石炭と水晶

小稲荷一照

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捕虜収容所

マジン二十二才 3

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 居合わせた山師たち鉱山主そして鉱山組合の主だった面々は十日ほどの間に掘り進められた一リーグ弱のトンネルの出来栄えに驚いていた。
巨大な石臼或いはクッキーの型抜きのような機械は巨大な窓をゆっくりと回転させながらその窓から土塊や石塊をバラバラとふらせ、掻き出すための巨大なベルトに掘り出したものを集め、後ろに控える貨物自動車に積んだ巨大なバケツ目掛けて吐き出していた。
 直径十八キュビットの巨大な輪っかが五キュビット進むたびにその通過したあとに鉄の長い杭が打ち込まれアスファルトを塗られた鉄とセメントで出来た厚み一キュビットのタイルが貼り付けられネジで締められていた。ネジが締まることで土の中の杭の径が増し更に締まるというが、最後はともかくアーチ橋と同じでセメントタイルの強度で決まるというのは分かりやすく安心材料だった。
 外側から押し込めない都合で十年かそこらで緩やかな落盤地勢の圧力を受けトンネルの直径は約五十シリカから二百シリカ縮むだろうという説明だったが、二階建ての建物がゆうに収まる高さのトンネルなどというものを考えてみたこともなかったトンネル工事の新工法の現場を見学していた関係者には、むしろそんなことが計算できることのほうが不思議である様子だった。
 部品で持ち込まれた機械を丸十日ほど掛けて組み立てて穴の向こう側で分解するという、わかるようなわからないような説明を聞いた者達は改めて機械力の威力に驚いていた。出来上がったばかりのトンネルの床はタイルのせいで丸く傾いて鉄の棒杭が突き出していてなんとなく真ん中に皆が細く集まった状態で立つことになってしまうが、入口付近は土で均されて平たく落ち着くようになっていた。
 機械が水車のように回りながら土を掘っている現場から見学用の自動車でたっぷりと話し合える時間があることにもその間窓の外に壁の様子が目にできる程度の明るさがあることにも見学者たちは驚いていた。
 彼らの常識とは全く違う速度と規模でトンネル工事が進められる。もちろん道を掘るのに都合が良い経路で、事前に余り巨大な岩盤がないことは調査を行っているということだったが、直接見ることもできない土の中を良くも見切れると不思議にも思える話であった。
 説明を聞けば医者が聴診や触診で病状を察するのと同じ方法であるということらしいが、さらりと言われても、測定点における衝撃音源の波形特徴から音響経路上の地質中の不連続層とその密度の特徴を推定する云々と技法の詳細を述べられても、見学者の多くにはよくわからなかった。
 うっすらとわかったことは地中に硬い石の層があると高い音が跳ね返り、爆発とその音の反射で石の存在が推定できたり、同様に途中に柔らかな水や砂を含んだ層があると音が低くなるらしい、というそういう話の流れであるという程度だった。ともかく一つの発破の音が長い経路を通るうちにこだまのように幾つかの響きになるそれをあちこちで拾って寄せ集め地層の形を推測すると云う内容だった。
 ともかく推測なので実地は不明ではあるが、推測の段階でなにかがあるとわかれば面倒を避けられる、と云う説明でアタリを避けるための技術だと説明を受ければ、常にアタリを求めている大方の山師たちは拍子抜けした様子だった。
 難しい計算が必要な話はさておいても、発破の音を地面にこもらせるために、細く穴を開け砂と水で栓をするというのは、煙埃や音として飛び散っていた威力を地中に向かわせるという技法として、実際に使えそうな技法だった。
 しかしともかくトンネルの事だった。説明では土石の排斥を考えるとあまり急勾配の傾斜をつけることは難しいということだったが、見学者が歩いて分かる程度にはトンネルが傾いていて、急勾配という説明の曖昧さに質問が出た。しぶしぶ口にされた答えは設計上は五度ということだが、実際には皆目わからないということだった。
 ともかく、大きさが大きさの機械で複雑に各部の機械を組み合わせて同調させている都合、一旦滑りだすと危険が予想される。ということでできるだけ水平に使いたい。と云う希望があって、今のところたまに起きる岩盤による滑り以外の角度の変化はつけていない。
 どうやら巨大なバケツ車に向けて土砂を吐き出している、長い水路のような帯のような蛇のような機械がきちんと動く角度が問題ということらしいと察せられた。
