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第一章・暗号は春風のように
帰り道
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警察署の前で佇んでいると、遠くからパンプスの足音が聞こえた。どこかで着替えたのか、もうTシャツは着ていない。馴染みあるスーツ姿の蜂須だった。
「花房は……」
「まだ取り調べ中みたいですね」
「そう……」
憔悴が顔に表れていた。時間を稼ぐかのように、胸の前で両手を組んだり離したりしている。その手首にはぐるりと赤い傷が残っており、痛々しい。
彼女は靴紐で縛られ、監禁されていたのだ。
今でも信じられない。あのとき受話器を手にしていたのが、話している蜂須本人ではなく犯人だったなんて。第四理科室から国語準備室への発信。モニターの文字を見た彼女は、咄嗟にこう告げた。
「私を探すための電話だろうから、応対させて。絶対に助けは呼ばない。適当に言いくるめて帰ってもらうから……って」
そうして犯人に代理応答ボタンを押させ、俺たちと通話をしていたのだ。
三年六組の教室は、いわゆる「ハズレ」だった。とにかく正門から遠い。近くに職員室もない。もしあのとき「助けて」などと叫んでいれば、誰かが駆けつける前に命を奪われていたことだろう。
犯人は学園祭に呼ばれていたアーティストだった。ゲストとして堂々と仕事をこなしたあと、撤収すると見せかけてそのまま潜伏していたらしい。目的は窃盗。名門学園なら金目のものがあると踏んだのか、女生徒の私物を特定の層に売りさばくつもりだったのか……。詳細はまだ分からないが、決して許されることではない。
「助けてくれてありがとう。本当に感謝しているわ」
花房を待つため、近くのベンチに並んで座った。そこへ移動するための十秒ほどの間に、彼女は何度も頭を下げた。助けるなんて当然のことだし、今回はほとんどが花房の功績だ。身に余る言葉にむず痒くなってしまう。
「蜂須さんと花房の機転が利いたからですよ。俺なんて何もしていません」
あのときのことを振り返る。
不幸中の幸いだが、犯人は蜂須のことを知らなかった。どこかのクラスTシャツを着た教師だと思い込んでいたようだ。立ち入り禁止の教室棟なので、外部の人間がいる可能性は確かに低い。
特別講義は一般参加が認められていないため、パンフレットにも載っていない。登録者百万人を超えるチャンネルのメンバーであっても、勉強に興味のない層には知られる機会がない。そういった要素が重なり、蜂須は「犯行を目撃した教師」として監禁されてしまった。
まさに絶体絶命の状況で、内線電話のモニターが光るのを目にしたのだ。
内線電話には、代理応答をした子機を表示する機能がなかった。だから犯人に受話器を取らせただけでは居場所を伝えることができない。それを知っていた蜂須は、何とかヒントを伝えようとした。
「生徒の机にプリントを配っている」という言葉は、俺たちだけが違和感に気づくことを期待して告げたものだった。
「国語準備室にはちゃんと着いていたのよ。でも、部屋の窓から隣の棟の教室が見えて……そこに不審な人影があったものだから、乗り込んでしまったの」
蜂須がぽつぽつと反省を述べる。女性だけで不審者と対峙するなんて、不用意な行為だったかもしれない。だが、悪いのはもちろん犯人だ。生徒を守るため、あれほど厳重なルールや検査が設けられていた学園祭で、とんだ裏切りを働いてくれた。関係者の怒りや心労は計り知れない。
「無事でよかったです」
心からの言葉を告げる。目立った被害は拘束による擦過傷くらいで、乱暴を受けた様子もなかった。だが、発見が遅れていればどうなっていたことか。犯人が目撃者を無傷で解放するはずがない。そのつもりがあるのなら、最初から監禁なんてしないだろうし。
「蜂須さんが諦めずにヒントを出してくれたから、花房も異常に気づけたんです。俺は察しが悪いからさっぱりでしたが……。彼がいて、良かった」
「私も……」
呟くように応えながら、視線がゆらりと動く。警察署はオフィスとは反対の方面にあり、見慣れない景色が夜の帳に包まれていた。
「高浜先生がいてくださったから……」
