石炭と水晶

小稲荷一照

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開戦

ロータル鉄工 共和国協定千四百三十七年霜降

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 ロータル鉄工の買収から四半年あまり、足掛け四ヶ月で各社の経営者や主だった幹部や工員たちが憲兵や司法に連れてゆかれ、戻ってきたものも多かった。
 だが、今も取り調べが行われている者たちもまた多く、ロータル鉄工の現場はかなりの混乱の様子だった。
 そういう中でこれまでとは全く異なった、しかし職人にしてみれば煩わしさのかけらもない弾薬製造が仕事として与えられたことは、現場にとっては大きな慰めだった。
 ミューリー火工からローゼンヘン館に移った老人たちの構想した紙巻弾薬梱包機の細部をマジンが詰めて、その試作機を十台汲み上げミューリー火工に持ち込み、紙巻弾薬を作るのを当面の仕事にさせるとミューリー火工はだいぶ落ち着いた様子だった。
 同時に導入された動力付きの回転鍛造機は鉛の棒をねじ切りながら弾丸の形に加工してくれるすぐれもので、そうして一日に頑張れば五万発ほど作られる弾丸は、それまでのレンガの鋳型で作られた弾丸に比べて遥かに形がそろっていたし、溶かし湧いた鉛による事故もなかった。
 紙巻きは軍が汎用の規格として使っている弾薬だが、デカートから運び込まれる硝酸で処理した梱包紙や留糸は燃えカスも残らず、雨にも強いと評判も良かった。
 前線では全く別の新型銃弾が使われ始めていたが、輜重の護衛や或いは前線に回される部隊の多くも、新型銃なぞ音も聞いたことがない、というような部隊はいくらもある。
 地方の聯隊は特にそういう扱いだった。
 ミューリー火工の紙巻き弾薬は作れば作るだけ売れていった。
 硝酸紙とはナニモノであるか、という認知はデカートでは学問的に或いはボッシュ博士が独自にたどり着いていたように、一見不毛の共和国においても実は全く知られていないわけではない。
 もちろん共和国軍参謀本部のような知識研究の一大巨塔においては資料史料としては様々にあった。
 だが、それが天下の往来に斯くして其れとして示されたのは、実に数世紀ぶりのことでもあった。
 まして地方の特産、懐中の奥義秘技のような扱いを解かれた、ただの汎用品として消耗品として、商品としてまろび出たことは全く初めてのことだった。
 もちろん、ミューリー火工も共和国軍も今のところ、ただ灰を残さずきれいに燃え尽きる使いやすい防水紙、という程度にしか考えていなかった。
 マジンも硝化セルロースの共和国における意味価値を、それと識って世に出したわけではない。
 だが、そういうものだった。
 機械と同時に納品された梱包紙はともかく、日に五万発を満足するほどの火薬の準備はミューリー火工には不足していたが、釣鐘形の前装銃弾は鋳型での製造には面倒もあり不足がちで、社内で使い切れない分は、梱包せずに直接軍やほかの銃弾製造をしている工房に卸すこともできた。
 ミューリー火工から下請け弾薬包職人たちに、適当な大きさに切って印章を押された硝酸紙と硝酸糸とが渡され、アミザム周辺の銃弾薬包は奇妙に評価の高いモノとなった。
 ロータル鉄工の様々の不祥事を一身に受けたような扱いになったミューリー火工は一転、ロータル鉄工の再生の拠点ともなった。
 小屋ほどもある巨大な荷車が持ち込んだ機械や様々な資材は、資材と仕事を失い、ただ疑獄にまみれたロータル鉄工に新たな希望と仕事を持ち込んだ。
 ミューリー火工の職人の仕事はある程度に揃った材料を機械に準備することで、仕事の意味するところがひどく単純になっていた。
 職人頭の仕事は奴隷にムチを振るうことから機械の掃除をすることに変わった。
 平時であればそのことは彼らから叩き上げの職人の技術と誇りの情熱を取り上げ冷水をかける、という話になるところだったが、経営買収の直後に司法の手が社内を掻き毟った後では、涼やかな落ち着きを取り戻す契機にすら受け取られた。