 それに大きな穴の中だというのに、バケツ車があまりに頻繁に走り過ぎていて煙いような目がシパシパする感じもあった。風車のような送気装置が照明器具とともに幾台も天井部に見られたが、多分角度をあまり付け過ぎると空気が悪くなる。長いトンネルでは倒れる者が出てしまうだろう。
 予定ではトンネルはあと四日ほどすると向こう側に打通する見込みで同様のトンネルを七つ作り一旦フラムの山岳部を超えて、鉄道は外側から新たな街道を作りソイルを目指す。
 デカートからは街道が貧弱で接続が悪いが林業が盛んなコゥルベァルの街に繋がる予定もある。
 北街道の外れに存在するコゥルベァルはもともとは近くにあった石炭の露天掘りの町ルベァルとして広がっていたが、ヴァーデン川の支流が氾濫した際に炭鉱を沈めたあとに林業の町として再生した。大きな炭鉱は沈んだが、今でも町が困らないくらいの規模の炭鉱はあちこちにある。交通の便が良くなることはありがたいと町は諸手を上げて歓迎していた。
 マジンには共和国における州と市町の行政関係やその住民の感覚というものは全くわかりにくいもので、元老や大議会の権威というものも未だにわからないのだが、コゥルベァルもそういう意味では宙ぶらりんの街だった。ヌモゥズも立場としては似たようなものであったが、大議会に席を置く州というものではなく、単に独立した町で駅や土地を求めた時も、どうぞご自由にという雰囲気であった。
 ミョルナが比較的規則や地権に固く身を引き締めているのに比してどうにもゆるい。ヴィンゼに比べてもまだゆるく感じられた。
 気になって話の流れを追ってみると、複数の亜人集落に囲まれる形で町が成立していて、もともと土地の権利についての様々がゆるいということであるらしい。
 土地の亜人達の基本的な習慣として畑や街道というものを定点として定める発想が薄く、好き勝手に彼らが歩き回ることを止めることは面倒くさいが、それだけ我慢できるなら割と気前のいい気のいい連中だという。
 家に入り込んできたりするのかと少し心配になったが、町中でそういう悶着があるようには見えなかった。
 狭いところはあまり好きでないらしく、亜人相手の商売は屋台や露店の方が賑わう。
 多くの商店は屋根を大きく張り出して壁の一部を戸口として取り払うように広く開いていたり、店先に屋台を置いたりしていた。
 扉の中に入れないというわけではないらしく、店から出てくる客の中にモサモサとした毛並みの亜人がいたりもするが、多くは屋台や露店で立ったまま商談をしている。その光景はなにやら奇妙な縁日のようでもあったが、合理的な土地活用、と言われればそうかもしれない。
 土地を囲っているのは保安官事務所と刑事司法裁判所だけで、殆どの家には垣根や生け垣のようなものがなかった。
 野生動物に話の通じないクマやトラが周辺にいるにはいるが、亜人が集落をゆるく動かしているせいで町中で被害が出ることはない。むしろ連中が興味を示さない猿や犬猫のような小型の動物のほうが面倒を増やす。
 その話を聞いた時、マジンは実にのどかな街だと鉄道計画が楽に進むことを喜んだが、マスの判断は全く逆だった。
 マスは駅以外の全てを堰堤ではなく高架として設計することを提唱した。
 マスは堰堤案と高架案の二つを示して、初期費用において優れる堰堤案が二十年余りで逆転することを示した資料を準備してマジンに示した。
 予測内容は多分に政治的な要素を含んでいることから意味がわからないマジンはマスを問いただすと「つまり地域にはオオトラばかりだということですよ」と言った。既に実績として夜中環状線の運行を妨げているオオトラばかりの地域の対策は線路を地面と切り離すことしかありえない、と云う主張だった。深酒の結果、亜人なぞ比較にならないほどに理性を失った者たちが大きく鉄道の運行計画を妨げていた。
 ほぼ毎日酔っぱらいやその他の者たちが堰堤を登り線路に立ち入ることで、デカートの環状線の運行は妨害されている。その件数は早くも二百件を超えていた。
 基本的に私有地における暴虐狼藉は司法に持ち込む際に物的被害の証明を要求され、ローゼンヘン工業では乗客と鉄道運行の費用を時間割したものをその請求根拠としているが、事例として特殊に過ぎて裁判の決着例は今のところない。せいぜいが電気柵を破った十数件が多少有利に進んでいるくらいであった。
 デカート司法の立場としては客の一人でも死んでから来いというところだろうが、流石にお互いそこまで正直に殴り合い罵り合いをするわけにもゆかない。
