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いいぞ、名探偵・宮崎圭。すべて頭に描いたシナリオどおりだ。シナリオどおりに社長が殺害され、シナリオどおりに智則老爺が犯人になった。さすがは名探偵。いや、これは予言だ。ひょっとしたら自分は名探偵ではなく、ノストラダムスなんか問題にならないくらいの名予言者なのかもしれない。
どうだ、と胸を張って、偉大な予言者は下々を見下ろす。彼らは一様にきょとんとした顔をして視線をさ迷わせていた。
エッヘン、と得意げに咳払い。さ迷う瞳を名探偵に集めさせる。そしてここからは、サスペンスドラマのクライマックスみたいに、ステージは崖の上がふさわしい。崖の上には魚の子どもと犯人の自白の涙が付き物だからだ。
「この話の初めに、自分も申し上げましたが、どんな殺人にも動機があります。当然のことながら山下智則さんにも殺害動機があるのです。それものっぴきならないものだったです。山下夫妻にはナオノリ君という息子さんがいらっしゃいました。もし生存されていれば自分よりも年上ですが、中3で亡くなっていますので、ナオノリ君と呼ばせていただきます。彼は中3のとき遺書を残して自殺しました。遺書には受験勉強や進路のことについての悩みが多く書き連ねてあったのです。でもその中に一つだけ、塾の先生が唾をひっかけたスリッパで頭を叩かれたのが苦痛だという内容が入っていました。その塾の先生というのが郷龍次氏です。自分も彼の塾で五年間勤めておりましたので、その唾スリッパの話は存じています。自分が入社した時にはすでに唾スリッパというよりすべての体罰は禁止になっていましたが。もちろん、自分も生徒にそんなことをしたことはありません。で、山下さん夫妻は郷龍次氏に、あなたの唾スリッパが原因でうちの息子は精神的な苦痛を受けて自殺したのではないかと訴えたのです。でも結果は受け入れてもらえませんでした。それも直接ではなく、郷氏は弁護士を立ててこう言ってきたのです。郷氏の罰ではなく、受験勉強や進路のことが自殺の原因ではないかって。それが二十五年前の出来事です」
波の音が聞こえてくる。ここは男鹿半島の西側、能登半島の北側の絶海の孤島ともいえる極地だから当然だ。それに崖の上だ。そう思ったら、どうやらそれは吹雪が窓を激しく叩く音だった。
「それで夫妻はあきらめました。特に智則氏は自分の責任だと自己嫌悪にさいなまれながらの日々を過ごしたことでしょう。でもそれは違ったのです。たまたま彼の医院に診察でやってきたナオノリ君の同級生だった人物の何気ない一言から、自殺の原因は郷龍次氏にあったということを知ったのです――」
ここで、智則老爺にバトンタッチ。バトンはしっかりと彼の手に握られた。
「そうです。宮崎さんのご説明のとおりです――それを聞いて私どもは、郷龍次という男に対して並々ならぬ殺意を抱くようになりました。郷龍次の写真は彼の会社のホームページに掲載されています。その顔を毎日、私たちは拝んでいたのです。ナオノリのことと、ナオノリが死んだ原因を絶対に忘れないために。それまでは娘のことだけを考えて生きてきたのですが、ナオノリのことも毎日、思い出すようにしました。五年前からは、暇を見つけては妻と二人で、ナオノリとの思い出の場所も訪れるようになりました。この満月荘もその一つです。こちらには一昨年の夏にもお邪魔しました」
そこで智則老爺は哲郎先輩の顔を眺めた。二人の目から涙が溢れ出てきそうだ。
「ナオノリと宿泊したのは、もう二十五年も前のことです。そのときは先代のご夫婦が仕切っていらっしゃいましたが、それ以外はまったく変わっていませんでした。一昨年、訪れたときにたまたまご主人に息子の話をしたのです。そしたら何のご縁か、ご主人が郷龍次氏の会社で働いていたというではないですか。そして律儀にも、私に土下座をして謝ってくれたのです。そうしたら積年の恨みを晴らすチャンスが来たのです。それが昨日だったのです」
そこで智則老爺は目を閉じた。まるで生き仏のような穏やかな顔をしている。
「おそらく昨日が恨みを晴らす、最初で最後のチャンスだったのです。ご覧のとおり、妻は日常生活こそ一人で何とかなりますが、身体が不自由な身です。というのも妻は昨年、脳腫瘍の手術を受けまして、まだ療養が必要な身です。癌(がん)細胞が転移していた場合、妻は加療を望んでおりません。私はそんな妻の意思を尊重しております――このように我々二人にとって、積年の恨みを晴らすのは今回しか無かったのです。満月荘のご主人には本当に申し訳ないことをしてしまったと思います。とても良い宿なのに、殺人事件を起こしてしまったのですから、これから商売にならないでしょうから――私たちの我が儘(まま)のために、本当に、本当に、申し訳ない」
