Arachne 2 ~激闘! 敵はタレイアにあり~

文字の大きさ
4 / 55
プロローグ

「先輩」

しおりを挟む

   *

 その後、他の応募者がいなかったため、滞りなく茜は採用された。

「応募者がたったひとりだなんて、去年まではあり得なかったわ」

 マリアは言った。アラクネの仕事は人気が高く、募集する度に応募者が殺到したそうだ。優良企業なので納得だが、理由はそれだけではない。

「本当に冷やかしが多かったから……」

 コモンスペースのデスクを挟み、俺とマリアは雑談をしている。彼女の人形のように整った横顔が、かつて起きていた問題を証明していた。

「一年間、蝶野さんが男性の応対を続けたから、噂が上書きされたのね。本人がいなくなった後に効果が表れるなんて、ちょっと皮肉な話だけど」

 マリアは社会科担当の講師だが、毎日講義だけをしているわけではない。秘書的な業務や事務作業、システム管理、果ては採用面接まで幅広くこなしていた。

 男女問わず、マリアに会うことが目的の応募は多かった。真面目に相手をしていてはきりがないため、男性だけを蝶野が引き受けることにした、らしい。俺が応募したときには既にそうだった。結果、奔放な彼に度肝を抜かれたのだが、今となっては大切な思い出だ。

 そしてようやく、下心のある者たちの間に「面接に漕ぎつけてもマリアには会えない」という噂が浸透したようだ。そうなると、タイミングによっては応募がほとんどないことも起こり得る。

「茜ちゃん、今日からだっけ」

 マリアは茜ミコトをそう呼んでいる。姓に〝ちゃん〟付けというのは珍しいが、高校生なので親しみを込めたいのだろう。元より、相手の年齢によって言葉遣いをはっきりと分けるタイプだ。

 ひとつ年上の蝶野に対しては、姉のように叱ることがありながらも「蝶野さん」を貫いていた。一方、五つほど年下の俺は「鳥辺野くん」だ。

「そうですね。学校が終わったら向かうと言っていました」

 月が替わり、四月。新学期の始まる日が茜の初出勤だ。今日は授業がないらしいので、昼過ぎには着くだろう。そろそろだろうか――と思った頃、曇りガラスの向こうに見覚えのあるピンク色が現れる。

「こんにちは。今日からよろしくお願いします」

 面接のときと変わらない、完璧なギャルコーデ。素顔が想像できないほどに濃いメイク。だが挨拶は明瞭かつ丁寧で、初対面のスタッフからの印象は悪くなさそうだ。周囲にいる者たちが笑顔で挨拶を返す。

「今日はオフィスの紹介くらいで終わるから。気楽にね」

 用意しておいたデスクに案内し、荷物を置かせる。その後、彼女を連れて小さなオフィスを回った。
アラクネの公式チャンネルは百万人以上の登録者を抱えているが、その運営はコンパクトだ。もっと大きくなれる、という見方もできるし、このくらいで十分、という捉え方もできる。在宅で働いているスタッフも少なくなかった。

 いくつかの部署に分かれてはいるものの、明確な仕切りがあるわけではない。事務所の半分には個人のデスクが並んでおり、もう半分は自由席のコモンスペースだ。奥の窓際には円卓があり、会議の際に利用されていた。

 俺がただのアルバイトだった頃、講師陣の会議を横目に作業していたことを思い出す。アラクネの話でありながら、俺個人にはさほど深く関わらない――そんな議題を流し聞いているときが、最もはかどったのだ。

 俺自身が講師となった今、あの頃の心構えには戻れないけれど。

(いつの間にか、俺が指導する立場かぁ……)

 備品のパソコンや資料棚、ホワイトボードになっている壁。それらを説明しながら歩き回り、ふと茜の方を振り返った。途端にばっちりと目が合ったのでたじろいてしまう。

「何ですか? 先輩」

 おおう、そう来たか。確かに先輩で間違ってはいないが、そんな呼ばれ方をするとは思わなかった。鳥辺野さん、とかでいいのだが。女子高生に「先輩」と呼ばれるのは、なんかこう、むず痒い気分になる。

 でも、彼女からすればこれが最も自然なのだろう。無意識に口走った、という印象があった。陸上競技をやっていたらしいし、部活動では何千回と口にした言葉なのだと思う。

「あ、そうだ」

 事務所の奥にある廊下。来客からは見えづらい位置に、様々な色の扉が並ぶ。撮影部屋や会議室、資料室などだ。アラクネはオープンな社風だが、当然ながら個室も用意されている。

「アラクネでは、五人の講師陣のことを幹部メンバーと呼んでいるんだ。一般的な会社だと、幹部といえば課長クラスの人たちを指すだろうけど。ここだと役職とは関係なく、撮影業務を主導している講師たちが〝幹部〟なんだよね」
「つまり、先輩も幹部ですか?」

 茜の言葉に、しどもどしながら頷く。おこがましい気もするが、確かにそうだ。もちろん、単にそう呼ばれているというだけなので、必要以上の権限なんて持たないのだが。本物の管理職というわけでもない。

「なんかカッコいいですね」
「やめてよ、俺なんてただの駆け出しなんだから」

 苦笑しつつ、目の前の扉に向き直る。
各講師――幹部メンバーの執務室も兼ねる撮影部屋の扉は、それぞれのメンバーカラーに塗り分けられていた。手前から、紫・緑・赤・黄・青。奥に進むほど古株になるように、アラクネへの加入順で並んでいる……はずだった。
緑担当の蝶野が抜けて新人の俺が引き継いだので、現在はその法則が崩れてしまっている。

