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二幕一場 裏切りのふれんど
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神崎は母の旧姓。今もなお神崎を名乗り活動している母が後に役立つと私に与えた名、それが神崎ヒナタだった。
神崎ヒナタ、六歳夏。劇団スカイハイ入団。
神崎ヒナタ、七歳春。初めて役を与えられる。
神崎ヒナタ、十三歳春。卒業公演以外の全ての演目で主役を張る。
私は舞台に愛されている。舞台は私が大好きで、決してほどけない赤い糸で結ばれている。
私はそんな勘違いをしていた、痛々しい女の子だった。
七月。稽古時間外ということもあり、クーラーはつかない。窓を全開にしても、汗は耳の中に入ろうとする。
あれは確か、三年前。
伸ばした爪先に、手を伸ばす。稽古場でストレッチする私の前にあの子が現れた。
「おはよう、ヒナタちゃん!」
せわしない足音を引き連れたあの子は、容赦なく戸を開けた。私以外の大人がいたら間違いなく説教を喰らっていただろう。
舞台裏では足音を殺せ。そんな常識を守るため、日常でも静かな行動を心掛けろと日々言われている。
しかしそんなことは一切気にしないのか、私を見つけたあの子は白い歯を全面的に見せて笑った。
「おはよう、星来」
「ヒナタちゃんは朝早いねぇ。星来も早起き得意なんだけどなぁ」
息を乱した星来はリュックを端の方へ置き、着替えを始めた。
私は変わらずストレッチを。この後もやるべきことはたんとある。私は大して、星来に興味を抱いてなかった。
犬の尻尾のようにぶんぶん振れる茶色いポニーテール。吊り上がったたれ目が特徴的な成田星来。今年の春に『劇団スカイハイ』に入団した小学六年生の女の子だ。
ストレッチを終え、水分補給をしている中、彼女は靴紐に苦戦していた。
入団して半年。彼女の実力は下の上、といったところだった。
小六での入団は非常に遅い。トップレベルとも名高いスカイハイなら、特にだ。
移籍ならともかく彼女は全くの初心者。彼女は小学三年生に交じってレッスンをしていた。
「ねぇねぇ、ヒナタちゃん! 今度の舞台、ヒナタちゃんも出るんでしょう⁉」
靴ひもを引きずる星来は、キラキラした目で私に駆け寄った。
舞台映えしない小さな背。手足も短く、体力もない。なのに彼女は、いつもレッスンが始まる一時間前に来る。
そして、無駄な努力を重ねる。
「うん。卒業公演だから、流石に主演は貰えなかったけど」
水筒片手に体育座りをする私は星来の目を見ずに、台本だけを見ていた。
公演まであと一週間。全ての時間を惜しく思い、学校に居る間も教科書を読まず、舞台のことだけを考える。神崎ヒナタからすれば、当たり前の日常。
「すっごいね! 先生に聞いたんだけど、卒業公演で中学三年生以外の子が出るのは、ヒナタちゃんが初
めてなんでしょ⁉」
「うん、そうだね」
空返事。他者との会話すら、煩わしい時間。
本来ならば愛想よく相手しなきゃいけない。だってそれが、神崎ヒナタだから。
天才とは余裕のあるものだから。でも今の私は必死だった。そんなことに構ってはいられない。
主役を喰らう為、全ての労力を舞台に注ぎたかった。
「私もね、いつかヒナタちゃんと舞台に立ちたい!」
「……そう」
そんなの無理に決まっている。そう言わなかったのは、私が皆から愛される主役の、神崎ヒナタだから。
主役とは、皆に愛されるものだから。
六歳の頃から劇団に通い、レッスンにレッスンを重ね、私は舞台に立っている。
