石炭と水晶

小稲荷一照

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開戦

逓信院特別療養棟

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「明日は一旦帰るんだったわね。そうしたらちょっと付き合って」
 リザはそう言って車の進路を指示し始めた。
 ついたところは逓信院に併設された療養院だった。
 リザは車止めに機関車を停めてもしばらく動く気配がなかった。
「辞めるか」
「いえ。今日行かないと一生行かない、会わない気がする」
 そう言いながら、リザの体は椅子に嵌まり込み張り付いたように着座姿勢から動きもしない。
「十日後にまた来るぞ。ボクは」
 辛うじて安全ベルトを解いて、ゼンマイが巻き上げるのをリザはボンヤリと手で追った。
「……わかってる。ううん。わかっていない。そういうことじゃないの」
 そう言うとリザはパンと頬を一つ叩き勢い良く扉を開き、奇妙にテキパキと車からおりた。
 受付を済ませ、アシュレイ少尉の療室を尋ねるとリザは少しマジンの顔を探すような素振りを見せ、まだいる、という事実を告げた。
 そのあと頭を振って、無駄にならないでよかったわね、とリザは言ったが土産を準備したわけでもない身としては無駄になるもなく、如何にもリザの気分の空回りだけをマジンとしては心配せざるを得なかった。
 療室は全く綺麗に掃除され、空気の入れ替えが行われ、奇妙に暖かい空気とそれに反した冷たい春先の風が部屋の中でマーブル状に渦を巻いているのようだった。
 少なくとも療室の扱いは丁寧で、死者に対するものとは明らかに異なった種類の配慮が払われていた。
「彼女がマリール・アシュレイ少尉。私の撤退戦での幕僚よ」
 最新の医学見地に従い、栄養が食道経由で与えられているらしかった。
 だが、そこでマジンは奇妙な違和感を感じた。
 なるほど王冠のような見事な角が頭を覆っているが、全く整った顔立ちは美しい。
 顔色は青白く血色はないが、意識が戻らないまま一年近くも昏睡状態であれば当然とも云える。
 亜人種であれば種族的な要素もあるのかもしれない。
 掛け布団がかかっていても盛り上がっている胸元の膨らみはかすかに見える肩口から考えても大きい。
 だが、そういうところではなかった。
「リザ。急いで療兵を呼べ。溺れている。理由はわからんが何か失敗があったらしい。急げっ」
 差し込まれた口元に泡とあるはずのない水面を見つけマジンはそう叫んだ。
 リザが聞き直すのに同じことを繰り返し怒鳴りながら、マジンは既に頭の上で空になってしまった容器とどうやって支えているのかわかりにくい配管をマリールの口元から慎重に抜く。
 背後でリザが駆け出す気配がする。配管が思いの外深く難しい。
 呼吸が止まっていて、脈が取れない。
 頭を下げうつ伏せにするだけで口や鼻から水が流れ出てくる。
 寝台の軟からさに任せて、息を吹き込み、背中を押すと水の入った袋をぶちまけたように水が出てきた。
 もう一度繰り返し仰向けに返す。
 口元から息を吹き込み胸を膨らませ、胸を強く押しつぶす。
 口から粘液混じりのあぶくのようなものが流れでてゆくが、血液の赤は殆ど見当たらないことに気を良くして、さらに少し強く息を吹き込む。
 口から出てくるものがなくなってようやく息を胸に吹き込む意味が出てくる。
 それでも息を吹き込むたびに何やら粘液の抵抗がある。
 無理矢理に息を吹き込み、胸を押しつぶすことを繰り返すとしばらくしてリザが看護師を連れてきたが、事態が十分に把握できていなかったようで看護師は医師を探しに駆けて行ってしまった。
「名前を呼べ。ともかく呼べ」
 療兵の思いがけない動きにうろたえるリザにマジンはそう命じて、息を吹き込み胸を潰す。
 作業に手応えがわからないまま、硬い床の上で改めておこなうか、と少し力を余計に入れたところで、空気の奇妙な弾力を持った硬さにあたり肋がバネのように戻り始めた。