智則老爺は畳に額を擦(こす)り付けた。それに合わせるように直子老婆も頭を垂れる。
「山下さん。そんなことをするの、やめてください……」
哲郎先輩も目を腫らしてしゃがれた声で言う。
感動のラストシーン。涙を誘うエンディングテーマとともに、エンドロールの字幕が上ってくるはずだ。その初めには名探偵・宮崎圭の文字。
でも名探偵たるもの、忘れてはならないことがある。それは証拠だ。自白があっても、それを裏付ける証拠がなければ罪にならないのだ。その証拠を見つけなければならない。
「ではここで、山下容疑者に伺います。あなたは具体的に何を用いて、ガイシャの頭を叩いたのですか?」
優しく智則老爺の顔を眺める。彼は直子老婆から渡されたハンカチで顔じゅうの涙を拭いながら答えた。
「叩いたのはハンマーのようなものです」
「では、そのハンマーをどこに捨てたのですか?」
智則老爺はハンカチを使って鼻をかんだ。そして再び目を拭い、また鼻をかむ。顔を俯かせて、ようやく口を開いた。
「6号室の窓を開けて、雪に向かって投げ捨てました……」
そうか。6号室の窓からか。そこを吹雪がやんでから掘り起こせばいい。そうすれば証拠のハンマーが出てきて、智則老爺の犯行が実証されるはずだ――
「宮崎さん。待ってください」
手を挙げたのは浩之青年だ。彼も涙で目を腫らしているが、頬や顎にアオカビをはやしているくせに、毅然(きぜん)とした表情だ。
「山下さんがこの中の誰かの罪を被って自白したということはありませんか?」
「それって、誰かさんじゃないの? 山下さんがドラゴンの部屋に入る前に、誰かさんが殺して、ここで何食わぬ顔して日本酒を飲んでいた奴がいたけどお。そんな誰かさんを庇(かば)っているんじゃないかしら?」
「真理、やめないか!」
哲郎先輩の怒号が飛ぶ。真理先輩は顔を赤らめて立ち上がって居住スペースへと引っ込んでしまった。
「皆さん。本当に申し訳ありません。真理には後できつく言い聞かせます。本当に申し訳ないです」
哲郎先輩が立ち上がって、深々と頭を下げた。
「きっと女将さん、焼き餅を焼いているのですよ」諒さんが冷やかすように言った――いや、そんなことじゃない。まずは物的証拠をあげることが大事だ。智則老爺の証言の裏付けだ。それで真理先輩の疑念も晴れるだろう。
「先輩。スコップ貸してください。自分、山下さんが窓から捨てたハンマーを探し出します!」
吹雪は午前中に比べるといくぶん弱まっていた。と言っても、午前中みたいにホワイトアウトではないという程度で、相変わらず吹雪いている。哲郎先輩の話だと、またいつ強く降り始めてしまうか分からない状況だと言う。天気予報でも、今夜から明日にかけて、雪は断続的に強く降り続けるという。
積雪は自分の背丈ほどある。満月荘の正面玄関から客室の6号室の窓のところまで行くには、小田夫妻の居住スペースや食堂スペースをぐるっと回り、しかも途中背丈ほどのある雪をかきわけながら進まなければならない。だが、奥の屋内浴場から露天風呂に通じるドアから出ると、6号室は自宅の最寄り駅の改札口からみどりの窓口までの距離だ。大きな駅なら券売機までといったところ。徒歩三十秒、ほふく前進でも数分足らず。雪かきしながらでもすぐ着いた。
「宮崎。一メートル近く掘る必要があるな」
上から哲郎先輩の声がした。彼と浩之青年は昼食の片付けが終わったあと、降雪が少し弱まった今がチャンスとばかり、屋根の上で雪下ろしをしている。
「そうですか。でも先輩、どうやって掘ったらいいのか……」
というのも、建物のひさしによって雪が積もらなかったところを歩いて容易に現場にたどり着いたものの、雪は自分の前で、背丈ほどの壁になっているのだ。
「積もった雪が層のようになっているだろ。いちばん上の層が昨夜から降った新雪だ。だからそこを掘り返せばいい」
確かに哲郎先輩の説明どおり。雪はミルフィーユのように何層も重なって積もっている。そのいちばん上の層、そこは下の層に比べると、ウエディングドレスのように眩(まぶ)しいばかりの純白だ。そこを掘ればいいのかって、そこだけでも1メートルはある。
「先輩、それでも1メートルはありますよ~」
