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四幕三場 クリスティーヌ。

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「ここで、おしばい? するの?」

 空に浮かぶ眩しい太陽。お家より大きな真っ白い建物。十年前のあの日も太陽は全力全開だった。

 母に手を引かれた幼い私は、無垢な疑問を母にぶつけた。母はその場にしゃがみ、真剣な目で私の肩を掴んだ。

「いい? 葵。もう一度言うわ。舞台はとっても厳しい世界なの。嬉しいこと以上
に、沢山嫌な思いをする。それでもいいの? 本当に、役者になるの?」

 クッキー缶は私の記憶を微かに呼び起こした。

 母は何度も忠告した。役者は止めとけ、普通に生きろ、舞台に楽しいことなど何一つない、と。

 それなのに、私は。

「なるよ! だって、私はね――」 

 無垢な笑顔は太陽にも、星にも負けない輝きを持っていた、はずだった。

 一体いつから。いつ、どこで、何がきっかけで。

 私は、神崎ヒナタを演じてしまったのだろう。








「……朝、ですか」

 腹にかけたタオルケットを退かし、起き上がる。タイマーをセットしたクーラーはとっくに停止しており、額には二、三摘汗が垂れていた。

「まぶしっ」

 カーテンの向こうの太陽は、既にてっぺんまで上り詰めている。確認すると、十

 二時を過ぎていた。流石はあの母の娘だな。

「ふぁぁ……」

 あの後、陽彩にはすぐ帰ってもらった。その後のことははっきりと覚えている。

 ずっと、あの缶を見つめていた。

 台本やパンフレットを開くことも、DVDを見ることもなく、ただ詰め込んだまま隠してしまった星を見つめていた。

 お経を読むお坊さんのように、ただ無心で、じっと、見つめた。

「あらあらー? 随分とお寝坊さんね、葵ちゃんっ」

 リビングにはニヤニヤ笑う母がいた。食卓に並ぶ食パンにコーヒー。朝ごはんだ。全く、この人は。人のこと言えないじゃないか。

「富沢さんは?」

「今日はお休み。ママンがご飯、作ろうか?」

「いや、いい」

 十中八九、火事が起きる。そうなると海外にいる父が可哀想なので遠慮した。

「一体どうしたの? 葵ちゃんはいつも早起きさんなのに」

「……あの、さ。一つ聞いても、いいかな」

 うちはアイランドキッチンというやつらしく、ここからでもコーヒーを飲む母の顔はよく見えた。

 オレンジジュースを注ぐ、パンをトースターに詰める。食器棚に背を預け、母の言葉を待った。

「何かしら? 次の舞台の秘密情報以外なら、答えてあげるわよ?」

「母ってさ、オペラ座の怪人……やったことある、よね?」

「ええ。何度も」

「……映像、見せて。一番、古いヤツ」

「勿論いいわよ。地下室にしまってあるから」

「うん……ありがとう」

「え……もしかして聞きたいことってそれだけ⁉」

 何故か母は不満そうだ。

 開きかけた口が閉じる。そうだよ、それだけの訳ないじゃん。父と母が演じた舞台の映像の管理場所など、知っているもん。

 本当に聞きたいことは、他にあった。

「……母は、さ」

「なぁに?」

「……主人公とヒロイン、どっちになりたかった?」

「勿論ヒロインよぉ。やっぱりフリフリのドレスはいくつになっても女の子の憧れだ
もの」

「そっか。そうだよね」

 ああ、やっぱりな。

 私、この人と似てないところの方が多いや。








 テレビは暇つぶしで毎日使っていたが、レコーダーを使うのは本当に久しぶりで戸惑ってしまった。

 三分の格闘の末、何とかDVDを押し込む。それだけで朝ごはんの三分の一は消費した気がする。

 ガガガッと嫌な音を立てながら動くレコーダーは正常に起動した。じゃあそんな音上げんなよ。

 若干の不満を感じながらも、映像は動き出す。何十回と見た、オペラ座の怪人が始まる。

 オペラ座の怪人。その内容を簡潔に述べると、醜い顔を持つオペラ座に住みつく
怪人・ファントムと若きコーラスガール・クリスティーヌの悲恋的物語。

 幼き私は、内容も理解できずにこの舞台に釘付けだった。








「まーさん! きょうはこれをみます!」

 リビングで洗濯ものを畳む一代目家政婦まーさんにDVDを突き出す私、三歳。

 母より一回り年上のまーさんは家政婦というより、保母さんという感じの人だった。

 はいはい、と呆れたような返事を交えた笑顔でDVDを受け取ると、まーさんは慣れた手つきで再生ボタンを押した。

『オペラ座の怪人』。三歳にしては攻めた選劇だ。勿論内容なんて理解出来ていない。では何故、あのDVDを選んだのか。確か理由は、

「うわぁぁぁーー! ママ、きれーだねぇ?」

 目が悪くなるとパンの形をしたヒーローに注意されそうなほど画面に近づき、ピンクに染まった頬を両手で包む。

