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第一章・暗号は春風のように
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ところで。最近の懸念材料だった『週刊タレイア』についてだが。
「さすがに監禁事件で持ちきりだよなぁ」
仕事の合間に電子書籍を購入し、中身を確かめようと考えた。表紙では既に〝お嬢様学校〟の文字が踊っていてげんなりする。でも、箝口令を突破するほどのスクープをタレイアごときが掴めるはずがない。根拠のない余裕を抱きながら、ダウンロードの完了を待っていた。
そして、まさにその表紙をクリックしようとしたとき。
奥の廊下から足音が近づいてくる。ここでは滅多に聞かない、落ち着きがなく乱暴なリズムだった。音の主は俺の隣に立つと、ぼんやりとした声を発する。
「ちょっと、いいかしら……」
「どうしたんですか、蜂須さん」
焦っているような、驚いているような。何とも言えない表情で俺と花房を見下ろす蜂須がいた。もう幹部会議の時間だろうか。いや、まだ早いよな。ちらりと時計を見た意図を汲み取ったのか、彼女はこう言った。
「幹部会議とは別に、緊急会議を開くわ」
「まさか……」
今さらながら、彼女の手に『週刊タレイア』があることに気づいた。ダウンロードしたばかりの電子書籍と同じ表紙だ。つまり最新刊。まだ一ページも読んでいないそれに、いったい何が書かれていたというのか。俺は花房に目配せすると、蜂須の後に続いて会議室へと向かった。
「ごめんなさい。今度は私です」
蜂須がホワイトボードの前に立ち、他の四人は生徒のように横並び。半月前と同じ構図で会議が始まった。
「今日発売の『週刊タレイア』よ。この部分を見て」
あるページを示される。俺は持ち込んだノートパソコンの方で確認した。表紙のとおり、波久亜学園の事件に関する記事がある。しかし警察発表の情報しか得られないはずで、大したネタにはならないと思うのだが……。
「え? 何これ」
読み進めていくうちに、思わず声が出た。その記事は、監禁事件について述べるだけでは終わらなかったのだ。むしろそれは導入でしかなく、本命のスクープは別の部分にあった。
「蜂須さんが波久亜学園出身だってこと、どうして今さら書くんだ?」
確かに、事件が起こるまではそれが最大の心配事だった。あの特別講義の受講生にスパイがいる可能性すら頭を過った。だが変な質問をされることはなかったし、スタッフも教師もボロを出さずに切り抜けたはずだ。
何より、監禁事件を知ったあとではインパクトが弱すぎる。
被害者が蜂須であるとバレたわけではなさそうだ。それとは別の話として、強引な連想ゲームのように彼女の名があがっている。事件の方では新情報を掴めなかったから、せめてこちらでPVを稼ごう――という姑息な作戦なのだろうか。
いや、この際、動機は何でもいい。
問題は「どうやって」知ったのかということだ。
「蜂須さん、これは本当なんですか?」
マリアが震える手で紙面を指す。母校のこと自体はこの場にいる全員が知っているので、それに驚いたわけではない。
「あの日、高浜先生とこんな話をしていたんですか?」
問い詰められた蜂須は、悲しそうな顔で頷いた。
記事の中では、俺が見ていた密会の様子が細かく記されていた。ただし同じ視点ではない。これを書いた記者は、ふたりの会話が聞こえる距離にいたようだ。踏み込んだ内容の会話が書き起こされている。
「皆さんが、あれほど配慮して触れないでいてくださったのに。私自身が油断をしていたんじゃお話にならないわね……。本当にごめんなさい」
胸が苦しい。十数年ぶりに恩師と会ったのなら、積もる話もあるだろうに。どうして彼女がこそこそしなければならないのか。って、覗き見ていた俺が言えることではないけれど。
卒業しても、あなたはずっと大切な教え子。
アラクネの活動を応援している。母校を明かせないことなんて気にしていない。どうか自分の生きやすいように生きてほしい――
(全部、蜂須さんに向けられた言葉だ。野暮な記者なんかに聞かせたかったわけじゃない)
ふつふつと怒りがこみ上げてくる。俺は記事に何度も目を通し、犯人の居場所を割り出そうとした。会話が聞こえているのでかなり近い。しかも、ふたりの立ち位置まで把握しているので、壁の裏側などではない。立ち入り禁止のホールに侵入していた可能性は高く、学園に対しても迷惑行為を働いたことになる。
「ゴシップ記事のくせに、やけに文才を感じる書きぶりなのが癪だな」
風見が言うとおり、全体的に描写が詩的だ。高浜の名こそ出ていないものの、凛とした着物姿やロマンスグレーの髪が美しく表現されていた。ふたりの表情。声色。廊下の静謐な空気。それらを余すことなく伝えようとする気概を感じる文章だ。
「抱擁する彼女らの姿を見ていたのは、霧に包まれた朝ぼらけの水面だけだった。広大なカンバスに描かれた川の景色は、その心を映すかのように晴れていく……」
彼の音読を聞きながら、何かが脳裏に引っ掛かるのを感じる。情報としては特に意味のない、ただ背後にあった絵画を説明しただけの文章だと思うのだが。
一方、蜂須は別のことに気づいたようだった。
「絵のタイトルを踏まえた表現ね。あれは『あさぼらけ』と題されていたわ。プレートにそう書いてあったの。この記者は、かなり近くで見ていたのね」
俺の位置からは全く分からなかった情報だ。双眼鏡やカメラの類は持ち込めないので、肉眼で見るしかない。やはり犯人はホールの中まで侵入していたのだ。
そう考えたとき、花房が小さな声で呟いた。
「スマホカメラのズーム機能を使った……?」
そうか、その手があったか。手荷物検査では、かろうじてスマホは没収されなかった。勝手にあちこち撮らないようにと釘を刺されたものの、持ち込んでしまえばどうとでもなる。最近のスマホは高性能だし、それを使ってプレートの文字を読み取ったのかもしれない。
……いや。だとすると、根本的におかしな部分がないか?