 ローゼンヘン工業の統括司法主任としてのヨルゲントルペン弁護士の見解としてローゼンヘン工業の先駆的な事業内容は法律的な領域を超えた前例の存在しない社会価値を創設するもので、単純な法律上慣習上の適切な応対を前例から求めることは困難で、今可能であるのはローゼンヘン工業が文明社会にとって穏当な立場と利益ある価値を率先して提示する覚悟がある、という態度を地域社会に連綿と示し続けることで社会に浸透する必要がある。としていた。
 トルペン弁護士の言葉を一言で言えば、社会が納得するまで良い子良い人であることを示し続けろ、というある意味で弁護士業の基本的な見解でしかなかったが、一般社員に対する訓示としては十分に一般性のある内容だった。
 訓示を離れた一般論としては私有地の中のことであるから、不埒者にぶん殴ってコブを作るくらいの私刑は一般的に許されるが、そうなれば専門的な技術を持った従事者を無用な危険に晒すことになり、マジンもマスも今それを許す立場になかった。
 マスはマジンがようやく真剣に警備の人員を増やすことを考え始めたことに安心をしていたが、それはあくまで将来計画としての安心材料でしかなく、今日只今の問題として既におこった捕虜収容所での事件などを考えれば、いささか遅すぎるようにも思えた。
 無論それは後知恵であることを認めた上で、マスとしては計画にそもそも組み込める話題として私有地の権利の保護が怪しげな地域で線路を地上に這わすことの危険を説明した。
 土地を盛ったり切ったりが今更できないわけもないが、面倒があるというならどちらも面倒で、鉄橋高架にしても経費が読みにくいわけではない。さらに言えば将来的な技術として必要なものでもあった。
 どういう経路で通過するにせよ、鉄橋架橋技術は必要で、コゥルベァルは周辺から多少高くなった丘陵地でそれをめぐるヴァーデン川支流源流域はゆるやかに入り組んだ相対的な低地帯でもある。
 そのことが豊かな土壌を集め緑や獣を育んでいるわけだが、鉄道を通す上でいちいちあがったりおりたりを細かく繰り返す地形でもある。
 適度に散らばっている台地部分に果樹園などを営む荘園が集まっていた。
 どうやって地域の亜人社会と馴染んでいるのか不思議に思ったが、どうということもなかった。社会に対して収穫が十分あるものだから、あまり生産に対して或いは通貨収益に対して敏感でないらしい。
 地域全体が亜人社会の感覚に合わせた形で動いていた。
 かごに入れた果物を盗まれたら怒るが、木になっている果物が減っていても怒らない。そういう風になっていたし、盗る方も畑全部を荒らすことはしない。
 物々交換以前の所有の概念が存在しない世界だった。
 ある意味で理想の楽園である意味で悪夢のような無法の世界だ。というマスの言葉にマジンは頷かざるを得なかった。
 そういうところに鉄道を敷けばどうなるか。
 通過するだけならまだしも駅を作ればどうなるか。
 マスは皮肉な顔でどうするかを尋ねた。
 高架案で工事を実施することになった。
 マジンがハリスウィンスストーン氏の誕生日会に出席したのは実は初めてであった。
 過去に幾度か招待を受けてはいたが、多忙であったし、ヴィンゼからも更に離れたローゼンヘン館を拠点にしていると例え自動車で半日一晩という距離でも、なかなかに足を向けるというのも難しかった。
 元老としてデカートに出向く用事があってさえ軍都に足を向けたり事業を回したりと、戸口まで足を向けて簡素な言付けをストーン家の家人に託すだけで精一杯だった。
 個人としてのハリス氏は極めて快活な楽観的な人物であったが、元老としてのハリス卿は全く慎重な猜疑に満ちた判断をする人物であった。
 その二面性に因る逆張りで家業の商会の利益を誘導しているのだ、という意見もあったが、ハリス氏はデカート一般の文明の程度について疑いを持っているのではないか、とマジンは考えるようになっていた。
 カノピック大橋の可動橋案や環状線道路の開放更には捕虜収容所の荒れ野における建設など、幾つかの事業についてハリス卿は反対票を投じていて、ストーン商会などで直接に接した機会もあるマジンとしては不思議に思うこともあったが、結果としてそれぞれに問題が引き起こされている。
 マジンが被るべき咎とも思えないが、より大きく予算を投じるなら人を配れば或いは避けられたかもしれない問題でもある。
 特に捕虜収容所の事件については、マジンには裁量に関わる余地があった。
