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第四章・飛翔の正しいフォームとは
火災、そして飛翔
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煙は炎より早く回る。俺たちが三階のフロアに向かったとき、そこは既に長居のできない空間になっていた。蚊取り線香で燻された虫のように、屋上まで逆戻りさせられてしまう。
「火元はエントランスにあった段ボールでしょうか」
茜の分析は的確だが、声が震えている。散々騙されてきたのだから、彼女の自作自演を疑わなかったわけではない。だが本当に危険な状況であるし、本当に焦っている様子だったので、その疑いは消し飛んだ。俺たちが置かれている状況は、嘘でもなければハッタリでもなかった。
スマホを使って消防には通報した。しかし、こんな小さなビルが炎に包まれるのは時間の問題だろう。路地裏だから消火活動も難航すると思う。安全が確保されるまでの数十分もの間、ここで留まっていても大丈夫なのだろうか。
「何とか逃げる方法は……」
俺はあたりを見渡す。すぐ隣にもう一棟のビルがあるのが憎らしい。あちらにはまだ火が回っていないが、事態に気づいた人々が外に出ていた。一方、こちらには誰も上がってこないので、第一ビルには俺たちしかいないのだろう。
跳び移ることができたなら、簡単に逃げられるのに。
「距離は……五メートル、いや四メートルくらいか」
俺の考えていることを察したのか、茜も隣に立ってそのビルを見た。ここ、第一ビルと全く同じ形、高さの第二ビルを。
「女子幅跳びのトップ選手なら、六メートルは跳べますね」
「いや、それはちゃんとした競技での話でしょ……」
何を言い出すのだ、この子は。いくら両者の高さが同じとはいえ、間に横たわる奈落を無視することはできない。失敗すれば大怪我では済まないのだ。グラウンドで行われる競技とはわけが違う。
「ちなみに全国百位の選手でも五メートル半は跳びます。この記録は足の位置ではなく最も手前の着地点で測りますから、確実に重心はそれより向こうに届いているということです」
「競技では跳べたとしても、これは無理だよ!」
「確かに、二十五メートルほどの助走距離が欲しいですね。この屋上では少し足りません。ただ、大会記録より大幅に短い四メートル程度であれば……」
「だから! なんで跳ぶ前提で話すんだよ!」
言い争っていても仕方がない。俺は屋上を端から端まで確かめた。何か使えそうなものがないか探したのだ。その結果、ペントハウスの傍らに廃材が積み上げられていることに気づいた。木材や鉄骨、コンクリートブロックなどがある。
その中でも鉄骨はかなり長い。四メートルはあるかもしれない。だとすれば向こう岸まで渡すことができるが、さすがにこの上を歩く勇気はなかった。平均台ほどの幅しかないのだから。
他にはトタンの板があった。こちらはそれなりの幅があり、勇気を出せば歩けそうだ。しかし長さが足りない。屋上の端から差し出してみても、隣のビルにはあと少し届かなかった。目標の八割くらいだろうか。
「板ならもう一枚ありますよ、先輩」
茜の声に振り返る。彼女は廃材の山から板を引っ張り出し、目の前に置いた。規格品なのか、全く同じ形と厚みのトタン板だ。
「二枚くっつければ向こうに届きますね」
「でも、ここには釘やトンカチなんて無いし……」
一応、波打った部分を重ねればぴったりと嵌まるものの、それで固定はできない。人間の体重なんて支えきれず、ふたつに分かれて真っ逆さまだ。材質的に強度は期待できるし、あとは長さが足りれば何とかなったのに……。
そう考えたとき、ふと思いついたことがあった。
「あ、でも」
まずはフロアの上で二枚の板を重ねる。全体ではなく、半分ずつだけ。こうすることによって、見かけ上の長さは十分なものになる。
「このまま渡ると、当たり前だけど落ちるよね。でも片方の端にひとりが乗って、その板の上からもう一枚を重ねると……」
重なっているトタン板のうち、下側にある方に俺は乗った。板同士は固定されていないが、下側の板が落ちない限りは上側も落ちない。そして、下側の板は体重で支えることができる。
「こうやってひとりが支えていれば、もうひとりが渡りきれるんじゃないかな。鉄骨とかコンクリートブロックもあるから、それも足して重石にすれば更に強度が上がるかと。向こう側に着いたら上下を入れ替えて同じことをすればいい」
「なるほど……」
無謀なことだと反対されるかと思ったが、意外にも真剣に聞いてくれている。もっとも、跳躍で渡ろうと考えるような子なのだから当然か。