 マジンがトルペンに話の流れを確認すると、司法憲兵側から漏れ出てくるところは少ないものの、疑獄事件の根に軍都はかなり深く広く覆われていて、軍都のみならず周辺州でも、様々に問題になり始めているようであった。
 買収以降の司法や憲兵の調査には可能なかぎり協力するということで、トルペンたち新経営陣の身分と着任後の新屋舎には不干渉、ということで協定ができていた。
 具体的な取引の一環として、旧体制の雇用した事務員のうち憲兵司法から身分を預かった数人が新体制派として働いている。
 現状、三社の奴隷たちについては、一部司法からの返却が終わっていないが、衛生健康状態については良好で、指示通りミューリー火工の屋舎の清掃を中心に進め、歩けない者たちや重傷者についても医療面での手当をおこない廃棄はしていない、また社員の怪我や奴隷の損壊については私的財産の侵害ということで幾つかについては司法や憲兵とも争う態度を明らかにして実際に一件は裁判として戦い始めたという。
 実際に光画写真があり、法廷では貴重な記録でもあり、かなり有利に進んでいる。
 最終的には和解する予定でいるが、社員や会社の資産を見捨てるつもりがないことを示すことは、今後にとって重要であると云えたし、実際に重要だった。
 今回ロータル鉄工預かりになっているミューリー火工の屋舎に、発電機やら圧延機や機械旋盤といった工作機械とその周辺機材を持ち込んだことで、ロータル鉄工の小銃製造は奴隷労働を必要としなくなった。
 また、ローゼンヘン工業という経営上の親会社が現場で不要になった奴隷については引き取る計画もあり、順次実施がおこなわれている。
 一時は全く首を括られ火炙りにされている気分だったロータル鉄工の社員たちも、落ち着きを取り戻せるだけの成り行きが見え始めていた。
 事務所に新しいタイプライターと機械式計算機がならび、照明と扇風機が備えられ、工場構内と電話で結ばれたことは、事務所の職員にとっては全くわかりやすい設備投資で、新経営陣の手腕について疑う余地をなくす整備だった。
 少なくとも工場長や倉庫長が居眠りをする暇が大きく減った。
 やがて司法の調査が進み、この場で解放を望む奴隷以外を貨物車に乗せてデカート州ヴィンゼに二百人ばかりづつ三回運んだ。
 途中、合せて五十人ばかりが荒野に散ったが、敢えて散るに任せた。
 どのみちやる気のない者にムチを振るう手数が今は惜しい。
 体制切り替えの上で、管理上負担になっていた奴隷を解放することは、経営上も面倒が少なかった。
 なにより建屋内の設備の整理をおこなう上で、相応に広大な地所社屋倉庫が必要であった。


 それなりに意図があり投資され建設された工房だったが、新しい経営者に新生を求められているロータル鉄工にとっては、無用のものばかりだった。
 本来ならば指導に関わる親方株の職人までも切り捨てることで、ロータル鉄工は深刻な疑獄に関わった組織としては全く異例の素早さで経営の立て直しがおこなわれていた。
 職人のいくらかは司法の取り調べの後に嫌気が差して退職をしたが、幾らかは尚をも残る意思をもち、そういう中で幾らかが機械工具を使った小銃の製造をおこない、紙巻弾薬の梱包を仕事としておこなった。
 職人頭なぞ全く有害不要であるとさえマジンは考えていて、ロータル鉄工が複雑広範な疑獄事件の中心にいたことは、却って企業買収をおこなったのちの立て直しの枝打ちには良い口実になっていた。
 現実として会計係の女性とその夫であった職人頭が無関係とは考えにくく、司法の手が及んだことで現場の主任格であったふたりを失い、ロータル鉄工の活動は極めて停滞したものになっていたが、現在のところ経営上の問題はあまり大きくない。
 ロータル鉄工の株価が下がるに従い捨て値同然で買い集めた結果として、株式の九割を抑えたマジンが同様に債権を抑え、会計責任を一括することで資金融資自体は全く順調だったし、生産販売も問題があった弾薬製造を除けばロータル鉄工の製造業としての経営上の問題点はなにもなかった。
 銃身清掃具という名前の新型弾薬の売上は、下請けのローゼンヘン工業に口座の上で右から左に流れてゆくが、それだけのことでも僅かな日数で僅かな信用と利子が積み重なる。
 年間の売上を凌ぐ金額が毎月の売上として一時的に口座に入り、事務手続き上の期間だけロータル鉄工の口座に存在する。
 その事実だけでも銀行がロータル鉄工から手を引く理由はなくなった。
 会計上、ロータル鉄工からは軍需向けの自社の後装小銃や専用銃弾の生産が消えた。
 だが、設備維持分を考えれば純益は皆無でも、常に無理な設備投資を要求されていた負担が減り、紙巻弾包や銃弾の納品が大きく増したことと人員が大きく整理されたことで、大きく明るい展望が見えていた。
 行き詰まりが誰の目にも明らかだった後装小銃用の弾薬の他に、後装小銃本体の製造自体もロータル鉄工にとっては大きな負担だった。