貴方とは、スタートラインも経験値も努力量も違う。そんな貴方が私と同じ場所に立てるわけがない。
「じゃあまず、外郎売くらいは噛まずに読めるようにならないとね?」
「ヒ、ヒナタちゃんの意地悪ぅー!」
煩わしいと思っていても、私は人を遠ざけなかった。だって、それが神崎ヒナタだから。
演劇界のサラブレッド。舞台の寵愛を受けたプランセス。そんな人間が、他人に冷たくして良い訳がない。
神崎ヒナタは観客からも、共演者からも愛されなければならない。
それでも舞台は戦場で。食うか、喰われるか。いつ真ん中を奪われるか分からない。
敵を仕留めるため、自分を守るため、糸は常に張らなくてはならない。
私が百獣の王ならば、星来は無粋な小さなウサギ。
そんなものを食っても、大した栄養にならない。だから私は、私にキラキラした目を向けるあの子を放っておいた。
彼女の前では糸を引き、アドバイスを求めれば答え、困っていたら手を差し伸べる。もし、友達という
称号を誰かに与えなければならないのならば、私は彼女にあげただろう。
でも、そんな関係は変わってしまった。
いや、違う。変えたのは私の故意。だってそうしないと、私は。
緊張と期待が混じる声。パンフレットをめくる紙の音。埃っぽい舞台裏とは対照的に、客席は隅から隅まで掃除が行き届いていて、何だかソワソワする。
思えば役者でない私、笹山葵がここに座るのは初めてだ。
「パンフレット、見る?」
「いらない」
伸ばされた手を跳ね返す。そんなもの見なくても分かるよ、分かっちゃうよ。誰が何役をやるかくらい。
だって私はあそこにいたから。
煌びやかなスポットライトの裏側は、血まみれで、生臭くて、いつも心臓の音が聞こえた。
誰かが私を殺しにくる。私を喰って、暗闇へ突き落そうとする。トップに相応しい凛とした表情の裏で、私はいつも怯えていた。
「そんな顔しないでよ。貴方が舞台に立つんじゃないんだから」
陽彩の言い分は至極全うだ。
私はもう、舞台にいない。舞台袖で深呼吸することも、緊張することも、怯えることもない。私は舞台に囚われない、自由な人間なんだ。
なのにどうして。
こんなにも、空っぽなのだろう。
幕が開くと、舞台上には机が五つ並んでいた。そこに腰を掛ける五人の男女。この舞台の主軸たち。
『ふれんどしっぷす』の大本は、毎年変わらない。演劇部に属する五人の男女の物語。
天真爛漫な主人公、沙也加。その親友で子供の頃から演劇を習っている優里亜。部長の鉄。お調子者兼ムードメーカーのハルト。そして沙也加に思いを寄せる幼馴染、将。中学一年生の時、私は優里亜役で、
二年の時も優里亜で、三年でやっと主役になれた。
『はぁ……もうすぐ終わるね。私たちの演劇部』
『ちょっと沙也加、カンショーに浸ってないで話し合いに参加しなさいよ!』
『おっ。優里亜感傷なんて言葉知ってんのか? ちゃんと勉強してんなぁ』
『鉄! あんたもあんたよ!』
たった五人の演劇部は彼らが作り、彼らが終わらせる。最後の演目に向けて、彼らはすれ違う。
去年私が演じた沙也加を、あの子が演じている。……正確には、演じ切れなかった沙也加だけど。
一年前。絶対に同じ舞台に立つことがないと信じて疑わなかったあの子は、優里亜として私の隣に立つこととなった。
『主役は優里ちゃんがいいよ! うん! 私みたいもん! 優里ちゃんのいばら姫!』
『沙也加……』
『だって優里ちゃん、演技も上手だし、綺麗だし……主役って感じだもん!』
星来が、沙也加が優里亜に向けるまなざしは憧憬と友愛。でも、優里亜は違う。