訴えるように言うと、「全部掘り返すよりはましだろ」との声が返ってきた。
仕方ない。名探偵の名誉挽回のため、じっちゃんの名にかけて頑張らなければ。でもその前に一服。別に屋外だから構わないだろうと、ポケットから煙草を取り出して一本だけ吸う。もちろんポイ捨てなんて非常識なことはしない。持ってきた携帯灰皿で揉(も)み消す。
いよいよ開始だ。純白の雪のなかにスコップを突き刺して、その雪を脇に捨てていく。十五分くらいの作業で古い雪の層の上に立つことができるくらいのスペースができた。でも凶器とされるハンマーはまだ見つかっていない。
再び煙草を吸う。吸いながら後ろを振り向くと、そこには6号室の窓があった。窓にはカーテンが引かれているため、部屋の中を伺うことはできない。それに窓のサンには積雪がある。吸い終わると再びスコップで雪を掘り、そしてまた一服、そしてまた掘る――
「宮崎、出てきたか?」
上から声がしたのは、「あの爺さん、どれだけ強肩(きょうけん)なんだ」と思わず声にしたときだった。というのも、すでに(一服しながらであるけれども)二時間ほど掘っている。いくら長靴を借りて履いているとはいえ、足も寒さにかじかんでいる。
「おうおう。けっこう頑張ったな」上から哲郎先輩がピッチャーマウンドくらい掘った跡を眺めて言った。「で、見つかったか?」
「無いです。もう少し範囲を広げないといけないのかもしれません」
「そうか。だったらこっちはもう少しで片付くから、長野君に手伝わせよう」と、哲郎先輩の顔が引っ込み、「長野君! 宮崎のほうを手伝ってくれるか?」と浩之青年を呼ぶ声がした。そして遠くのほうから「はい。行きます」という浩之青年の声がする。満月荘は平屋で床面積も広いから、雪下ろしはきっと大変なのだ。それにも増して、証拠探しは大変だけれど。
ちょうど一本、煙草を吸い終わったところで、浩之青年がやってきた。
「吸っていましたね?」
吸い終わったと言っても、匂(にお)いは残っている。指摘されて、何だかさぼっていたように思われて気まずい。浩之青年の顔はニヤついている。
「煙草、うっかり忘れて来ちゃったんで、僕にも一本いただけますか?」
言われるがままセブンスターの箱とライターを差し出した。それで火を点けると「うめ~」と煙を鼻と口から吐き出した。自分ももう一本、煙草に火を点けた。
「いくら掘り返しても、ここからハンマーなんか出てきません。だから無駄なことは止めましょう」
浩之青年は諭すように言った。その一言が自分を逆上させる。
「何だって? それじゃあ、あんたもこの宮崎圭が犯人だと思っている?」
「違いますよ」浩之青年はニヤついている。「あんたもって言いますけれど、先生――女将さんと言った方がいいと思いますが、彼女も本気で宮崎さんが犯人だとは思っていません。とにかく窓のサンを見てください。3号室も5号室も6号室も、同じように雪が積もっています」
本当だ。浩之青年の言うとおり、どの部屋の窓のサンも同じように雪が積もっている。
「ということは、この部屋の窓は開けられなかったということ?」
「そうですよ。いくら掘っても凶器はここからは捨てられていません」浩之青年は言い切った。「ただ一つ僕から言えることですが、山下さんは、お一人で罪を被っているということです」
彼の横顔は笑顔を止めて、雪の壁を睨みつけている。
「それ、どういうこと?」自分は意味も分からず聞き返す。彼は雪の壁に顔を向けたまま、煙を吐き出した。
「アガサクリスティですよ」
「クリスティ?」
「ええ。推理小説好きでしたらご存知だと思いますが」
彼は頷いて、吸っていた煙草を自分の携帯灰皿で揉み消して、露天風呂のほうへ消えていった。
1号室に戻り、ごろっと寝ころび、聴取で取ったメモと睨めっこだ。自分の描いたシナリオどおりの事件が起きて、シナリオどおりの推理で解決したはずだったのに、浩之青年にあそこまで言われると、もう一度、事件を洗いなおさなければならなくなる。でも、何度メモを眺めても、智則老爺の検死どおり午後九時から十一時が死亡推定時刻だとすると、智則老爺の犯行の可能性がいちばん高いのだ――
智則老爺の犯行の可能性がいちばん高い? そうだ。彼は死亡推定時刻をやはり操作したのだ。それは自分のアリバイが証明できる時間ではなく、逆に証明でしない時間帯に。何しろ検死できる人間は彼一人しかいない。彼がこの時間と言えばそれが皆に信じられる。それをいいことに、自分のアリバイが成立しない時間をわざと告げて、誰かの罪を被ろうとしたのではないのか?