 環状線道路に関しては自動車事故が目立って増えていて、地権者の責任において封鎖する事も含め判断が求められている。
 平滑に固められた平坦路というものはデカートは疎か共和国においても珍しく、自動車が全力発揮可能な路面という意味では全く貴重な路面でしかも十分に長さのある道だった。
 春の終わりごろから各地の荘園では自動車を手に入れた人々によって、敷地の路面を細かな砕石を敷き詰め瀝青で固めることが流行りだしていた。
 私有地であることをはっきりと意識させることにもなったし、それ以上に轍ができない、小石が飛ばない、など自動車の運行に都合が良いことがわかったからだった。
 路面を固めるための作業は安いものではなかったが、玄関先を固めるくらいのことは自動車を買えるような人々にとってはそれほどの問題でもなかったのであちこちの荘園でおこなわれていた。
 とはいえ、幾人かで楽しむには狭い敷地より広いところという成り行きで環状線道路は自動車愛好家たちの一種の聖地になっていた。
 デカートにほど近く市街地にはありえない三車線道路が線路堰堤を挟んで二組という条件は自動車を手に入れた人々にとっては風光明媚な行楽地と変わらないものだった。
 夜間でも線路は保線などの都合で照明があり、周辺の街路を照らしていたから、天候にかかわらずそこそこに見通しがあった。
 昼間は様々に田園を行き交う馬車も多かったが、夜間の人通りは工事の区間を除けば用事のない道だった。
 そういう道で事故が頻発していた。
 一晩に何周できるかと云う競争をしていればある意味必然でもあるが、街道と交差していることから時間と関わりなく往来そのものはあり、明かりがあることから頼りと油断をする道でもあった。周回道路上を脇目もふらず機関いっぱいに回し突っ込んでくる物を長旅で疲れた人馬が避けられるはずもない。
 ローゼンヘン工業としては直接の監督の立場にはないが、私有地内の出来事とありしばしば法廷の席に引き出され、しばしば責任を追求されることになる。
 裕福な者の遺族としては家族の突然の死などというものは理解できないことから、元老院の席で理不尽な言葉を投げつけた元老もいる。
 街道で馬車が誰かを轢き殺したとして馬車を作ったものや道を普請したものが裁かれた例はないので、礼儀正しく鼻を鳴らす以外の言葉もないわけではあるが、人殺し扱いをされて裁判を今もいくつかおこなっている。
 そういう経験を経てマジンはデカートの人々の文明程度について大いに疑いを抱くようになっていた。
 ハリスは当年六十五で年若いという印象は全く無いがどこかに不自由を感じさせる様子でもなく、老いたというよりは熟したという矍鑠さを感じさせる様子だった。
 彼はマジンを先生と呼び、日頃の雑談としては学志館で発表した論文についての説明を求めることが多かった。
 それは間に合わせで思いついた話題というよりは、相応に読み下した結果の行き着いた疑問というものが多く、聡明な人物との議論がそうであるように文章や論文本体を飛び出したものに結びつくこともしばしばあった。
 会場を一巡りしたハリスが一旦場を離れるとグリスがマジンの元を訪れた。ついて行くとハリスが別室で待っていた。
「先生、立派な時計をありがとうございます。しっかりした作りで文字盤の細工も見事だ。月の満ち欠けなんて云うものが手元でわかるのはなかなか気が利いている。大きさも手頃で見やすい」
 マジンが送った懐中時計をハリスは手の中で重みを確かめるようにしながら、贈り物の礼を述べた。
「主賓は一旦ご休憩ですか」
「まぁこの歳でははしゃいでみせるのも長い時間だと息切れしてしまいますし、立ちっぱなしは流石に堪えます。お客様の前で腰を掛けていると遠目に見た方が心配されますしね」
「お歳のことを言われると、改めてお誕生日おめでとうございますと言い難いですね。しかし、これからもお元気でいただきたいので、やはりおめでとうございます、と言わせていただきます」
「ありがとうございます。立つのは私が辛いので、先生も腰を下ろしてください」
 腰を下ろしたマジンの顔をまじまじと眺めてハリスは一旦言葉を切った。
「――お呼び立てしたのは、ひとつおねだりがありましてですな。よろしければお願いしたいのですが」
「モノによりますが、どういったことでしょう」
「五年前にお願いしたことを覚えておいででしょうか。その時はやんわりお断りを受けましたが」
 マジンは首をひねった。
「はて、様々に皆様に不義理をしている覚えはありますが、心当たりが多すぎて思いつきません。なんでしたでしょう」