『何で、そんなこと言うの……⁉』
『ゆ、優里ちゃん……?』
『私なんかより、沙也加の方がずっと主役に相応しい! 私は自分なんか大っ嫌い! だって、だっ
て……!』
舞台真ん中で崩れ落ちる優里亜。私は、よく知っている。二度も彼女を演じたから、このシーンの重要さを。
毅然と演劇部の為に全線で活躍してきた優里亜が、自分にないものを持つ沙也加への憎愛を告白する。
観客が主役に感情移入するようにと、脚本も、演出も、そういう風に出来ている。
でもそれだけを詰め込んでは駄目だ。それでは主役への接待芝居になってしまう。
脇役には必ず用意されている。主役を喰らう、最適なシーン。そこで最適解を叩きだした役者こそが、本物なのだ。
そしてそのシーンで全てを喰らうことが出来る人間が、主役なのだ。
『何で、そんなこと言うの……⁉』
『え……?』
沙也加は優里亜に抱き着く。二人の横顔が、観客の網膜に焼き付く。
『優里ちゃんは私なんかより数倍可愛くて、お芝居も上手で、すっごいの! なのに、どうして……? どうしてそんなこと言うの⁉』
息遣い。抑揚のつけ方。感情をどこでトップに運ぶか。一年前よりうまくなっている。
当然だ。だって彼女は舞台を降りていない。一日一日を磨き上げ、役者として生きている。私と彼女じゃ、一日の意義が違うのだ。
ううん、それだけじゃ、ない。
私と彼女じゃ、決定的に違うものがある。
『だ、だって……沙也加の方がキラキラしてるんだもん! 星のように煌めいて、太陽のように眩しくて……私じゃ沙也加になれない! いくら上手に出来ても、私はキラキラしてないもの!』
『そんなこと』
『ある! あるあるあるの!』
心拍数が早まる。二人の緊張感が、糸の先を辿るように、観客席にまで伝わる。
この掛け合いはタイマンだよ。喰うか食われるか。それだけしかない場面なんだよ。
なのに、なのに、なのに、なのに、なのに、なのに、なのに。
『うるさいっ!』
『え、さ、沙也加……?』
『私の優里ちゃんを、悪く言わないで! だって、私にとって優里ちゃんは』
一呼吸置く。すうっと吸い込む息が、聞こえた気がする。
嫉妬、愛しさ、憧憬。沙也加は微笑んだ。白い歯を見せびらかし、とびっきりの笑顔で、優里亜を見つめる。
表情筋が死んでいく。口角がひん曲がりそうになる。やめて、やめてよ。そんな顔しないでよ、【星来】。
『優里ちゃんは私の、憧れなんだもん!』
私以外にそんな顔、見せないでよ。
鳴りやまぬ拍手の中、幕が閉まる。カーテンコールが始まる前に、私は劇場を飛び出した。
ドアを潜ると、熱風が肌を濡らす。スポットライトとはまた違った暑さが、私の胸を締め付ける。
「どうしたの? そんなに慌てて。トイレは過ぎちゃったよ?」
星来より少し大きな背。星来よりも吊り上がった目。星来よりも落ち着きのある声。
こちとは息切れしてるというのに、陽彩は呼吸を一切見ださずに言葉を吐いた。
まるでここが、舞台かのように。
「……劇は終わったわ。帰る」
「まだよ。まだ」
「何言ってんの。もう終わった」
約束は果たした。これ以上話す気はない。一歩踏み出そうとした私の右腕を、陽彩は強く掴んだ。
その手は冷たく、一瞬だけ私から暑さを除いてくれた。
「終わってない。あんたの舞台が、終わってない」
心臓が騒ぐ。その目はいつになく真剣で、彼女の本心を垣間見た気がした。
「私の、舞台……?」
「そうよ。私に見せてよ、アンタの舞台を。星来が憧れ、追いかけ、追いつこうとしたあんたを見せて
よ」
「私はもう役者じゃ――」
「嘘をつくな。舞台を見つめるお前は初恋に敗れた少女のようだった」