そうだとしたら――再びメモ帳を確認する。逆に智則老爺のアリバイが証明されている時間帯は夕食後から午後九時半までの時間、それと午後十時四十分以降だ(午後十時四十分以降のアリバイは、直子老婆が証明しているので、アリバイが成立しているとは言い難いが)。
その時間もさらに狭めることができる。まず九時半までの時間はあり得ない。午後十時に哲郎先輩と浩之青年が6号室にヤマメの塩焼きと日本酒を届けている。さらに智則老爺の証言も信用できるものだとすると、彼は二人が出た後に6号室を訪れてゴルフの話に興じている。それから社長が眠いと言い出したので、午後十時四十分に6号室を出た――
とするとその時間――午後十時四十分――以降、それだとまだ死亡推定時刻内に入っているから、きっと午後十一時以降に社長は殺害されたのだ!
食いつくようにメモ帳を凝視する。午後十一時から十二時までは全員にアリバイがある。ないのは逆に自分だけだ。自分? おかしくないか? この自分がたったあれだけの酒量で酔って食堂スペースで寝てしまった。そして社長。待てよ。なんで社長は眠くなったのだろうか? 夕食時にビールを飲んでいるとはいえ、熱燗(あつかん)がたったの二合だ――待てよ。それは!――
そうか。そういうことだったのか! 智則老爺がお一人で罪を被るって、そういうことか! クリスティだ。クリスティの名作、オリエント急行だ――これは名探偵としたことが、やり直しだ。もう一度、みんなを集める必要がある。
自分は吸っていた煙草を灰皿の底に押し潰して、食堂スペースへ走った。
いいぞ、名探偵・宮崎圭。すべて頭に描いたシナリオどおりだ。シナリオどおりに社長が殺害され、シナリオどおりに智則老爺が犯人になった。さすがは名探偵。いや、これは予言だ。ひょっとしたら自分は名探偵ではなく、ノストラダムスなんか問題にならないくらいの名予言者なのかもしれない。
どうだ、と胸を張って、偉大な予言者は下々を見下ろす。彼らは一様にきょとんとした顔をして視線をさ迷わせていた。
エッヘン、と得意げに咳払い。さ迷う瞳を名探偵に集めさせる。そしてここからは、サスペンスドラマのクライマックスみたいに、ステージは崖の上がふさわしい。崖の上には魚の子どもと犯人の自白の涙が付き物だからだ。
「この話の初めに、自分も申し上げましたが、どんな殺人にも動機があります。当然のことながら山下智則さんにも殺害動機があるのです。それものっぴきならないものだったです。山下夫妻にはナオノリ君という息子さんがいらっしゃいました。もし生存されていれば自分よりも年上ですが、中3で亡くなっていますので、ナオノリ君と呼ばせていただきます。彼は中3のとき遺書を残して自殺しました。遺書には受験勉強や進路のことについての悩みが多く書き連ねてあったのです。でもその中に一つだけ、塾の先生が唾をひっかけたスリッパで頭を叩かれたのが苦痛だという内容が入っていました。その塾の先生というのが郷龍次氏です。自分も彼の塾で五年間勤めておりましたので、その唾スリッパの話は存じています。自分が入社した時にはすでに唾スリッパというよりすべての体罰は禁止になっていましたが。もちろん、自分も生徒にそんなことをしたことはありません。で、山下さん夫妻は郷龍次氏に、あなたの唾スリッパが原因でうちの息子は精神的な苦痛を受けて自殺したのではないかと訴えたのです。でも結果は受け入れてもらえませんでした。それも直接ではなく、郷氏は弁護士を立ててこう言ってきたのです。郷氏の罰ではなく、受験勉強や進路のことが自殺の原因ではないかって。それが二十五年前の出来事です」
波の音が聞こえてくる。ここは男鹿半島の西側、能登半島の北側の絶海の孤島ともいえる極地だから当然だ。それに崖の上だ。そう思ったら、どうやらそれは吹雪が窓を激しく叩く音だった。
「それで夫妻はあきらめました。特に智則氏は自分の責任だと自己嫌悪にさいなまれながらの日々を過ごしたことでしょう。でもそれは違ったのです。たまたま彼の医院に診察でやってきたナオノリ君の同級生だった人物の何気ない一言から、自殺の原因は郷龍次氏にあったということを知ったのです――」