「五年前に一度、自動骸炭窯の建設をお願いしたのですよ。或いは工房ごとデカートにおいでにならないかとも」
「ああ。そういえば。過日はお誘いいただきご無礼したままに、お目にかけていただきありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ、お屋敷の辺りの様々を見るにあのとき無理にデカートにお越しいただいていれば、金の卵を産む鶏を絞めるのと同様だったと息子と笑っていたところです。あれよあれよと五六千の人を雇うまでになるとは、さすがの手腕と感心しております。ならばそろそろ、お願いできるかと思いまして」
「ときに、一昨年、検事局六課に預けた機関小銃の調査をされたのはお手前の工房でしょうか」
 一瞬ハリスの目元が跳ねるようにマジンを見た。
「なんのことでしょうか、というのもご無礼ですか。なぜそう思われましたか」
「単なる状況証拠です。十日足らずで機関小銃を分解調査おこなえる工房で、政治的な発言権を直接持つところ、というと多くはありません。まして検事局の予算に外から踏み込めるところなぞ、元老配下の工房くらいでしょう。ボッシュ博士であれば、私のもとに直接怒鳴り込みにいらっしゃると思います。尤も工房の意見として止めたというよりは元老の意志として導入を止めたということだと理解していますが、なぜですか」
 そこまで聞いてハリスは頷いた。
「純粋に高い。と思ったからです。初期においては妥当かもわかりませんが、これまでのローゼンヘン館の製品の重量と価格から考えて安くなるだろうと私は考えました。多分二三千タレルまでは安くなるだろうと。いずれ必要としても一丁六千タレルは高いと思いました。軍の設備投資後は安くなるとも言っておられたとか」
 ハリスは悪びれもせずに言った。
 真意はわからなかったが、自身に思うところがあったことを認めたハリスにマジンは頷くしかなかった。
「なるほど。たしかに。……骸炭窯はなかなかに手強いですよ。私も材料ではかなり苦労しました。少なくとも先の蒸気圧機関のようなつもりでいると火事ではすみません。最悪あたり一面を巻き込んだ爆発になります」
 脅しのようなマジンの言葉にハリスは笑いを消して頷いた。
「それでも、いずれ必要でしょう。図面と現物両方いただければと思いますがよろしいですか」
「一億タレルで。部品はお譲りしても構いませんが、初号機以降の出張はいたしかねます」
「ガス容器の図面もいただけますか」
「弁の図面と構造計算要領をお渡しします。どうお使いになりたいか、いちいち伺うのも面倒ですし、ご商売もそれでは立ちゆかないでしょう。ひとまずのものはありますが、細かく詰めるとキリがないものですし、ガス容器の生産はどちらかにお任せしたく思っています」
「むしろ、図面をいただくからには本来の意図が学べないようでは話になりません。勉強させていただきます」
 ハリスの決意にマジンは肩をすくめた。
 現実問題としてローゼンヘン工業だけでは市場の需要を満たす生産計画の管理が追いつかない。材料資源や市場の共食いの危険はあるが、ゆるやかに技術の展開をおこなうために積極的な既存企業の協力は欠かせなかった。
 鋳鉄を中ぐりして琺瑯を掛けるという作業は、物の性質上完成後確認困難な内側に品質のすべてがあり、内製はともかく外注は選定と信用が全てだった。
 初期生産においては内製が全てであるが、現在管理上限界に近いローゼンヘン工業では需要の拡大に追従するのに全てを内製で賄うことはできない。
 ストーン商会が規格を追従した形で生産を行うということであれば渡りに船でもあった。
 今のところ、電気電話に比べるとガスの家庭利用は消極的だったが、新しい技術製品は普及期間がある程度進むと需要が爆発的に伸びるという傾向は明確にあって、いつその市場の臨界が起きるのか部門責任者は戦々恐々と期待と恐怖をないまぜにしていた。
 捕虜収容所の暴動事件を受け、デカート州及び市の各官庁の電気電話の予算要請が一斉に発生していた。経緯は素直に喜べるものではなかったが、ともかく普及の拡大が見込まれることで人員の流用や拡大を即座に行うことも難しかった。
「改めて、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます。本日はおいでいただけて感謝しています」
 ハリスは改めて口元を緩めて来訪の礼を述べた。
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