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僕を捨てないで!〖第12話〗
しおりを挟む少年は純粋に深山を慕うが、それは深山が『マスター』だからだ。あの碧い瞳には『マスター』しか映さない。
『ふかやまさん』は要らないのだという思いが、とうに諦めたはずなのに、深山をどうしようもなく苦しめた。
それでも深山は、あの瞳が深山を映すことはなくても、あの少年に必要とされたかった。みっともない女々しい感情を、淡い微笑みや、ねぎらいの言葉で隠す。
もう、あの少年は、深山を『ふかやまさん』とは呼ばなくなった。深山は、少年の『理想のマスター』になることを選んだときから解っていたはずだった。一瞬の喜びしかもたらさず、後に残るのは虚しさしかない、『マスター』の立ち位置。こんなにも苦しくなることは、解っていたはずだった。
いっそ手放したら楽になれるのか?深山の頭にそんなことが浮かぶ。主従の関係を破棄したら、あの少年はどうするだろう?私の前から姿を消し、知り合いのコレクターにも、姿を現し、あの声で話しかけ、あの瞳で見つめ、笑いかけるのかと思うと、深山はやるせなさに襲われる。
それでも、気持ちを押し殺し、笑うことさえ苦痛な毎日よりはいいと深山は思う。悲しくて、つらい、ねじれたメビウスの輪のように途切れることなく続く、この不毛な想いから解放されたかった。
鈍い照明が灯る淋しいアトリエで深山はうなだれ、小さく呟いた。
「もう、疲れた。すまない、アレク……『マスター』でいるのは、疲れたんだ……」
綺麗にしてやったからコレクターの買い手もつく。こんな所へ無理に縛り付けておく必要はない。自由にしてやろう。きっとこんな窮屈な暮らしよりいい暮らしが出来る。きっとあの少年も幸せになれる。深山は、自分自身に言い聞かせる。あの少年を想う苦しさから逃げたとは、解っていた。
午後八時。深山は「大切な話がある」と言い少年にミルクティーを頼んだ。リビングからは月が見えた。かなり眩しい光だったが、満月には、なりきれてはいなかった。風が強いせいか、庭の遠くにある、木々がうねるように揺れていた。
『御用でしょうか。マスター』
少年は、ニコリと笑うと、いつも通りミルクティーを差し出し、ローテーブルに静かに置いた。
『どうぞ。マスター』
ソファに浅く腰掛け、深山は指を組み、少年を見つめ「ありがとう」と微笑む。深山は久しぶりに素直に笑えたと、思っていたが、少年の表情に不安気な影がさす。深山は、少年の表情を見ないふりをしてゆっくりとミルクティーを飲む。
「隣へ来てくれないか?君を……覚えておきたい」
『はい、マスター』
不思議そうに、不安そうに少年は隣に座る。ゆっくり深山はミルクティーを飲む。これが最後だと思うと、ミルクティーを飲みきることが躊躇われた。深山は少年を見つめて言った。
「……もう二度と私を、『マスター』と呼ばなくていい。近々この関係を解消しようと思う。私の知り合いでアンティークのカップを収集している人が居る。君を紹介しようと思う。いい人だよ。大切にしてくれる。私のように人使いが荒い、偏屈な、癇癪持ちではない。毎日君を綺麗に磨いて飾ってくれるよ。その、上手く言えないが……窮屈な思いをさせて、すまなかった。いつも怒ってばかりで、嫌だったろう。私はマスター失格だったな。君のことは忘れない。幸せになってくれ。急な話ですまなかった。話は終わりだ。休むといい。このティーカップは飲み終わったら洗っておく。これで最後だから……」
深山が言い終えないうちに、カップがカタカタ大きく揺れだした。割れてしまうのではないかと思わせるくらいにミルクティーは波立ち、溢れ、辺りを濡らした。
振り絞るような少年の悲痛な、か細い泣き声が音のない暗いリビングに響いた。
『どうして?マスター。僕を捨てないで……よその家なんて嫌です!……冗談、ですよね?嘘だって、嘘だって言って下さい!お願いです。お願いですマスター!』
少年は、下を向いて両目を手で擦る。深山はそっと両手首を掴み、手を剥がすようにして少年の顔を見る。深山は泣き濡れていた瞳を、瞑るように穏やかに言い、ハンカチで目許を拭いた。
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