ここで、智則老爺にバトンタッチ。バトンはしっかりと彼の手に握られた。
「そうです。宮崎さんのご説明のとおりです――それを聞いて私どもは、郷龍次という男に対して並々ならぬ殺意を抱くようになりました。郷龍次の写真は彼の会社のホームページに掲載されています。その顔を毎日、私たちは拝んでいたのです。ナオノリのことと、ナオノリが死んだ原因を絶対に忘れないために。それまでは娘のことだけを考えて生きてきたのですが、ナオノリのことも毎日、思い出すようにしました。五年前からは、暇を見つけては妻と二人で、ナオノリとの思い出の場所も訪れるようになりました。この満月荘もその一つです。こちらには一昨年の夏にもお邪魔しました」
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「ナオノリと宿泊したのは、もう二十五年も前のことです。そのときは先代のご夫婦が仕切っていらっしゃいましたが、それ以外はまったく変わっていませんでした。一昨年、訪れたときにたまたまご主人に息子の話をしたのです。そしたら何のご縁か、ご主人が郷龍次氏の会社で働いていたというではないですか。そして律儀にも、私に土下座をして謝ってくれたのです。そうしたら積年の恨みを晴らすチャンスが来たのです。それが昨日だったのです」
そこで智則老爺は目を閉じた。まるで生き仏のような穏やかな顔をしている。
「おそらく昨日が恨みを晴らす、最初で最後のチャンスだったのです。ご覧のとおり、妻は日常生活こそ一人で何とかなりますが、身体が不自由な身です。というのも妻は昨年、脳腫瘍の手術を受けまして、まだ療養が必要な身です。癌(がん)細胞が転移していた場合、妻は加療を望んでおりません。私はそんな妻の意思を尊重しております――このように我々二人にとって、積年の恨みを晴らすのは今回しか無かったのです。満月荘のご主人には本当に申し訳ないことをしてしまったと思います。とても良い宿なのに、殺人事件を起こしてしまったのですから、これから商売にならないでしょうから――私たちの我が儘(まま)のために、本当に、本当に、申し訳ない」
智則老爺は畳に額を擦(こす)り付けた。それに合わせるように直子老婆も頭を垂れる。
「山下さん。そんなことをするの、やめてください……」
哲郎先輩も目を腫らしてしゃがれた声で言う。
感動のラストシーン。涙を誘うエンディングテーマとともに、エンドロールの字幕が上ってくるはずだ。その初めには名探偵・宮崎圭の文字。
でも名探偵たるもの、忘れてはならないことがある。それは証拠だ。自白があっても、それを裏付ける証拠がなければ罪にならないのだ。その証拠を見つけなければならない。
「ではここで、山下容疑者に伺います。あなたは具体的に何を用いて、ガイシャの頭を叩いたのですか?」
優しく智則老爺の顔を眺める。彼は直子老婆から渡されたハンカチで顔じゅうの涙を拭いながら答えた。
「叩いたのはハンマーのようなものです」
「では、そのハンマーをどこに捨てたのですか?」
智則老爺はハンカチを使って鼻をかんだ。そして再び目を拭い、また鼻をかむ。顔を俯かせて、ようやく口を開いた。
「6号室の窓を開けて、雪に向かって投げ捨てました……」
そうか。6号室の窓からか。そこを吹雪がやんでから掘り起こせばいい。そうすれば証拠のハンマーが出てきて、智則老爺の犯行が実証されるはずだ――
「宮崎さん。待ってください」
手を挙げたのは浩之青年だ。彼も涙で目を腫らしているが、頬や顎にアオカビをはやしているくせに、毅然(きぜん)とした表情だ。
「山下さんがこの中の誰かの罪を被って自白したということはありませんか?」
「それって、誰かさんじゃないの? 山下さんがドラゴンの部屋に入る前に、誰かさんが殺して、ここで何食わぬ顔して日本酒を飲んでいた奴がいたけどお。そんな誰かさんを庇(かば)っているんじゃないかしら?」
「真理、やめないか!」
哲郎先輩の怒号が飛ぶ。真理先輩は顔を赤らめて立ち上がって居住スペースへと引っ込んでしまった。
「皆さん。本当に申し訳ありません。真理には後できつく言い聞かせます。本当に申し訳ないです」