最後までは言い切らない。口ごもった理由は俺にも分かった。犯人に監禁されていたのは蜂須だけではなく、高浜も一緒だったのだ。巻き込んでしまったことを後悔している。だが、それと同時に「良かった」とも思ってしまう。
「ひとりだったら、諦めていたかもしれないわね。あなた方を巻き込んでまで助かる必要はない、と思ってしまったかも」
「そんなこと言わないでくださいよ」
先ほどまで自分がいた建物の方へと視線を向ける。まだそこで取り調べを受けている、花房の姿を透視するかのような心地で。当事者である蜂須よりも時間が掛かっているのは、訊かれたこと以外も話しているからだろう。
犯人の行為がいかに非道であったか。もし助けが遅れていればどうなっていたか。監禁されたふたりだけではなく、学び舎を汚された生徒たちへの加害でもある。何としても厳刑を課してほしい――といった内容のことを、取調室に入る前からまくし立てていた。
正直、かなり驚いた。普段は口数が少なく、穏やかで優しい花房が、まるで別人のように感じた。何かのトラウマを刺激されたのでは、と勘ぐってしまうほどだ。しかし「厳刑を課すべき」というのは俺も同意見で、大切な人を恐怖させた罪は、ちょっとやそっとじゃ許せそうにない。
蜂須瑠璃子は、アラクネを率いてきた彼女は、俺にとって唯一無二の存在だ。
「蜂須さんにとっての高浜先生。それと同じくらい、俺たちも蜂須さんが大切なんですよ。諦めるなんて言わないでください」
文字の読み書きが苦手な蜂須にとって、国語は鬼門だったはずだ。国語の教師とは気まずい関係になっていてもおかしくない。苦手意識を持ったまま卒業し、再会しても積極的には関わらない。それが自然な流れだろう。
だが、蜂須を呼んだのはおそらく高浜だし、蜂須の方も彼女に懐いていた。わざわざ人目を忍んで言葉を交わし、帰る間際も会おうとする。そんな関係に至ったのは、高浜が諦めずに向き合い続けたからではないか。
俺の想像を補完するように、訥々と思い出話が語られる。
「お察しのとおり、私は国語がものすごく苦手で。高浜先生には本当にご苦労をかけたわ。それでも先生は根気強く付き合ってくださったの」
長い文章が読めないと嘆く彼女に、高浜は和歌を教えた。まずは一行の詩から挑戦してみたら、と。百人一首の解説本から始まった読書の旅は、大人になった今も続いている。
「式見さんの本を読めているのも、高浜先生のおかげね」
「そうだ、そのことについて言いたいことがあったんだった」
行きの車の中で紹介された、式見カオルの作品。タイトルをすらすらと述べる蜂須を思い出しながら、俺は言葉を続ける。
「式見さんの本のタイトルにある〝法則性〟って、源氏物語だったんですね」
処女作が『桐壺譚歌』。次は『帚木の母』と『空蝉』。
デビュー作は『身を尽くしても』。
そして『若菜』は上下巻組の長編だった。
蜂須を待っている間に他の作品についても調べてみたのだが、全て源氏物語の巻名からとられているのだ。そのまま拝借しているものもあれば、少しいじっているものもあるが、確かに「元ネタ」を知っていれば暗記はたやすい。
彼女は式見のファンゆえに、巻名の順番まで詳細に覚えていた。布教を受けて読み進めていた花房も、少なくとも『若菜』までは知っていた。互いが共有している知識として、暗号に使うことを思いついたのだろう。
「源氏物語は五十四帖からなる作品です。そして、波久亜学園のクラスは……」
「中高合わせて五十四、ね」
中学の一年一組から順に割り当てていけば、巻名を告げるだけで居場所を伝えることができる。幸いにも犯人は蜂須の素性を知らなかったので、国語の教師を装えた。花房は声を自在に操り、女生徒のふりをした。本当に、よくぞ上手くいったものだと感心する。
「大胆なことをしますよね、花房も……」
「そうね。あの子には感謝してもしきれないわ」
当の彼はまだ姿を見せない。さすがにそろそろだと思うのだが。答え合わせも済んだので、俺たちの話題は先に帰ったメンバーの方へと移った。
「そういえば、オフィスの方には連絡を入れてくださったのかしら?」
「ええ。警察署へ移動する際に」
後から来るはずの俺たちがなかなか到着しないので、心配していたようだ。まさかこんなことになっているとは思うまい。今は無事なので騒がないでほしい、と釘は刺しておいたが……。