「スマホを向けていたのなら、写真も撮れるはずよね」
俺より先に蜂須が疑問を口にした。そうだ、それが言いたかったのだ。前回の風見の工作室といい、今回といい、記事には実際の写真が使われていない。スマホを通して見ていたのなら、そのまま撮影すればよかったのに。
「ああ、それはですね」
マリアは理由に心当たりがあるらしく、立ち上がって部屋の片隅に向かった。そこにはオープンラックがあり、イベントで使ったアイテムが保管されている。箱のひとつを開けると、黒い物体を取り出して戻ってきた。
全員の目の前でばさりと広げる。
学園祭でスタッフが着用していた、オリジナルの黒Tシャツだ。前面には蜘蛛のドット絵がプリントされている。彼女はそれを自らの首から下へとあてがい、俺の方を見て言った。
「鳥辺野くん。ちょっとスマホで私を撮ってみて」
「え? ……分かりました」
怪訝に思いながらもスマホカメラを向ける。あの日の蜂須もこれを着ていたよな。本人は「似合わないのでは」と案じていたが、マリアが半ば強引に勧めていた。洒落てはいるが、特に変哲のないTシャツのはず……。
「あれっ?」
俺は、マリアを撮れなかった。カメラを向けた途端、何かの認証機能が反応して外部アドレスに飛ばされるのだ。成すすべもなく白い画面が表示される。
《盗撮は犯罪です。ただちに撮影をやめなさい》
などという警告文が次々と現れ、撮影どころではなくなってしまった。
「QRコードになっているのね」
蜂須の呟きを聞き、ようやく理解した。ただの柄だとばかり思っていたドット絵には、巧妙に二次元コードが隠されていたらしい。普通のカメラであれば正常に撮れるだろうが、スマホのカメラでは顔より先に図柄が反応してしまう。もちろん、全ての機種には対応できないものの、野次馬相手の牽制としては十分だ。
Tシャツを配ったとき、マリアが自慢げにしていたのはこのためか。全く同じ表情で仕組みの説明をしてくれた。
「パパラッチ対策の衣服は既に市販されているのだけど、あれはカメラのフラッシュを利用しているから使えなかったの。スマホでの撮影を止めるには、やっぱりこれが一番ね」
「確かに、こんなのが表示されたら驚いて撮影をやめますよね」
「本当は、カメラを向けた瞬間に爆音で警報が鳴る、みたいなのを作りたかったんだけどね。さすがにそれは駄目だって風見さんが」
「そりゃ駄目だろ。身内同士で誤爆するぞ」
呆れ顔で風見が言う。ということは、彼と一緒に作ったんだ。このシステムとTシャツを。蜂須や同僚を守るためとはいえ、随分と手の込んだことをする。でも、これのおかげで『タレイア』には写真が載らなかった。
蜂須がしみじみと礼を告げる。
「ありがとう、マリア。助かったわ。私だけならともかく、高浜先生のお顔まで撮られていたら申し訳が立たないもの」
「何をおっしゃるんですか! 蜂須さん自身のお顔も大切です!」
「優しいのね。でも、今度からこういうことをするときは事前に話してね」
自分の着ていた服がこんな仕組みになっていたなんて、驚くもんなぁ。というか、これって他人事じゃないな。着用したシャツはそのまま支給されたので、普段着にしようと思って持ち帰っていた。これを着てカメラに映り込む度にこうなっちゃうってことか。便利と言えば便利だが、恥ずかしくもある。
「まあ、今回も無視でいいんじゃないか?」
逸れそうになった話を風見が戻した。卓上にある『週刊タレイア』を、心底つまらなさそうな表情でぱたんと閉じる。
「学園の人たちが、せっかく今のお前を受け入れてくれたんだ。わざわざ波風立てることはない。当日も、みんなで口裏を合わせていたんだろ?」
「そうですね。誰も、私が卒業生であることには言及しませんでした」
「じゃあ、それを無下にするわけにもいかないな」
理不尽な圧力には屈しないこと。それも誠意の形のひとつなのかもしれない。
タレイアのようなゴシップ誌に反応していては、奴らに餌を与えることになってしまう。この記事には写真もなく、読者の興味を引きづらいだろう。内容もただの盗み聞きであり、確かな裏取りがあるわけでもない。
今回は何もしない。そんな結論を出して緊急会議はお開きとなった。
(それにしても……)
幹部メンバーが退出した会議室の中。俺はすぐ動く気になれず、ノートパソコンで記事を読みながら考えごとをしていた。
(ゴシップ誌の記事にしては、妙に小説じみた文体なんだよな……)
書いた人物は風見のときと同じだろう。筆致のクセが等しい。情景描写が細やかなので、取材も書き手自身が行ったのだと思われる。風見や蜂須の周囲を嗅ぎまわることができて、なおかつ、このような文才を持つ人なんて……。
そういえば、あの人は小説家を目指すためにここを抜けたんだっけ。
「まさか、な……」
首を振って嫌な考えを払い落す。あの人を疑うなんてとんでもない。困惑させられることも多かったけど、それ以上に助けられた。尊敬している。俺はいま、彼のような「良い人」を目指して仕事をしているのだ。
こんな気の迷いを断ち切るためにも、早く犯人の正体を知りたい。
どこから手をつければいいのか分からない課題を前に、溜め息をついた。
〈第一章・暗号は春風のように 終〉
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