哲郎先輩が立ち上がって、深々と頭を下げた。
「きっと女将さん、焼き餅を焼いているのですよ」諒さんが冷やかすように言った――いや、そんなことじゃない。まずは物的証拠をあげることが大事だ。智則老爺の証言の裏付けだ。それで真理先輩の疑念も晴れるだろう。
「先輩。スコップ貸してください。自分、山下さんが窓から捨てたハンマーを探し出します!」
吹雪は午前中に比べるといくぶん弱まっていた。と言っても、午前中みたいにホワイトアウトではないという程度で、相変わらず吹雪いている。哲郎先輩の話だと、またいつ強く降り始めてしまうか分からない状況だと言う。天気予報でも、今夜から明日にかけて、雪は断続的に強く降り続けるという。
積雪は自分の背丈ほどある。満月荘の正面玄関から客室の6号室の窓のところまで行くには、小田夫妻の居住スペースや食堂スペースをぐるっと回り、しかも途中背丈ほどのある雪をかきわけながら進まなければならない。だが、奥の屋内浴場から露天風呂に通じるドアから出ると、6号室は自宅の最寄り駅の改札口からみどりの窓口までの距離だ。大きな駅なら券売機までといったところ。徒歩三十秒、ほふく前進でも数分足らず。雪かきしながらでもすぐ着いた。
「宮崎。一メートル近く掘る必要があるな」
上から哲郎先輩の声がした。彼と浩之青年は昼食の片付けが終わったあと、降雪が少し弱まった今がチャンスとばかり、屋根の上で雪下ろしをしている。
「そうですか。でも先輩、どうやって掘ったらいいのか……」
というのも、建物のひさしによって雪が積もらなかったところを歩いて容易に現場にたどり着いたものの、雪は自分の前で、背丈ほどの壁になっているのだ。
「積もった雪が層のようになっているだろ。いちばん上の層が昨夜から降った新雪だ。だからそこを掘り返せばいい」
確かに哲郎先輩の説明どおり。雪はミルフィーユのように何層も重なって積もっている。そのいちばん上の層、そこは下の層に比べると、ウエディングドレスのように眩(まぶ)しいばかりの純白だ。そこを掘ればいいのかって、そこだけでも1メートルはある。
「先輩、それでも1メートルはありますよ~」
訴えるように言うと、「全部掘り返すよりはましだろ」との声が返ってきた。
仕方ない。名探偵の名誉挽回のため、じっちゃんの名にかけて頑張らなければ。でもその前に一服。別に屋外だから構わないだろうと、ポケットから煙草を取り出して一本だけ吸う。もちろんポイ捨てなんて非常識なことはしない。持ってきた携帯灰皿で揉(も)み消す。
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再び煙草を吸う。吸いながら後ろを振り向くと、そこには6号室の窓があった。窓にはカーテンが引かれているため、部屋の中を伺うことはできない。それに窓のサンには積雪がある。吸い終わると再びスコップで雪を掘り、そしてまた一服、そしてまた掘る――
「宮崎、出てきたか?」
上から声がしたのは、「あの爺さん、どれだけ強肩(きょうけん)なんだ」と思わず声にしたときだった。というのも、すでに(一服しながらであるけれども)二時間ほど掘っている。いくら長靴を借りて履いているとはいえ、足も寒さにかじかんでいる。
「おうおう。けっこう頑張ったな」上から哲郎先輩がピッチャーマウンドくらい掘った跡を眺めて言った。「で、見つかったか?」
「無いです。もう少し範囲を広げないといけないのかもしれません」
「そうか。だったらこっちはもう少しで片付くから、長野君に手伝わせよう」と、哲郎先輩の顔が引っ込み、「長野君! 宮崎のほうを手伝ってくれるか?」と浩之青年を呼ぶ声がした。そして遠くのほうから「はい。行きます」という浩之青年の声がする。満月荘は平屋で床面積も広いから、雪下ろしはきっと大変なのだ。それにも増して、証拠探しは大変だけれど。
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吸い終わったと言っても、匂(にお)いは残っている。指摘されて、何だかさぼっていたように思われて気まずい。浩之青年の顔はニヤついている。