彼女はトタン板の一枚を手にして屋上の端から差し出した。彼女自身に加え、近くの廃材を重石にして、即席の飛び込み台のようなものを作る。あとは足りない部分にもう一枚の板を重ねれば、向こう岸まで繋がるはずだ。
問題は、どちらが先に渡るかだ。
俺としては、まず茜を逃がしたい。早く安全な場所に行ってほしい。だが、ちゃんとした避難ルートでもない橋の上を、先に渡らせるのは非道だとも感じる。スピードか、それとも安全性か。
もう時間がない。俺は早口で結論を告げた。
「そろそろここにも炎が来る。どうか先に逃げてほしい。屋根に使われるような板だから、人間が乗っても大丈夫だと思う。錆びついてもいないし」
あえて見ないようにしていたが、ペントハウスからは既に黒煙が上がっている。大して広くはない屋上なので、ここが燻されるのも時間の問題だ。野次馬たちにもそれは伝わっているようで、心配そうに見上げている様子が窺えた。しかし彼らには何もできない。初期消火できる段階は過ぎており、消防車の到着を待つのみだ。
茜の方へ視線を戻す。彼女は俺の提案を受けてなお、板の端から動かなかった。目的地である第二ビルの屋上を見遣ると、すらりとした指で示す。
「でも先輩。あちら側には廃材がないんですよ」
「え?」
「先輩の方が体重は重いですよね。だから先に渡ってくれないと、足りない分を補えないんです」
「確かに……」
茜が先を譲ったのは、思った以上に現実的な理由だった。まさか体重がネックになるとは。俺の方が重いのは間違いないし、確かに渡る順番は重要だ。彼女の体重だけで俺を支える形になれば、ふたりとも落下してしまう可能性すらある。
「第二ビルの屋内から家具を運んでくるという手もありますが、はたしてその猶予がありますかね」
「……分かったよ」
妙に冷静な態度に違和感を覚えつつ、俺は頷く。煙を見たときは震えていた声も、今は落ち着きはらっていた。まるで物理学の問題を解くかのように的確な指摘をしてくれる。それはありがたいが、どうしても気味の悪さが拭えない。
「先輩」
もう一枚の板を継ぎ足し、第二ビルへ繋がる橋が完成したとき。茜に呼ばれたので振り返った。トタン板の上に積まれた鉄骨やコンクリートブロック。その上に腰かけるジャージ姿の女子高生は、何だかアニメみたいな絵面だった。
「どうしたの」
早く渡りきって彼女の番にしたいのに。焦る俺とは反対に、茜はどんどん冷静になっていく。いや、冷静を通り越してダウナーだ。助かるための行動をしているはずなのに、全てを諦めたかのような表情を浮かべている。
「ウチ、謝らなくちゃならないことがあるんです」
「タレイアの記事のことでしょ? そんなの後でいいよ」
「いえ、タレイア絡みではあるのですが、もっと現在進行形のことでして」
そこで言葉を区切り、視線を逸らす。路地を挟んだ向こう側、張り込みをするなら最も適しているであろうラブホテルの方を見ていた。あの部屋を借りている人も火事に気づいているはずだ。窓はマジックミラーになっているので、こちらからは全く伺えないが。
そんな、顔も見えない相手に想いを馳せたとき。
俺は大きな勘違いをしていたことに気づいた。
「もしかして、いるのか? 他の記者が……」
「そうです。というか、ウチってもう見切りをつけられていたんですよね。タレイアの記者さんたちに。だから取材に来たわけじゃないんです。どうせ、こんな場所じゃ張り込みもできない高校生ですし」
よく考えてみれば当たり前のことだ。茜が見切りをつけられている、という話は初耳だったが、そうでなくともわざわざ女子高生を送り込む場所ではない。タレイアの記者はひとりではないのだから、他の大人が出向いているはずだ。
その人物は、俺たちが火事に巻き込まれている様子を見ている。おそらくホテルの部屋に居座ったまま、悠々とカメラを構えて。
(腹立たしい……けど、茜さんが謝ることでもないな)
彼女はどういった意図で今の話をしたのだろう。わけが分からないが、訊き直す時間もない。ペントハウスが勢いよく炎を吐いたとき、俺はここから脱出する決意を固めた。
トタンの橋に足を乗せ、そのまま一気に四メートルを渡りきる。なるべく体重をかけないよう、跳ねるように進めばあっという間だった。
「着いた……」
思ったより簡単だ、というのが率直な感想。アドレナリンが出ている影響なのかもしれないが。成功を祝っている場合ではないので、すぐさま次の行動にとりかかる。渡ったばかりのトタン板を掴み、茜側にある板の下に滑り込ませようとした。
だが、その行動は失敗に終わる。
「……え?」
俺の眼下をひらひらと舞う鈍色の板。橋を構成する二枚のうちの一枚が、手元を離れていったのだ。俺の持っている方ではない。先ほどまで茜と廃材によってしっかり支えられていたはずの板が、もう届かない場所へと落ちていく。
手が滑った、なんてものじゃない。
いくつもの重石があったのだから、意図的に取り除かなければ落ちたりしない。何なら、落とす直前に彼女は地上を覗き、巻き込むような位置に野次馬がいないことを確かめていた。きっとわざとだ。わざと、自分だけが火災現場に取り残される状況を作った。
「どうして! それじゃ渡ってこれないだろ!」
せっかく脱出する方法を見つけたのに。何の意味も為さなくなった板を手放し、俺は叫ぶ。消防車のサイレンがようやく聞こえてきたが、はしご車も入れない路地なのだから救助にはまだまだかかるだろう。
風はぴたりと止んでいる。四メートルの距離があっても、互いの言葉は明瞭に届いた。屋上に閉じ込められた茜は打つ手がない。俺もひとりで逃げるわけにいかない。こうなってしまっては、声を掛け合うくらいしかできることは無かった。
「先に渡るんじゃなかった! まさか君がこんなことをするなんて!」
「ウチ、謝らなくちゃならないことがあるって言ったじゃないですか」
「そんなの後でいいって言っただろ! 偶発的に起きた火災で犠牲になられたって、こっちは後味が悪いだけだ!」
「やっぱり、先輩は何も分かっていない」
「いいよ、何とでも言いなよ! どうせ俺は察しが悪いし馬鹿だし。君が好きな蝶野さんみたいに優秀な人間じゃないさ。でも、アラクネの一員として責任は持っているつもりだ。自分の後輩すら守れないなんて、悔やんでも悔やみきれない!」
屋上で言い争いをする俺たちを、野次馬はどんな風に思っているのだろう。客観的に見れば、俺だけでも早く地上に向かうべきだ。第二ビルはまだ延焼していないが、ふとした瞬間にこちらの屋上まで孤立しかねない。
でも、ここから離れることなんて、できるはずがなかった。
「もういいです。早く行ってください」
ついに彼女はそう言った。
「そこからどけてください」
「でも……」
「どけてって言ってんの!」
突然の怒声に頭が真っ白になる。その声は間違いなく茜の口から発せられたのに、俺の頭が納得してくれなかった。いつも明るく元気な子で、こうやって声を荒げるのを聞いたのは初めてだ。
俺の顔は、情けないほどに呆然としていただろう。彼女の指示どおり逃げて、彼女自身も無事に救助されたとして、俺たちは前のような関係に戻れるだろうか。逃げた者と置き去られた者という関係ができてしまった以上、もう二度と心から分かり合えないような気がする。
それは、嫌だ。
でも彼女を怒らせたくもない。
俺はくるりと背中を向け、屋上の端から離れた。第二ビルのペントハウスに向かってとぼとぼ歩いていく。その最中も、これからどうするべきかを必死に考えていた。このまま地上まで降りてしまうことは簡単だ。打つ手がないのだから、むしろそうするべきだ。とはいえ、それが正解のはずがない――
そのとき。ふと気づいたことがあった。
俺が先ほど怒鳴られたのは「立ち去れ」でも「逃げろ」でもなく「どけて」という言葉だ。つまり「場所を空けろ」という意味になる。本当に見捨ててほしいなら、このような言い方にはならないと思う。
ペントハウスの前で振り返る。すると、茜はいつの間にか遠くにいた。第一ビルの最も近い位置にいたはずだが、反対側まで走り去ったようだ。屋上の端から端までは十五メートルほどある。もう声は届かない。
次の瞬間、ものすごいスピードで距離を詰めてきた。
(ああ……)
そのフォームはあまりに美しく、芸術作品に近いものを感じた。どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。屋上に閉じ込められたとき。隣のビルとの距離が四メートルほどだと話したとき。彼女は真っ先に、跳躍で渡ることを考えていた。
違和感はあったはずなのに。トップ選手が何メートル跳ぶだとか、助走はどのくらい必要だとか。調べもせずに話すなんて、普通は不可能だ。
茜の脚が屋上の端に届く。俺たちが腰かけていた段差の手前で踏みきり、しなやかな体躯が宙を舞った。彼女の下には何もない。足場も、命綱もない状態で、その身ひとつで空を飛んでいる。あとは無事に着地できるかどうかだ。
――届け!
自分の出した声が聞き取れない。喉はからからに乾いていた。憎らしいほどの快晴の中、ジャージのラインが流星のように尾を引く。
ドサッ、という音が聞こえた。
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