「もうすぐ来るんじゃないですかね」
たかが釘ごときで、あの人を止められるはずがない。
え? と首を傾げる蜂須の背後、遠くから駆け寄ってくる人影がある。長い髪とスプリングコート、ショルダーバッグ。それら全てをばらばらになびかせながら、なりふり構わず全速力で走る女性がひとり。
「蜂須さん!」
興奮しているが、大して息が上がっていないのはさすがと言うべきか。俺の連絡を聞きつけて現れたマリアは、ベンチの前に回り込んで膝をついた。
「良かった……無事だ……」
「俺、言いましたよ。今は無事ですって」
「そんなの、実際に目にするまで安心できるわけないじゃない……! ああ、先に帰らなければ良かったわ。私が一緒にいれば、蜂須さんをこんな目に遭わせたりはしなかったのに。犯人なんて、この手で止めてやったのに!」
「犯行を?」
「いえ、息の根を」
冗談だと思ったのか、蜂須がくすりと笑う。相変わらず自分のことになると途端に鈍い。彼女のためなら、マリアは躊躇なくそういうことをするだろうに。
「もう! 笑いごとじゃないですよ。本当に心配したんですから! これからはどこへ行くのにも私を連れて行ってください」
いや、さすがにそれは無理だろ。どさくさに紛れてとんでもないことを言うなぁ、この人は。蜂須はしばらくきょとんとしていたが、やがて見慣れた上品な微笑を浮かべた。
「改めて宣言するまでもなく、私はマリアとずっと一緒よ」
「蜂須さん~!」
やれやれ。俺はすっかりお邪魔だろうか。マリアも普段は気配りができる人なのだが、今は蜂須しか目に入っていないようだ。ベンチを立ち、後ずさりしながら距離を置こうとしたところ、背中が何かにぶつかった。
「あ、すみませ……」
「よう。大変だったな」
頭上から声がする。俺より拳ひとつ分ほど背の高い男が立っていた。
「風見さん。来てくれたんですか」
「何も手伝えなかったのに顔だけ出してすまないな。マリアをひとりで行かせるのもどうかと思ってついて来ちまった」
風見は今日のイベントに参加していない。だが、出社はしていたようだ。マリアと一緒に来たということは、彼女の運転する車に同乗していたのだろう。それはさぞかし……怖かったろうと思う。アラクネの面子があるので、法定速度は守っていたはずだが。
「やはり俺も行くべきだったか……。あまりオカルトなことは言いたくないが、蜂須は事件に巻き込まれがちなところがある。でかい男が隣にいるだけでも印象は変わるだろう。腕っぷしは……まあ、自信がないが」
「ないんですか」
「ないよ。でも、人間なんて所詮は外見しか気にしないんだ」
あっさりと情けないことを言う。だが、無駄な見栄を張らないところが風見の長所だ。彼はいかにもスポーツマンじみた美丈夫だが、運動神経の方はからきし駄目らしい。とはいえ、腕力に関しては人並みだと思うのだが。
「俺も風見さんくらい威圧感があれば良かったのですが」
「なに言ってんだ。お前は実際に蜂須を助けただろ」
「電話でも言いましたけど、それはほとんど花房が――」
その名前を出した途端、不意に気配を感じた。慌てて振り返る。
そして気づいた。警察署の門から出てくる青年の姿に。
「藤乃くん、」
蜂須が口走る。初めて聞く呼称に驚いたが、よく考えてみれば不思議はない。ほんの数年前まで、彼女は花房のことをそう呼んでいたはずだ。
「……花房。お疲れさま。今日は本当にありがとう」
すぐに呼び直して駆けつける。小柄な青年は、あっという間に同僚たちに取り囲まれた。彼は疲労の浮かぶ表情でしばらく呆然としていたが、数度まばたきをするとおもむろに下を向く。
「良かった。無事で……」
袖で目元をぬぐう。それでも抑えきれない涙がはらはらとこぼれ出す。その様子を見た蜂須はうろたえていたが、やがて穏やかな笑みを浮かべ、そっと肩を抱いた。普段は決してそんなことをしない。部下に対して身体的接触を図ることなどないが、今はこれが正解だと感じたのだろう。
あの大きな絵画の前で、高浜とそうしていたように。
自らが受け取った愛や慈しみを、そのまま花房へと注ぎ込んでいた。
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