「風見さん、在室中だ。ちょっと挨拶しよう」

 プレートを確かめてからノックする。数秒後に扉は開けられた。

「おお、今日からか。よろしく」

 理科担当・風見の部屋には試薬や実験器具が大量に並んでいる。どれも丁寧に管理され、鍵つきの棚に仕舞われていた。

 率直に述べると、彼は育ちが良い。家柄を明確に聞いたわけではないが、しばらく接していれば伝わってくる。だが、本人にとっては若干のコンプレックスらしく、あえて軟派な男を演じようとしている節があった。

「そういえば、見つかったよ。ハサミ」

 風見の言葉に茜はきょとんとした。それも一瞬のことで、すぐに笑顔になったが。面接の日から二週間近く経っているので、忘れかけていても無理はない。風見の探していたハサミは、会議室の棚の下で見つかった。そして、同じ空間にいた茜は心当たりがあったはずなのに、何も知らないふりをしていた。

 あの日、俺は帰宅してからも理由を考え続けた。

 意味のないことだとは思った。ウミガメのスープのように真相を探したところで、それが何の役に立つというのか。そんな気持ちは確かにあったが、気になってしまったのだから仕方がない。

 そして現在、ひとつの結論が――

「あっ、茜ちゃん!」

 俺の思考は、唐突な声に遮られた。手前から三番目、赤い扉を開けてマリアが顔を出している。さっきまではコモンスペースにいたはずだ。もしかして、絡む口実を作るために移動したのだろうか。オフィスを案内する俺が、いつかここに連れてくると予想して。

「入って入って。どうせ今日はオリエンテーションだけでしょ?」

 もっと風見と話そうと思っていたのだが、勢いに負けてそちらの部屋へ吸い込まれてしまう。いつになくテンションが高い。普段なら、そつなくクールに仕事をこなしている姿しか見せないのに。ギャルに興味があるのだろうか。あるいは、高校生という存在自体を珍しがっているのか。

 アラクネにはマリアより年下のスタッフもいるが、全員が大卒者だ。面倒を見て可愛がる、という関係にはなりづらいのかもしれない。だとすれば、彼女にとって茜は特別な存在だ。

(第一印象で株を上げる作戦か。頑張れ、マリアさん)

 女性ふたりが話しているのを横目に、俺は壁際で大人しくしておく。マリアは社会科を担当しているが、この部屋には全科目の赤本や資料が揃っていた。どんな問題に対しても「分からない」とは言いたくない、努力家の彼女らしい部屋だった。

「すごっ。本物、初めて見た」

 茜が感嘆しながら見ているのは、壁際に飾られたプレゼントの数々だ。オタク的な呼び方をするなら「祭壇」だろうか。マリアが推しのために集めたのではなく、マリアを推しているファンたちから贈られたもので構成されている。

「プレゼントは持ち帰らないでオフィスに飾ってある、って聞きましたけど、本当にあるとは思いませんでした」
「ええ、こうやって大切にしているわよ」
「このマグカップなんて左利き用だし……。ちゃんとマリアさんのことを分かってくれてますね」

 正直なところ、マリアがプレゼントを持ち帰らないのはストーカー対策だ。ぬいぐるみにGPSでも仕込まれていては困る。ただ、大多数のファンは悪意も下心も抱いておらず、純粋にマリアが好きなのだ。左利きの彼女が使いやすいものを贈ってくれる人もいる。

「知ってる? 万年筆にも左利き用ってのがあってね……」
「えっ、それ初めて聞きました。違いがあるんですね」
「右利き用を使うとペン先が引っ掛かるのよね」

 しばらく黙って聞いていたが、話が長引きそうな気配を感じた。壁際から視線を送れば、マリアと目が合う。彼女は名残惜しそうに苦笑した。

「ごめんなさいね。引き留めすぎちゃった」
「マリアさんのお話、面白かったです! また聞かせてください!」

 見えない尻尾でも振っていそうな声色で、ストレートに褒める茜。無自覚だろうけど、見事な後輩ムーブだ。何かが何かに刺さる音がした。あくまで概念上のことであるが。

「あの……私のこと、もっと気軽な呼び方をしてくれていいのよ?」

 一世一代の告白のように、真剣な表情でマリアが言う。更に距離を詰めたいと考えたのか。対する茜は、自分に向けられた感情に気づいていないようだが。

「気軽な呼び方って何ですか?」
「たとえば……先輩、とか」

 まずい、と思ったときには遅かった。茜はがっつり俺の方を振り返り、それを追従するマリアの視線にも射貫かれる。まさか、という形に唇が動き、目つきが明確に嫉妬を表明した。

「それは駄目ですねぇ、先輩は先輩だけですから!」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

女帝の遺志(第二部)-篠崎沙也加と女子プロレスラーたちの物語

kazu106
大衆娯楽
勢いを増す、ブレバリーズ女子部と、直美。 率いる沙也加は、自信の夢であった帝プロマット参戦を直美に託し、本格的に動き出す。 一方、不振にあえぐ男子部にあって唯一、気を吐こうとする修平。 己を見つめ直すために、女子部への入部を決意する。 が、そこでは現実を知らされ、苦難の道を歩むことになる。 志桜里らの励ましを受けつつ、ひたすら練習をつづける。 遂に直美の帝プロ参戦が、現実なものとなる。 その壮行試合、沙也加はなんと、直美の相手に修平を選んだのであった。 しかし同時に、ブレバリーズには暗い影もまた、歩み寄って来ていた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...