「ブハッ」
 息を吹き込んだ瞬間に女がカッと目を見開いて、手を泳ぐように振り回すようにして目を覚まし、マジンをひっかきそのいきおい動きのままに首に抱きついた。
「マリールっ」
 その後しばらくマリールはえづいていたが、袋のような白い粘膜の塊をマジンとの胸の間に吐き出すと、鼓動が急激にはっきりと高まりやがて落ち着いた。
「はぁ。なに、どこ、滝壺は?中尉?あれ。だれ。ゼクスは」
 女は荒く息をしながら、誰に向かってか尋ねた。
「マリール。私がわかる」
「はぁ。リザ、ゴルデベルグ、中尉」
 リザの質問に眼の焦点があったらしいアシュレイ少尉が答えた。
「ここがどこかわかる」
「ああ、いえ。どこですか。死後の国ってわけじゃなさそうですけど」
 溺れた者が良くするように思い出したようにむせながら枯らせた声でアシュレイ少尉が尋ね返す。
「軍都よ。逓信院。ギゼンヌの包囲が解かれて私たちは後方に一旦戻ってこれたの。前線はまだ戦っているけど、ギゼンヌは無事」
「こちらの殿方は私を犯そうとしている、というわけじゃないのですよね。馬乗りで汗塗れで私の唇を奪っていたようですが」
 そう言いながら首に絡めた腕は解かないまま、思いの外しっかりした軽口でアシュレイ少尉は尋ねた。
「あなたの命の恩人よ。あなたは吸飲みが溢れて溺れていたの」
 怒るべきか心配すべきか迷った様子でリザが言った。
「ああ。なるほど。それで砲兵大隊に連絡していたはずなのに滝壺に落っこちてしまったのね。父様もひどいわ。娘が黄泉路に迷っているのに引導も渡さず明りも灯さず、こんな悪魔のような殿方に蹂躙されるに任せるなんて」
 そう言うとアシュレイ少尉はマジンに舌を喉の奥までねぶらせるような接吻をした。
 流石に慌ててマジンが口を離す。
「意外と元気そうで何より。アシュレイ少尉」
 マジンはそう言いながら絡められた腕を解き、馬乗りになっていた寝台から降りる。
「あら。私の名前をご存知なの」
 マジンの上着はアシュレイ少尉の吐瀉物で汚れていたが、彼女はあまり気にする様子もなく尋ねた。
「リザから紹介を受けていたところだ。撤退戦での幕僚長だと言っていた」
 戦場帰りの人間の神経が銃後の人間にはよくわからないことはリザで重々承知していたマジンはとりあえず内心の様々を無視して言葉を返すことができた。
「あら。そうするとあなたがやっぱり悪魔のような愛人の方なのね。わたしをメチャクチャに好き勝手に蹂躙するつもりの」
 軽口なのか本気なのか区別の付かない枯れた声の言いように戸惑いながらアシュレイ少尉の腕を取り脈を見ると、正常に戻っているようだった。
 一通り出来事が終わったあと、看護師が医官を連れて飛び込んできた。
 医官はアシュレイ少尉が意識を取り戻したことに驚いていたが、ともかくも診察を始め、看護師は様々に汚れてしまった寝具の入れ替えを始めた。
 医官はマジンにも様々に状況を確認したが、マジンは水難救助の手順に従った以上の意識はなく、魔導の心得がないことを説明した。そう聞くとアシュレイ少尉は少し不思議そうな顔をした。
 ともかくもどういう理由にせよアシュレイ少尉は数奇な偶然から意識を取り戻すことに成功した。
 もちろん、半年ほどの昏睡状態では明日軍務に戻るということはありえず、当面は経過確認を逓信院の療養院でおこなうということのようだった。
 車に戻るとリザは気分でも悪いのか座席を大きく傾けていたが、養育院についても降りようとしなかった。
 仕方なくマジンがエリスの引き取りにゆくと、幾度かあったことのある係の女性が書類の書き方を教えてくれた。
 そうこうしているとエリスが応接室に出てくる頃にリザがやってきた。
「なんか。色々、ブワーッ、と来て、立てなくなっちゃってた。エリスと泊まっていい?」
 日頃傍若無人を営業看板代わりに掲げているとしか思えないリザがそんなことを言った。
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