『オペラ座の怪人』のクリスティーヌ、一番好きな母の姿。滅多に返ってこない母養分を、DVDで補給していたらしい、幼き私。

「テレビに近いですよ、葵ちゃん」

 あの頃の家政婦さんは私を『ちゃん』と呼んでいた。今まーさんにあったら、私を何て呼ぶだろうか。

「ちかくていーの!」

「目が悪くなりますよ?」

「めがねかけるからいーの!」

 目線はテレビから一ミリも話さず、反論をかます。我ながら生意気な子供だったと思う。

 初めて舞台を見たのは、二歳の頃。なかなか会えない母を恋しく思い、泣き喚く
私にまーさんは母が出演する舞台のDVDを見せてくれた。

 舞台の上にいる母は、美しかった。悪いが、身内びいきなど一切ない。舞台を下りた後の子供っぽさは認めるが。

「ママかわいいねぇ。あおいちゃんもママみたいなどれす、きたいねぇ」

 ピンク色のリボンが散りばめられたワンピースの裾を掴み、その場でくるりと一回転。唯一の観客であるまーさんは、家政婦びいきで拍手を送ってくれた。

 思えばあの時が、一番幸せだったのかもしれない。

 贔屓でも、お世辞でも、貰えるものは嬉しいんだから。









「あーあ。クッソつまんねぇな」

 あれから十年、私は変わってしまった。

 舞台が始まって三十分もしないうちに、テレビの電源を落とした。用済みのリモコンはベッドに投げつける。

 母は相変わらず綺麗だった。映像は年を取らないので当然かもしれないが、それでも綺麗だったと改めて言う。マザコンの気質はない。

「はぁ……つまんない……」

 自然と目は棚の前に放置されたクッキー缶に向いていた。

 オペラ座の怪人は演劇の歴史の中で何度も何度も繰り返し上演された演目。必然的に、役者は比べられる。

 この人の解釈は面白いとか、この人はあの人より下手だとか、この人は原作に忠実過ぎて面白みがないとか。

「ファントム、さま……」

 それはかつて焦がれた星の名前。

 私はあの日、知った。綺麗に光るだけが星のきらめきじゃないことを。

 醜く、愚かに、歪に光る星。それが私の選んだ星だった。










「お久しぶりです、まーさん」

「あらあらぁ。大きくなったわねぇ、葵ちゃん」

 指定された喫茶店は映画のワンシーンで出てきそうなお洒落な雰囲気の場所だった。

 入り口を開けるとからんと鳥型の鈴が鳴る。朧気な記憶を辿り、花柄のワンピースを着た白髪のお婆さんの前に座った。

「まーさんも……変わったね」

「そうよぉ、すっかりお婆ちゃんよぉ」

 おほほほと右手をパタパタさせるまーさんはやはり変わった。

 髪が白くなったことや、手のしわだけではない。私の知るまーさんは口数の少ないきちっとした保母さん。今のまーさんはおしゃべりな貴婦人みたいだ。

「好きな物、頼みなさい。奢るから」

「いえ私が呼び出してしまったので、ここは私が」

「あらあら。年上にそんなことを言うなんて、びっくになったのねぇ」

 また手がパタパタ動く。まーさんと最後に会ったのは確か十年前。劇団の送迎は車で行う為、免許を持っていないまーさんはそれ以降うちの敷居を跨ぐことはなかった。

「いえ……舞台は、辞めたので」

「あらあらぁ……そうなのぉ……」

 残念ねぇ。そう呟き、アイスコーヒーを一口飲んだまーさんは、それ以上は言及しなかった。

 年長者の余裕、というやつかな。今はそれがとてもありがたかった。

 どちらが払うかは曖昧のまま、アイスココアとベーコンチーズサンドを頼む。マスターはまーさんより背の低いお爺さんだった。

「今何年生なの?」

「高校、一年です」

「部活は何かやっているのかしら?」

「いえ、何も」

「ふふふっ。じゃあ好きなことはある? あいどる、とかかしら?」

「あの、今日は聞きたいことがあるんです」

 まーさんには悪いが、今日は近状報告をしに来たわけじゃない。

「あらあら。私に分かることかしら?」

「はい……まーさんにしか、分からないことです」

 頬を抑え、餌を前に待てを食らった犬のような顔をするまーさんに一つ息を置き、本題を投げる。

 それはとても勇気がいることだった。

「十年前の、七月。まーさんと、一緒に舞台、行ったんだよね?」

「ええ。あの日のことはよく覚えていますよ。葵ちゃんが奥様の舞台のDVDに釘付
けだと話したら、奥様が舞台に招待して下さったことですね。結果として奥様を悩ませる原因となってしまいましたけど、私は行ってよかったと思っています」

「どう、して?」

「だってあの日から、葵ちゃんずっと楽しそうだったから」

 眩しい笑顔に胸が締め付けられる。

 そっか。まーさんは知らないんだ。私が神崎ヒナタになった日のことを。

 届いたベーコンチーズサンドは、のびるチーズが邪魔だと思うだけで、何の味もしなかった。
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