蛇、もしくは魔女。腕を引き、陽彩は私の顔を寄せた。
「っ……」
「これが本当の最後よ。神崎ヒナタの引き際に、……神崎ヒナタの最後の舞台に、私を立たせて頂戴」神
神崎ヒナタ、六歳夏。劇団スカイハイ入団。
神崎ヒナタ、七歳春。初めて役を与えられる。
神崎ヒナタ、十三歳春。卒業公演以外の全ての演目で主役を張る。
私は舞台に愛されている。舞台は私が大好きで、決してほどけない赤い糸で結ばれている。
私はそんな勘違いをしていた、痛々しい女の子だった。
七月。稽古時間外ということもあり、クーラーはつかない。窓を全開にしても、汗は耳の中に入ろうとする。
あれは確か、三年前。
伸ばした爪先に、手を伸ばす。稽古場でストレッチする私の前にあの子が現れた。
「おはよう、ヒナタちゃん!」
せわしない足音を引き連れたあの子は、容赦なく戸を開けた。私以外の大人がいたら間違いなく説教を喰らっていただろう。
舞台裏では足音を殺せ。そんな常識を守るため、日常でも静かな行動を心掛けろと日々言われている。
しかしそんなことは一切気にしないのか、私を見つけたあの子は白い歯を全面的に見せて笑った。
「おはよう、星来」
「ヒナタちゃんは朝早いねぇ。星来も早起き得意なんだけどなぁ」
息を乱した星来はリュックを端の方へ置き、着替えを始めた。
私は変わらずストレッチを。この後もやるべきことはたんとある。私は大して、星来に興味を抱いてなかった。
犬の尻尾のようにぶんぶん振れる茶色いポニーテール。吊り上がったたれ目が特徴的な成田星来。今年の春に『劇団スカイハイ』に入団した小学六年生の女の子だ。
ストレッチを終え、水分補給をしている中、彼女は靴紐に苦戦していた。
入団して半年。彼女の実力は下の上、といったところだった。
小六での入団は非常に遅い。トップレベルとも名高いスカイハイなら、特にだ。
移籍ならともかく彼女は全くの初心者。彼女は小学三年生に交じってレッスンをしていた。
「ねぇねぇ、ヒナタちゃん! 今度の舞台、ヒナタちゃんも出るんでしょう⁉」
靴ひもを引きずる星来は、キラキラした目で私に駆け寄った。
舞台映えしない小さな背。手足も短く、体力もない。なのに彼女は、いつもレッスンが始まる一時間前に来る。
そして、無駄な努力を重ねる。
「うん。卒業公演だから、流石に主演は貰えなかったけど」
水筒片手に体育座りをする私は星来の目を見ずに、台本だけを見ていた。
公演まであと一週間。全ての時間を惜しく思い、学校に居る間も教科書を読まず、舞台のことだけを考える。神崎ヒナタからすれば、当たり前の日常。
「すっごいね! 先生に聞いたんだけど、卒業公演で中学三年生以外の子が出るのは、ヒナタちゃんが初
めてなんでしょ⁉」
「うん、そうだね」
空返事。他者との会話すら、煩わしい時間。
本来ならば愛想よく相手しなきゃいけない。だってそれが、神崎ヒナタだから。
天才とは余裕のあるものだから。でも今の私は必死だった。そんなことに構ってはいられない。
主役を喰らう為、全ての労力を舞台に注ぎたかった。
「私もね、いつかヒナタちゃんと舞台に立ちたい!」
「……そう」
そんなの無理に決まっている。そう言わなかったのは、私が皆から愛される主役の、神崎ヒナタだから。
主役とは、皆に愛されるものだから。
六歳の頃から劇団に通い、レッスンにレッスンを重ね、私は舞台に立っている。
貴方とは、スタートラインも経験値も努力量も違う。そんな貴方が私と同じ場所に立てるわけがない。
「じゃあまず、外郎売くらいは噛まずに読めるようにならないとね?」