 軍都に近い、というだけで軍需を一手に支えるには、ロータル鉄工の工業設備環境は貧弱に過ぎた。
 帝国式の小銃を見せられ、理屈も見当はついたが、ロータル鉄工の実力では様々なモノを満足できるほどに準備することはできなかった。
 ロータル鉄工では帝国で使っているような象のような大きさの鉄の塊でできた旋盤や治具を準備することができていなかった。
 実のところこれまで旋条を刻む上で問題になっていたのは、刃物そのものではなく、それを大きな力で引き押しする治具と軸の精度と強度の問題だった。
 更に云えば、滑らかで平らかで泥沼を作らない踏ん張りの効く硬い床と雨風の吹き込まない建屋とが必要だった。
 確かに帝国の工房では強力な畜獣を動力としていたが、そんなものは炉で鉄を緩ませる工夫を重ねたロータル鉄工でも、百人で軸を押し引きすれば問題にならないはずだった。
 だがロータル鉄工が使っているような石組みを組み合わせた小さく軽く脆弱な旋盤では治具がぶれてしまい、綺麗な螺旋を描くことも癖のない銃身を作ること刃物を支えることさえもできなかった。
 加熱して鋼鉄を緩める工夫にしても銃身全体の温度を毎回綺麗に揃えることもできなかったし、刃物が掻きだす鉄くずも銃身と刃物から綺麗に剥がれることもなかった。
 何より、銃身に加えられる捻りによって、焼きを入れた銃身に歪が残り、旋条も銃身にも癖ができ、思ったようななめらかな回転を銃弾に加える事が難しかった。
 幾らかの希少な成功例と膨大な失敗例を積み上げロータル鉄工は旋条銃身を諦めた。
 代わりにロータル鉄工では銃身の製造に伝統的な手法を組み合わせて改良に励むことになった。
 まっすぐ三本の桟を張ることで、釣鐘型の弾丸のすそに均等な傷をつけることで解決とした。
 旋条を刻むのではなく高温に熱した銃身になる直前の鉄の板に鋼線を叩き込み押しこむようにして、張り出しを作った銃身は弾丸を思いのほか良く支え、鋼線の材料自体も銃身より硬い上等なものが準備でき、更新される予定の新型では桟を六本に増やした物になるはずだった。
 製造技術としては如何にも間に合わせではあった。
 だが、抑え紙を使った前装銃弾特有の転がりが消え、癖の少ない噴流に守られる形で、装弾の度に癖がつくことはなくなり、硬い鉄を使うことで起こる銃身の割れもなく、弾丸の空中姿勢が落ち着いた。
 小銃そのものの癖は残ったが、遥かに素直で標的を捉えやすいものになったし、銃身と弾丸のギャップを小さくできるようになったことで火薬そのものはやや減ったが威力は大きくなっていた。
 複雑な構造から寿命には疑いも持たれていたが、初期の生産品は丁寧に作られていたし、後期の生産品には十分な銃弾が供給されることはなく、これまで問題にならなかった。
 それに、小銃の寿命なぞ敵前の兵の寿命と同じほどもあればいい、という考えが主流で、銃身の寿命について文句を言った人間も嫌味以上の意図があったわけではない。
 結果としてではあるが、ロータル鉄工製の小銃は戦争が佳境に至ったこの時期、ほぼ全てが新品同様の正常なコンディションであったことは間違いがない。
 軍都に向けた直接的な納品手段はローゼンヘン工業にはなかったものの、弾丸清掃具という奇妙な名称で納品がおこなわれている事実上の弾丸は秋が深まった今、月産一千万発をやや割り込む勢いでデカートから共和国軍に納品がおこなわれて大行李によって前線に向かっていた。
 ともすればひとつきどころか数日でこれまでの年産量を上回っている勘定で、事の仔細はともかく頭越しに下請けから軍に納品がおこなわれ、軍から驚くような数字の受領票が届き、銀行の口座を一時膨らませ、月末に出てゆく。
 ロータル鉄工の小銃事業は利益を生む事業にようやくなった。
 愛国者の意地と絶望が引き起こした疑獄事件も、戦争の嵐が種を地に還し新たな野を芽吹かせた。
 そういうことだった。
 新たな経営陣と銃弾の生産を引き継いだ者が何者であるかという詮索は当然に会社に残った者達の脳裡にこびり着く腫れ物のような疑問だったが、堅実に見える利益と頭を悩ませ続けていた奴隷の人頭管理が消え去ったことで、わざわざ掻きむしるほどの痛痒を今は感じなくなっていた。
 トルペンたちの見るところ、この四半年ほどの混乱と絶望の後に降り注いだ甘露のような絶妙さで設備投資がおこなわれ、先のことはともかく当面はロータル鉄工は事業の新生に前向きな雰囲気になったと云うことだ。
 ロータル鉄工に起きた嵐は戦争の転機として一足先にアミザムの人々に時代の流れを意識させることになった。
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