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言われるがままセブンスターの箱とライターを差し出した。それで火を点けると「うめ~」と煙を鼻と口から吐き出した。自分ももう一本、煙草に火を点けた。
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「違いますよ」浩之青年はニヤついている。「あんたもって言いますけれど、先生――女将さんと言った方がいいと思いますが、彼女も本気で宮崎さんが犯人だとは思っていません。とにかく窓のサンを見てください。3号室も5号室も6号室も、同じように雪が積もっています」
本当だ。浩之青年の言うとおり、どの部屋の窓のサンも同じように雪が積もっている。
「ということは、この部屋の窓は開けられなかったということ?」
「そうですよ。いくら掘っても凶器はここからは捨てられていません」浩之青年は言い切った。「ただ一つ僕から言えることですが、山下さんは、お一人で罪を被っているということです」
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「それ、どういうこと?」自分は意味も分からず聞き返す。彼は雪の壁に顔を向けたまま、煙を吐き出した。
「アガサクリスティですよ」
「クリスティ?」
「ええ。推理小説好きでしたらご存知だと思いますが」
彼は頷いて、吸っていた煙草を自分の携帯灰皿で揉み消して、露天風呂のほうへ消えていった。
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智則老爺の犯行の可能性がいちばん高い? そうだ。彼は死亡推定時刻をやはり操作したのだ。それは自分のアリバイが証明できる時間ではなく、逆に証明でしない時間帯に。何しろ検死できる人間は彼一人しかいない。彼がこの時間と言えばそれが皆に信じられる。それをいいことに、自分のアリバイが成立しない時間をわざと告げて、誰かの罪を被ろうとしたのではないのか?
そうだとしたら――再びメモ帳を確認する。逆に智則老爺のアリバイが証明されている時間帯は夕食後から午後九時半までの時間、それと午後十時四十分以降だ(午後十時四十分以降のアリバイは、直子老婆が証明しているので、アリバイが成立しているとは言い難いが)。
その時間もさらに狭めることができる。まず九時半までの時間はあり得ない。午後十時に哲郎先輩と浩之青年が6号室にヤマメの塩焼きと日本酒を届けている。さらに智則老爺の証言も信用できるものだとすると、彼は二人が出た後に6号室を訪れてゴルフの話に興じている。それから社長が眠いと言い出したので、午後十時四十分に6号室を出た――
とするとその時間――午後十時四十分――以降、それだとまだ死亡推定時刻内に入っているから、きっと午後十一時以降に社長は殺害されたのだ!
食いつくようにメモ帳を凝視する。午後十一時から十二時までは全員にアリバイがある。ないのは逆に自分だけだ。自分? おかしくないか? この自分がたったあれだけの酒量で酔って食堂スペースで寝てしまった。そして社長。待てよ。なんで社長は眠くなったのだろうか? 夕食時にビールを飲んでいるとはいえ、熱燗(あつかん)がたったの二合だ――待てよ。それは!――
そうか。そういうことだったのか! 智則老爺がお一人で罪を被るって、そういうことか! クリスティだ。クリスティの名作、オリエント急行だ――これは名探偵としたことが、やり直しだ。もう一度、みんなを集める必要がある。
自分は吸っていた煙草を灰皿の底に押し潰して、食堂スペースへ走った。
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聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
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