「ヒ、ヒナタちゃんの意地悪ぅー!」
煩わしいと思っていても、私は人を遠ざけなかった。だって、それが神崎ヒナタだから。
演劇界のサラブレッド。舞台の寵愛を受けたプランセス。そんな人間が、他人に冷たくして良い訳がない。
神崎ヒナタは観客からも、共演者からも愛されなければならない。
それでも舞台は戦場で。食うか、喰われるか。いつ真ん中を奪われるか分からない。
敵を仕留めるため、自分を守るため、糸は常に張らなくてはならない。
私が百獣の王ならば、星来は無粋な小さなウサギ。
そんなものを食っても、大した栄養にならない。だから私は、私にキラキラした目を向けるあの子を放っておいた。
彼女の前では糸を引き、アドバイスを求めれば答え、困っていたら手を差し伸べる。もし、友達という
称号を誰かに与えなければならないのならば、私は彼女にあげただろう。
でも、そんな関係は変わってしまった。
いや、違う。変えたのは私の故意。だってそうしないと、私は。
緊張と期待が混じる声。パンフレットをめくる紙の音。埃っぽい舞台裏とは対照的に、客席は隅から隅まで掃除が行き届いていて、何だかソワソワする。
思えば役者でない私、笹山葵がここに座るのは初めてだ。
「パンフレット、見る?」
「いらない」
伸ばされた手を跳ね返す。そんなもの見なくても分かるよ、分かっちゃうよ。誰が何役をやるかくらい。
だって私はあそこにいたから。
煌びやかなスポットライトの裏側は、血まみれで、生臭くて、いつも心臓の音が聞こえた。
誰かが私を殺しにくる。私を喰って、暗闇へ突き落そうとする。トップに相応しい凛とした表情の裏で、私はいつも怯えていた。
「そんな顔しないでよ。貴方が舞台に立つんじゃないんだから」
陽彩の言い分は至極全うだ。
私はもう、舞台にいない。舞台袖で深呼吸することも、緊張することも、怯えることもない。私は舞台に囚われない、自由な人間なんだ。
なのにどうして。
こんなにも、空っぽなのだろう。
幕が開くと、舞台上には机が五つ並んでいた。そこに腰を掛ける五人の男女。この舞台の主軸たち。
『ふれんどしっぷす』の大本は、毎年変わらない。演劇部に属する五人の男女の物語。
天真爛漫な主人公、沙也加。その親友で子供の頃から演劇を習っている優里亜。部長の鉄。お調子者兼ムードメーカーのハルト。そして沙也加に思いを寄せる幼馴染、将。中学一年生の時、私は優里亜役で、
二年の時も優里亜で、三年でやっと主役になれた。
『はぁ……もうすぐ終わるね。私たちの演劇部』
『ちょっと沙也加、カンショーに浸ってないで話し合いに参加しなさいよ!』
『おっ。優里亜感傷なんて言葉知ってんのか? ちゃんと勉強してんなぁ』
『鉄! あんたもあんたよ!』
たった五人の演劇部は彼らが作り、彼らが終わらせる。最後の演目に向けて、彼らはすれ違う。
去年私が演じた沙也加を、あの子が演じている。……正確には、演じ切れなかった沙也加だけど。
一年前。絶対に同じ舞台に立つことがないと信じて疑わなかったあの子は、優里亜として私の隣に立つこととなった。
『主役は優里ちゃんがいいよ! うん! 私みたいもん! 優里ちゃんのいばら姫!』
『沙也加……』
『だって優里ちゃん、演技も上手だし、綺麗だし……主役って感じだもん!』
星来が、沙也加が優里亜に向けるまなざしは憧憬と友愛。でも、優里亜は違う。
『何で、そんなこと言うの……⁉』
『ゆ、優里ちゃん……?』
『私なんかより、沙也加の方がずっと主役に相応しい! 私は自分なんか大っ嫌い! だって、だっ
て……!』
舞台真ん中で崩れ落ちる優里亜。私は、よく知っている。二度も彼女を演じたから、このシーンの重要さを。
毅然と演劇部の為に全線で活躍してきた優里亜が、自分にないものを持つ沙也加への憎愛を告白する。
観客が主役に感情移入するようにと、脚本も、演出も、そういう風に出来ている。
でもそれだけを詰め込んでは駄目だ。それでは主役への接待芝居になってしまう。
脇役には必ず用意されている。主役を喰らう、最適なシーン。そこで最適解を叩きだした役者こそが、本物なのだ。
そしてそのシーンで全てを喰らうことが出来る人間が、主役なのだ。
『何で、そんなこと言うの……⁉』
『え……?』
沙也加は優里亜に抱き着く。二人の横顔が、観客の網膜に焼き付く。
『優里ちゃんは私なんかより数倍可愛くて、お芝居も上手で、すっごいの! なのに、どうして……? どうしてそんなこと言うの⁉』
息遣い。抑揚のつけ方。感情をどこでトップに運ぶか。一年前よりうまくなっている。
当然だ。だって彼女は舞台を降りていない。一日一日を磨き上げ、役者として生きている。私と彼女じゃ、一日の意義が違うのだ。
ううん、それだけじゃ、ない。
私と彼女じゃ、決定的に違うものがある。
『だ、だって……沙也加の方がキラキラしてるんだもん! 星のように煌めいて、太陽のように眩しくて……私じゃ沙也加になれない! いくら上手に出来ても、私はキラキラしてないもの!』
『そんなこと』
『ある! あるあるあるの!』
心拍数が早まる。二人の緊張感が、糸の先を辿るように、観客席にまで伝わる。
この掛け合いはタイマンだよ。喰うか食われるか。それだけしかない場面なんだよ。
なのに、なのに、なのに、なのに、なのに、なのに、なのに。
『うるさいっ!』
『え、さ、沙也加……?』
『私の優里ちゃんを、悪く言わないで! だって、私にとって優里ちゃんは』
一呼吸置く。すうっと吸い込む息が、聞こえた気がする。
嫉妬、愛しさ、憧憬。沙也加は微笑んだ。白い歯を見せびらかし、とびっきりの笑顔で、優里亜を見つめる。
表情筋が死んでいく。口角がひん曲がりそうになる。やめて、やめてよ。そんな顔しないでよ、【星来】。
『優里ちゃんは私の、憧れなんだもん!』
私以外にそんな顔、見せないでよ。
鳴りやまぬ拍手の中、幕が閉まる。カーテンコールが始まる前に、私は劇場を飛び出した。
ドアを潜ると、熱風が肌を濡らす。スポットライトとはまた違った暑さが、私の胸を締め付ける。
「どうしたの? そんなに慌てて。トイレは過ぎちゃったよ?」
星来より少し大きな背。星来よりも吊り上がった目。星来よりも落ち着きのある声。
こちとは息切れしてるというのに、陽彩は呼吸を一切見ださずに言葉を吐いた。
まるでここが、舞台かのように。
「……劇は終わったわ。帰る」
「まだよ。まだ」
「何言ってんの。もう終わった」
約束は果たした。これ以上話す気はない。一歩踏み出そうとした私の右腕を、陽彩は強く掴んだ。
その手は冷たく、一瞬だけ私から暑さを除いてくれた。
「終わってない。あんたの舞台が、終わってない」
心臓が騒ぐ。その目はいつになく真剣で、彼女の本心を垣間見た気がした。
「私の、舞台……?」
「そうよ。私に見せてよ、アンタの舞台を。星来が憧れ、追いかけ、追いつこうとしたあんたを見せて
よ」
「私はもう役者じゃ――」
「嘘をつくな。舞台を見つめるお前は初恋に敗れた少女のようだった」
蛇、もしくは魔女。腕を引き、陽彩は私の顔を寄せた。
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