときの自分の印象は? と哲郎先輩に逆質問。彼は、とにかく一生懸命だったし、礼儀なんかもきちんとわきまえていて、かわいい後輩だった、と答えてくれた。嬉しくなる。そんなかわいい後輩は、先輩たちが退職された後も、期待どおりに成長して、ついにあの会社の屋台(やたい)骨(ぼね)を支える大黒柱までに成長した。と言ったところで、そんな大黒柱が辞めるなんて言ったとき、あの郷社長が放っておくかしら? と今度は真理先輩のツッコミが入る。まあ、そうなんですけれど、無理やり辞めてきたのです、と大声で返す。そんな自分は完全に酔っ払っている。そして眠い。頬を平手で叩くが、眠気が取れない――
「先輩! こんな感じで、よろちいでちゅか?」
呂(ろ)律(れつ)も回らなくなっている。哲郎先輩を見ているのだが、目のほうも焦点が合わなくなってきている。哲郎先輩の顔が二重にぼやけているのだ。
「ああ。いいだろう。笑わせてもらったよ」
「ありがとうございまちゅ」
と頭を下げて、よろけた身体を真理先輩が支えてくれながら、何とか自分の座布団に着地できた。それからはもう覚えていない。そのまま自分は深い眠りに堕ちてしまったようだ――
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる