シグナルグリーンの天使たち

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五月・ビフテキはグリニッジにあり


   *

今日のカフェ・ラドガはいつもと様相が異なった。
そう、このような名前らしいのだ。私にとって「温室の下の店」であり、サツキにとっては「アパートの隣のカフェ」である場所の、店名が改めて意識に上る日だった。時刻は夜に入ろうとする六時。普段なら閉店へ向けて片付けが始まる頃だ。今日は特別にディナーが提供され、遅くまで店を開けることになっている。
「準備できたかい、雨屋さん」
〈店長〉が私に声を掛ける。カマーベストにエプロン、スラックスに革靴。見慣れた服装ではあるけれど、今日はやけに畏まって思えた。ちなみに私の方は明らかに服装を変えている。さすがにトレーナにジーンズのような恰好では出られない。膝下までのスカートとシャツ、蝶ネクタイまで着けちゃって、上辺だけなら高級レストランのウェイトレスに見えるだろう。
「お料理、残りの席にも運んじゃうね」
緊張するだろうけれど自然体に、と言われている。店内は満員御礼だった。とはいえ全席が埋まっても大した人数にはならない。限られたスペースを最大限に使うため、教室のように規則正しくテーブルが並べられていた。ふたり掛けの席が縦横に三列ずつ。つまり九卓あり、十八人が座れる。告知した集合時間は過ぎているため、ほとんどの席で客が待っていた。空いているところは、手洗いにでも立っているのだろう。
店長が頷いたので、私は配膳を始めることにした。クロッシュの被せられた料理がひとつずつ。中身はビフテキだ。遠くの席から順に運んでいくと、最後列の席にいる青年と目が合った。数ヶ月前に出会った友人、如月サツキである。彼はおなじみのパーカ姿で、客のひとりとして座っていた。
「もうちょっとちゃんとした服、なかったの」
小声で問うとサツキは辺りを見渡した。
「そう? 逆に目立っちゃうと思うけど」
確かにそうかもしれない、と考え直す。客人は若者から老夫婦まで様々だったが、特にめかし込んでいるようには見えなかった。店長や私だけが畏まっているのだ。元より小さな店であるし、近所の住民が大半だろう。私は彼の前にも料理を置き、いくつかの席で同じことをしてから厨房へ戻った。残りの席は既に店長が済ませている。
さて、今からここで何が起きるのかというと。
店長の知人が珍しい宝石を手に入れ、それを披露するための会合だと聞いた。集まっているのは公募によって選ばれた一般市民。新しいお宝が手に入る度、こうやって縁もゆかりもない相手を呼んでいるらしい。宝石商や富豪ばかりに見せても面白くない、というのが彼の持論だ。そして、当の彼自身もここには現れない。
「まったく、金持ちの考えることは分からんな」
店内に新たな人物が登場し、全員が聞こえるような声でぼやいた。当然、客を含む大勢の視線がそちらへ向かう。客席の前方、窓辺の狭い空間に中年の男性が立った。テーブルの数を増やしているため、窮屈なのは仕方がない。いくぶん後方の方がスペースに余裕もあるが、注目を集めるにはここに立つしかないだろう。
「護衛に警察を呼ぶような稀少品のお披露目が、片田舎にある普通のカフェ? しかも当人は現れず、呼ばれているのは一般人ばかり。誰も盗みに来やしないよ、こんなところになんざ」
長いひとり言のような話し方をした後、男は店内を見渡してから告げた。
「失礼、皆さん。私は刑事の沖名(おきな)と申します。今回披露される宝石の護衛として派遣されました。これは持ち主である二階堂様のご依頼なのですが……こういった会合にご本人がいらっしゃることはないそうですね。直接お会いできないのは残念です。まあ、役目は務めさせていただきますよ」
飄とした態度で彼は――沖名は言った。経験を積んだ刑事の自信が現れている。彼の立つ傍らにはテーブルがひとつあり、料理の置かれた客用の卓と同じ形だ。ただ、クロッシュではなく重厚な木箱が乗っている。ここに宝石が入っているということだろう。さほど大きなものではなく、クロッシュの中にでもすっぽり収まりそうだ。
沖名はそのテーブルを指先で叩きながら話を続けた。
「なあに、ご安心ください。木箱には特別な装置が付いておりましてね。ほんの僅か、三センチほどでも移動すれば警報が鳴る仕掛けになっているんです。え? そんな装置があるのなら、GPSでも取り付けた方が確実だって――?」
人差し指を口元に立て、息のみを使った声で、しかし全体に聞こえるような響きで。
「予算の都合!」
これにはさすがに笑いが起きた。
客席が鎮まったのを見計らい、沖名はカウンタの上に視線を遣る。そこには世界観の不揃いな置物が飾られていた。パンダやホームズ像、メキシカン帽を被ったサボテンにサーフボードが添えられたヤシの木。全て旅行の土産として貰ったものだと先月聞いた。中国、イギリス、メキシコ、ハワイ、といったところか。更にその向こう側には店長が立っており、軽く腰を曲げてこちらの様子を伺っていた。そのことに気付いているのかは分からないが、客に対する沖名の話が再開される。
「さて、宝石がここへ到着したのは一時間ほど前のことです。私は中身を確認し、この装置を取り付けました。ええ、今の状態と変わりはありません。九脚のテーブルが客席として並び、ちょうど教卓のような位置に、宝石を置くためのテーブルがひとつ」
およそ宝石を乗せるには見合わない、食卓と同じ意匠のテーブル。しかしただのカフェにショウケースがあるはずもない。沖名はテーブルに左手をつき、それを軸としてくるりと回ろうとした――が、あまりに狭いため不可能だった。
咳払いして気を取り直す。
「壁から何センチの位置にあるだとか、さすがにそこまでは覚えていませんが。なにせ木箱は動かせば警報が鳴りますからね。テーブルに乗せたが最後、全く移動していないことは確かです」
やはり刑事としては、いかに警備が強固であるかを示したいのだろう。彼の話しぶりは全く自然であった。集められた客たちも、いまだ単なる木箱でしかないお宝を前に、真剣に話を聞いている。
「その後、最後のセッティングがあるとかで、私は十分ほど退室しました。この部屋にいたのはカフェの店長……そう、あそこにいる彼です」
沖名の視線が初めて店長の方を向く。グラスを磨いていた彼は小さく頭を下げた。
「彼だけが部屋にいたことになりますが、警報は一切鳴りませんでした。ああ、木箱を動かさずに蓋だけを開けることは不可能ですよ。だってほら、」
話しながらスーツの内ポケットを探る。そういえば警察手帳を取り出したりはしなかったな、と私は考えた。ああいうシーン、一度は実際に見てみたかったのに。彼が引っ張り出したのは手帳ではなく、金色に輝く鍵であった。
「鍵はずっと、私の元に」
当然、力尽くで開けることも不可能だろう。説明するまでもないと思ったが、全て語るのが信条らしい。そのこともしっかりと話した後、ようやく食事を始めてくれという指示が下りた。宝石を見るのはその後だと、予め配られた招待状にも綴られている。店長と私、そしてもうひとりの給仕役によってクロッシュが次々と開けられた。
(あ……)
前方を見る。三×三マスに置かれたテーブルの最前列、真ん中。つまり木箱の正面にあたる特等席が空いていた。ここだけは椅子も料理もひとり分しか用意されていない。
「このお席はどうします?」
給仕役の女性が尋ねた。私よりいくぶん年上に見える、体重は倍ほどもありそうなふくよかな人だった。お弁当屋の女将さんみたい、という印象。彼女に問いかけられた店長は、しばし間を置いた後に
「もう少しそのままにしておいて」
と応えた。
サツキも食事を始めていく。柔らかそうな肉が切り分けられるのを眺めながら、素直に羨ましいと思った。私だって食べたい。だが、給仕の役目を請け負った以上、壁際で盆を抱えて立っているしかない。料理はコースではなくワンプレートなので、後は食べ終えた客から引き下げていくだけだ。沖名は部屋の後方に移動し、手元のモニタをチェックしているようだった。前よりも後ろの方が広く、人の行き来が容易い。男子大学生らしい健啖ぶりで早々に食べ終えたサツキは、立ち上がって
「ドリンクのお代わり良いですか」
とカウンタに告げた。
客人は何杯飲んでも良いことになっている。ただしセルフサービスで。彼の言葉をきっかけに、数名が立ち上がってカウンタへ移動した。行く者と戻る者。空になった皿を下げる給仕役。沖名が辺りを警戒しながら歩き回る。そうして人の動きが発生し、何となく互いの顔を把握し和やかな空気になったところで――
「動くな!」
沖名の声が響き渡った。
「皆、その場から動かないでくれ!」
テーブルの間を縫って前方へ躍り出る。お喋りをしていた人は動きを止め、給仕役はちょうどクロッシュを引き下げたばかりだった。最後まで空席だった最前列のテーブルの料理だ。受け取った店長が厨房の奥へそれを運び、振り返ったところで沖名に呼ばれた。
「何があったんですか?」
カウンタの中から出てきた店長が問いかけた。沖名は手にした機材を彼の眼前に近づけたが、見せたところで通じないと気付いたかのような仕草で、再び取り下げた。
「電波妨害ですよ」
忌々しげに呟く。
「私が声をあげた前後の一分間ほど、木箱に取り着けた装置が機能していませんでした」
「ええ、あれって電波で操作していたの?」
頓狂に叫んだのは給仕役の女性だ。名前は小面(こおもて)という。今までほとんど喋らず仕事に徹していた彼女は、存外に気安い口調で話した。
「てっきり、あれだけで動いている装置なのかと」
「問題なく作動しているか、こうやって手元で確認できますからね。まあ、箱には誰も触れていませんし、盗めやしませんよ」
ちょうど席を立っている客はいなかった。電波妨害の間は警報が鳴らないが、それ以前に人間の目という監視があったのだ。各々が自身の行動に集中していたとしても、この狭い部屋で不審な動きをする者がいればすぐに分かる。
「しかし念のため、確認しておきましょう」
全員が見守る中、沖名が鍵を取り出す。木箱の鍵穴に差し込むと、左右にガチャガチャと回そうとした。
「開いている……?」
鍵は回らない。元より鍵など掛かっていなかったのだ。すんなりと開かれた蓋の向こう、覗き込んだ彼は息を呑む。宝石が無かった。箱の中は空っぽだ。がらんとした中身がよく見えるよう、こちらに傾けて持ち上げる。客のテーブルからは「あっ」という声が漏れ聞こえたものの、すぐにシンと静まり返った。近くで眺めていた小面は口を押さえている。私は壁沿いにそっと歩いて厨房の方へと向かう。
「やられた!」
はて、一連の流れを見ていた客人たちは、この行為によって鳴るはずの警報が聞こえないことに気付いただろうか。
「なんてことだ、誰も触れていないはずなのに!」
刑事の叫び声を後に、私はどんどん奥の方へ進む。ここは客の視界に入らない場所だ。つまり舞台裏。誰がいたとしても、存在しない者として扱われる。調理台の脇にあるスツールに、見慣れた〈店長〉の姿を認めた。
「おや、雨屋くん。戻ってきたのかい?」
彼は顔を上げる。そしていつもの呼び方で私に声を掛けた。「雨屋さん」ではなく「雨屋くん」と。
「だって、もう出る幕がないんだもの」
「そうだったね。お疲れさま」
「お腹すいちゃった」
目の前には銀色のクロッシュが置かれている。客席から回収した手つかずのものだが、この中にビフテキは入っていない。彼が新しく用意してくれるのを期待して待った。
「大丈夫。君の分もあるよ」
「やった」
沖名の話す声が聞こえる。まんまと警備に失敗した彼は、犯人を捜すべく疑わしい人物を挙げていた。宝石があることを確認した後、十分程度ひとりきりになっていた人間。何か細工を施すならば、まさにその時しかないだろう。
呑気に料理を待つ私とは対照的に、焦った男の声が響いた。
「店長さん! あなたに話を伺いたい!」

   *

カフェ・ラドガの隣には焼鳥屋がある。
多角経営である園芸店やアパートとは異なり、直接の接点はない。ただのご近所といった関係だ。ファミリィレストランやファストフード店も並ぶ中、共に生き延びてきた戦友とも言える。そこの主人である女性――小面が店長と親しいことを知ったのは、つい一週間ほど前のことだった。いつものようにカフェへ顔を出すと、ふくよかな女性がカウンタ席でコーヒーを飲んでいたのだ。
「こんにちは」
艶やかな髪を真ん中で分けて後ろに流し、ひとつ括り。彼女は焼鳥屋〈おかめ〉を切り盛りしている者だと名乗った。脚の長い椅子にバランス良く座っている。達磨のように丸っこく、朗らかな人だ。
「今日は店長さんにお願いがあって来たのよねぇ」
彼女が見遣ると、店長は小さく頷く。彼女の「お願い」に対し、まだ返答に迷っている様子であった。俄然私も興味が湧いてきたので近くに座る。少し離れた席にサツキの姿も見えた。
とある芝居の舞台として、カフェを貸してくれという依頼だった。
思わず首を捻る。二階の温室ならともかく、カフェはあまりに狭すぎると考えたのだ。いま置かれているソファを取っ払い、コンパクトなテーブルに入れ替えたとしても、お客を座らせるのが精いっぱいだ。役者が演技をするスペースなど残りやしない。だが、小面にとっては問題がないようだった。
「案外とできるものなのよ」
コーヒーを掻き混ぜながら彼女は言う。
「演者はアタシを入れても三人だけ。ふたり並べる場所があれば十分よ。以前にお借りしたレストランも、そんなに広い場所じゃなかったし」
「そういうものかなあ……」
言葉を返しながら、店長は何度も同じグラスを拭いている。思案に暮れていることは明らかだ。私はその会話に割って入った。
「お芝居って何をするんですか? 焼鳥屋の女将さん、役者もやってるの?」
純粋に気になったのだ。隣の焼鳥屋の存在は把握していたが、芝居や役者といった言葉に縁があるとは思わなかった。
「役者ってわけではないのよ。正確には、イベントの企画の方ね。観客も参加できる推理物のイベントを扱っていて」
「へえ。近頃よく聞く、リアル脱出ゲームみたいな感じですか」
今度はサツキが問い掛ける。読書に集中しているかと思いきや、話はしっかりと聞いていたようだ。
小面は椅子を回してそちらへ向き直った。
「参加型という点では似ているけれど、ちょっと違うかも。まずは役者が事件の概容を演劇で表現して、お客さんが犯人や犯行方法を推理、その後に解決編の劇を上演――って説明で通じるかしら?」
「ああ、分かりました。つまり女将さん自身が演じるのではなく、適した役者を集め、脚本を制作して渡す役目だということで」
「そうそう。端役で参加することもあるけどねー」
続けて彼女は、ここを舞台に使いたい理由を説明した。このカフェを気に入っているということ、地元の人にもミステリイベントの楽しさを知ってもらいたいということ、そして小さな場所だからこそ使えるトリックもあるということ。その熱意に胸を打たれたのか、最後には店長も首を縦に振った。
「分かったよ。特別に夜も開けて、ディナーも提供しよう」
「あらあら。ありがとう」
両手を軽く合わせて笑う。本当に嬉しそうだった。ふたりの間で計画が練られていくのを聞き流しながら、きっと自分も参加しよう、と考えた。夜の時間帯なら園芸店での仕事は済んでいる。客のひとりとして加わっても問題ないだろう。
だが、話はそこで終わらなかった。
「ねえ、そこのあなた!」
不意に小面がこちらを向いて言った。
「あなたもお手伝いしてみない?」
「え……私が?」
演劇仕立てのイベントだ。呼ばれるのはプロの役者だと聞いている。そんな中に、ただのアルバイトである私が混ざるなんて。
「舞台の設定なんだけど、ある美術品のお披露目をするためのパーティってことにしようと思っているの。そこのウェイトレスとしてちょっと立ってくれるだけでいいから」
「ええ、どうしよう、そう言われても緊張しますよ……あっ」
狼狽えながら辺りを見渡すと、他人事のような顔をして眺めているサツキと目が合った。次の瞬間、口が勝手に動く。
「あ、サツキも! この男の子も参加させてください!」
「えっ」
「あら良いじゃない。上手い具合に印象に残らなさそうな雰囲気の子だから、半分サクラみたいな感じでお客さんに混じって誘導してもらおうかしら」
「それって地味顔ってことですか!?」
「決まり、決まりね! とっても楽しみになってきたわぁ」
――と、いうわけで。
刑事役、店長役として呼ばれた二名の劇団員に加え、給仕の手伝いとして小面と私が。客のひとりとして混ざり、劇の進行をそれとなくサポートする役としてサツキが。そして、ディナーを彩る料理を提供するための、〈本物の店長〉として彼が。
イベントに向け各自の役割が決まったのは、つい一週間前のことだった。

   *

犯人の予想が店長に集中することは想像できた。
演じているのは二十代に見える茶髪の青年で、本物の店長とは随分印象が異なる。しかし芸歴は長く、劇団でもベテランの立場なのだそう。『出題編』ではずっとカウンタの中にいてほとんど出番が無かったが、それでも十分な存在感を放っていた。演技力とは、違和感なく役になりきることだけを指すのではない。彼が本来の店長ではなく、役者として呼ばれた者であることは客も把握しているだろう。なりきり過ぎないということも、上手い役者の腕の見せ所だ。
数十分の推理タイムを設けた後、観客から解答用紙を回収した。これから『解決編』を上演する間にスタッフが目を通す。完全正解者には刑事役の沖名からプレゼントを渡すという予定であった。もちろん、私は既に事件の真相を聞かされており、小面と共に正解者を探す作業に入る。
宝石を盗んだのは誰なのか、そしてどうやって盗んだのか。
護衛を任されていた刑事の自作自演か、それとも細工のチャンスがあった店長か。主な容疑者はこの二名であるが、給仕が怪しいという意見も少なからず見た。あとは、観客に犯人が紛れているのではという推理。実際、サツキという主催側の人間が混ざっているのだから、なかなかの観察眼だ。
「犯人はあなたでしょう、店長さん」
沖名の指が真っ直ぐ男を示す。容疑者が探偵へと変わった瞬間であった。
「最後のセッティングがあると私を退室させたとき、何をやっていたのですか?」
「……何をしていたとしても、宝石は盗めませんよ」
中年の刑事と若い店長。こうして見ている内に、配役は逆の方が良かったのではないかと感じた。彼らならどちらの役でも完璧にこなせるだろう。若手の刑事が年上の犯人を追い詰めるという構図の方が、演出として映えると思ったのだ。
「あの時、宝石は木箱に入っていた。そして、刑事さんが鍵を掛けたじゃないですか。その後どうやって中身を取り出すのですか。電波妨害が起きたのは誰も触れていない一分間のみ。それ以外の時間に、警報を鳴らさずにどうやって」
「中身を取り出す必要なんて、なかったんですよ」
既にテーブルは並んでいた。教室のように整列されて九脚。誰もいなくなった十分間を使い、それら全体を移動させることができたなら。
「並んだテーブルの前にもうひとつのテーブルが置かれていたら、当然それが宝石の乗った展示台だと思い込みます。ですが実際は違ったのです。食事をしている間、これ見よがしに前方にあったテーブルは、ダミーの木箱を乗せた偽物だった!」
沖名は確かに宝石を確認した。それを木箱に入れ、テーブルに置いてから警報装置を取り付けた。そのテーブルを一切動かすことなく、既に並んでいた客席を移動させ、その内のひとつに紛れ込ませたとしたら。
ついぞ誰も来なかった、最前列の中央。特等席。
その席に座る客は、初めから存在しない。偽の名前で予約を埋めていたのだ。料理に被せられたクロッシュが開くことは無く、やがて給仕の手によって回収される。犯人はそのタイミングで電波妨害を行うだけで済んだ。厨房でそれを受け取った後は、予め用意した隠し場所に放り込めば良い。
「三センチ程度の移動では警報も鳴りませんから、木箱の下にトレイを差し込むこともできるでしょう。クロッシュを被せてしまえば他の料理と見分けがつきません。食事の間この部屋を歩き回っていて、やけに前方が狭いなと思っていたんですよ。後ろの方には余裕があるのに、ね――」
なるほど、小さな場所だから使えるトリックというのはこのことか、と気付いた。前も後ろも広々とした店ならば、こんなヒントの出し方はできない。テーブルの全体の並びを前方へずらしているのだから、不自然に空いた後ろ側は犯行の痕跡だ。
「そこの席の料理が本当に用意されていたのか、調べれば分かることですよ」
刑事の追及はなおも続く。出番の済んだ私はカウンタの陰から観劇しているが、なかなか良い眺めだった。店長を演じるのはベテランの役者だが、刑事役は新人だと聞いている。元会社員で、海外を飛び回る商社マンだったとか。この歳で役者を目指すとなれば相当な覚悟だったと思うが、それを改めて感じる熱演であった。
この後、犯人は証拠を突きつけられて罪を認めるという流れなのだが、素直に逮捕されて終わるわけではない。今回の事件は宝石の盗難、つまり怪盗だ。怪盗が惨めに捕まっては夢がない、というのが小面の意見だった。演出として店内が一時暗くなった後、高笑いと共に足音が響く。二階の温室へ続く螺旋階段を、ふたりが追い追われながら駆け上がっていったのだ。これにて閉幕。再び姿を見せた彼らが礼をすれば、辺りは温かい拍手に包まれた。後は小面が正解者の発表をするだけだ。
彼女は前に出て声を張り上げる。
「さて、今回の事件。犯人は店長さんだったわけですが――」
犯人を当てた客は多かった。しかし、トリックまで説明できなければ完全正解とは言えない。沖名からのプレゼントを手に入れたのは、十数名の内たった三名であった。イベント参加者の名前を綴った帳面は手元にあるが、どれが誰の名前であるかは分からない。解答用紙に記された氏名を読み上げ、当人に挙手してもらう必要があった。大学生風の若い女性と老夫婦が手を上げる。夫婦は照れ臭そうに笑いながら、こういったイベントを巡るのが趣味であると語った。
プレゼントは〈本物の店長〉特製のクッキー。私も大好きなので、味はお墨付きだ。
沖名がそれぞれの元へ赴いて渡している間、打ち解けた空気の店内では感想を話す声が聞こえた。全然分からなかった、自分はあと少しで解けそうだった、犯人だけなら当てられたのに――そんな会話が飛び交う中、私に声を掛けてくる青年がいた。スタッフのひとりとして私を認識し、意見を直接伝えようと考えたのだろう。
彼はやや上方を指差しながら言った。
「あそこに時間のずれた時計があるものだから、事件に関係があると思っちゃった」
「……え?」
私より先に、少し離れた場所に立っていた小面が反応する。
「時間のずれた時計……?」
振り返る。先ほどまで刑事と犯人が言い合っていた舞台、店内前方の狭いスペースの中にそれはあった。夜を映した窓の上、小さな振り子時計が掛けられている。
針はちょうど、十一時を指していた。
私は自分の腕時計を見る。ディナーが始まったのは午後六時半で、現在時刻が八時。隣の席にいた男性も、同じように腕時計を見ながら呟いた。
「確かに、九時間も遅れているのは気になりますね」
「ね、全然違う時間でしょ。だからオレ、この時計がトリックに関係あるのかと思って考え過ぎちゃった」
それは申し訳ない。以前からこの店にあった壁掛け時計であり、視界に馴染んでいたので気にも留めていなかった。気づいていれば直すなり撤去するなりできたのだが、全てが終わった今となってはどうしようもないことだ。ごめんなさい、関係なかったんです、と答えようとした。
その時。
「か、関係はあります!」
小面が弾丸のように駆け寄りながら言った。
客の全員に伝わるような声で。
「お客さま、よくぞおっしゃってくれました。全てのアイテムには意味があります。もちろん気付かなくても謎は解けるのですが、気付いた方がより面白い!」
私には分かる。ここから先の小面の言葉は、全てアドリブだ。こんな流れは台本になかったし、聞かされてもいない。声の弾みに焦りも見える。だが、客に対しては完璧にごまかせているだろう。
もっとも、何故そこまでするのか分からないのだが。
「これは難問、超難問! 気付いた方だけのお楽しみということで、こちらから説明するつもりはなかったのですが……」
彼女の動きは見事だった。ウェイトレスの恰好をした女が、芝居じみた口調で狂言回しを演じる。まるで紙芝居の拍子木を打つように、終わった物語の続きを生み出そうとしていた。不自然な振り子時計の存在は、それだけ彼女にとって致命的だったということだ。少し首を突っ込んだだけの私なぞには分からない、大切な信条があるのだろう。
「来週!」
スポットライトのような視線の中、彼女は叫んだ。
「また来週、気になる方はいらしてください。もうひとつの結末があるのです!」

   *

「それでね、若い頃はバリバリの商社マンだったそうだよ」
パスタに絡めたフォークを回しながら私は話す。イベントから一夜明け、通常営業に戻ったカフェで昼食をとっているところだった。
「あの刑事役の人。ええと」
「沖名さん」
テーブルを挟んだ先にいるサツキが応える。こちらは音もなくたぬき蕎麦を啜っていた。器用に箸で麺を巻き取っていく。昨日の洒落たディナーも悪くないが、こうやって和食も平気で出してこそ私の馴染みの場所だ。カウンタには店長の姉が寄越した置物が並び、店内の世界観を絶妙に壊している。
「そうそう、沖名さん。英語ぺらぺらだからびっくりしちゃった。長くイギリスに単身赴任してたんだって」
役者たちがここに来たのは、イベント当日の一日だけであった。午前中の打ち合わせと午後からのリハーサルのみで完璧な劇を仕上げたのだから、さすがプロと言うべきか。刑事役をしていた沖名は、休憩時間の雑談の際に身の上話を聞かせてくれた。
「でも店長役の人だって凄かったよね。まだ若いのに」
「不動(ふどう)さん、だね」
そういえばそのような名前だった。彼ら自身に関する情報が、ほとんど記憶に残っていないのだ。あそこにいたのはプライドの高い刑事と謎めいた怪盗。ただそれだけのことしか知らないような感覚に陥る。
「彼、子役をしていたから芸歴が長いんだよ。あれくらいの短い劇なら朝飯前なんじゃないかな」
「店が狭いから客席のすぐ近くまで来て演技してくれたじゃん。背もすらっと高くて格好良い人だし、すっかりファンになったってアンケートに書いてくれた人もいたなあ」
「さすが小面さんが選んできた人だよね。普段は東京で活動していて、依頼があったら各地に向かうんだって。素敵な役者さんに恵まれて、良いイベントになったよね」
「うん。クイズも簡単過ぎず難し過ぎず、良い感じに成功して……」
話しながら、ちらと後方を見る。今まで意識的に話題に上らないようにしていたが、さすがに限界だろう。正面のサツキも気まずそうな顔をしている。イベントは確かに成功したのだ。役者も素晴らしかった。それは嘘ではない。
だが――
「駄目! 終わってないの、これじゃ終われないのよ!」
カウンタ席に座る女性が、オレンジジュースを酒のように煽りながら叫んだ。放っておくわけにもいかず、タイミングを窺いながら声を掛けてみる。
「そうは言っても小面さん、役者さんは帰っちゃったじゃないですか」
元より昨日のみの契約だ。稽古や次の仕事のため、彼らは東京へ帰っていった。来週にもう一度呼ぶのは難しいだろう。
「私たちだけじゃあどうしようもないですよ」
原因はひとつの振り子時計だった。舞台の背景となる位置で、壁に掛けられていたそれは全く異なる時刻を指していたのだ。動力は乾電池であるが、そこに異常はない。電池切れでもないのに時刻だけがずれていた。
「八時のときに十一時を指していたから……三時間?」
サツキがタブレットの時計を見ながら呟く。そういえば近頃の学生は、スマホや携帯端末があるから腕時計を着けないんだっけ。
「そうね。その後も針はちゃんと進んでいたから、止まったわけじゃないのよね」
「ほんとにごめんね……」
ようやく落ち着きを取り戻した様子の小面は、椅子の上で小さくなりながら下を向く。
「こんなの、ただのアタシのこだわりだってことは分かってるし、ちゃんと本番までに時計がおかしいことに気付いていたら済んでいたのに」
とはいえ、窓の上の逆光に包まれる位置にそれはあったのだ。彼女の身長では視界にすら入らないだろうし、気付かなくても無理はない。役者のふたりが実際にあの場所に立った時間は短かった。そして私たちは、見慣れた景色の異変を見逃していた。全員にとって気付きづらい状態にあったのだ。
「そもそも小面さん」
空になった椀を厨房に返しながらサツキは言った。引き換えに水の入ったグラスを持って戻ってくる。
「あの時計の時刻がずれていたことの、何がそんなに大変なんですか?」
それは確かに私も思った。彼女の様子を見ていれば、無下に扱えるような事態でないことくらい分かる。だが、どんなに考えても時計は時計だ。ちょっと壊れていたんですよ、で済ませることはできなかったのだろうか。
「ええ、それはね」
問い掛けを受けた小面の表情が引き締まった気がする。焼鳥屋として生計を立てる彼女がイベントの企画にも手を出しているのは、それだけこの仕事に情熱を注いでいるからに違いない。
「ミステリって、フェアじゃなきゃいけないの。推理劇をするなら、ちゃんとお客さんが解けるようになってなきゃ。舞台の登場人物しか知らない情報を根拠にしちゃいけない、意味のないミスリードは推理のノイズになるだけ」
そういえば開演前に観客へ配った紙面にそのようなことが書いてあった。推理に必要な情報は全て提示されている、明らかにおかしい部分があれば事件に関係することだ、犯人が共犯である場合、共犯であるという証拠が見える場所にある――そんな説明をしておきながら、狂った時計が単なる故障だと言うのはまずい。
「もちろん、本当にアクシデントだったと言ってお詫びする手もあったんだけど……というか、それが本来の行動だったんだろうけど……そういうのって、どうしてもお客さんをガッカリさせてしまうじゃない?」
「あと一週間で、納得できるような結末を作り直すってことですか?」
サツキの戸惑いはもっともだ。私たちには時間が無い。だからこそ、最善の方法で脚本の続きを作る必要があった。残念ながら私に良い案はないし、不安げな顔をしているサツキも同じだろう。私たちは、この場所で何か問題が起きたとき、いつも柔軟な発想で助言をくれる人物の方を見た。
カウンタの奥で静かに話を聞いている店長の姿を。
「ううん、参ったねえ」
穏やかな声で彼は言葉を返す。
「まず、誰が何のために時計をいじったのか考えた方が良いんじゃないかな。現実世界での原因が分かれば、劇の中でも上手く収める方法が分かるかもしれない」
「つまり犯人を捜すってこと?」
「犯人というのはちょっと乱暴な言い方かもしれないけれど、雨屋くん――まあ、電池切れでもないのに勝手に時刻が変わることはないから、誰かがネジを回して針を動かしたはずなんだ。それが誰なのか分かれば理由も分かるかもしれないし、そうすれば解決にも近づくんじゃないかな」
「でも、誰がやったのかと言われても……」
小面が首を捻る。昨日はそれぞれがイベントの準備に追われており、この時計なんて気にも留めていなかった。普段、何気なく時刻を見る際に狂っていたことはない。一昨日まで正常であったことであれば、私や店長が証言できるが……。
そこまで考えたとき、サツキが小さく手を上げた。
「あの」
視線を斜め上、時計の方へと向けている。
「俺、開場の三十分ほど前に時刻が正しいことを確認しました」
え、という声が漏れる。小面の口が開いていた。
「普段はスマホで時間を見てるんで、壁の時計を気にすることは滅多にないんですけど。あの時は何となく、手元の表示と見比べたりして」
「おかしな時刻ではなかった、と……」
「そういうことです、小面さん」
スマホの表示時刻なら、絶対に間違っていない。少なくともその時までは誰も時計に触っていなかったのだ。カフェが開いたのは開演時間の三十分前であり、更にその三十分前といえば、スタッフや役者がそれぞれの持ち場に落ち着いたあたりだ。店長(本物)は食事の準備のため厨房へ、小面は出入り口のデスクで予約者の名簿を広げていた。店長役の不動は最初の居場所であるカウンタの中にいたし、沖名は舞台袖代わりに使っている螺旋階段に腰かけて待機していた。サツキは外で待っている客の様子を見に行ったらしい。だがそれはあくまで段取りであり自己申告だ。誰かがこっそり持ち場を離れていたとしても、忙しくしている他の者は気付かないだろう。
「ちょっとぉ、どうしてアタシの行動まで訊くのかしら」
まるでアリバイ調査のように確かめられた小面が、不満そうに口を尖らせた。
「アタシが一番困っているんだから、アタシが時計を触ったわけがないでしょ? そもそもホラ、この身長じゃ全然手が届かないわよ」
彼女は立ち上がり、窓辺に寄ってその上にある時計に手を伸ばした。背伸びしても、飛び跳ねてみても指先すら掠らない。女性だから仕方がない。次にサツキが試してみたが、触れるのがやっとで掴むまでにはいかなかった。もう少し身長のある店長では、壁のフックから外すこともできたのだが。
いや、店長が掛けた時計なのだから彼が外せるのは当然か。
「踏み台になりそうなものならありますけどね」
無造作に置かれた木箱や棚を眺めながらサツキが言う。
「アタシが乗ったら壊れちゃう」
小面は首を振った。あまり決めつけるのも良くないが、確かに彼女なら……そこらの男性よりも体重があるだろう。不動と沖名は劇団のホームページで身長が公開されている。背の高い不動は簡単に手が届くが、沖名はギリギリ届かない、といったところか。とはいえ彼も踏み台を使えば時計を下ろすことができる。
「電池ボックスも時刻合わせのためのネジも、上部にあるから壁に掛けたまま操作できるのだけどね。手が届きさえすれば」
テーブルの上に移動させた時計を示しながら、店長が説明した。彼の言う通り、裏側に付いていることの多いネジが上部にある。普段は脚立を使い、壁に掛けたまま電池交換や時刻合わせを行っているらしい。
「不動さんなら、踏み台を使わなくても手探りで操作できそうね」
小面の言葉に私は続ける。
「じゃあ不動さんがやったの? 誰に見られるか分からない状況だし、パッと済ませられる人じゃないと怪しいですよね」
近くにある箱を踏み台にし、時刻を変えてからすぐに片付けてしまえば誰にも知れない。それだけの時間は誰にでもあったと思う。だが、目的までの手数が多いという事実は当人にとってプレッシャーだ。現実的に可能であったことと、実際にやったかどうかは同義ではない。身長によって手数がひとつ減る不動が、怪しさでは一歩抜きん出る。
「どう思います? 店長」
サツキが振り返って問いかけると、店長はしばらく考える様子を見せた。小さな振り子時計のつるりとした背面と、その代わりにネジや蓋が集まった上部を眺めていた。やがてそれを壁のフックに掛け直すと、こちらを向いて応える。
「そうだ、僕たちであの時の様子を再現してみるっていうのは?」
なるほど、と思った。沖名と不動はここにいないが、それ以外のメンバは揃っている。店長の提案に皆が納得し、昨日の再現を試みることにした。

小面が出入り口近くのデスクにいる。広げた名簿は予約者のフルネームが記されただけのものであり、来場者から氏名を聞いて代金を受け取ってから斜線で消していた。だから今も同じようにその作業の真似事をしてもらっている。
店長は厨房の奥にいる。誰の視界にも入らない場所であるが、手前のカウンタに不動がいたので閉じ込められるような形になっていた。彼が持ち場を離れているときでないと歩き回るのは難しいのではないだろうか。そしてその不動の代わりとして、サツキがカウンタの中に立っていた。ホルダーからグラスがぶら下がり、ジュースや酒の瓶が並んでいる。店内に入ったばかりの客は、不動が本物の料理人だと思ったはずだ。
「どう? 何か分かった?」
眼下でサツキが呼び掛ける。螺旋階段の上からは、一階のカフェ全体が見渡せた。さすがに厨房の店長までは見えないが、それ以外は全員。スチール製の踏板には小さな鉢植えが置かれており、園芸店の商品がじわじわとはみ出している。私は沖名がやっていたのと同じように、二階に近い位置で座り込んだ。客席は元通りに戻してあるので、当時と全く同じというわけにはいかない。それでも人員と時計の位置関係は変わらないはずだ。
(ここからだと時計もよく見えるのよね……)
とはいえ見下ろしている状態なので、文字盤ではなく上部が見えている。立ち上がって少し階段を降りてみると、よりいっそう近づいて見えやすくなった。さすがに手を伸ばして届くほどではないが――
そんなことを考えたとき、私の脳裏に過るものがあった。
「あっ」
気付いたのだ。時計に手が届くかどうか、踏み台が使えるかどうか。そんなことより先に考えるべきことがあったと。
「どうしたの?」
小面が顔を上げる。彼女は女性だし、小柄だ。窓の上に掛けられていた時計も視界に入り辛かったろう。時間がずれていることに最後まで思い至らなくても仕方がない。他の人はどうだっけ? 見ようと思えば見える位置にあったはずだ。しかし他の場所にも時計はあるし、自分の腕時計も見るだろう。
だが、文字盤が見えるかどうかはこの際、関係ない。
どんなに壁の時計を注視していても、見下ろせるほどの身長を持つ人はいないのだ。
「分かったよ、私!」
残りの階段も駆け下りながら私は叫ぶ。小面の顔色が変わるのを感じた。
「えっ、ほんと?」
「ほんとほんと。誰がやったのか、分かりました」
「そ、それじゃあ……その人の名前は」
「うーん、でも。これって」
犯人という言葉は乱暴だと店長は言った。今となっては彼の意見に同意する。これは推理劇の内容とは異なり、窃盗でもなければ殺人事件でもないのだ。動いたものは時計の針だけで、電池も抜き取られていない。共犯であれば、それを示す証拠が必ずどこかにある。そういったものが見つからなかったのだから、ひとりの人間が譲れない事情によって起こした事件だ。
「たぶん、私が言わなくても知ることになると思うよ」
じっくり考えた後に、そう返した。何を、という形に小面の口が動く。本当にそう言ったのかは分からない。彼女の声が発せられるのと同時に、カフェのドアベルが鳴り響いたからだ。
「あのー……」
ひとりの男がガラスの扉を開けて立っている。見た目よりも大げさに鳴るベルに驚いたのか、少し動きを止めていた。私たちの話している内容を察したのだろうか。おそるおそるといった様子で、彼はこちらに視線を向ける。店内を見渡す。昨日会ったばかりの相手がそこにいた。
「ごめんなさい! 私がやりました!」
男は――刑事を演じていた役者・沖名は、深々と頭を下げた。

   *

「沖名さんなら戻って来てくれると思った」
店内で最も大きなテーブルを皆で囲み、店長の出してくれたドリンクを飲んでいる。沖名の前には温かいミルクティーが置かれていた。
「まさかあんな大事になるとは思わなくて……」
カップを両手で包みながら顔を伏せる彼に、小面が微笑む。
「あらあら。こちらこそ、罪悪感を抱かせちゃってごめんなさい」
小面はミステリイベントの企画を行う人で、沖名は芝居を演じる人だ。同じ場所で同じ目的に向けて行動していても、仕事に対する認識が全く異なる。小面が語ってくれたミステリにおける鉄則は、沖名にとって知る由もないことだった。彼にとっては劇の中身こそが全てだったのだから。
「沖名さんは役者としての仕事を完璧にこなしてくれたわ。そしてアタシは、イベント企画者としての仕事を完璧にしたかった。それが噛み合わなかっただけなの。誰が間違っていたわけでもないわ」
「そう言っていただけると気持ちも和らぎます」
そこでようやく沖名は紅茶に口をつけた。小面もサツキも彼からすれば子供ほどの年齢だが、丁寧な言葉遣いで返してくれる。不動の方は天才肌という感じで少し刺々しい部分があったが、彼からは溢れんばかりの人の良さが滲み出ていた。
「もちろん、私にできることがあれば何でも協力いたします。不動は次の仕事が入っているので呼び戻すことができませんが……」
「いえ、あなただけでも十分ありがたいわ」
そう応える小面の頭の中では、来週までに完成させなければならないシナリオの構想が目まぐるしく組まれているのだろう。カフェ・ラドガに戻ってきた沖名は全ての事情を告白すると話した。それを受けて、どうするべきかを彼女は考えている。
あの振り子時計は店長が壁に掛けたものだ。フックからは簡単に外すことができるが、私やサツキですらそのことを知らなかった。昨日初めて来た役者たちはもちろん、小面にも知る機会は無かっただろう。手を伸ばして時計を下ろそうとしたとき、がっちり釘打ちされていて手間取ってしまうかもしれない。下手に触って戻せなくなってしまうかも。誰に見られるか分からない状況で時計の針を動かすには、わざわざ時計を下ろさなくても目的は済む、という確信が必要だった。
「螺旋階段の上から見えたんです」
温かい紅茶を飲み、湯気混じりの息を吐きながら沖名は言った。
「開場前、あそこに座って気持ちを落ち着けているとき――壁掛け時計の上側に、時刻合わせのための螺子があるのが見えた」
高い位置からは他の者の様子が窺える。今ならこっそり時計に近寄っても、見付かる可能性が低いと感じた。踏み台になりそうな箱は傍にある。魔が差した、という表現が近いかもしれない。だが彼には事情があった。ただの好奇心で時計に触れたわけではない。
「昔、我が家で使っていた時計によく似ていた」
それが、最初のきっかけだった。
「妻と息子がいたんです。三人家族で暮らしていました。あの頃の私は働き詰めで、家に帰ることすらままならなかった。そんな家に、あの時計とそっくりな振り子時計があったのです」
単身赴任していたという話は聞いたので、家族がいることは想像できた。彼の息子なら、今頃はサツキほどの年齢だろうか。時計自体は一般的なデザインで、沖名の家に似たものがあってもおかしくはない。
「息子と話もできない日が続きましたが、それでも家族のために必死で働いていました。出張にも行った。海外に行けばしばらく帰って来られなかった。それでも息子は私を見限ることなく、僅かな時間で私を愛してくれました」
それはそれは可愛い息子でした、と。
「幼い頃の話なので、私の顔なんて覚えていないかもしれませんけどね。ええ、別れてしまったのです。生き別れになってしまった。私が単身赴任している間に――長くイギリスで暮らしている間に、妻は子供を連れて行方不明になってしまった」
今はどうしているのか分からない。だが、妻も限界だったのだろう、と彼は言った。あの家に縫い留められて崩壊を待つよりは、守るべき者の手を取って逃げ出した方がよほど健全だ。探しはしたが、追い詰めるようなことをするつもりは無かった。それでも、彼女と彼が無事に生きているのかどうかだけは、ずっと気に掛けていた。
そしてついに、彼は息子の行方を知ることになる。
「このイベントの予約者名簿に、息子の名前があって」
小面が開いたままにしていた帳面。この場所に来るはずの客の名前のみが綴られた、シンプルな名簿だ。年齢も住所も分からない。だが、フルネームだけは確かに分かる。
「息子は母方の姓を使っておりまして。それが少し珍しい苗字で、しかも下の名前まで一致するとなると、もう彼だとしか思えなくて」
そう語る沖名の隣で、小面がバタバタと名簿を取り出した。たった一ページに収まる氏名の並びを彼に見せ、どの名前かと問い掛ける。彼はひとつを指差すと、
「これがどちらの方なのか分かりますか?」
と尋ね返した。苗字はその珍しさ故に読めない字だったが、鷹志という名前の男性だということだけは判明した。
「ごめんなさい。覚えていないわ」
「ですよね。仮に小面さんがご存知だったとしても、イベントの主催者を通じてお客さんの情報を得るのは良くないでしょうから。自分で探そうともしたんですけど……例えば、鷹志があの問題に正解していたら、私から直接プレゼントを渡すこともできたんです。彼が自ら挙手するわけですから、人違いはあり得ない。でも――」
「正解者の中に、息子さんはいなかった……」
推理クイズの難易度が適切であったことが裏目に出た。完全正解者は十数名中三名という丁度良い塩梅で、その三名は若い女性と老夫婦だったのだ。
「もちろん、問題が難しいということは最初から分かっていましたから、期待していたわけではありません。私なんて、台本を最後まで読んでもすぐには理解できなかったほどです。いやはや、仕事と演劇ばかりに打ち込んできたもので、ミステリに関しては完全な初心者でして」
そこで久しぶりに沖名は笑顔を見せた。確かにミステリというものは、そのルールを知らない者には解くことが難しい。このイベントに来る客は多少なりミステリ好きだろうが、それでも全員が正解できるようには作っていないのだ。
だから彼は、先手を打っておく必要があった。
「それがあの時計ですか」
サツキの言葉に沖名は頷く。事件の原因となった時計の針は、まだ戻していない。今は昼の十二時だが、長針と短針は三時を示していた。
「イギリスの現在時刻を指すように、動かしておきました」
彼は立ち上がる。テーブルを離れ、窓辺の方へふらふら歩いて行く。真昼の光が差し込む場所で、彼はついと顔を上げた。背を向けているので表情は見えない。だが何となく、眩しそうな顔をしているような気がする。くたびれたスーツの背中が逆光で白く縁どられていた。
「単身赴任が決まった日、時計をひとつ買ってきたんです。古道具屋の隅で埃を被っていた振り子時計。小さくて、我が家に掛けるにはぴったりだと思いました。普段使っている時計はちゃんとあったんです。それでも、私には時計がもうひとつ必要だった」
窓は開いていた。五月の暖かな風が吹き込み、彼の髪を揺らす。昨日、このカフェに来たばかりの沖名は、ここでひとりの男を演じた。刑事であり探偵であった登場人物は、確かに閉幕を迎えて退場した。そのはずだ。
なのにどうしてだろう。こうやって事件の真相を告白する彼が、まるで再び舞台で演じているかのようで。
「イギリスの時刻は日本より九時間遅れています。今が十二時ならあちらは三時。その時刻を指し示す時計を用意して、息子に私のことを思い出してほしかった。お父さんのいるところは何時なんだよ、なんて。顔を合わせることもできない私たちだけれど、ひとつでも同じものを、同じ時刻を指す時計を見ることができたら」
その時計とそっくりなものがあったから。そしてこの場所の何処かに、愛する息子がいるはずだから。同じように時差を表した時計を用意しておけば、彼が言及するかもしれないと考えたのか。時刻のおかしい時計について何か言う者がいれば息子だと、そう推測するつもりで手を出したのか。
「それで……分かったのですか?」
低い声で店長が尋ねる。ここにいる皆、薄っすらと予測のつくことだった。確かにあの場で時計に言及する者はいた。だが、それで解決したわけではないということは、彼の浮かない表情を見れば明らかだ。
「最初に時計について発言した青年がいましたでしょう? もしかして彼かもしれないと思ったんです。でも、あれだけの言葉では決めつけることができなくて。それに、幼い頃の面影もあまり……」
昨夜のことを私は思い返す。沖名の言う通り、全ての劇が終わった後にひとりの青年が時計の話をした。時間のずれた時計があるものだから、事件に関係があると思った、と。それを受けて別の男性が何か言った。どちらも沖名の息子としてあり得る年恰好だ。しかしそれだけでは何も分からない。ただ時計の異変に気付く観察眼を持ち、年齢がちょうどそのくらいだったというだけだ。
「そういえば幼い頃、自分の家で……なんて昔話をする人がいれば確実だったのですが、そんなに上手く行くはずがないですよね。仲間内の会合でもあるまいし、個人的なことを話す人なんて」
誰も口を挟むことができずに聞いている。もはや、来週までに芝居の始末をつけようという話ではなくなっていた。もちろん沖名はその話をする為にここへ来たのだろうが、焦る小面を助ける為に戻ってきたのだろうが、彼以外の全員が彼自身のことを考えていた。結局、何も得られなかったのだ。意を決してささやかな犯行に及んだにもかかわらず、彼は目的のものに巡り合えなかった。もうこれ以上は何もできないのだろうか。
「――いや」
静まり返った店内の空間に、落とされたかのような声がコツンと響く。
店長が何か思い出したかのような顔で立ち上がっていた。
「分かるじゃないですか、誰が息子さんなのか」
そうだ、そうだよと繰り返しながら席を離れる。テーブルの前方、窓との間。立ち尽くす沖名と、そこから最も近い位置に座っていたサツキの中ほどで止まった。そのまま沖名に話し掛けるのかと思いきや、彼はサツキの顔を覗き込む。
「如月くん」
「は、はいっ」
驚いた顔で彼は返事した。これから何を言われるのか予想もつかない様子だ。店長はそんな彼に説明もなく、窓の上にある時計を指差す。
いまだ時刻のずれたままの時計を。
「如月くん。あの時刻を、君ならどう説明するかい?」
「えっ? ええと……」
私は腕時計を見た。沖名の話を聞いている内に少し経って、今は十二時半。壁の時計の方は三時半を指している。
「ちょうど三時間、進んでいます」
そりゃそうだろう。見たままの表現だ。いくら時計がイギリスの時刻を示しているといっても、その情報を知らなければ三時間進んでいるだけの時計だ。
――あれ?
三時間進んでいる、だけ?
「ああっ」
小面が飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がる。椅子が派手な音を立てた。彼女の気付いたであろうことに私も思い至った。あの日、あの瞬間、明らかに不自然な発言をした人物がいた。電撃が走るかのように全てが繋がっていく。
「いたわよね? 九時間も遅れている、って言っていた子、いたわよね?」
「いました! 時計を見ただけじゃ三時間進んでいるようにしか思えないはずなのに!」
大騒ぎする女性陣の傍ら、沖名が震える声で店長と話していた。
「ということは、私の息子は……」
「最初に発言した青年――ではなく、次に言及した若者でしょうね。きっと無意識だったと思います。幼い頃、ずっと眺めていた時計に似ていたからこそ、咄嗟にイギリスとの時差を言ってしまった」
「ああ、店長さんの言う通りです。私自身も思い込んでいた。この時計はどう見たって三時間進んでいるだけなのに。自分の経験と重ねてしまって、九時間遅れているという言葉に違和感を抱かなかった……」
だが。それならば。
その若者はもう帰った。どこに向かったのか調べようがない。イベント予約者の名簿には氏名しか綴られておらず、一夜明けた今となっては使い道が無かった。彼が来週のイベントにも来てくれるのなら希望が持てるが、確実ではない。何より、この状態で一週間も待たねばならない沖名が不憫だった。
「大丈夫ですよ」
店長が言う。彼は自らの腕時計を見ていた。思えば時計を見てばかりの事件だ。決まった時刻に誰が来るでもない店において、こんなにも時計を気にする日々は初めてである。
「息子さんには、もうすぐ会えます」
「ありがとうございます。でも、これ以上ご迷惑は」
事実上の諦めを示した言葉だった。誰が沖名の息子であるかは分かった。どの位置の席に座っていたのかも、何となく覚えている。しかしたった数時間のイベントの間に、彼の容貌をしかと記憶することは不可能だ。解散したが最後、町ですれ違っていても気付きようがない。沖名だけは意識的に息子の面影を探していただろうが、あの時の彼は正解者にプレゼントを渡す役目を担っていた。客席の端にいる発言者をまじまじ見ることはできなかったはずだ。
そう、誰も彼の素性を知らない。
以前からの知り合いでもない限り。
(それにしても、こんな時に店長は腕時計なんか気にして……)
と、私が訝しんだ時。
声が聞こえた気がした。続いてガラス扉が開けられる。ドアベルの大げさな音。それに負けないほどの快活な声が、店内に響き渡った。
「浅間さーん」
箱を抱えた制服姿の青年が立っている。爽やかな空色のシャツ。この地域では頻繁に見かける服装だ。
「お届け物です! 今日は時間ぴったりでしょ……って、ん?」
全員の視線がこちらへ向いていることに気付いたのか。彼は――カフェ・ラドガへ毎日のように訪れる配達員の青年は、私たちを順に視界に収めた。
そして、窓辺に立つひとりの役者へと。
否、今の彼は役者のようには見えないかもしれない。舞台の上とは全く異なるくたびれたスーツ。吹き込む風に髪が乱れている。切れた糸を探し、繋ぎ合わせて、それでも愛する人に辿り着けなかった男。ひどく疲れた顔をしていた。
まるで、働き詰めだった遠い昔のように。

「…………お父さん?」
「鷹志!」

そうして親子は、十年以上もの時を経て再会したのだ。

   *

「今日、ここから盗品が海外へ持ち出されるというのは本当か!」
扉の音が力強く響き、ひとりの男が現れる。着ているものは特徴のない背広だが、彼の着こなしや動きによって高級品であることが表現されていた。プライドの高い優秀な刑事。今の彼はそのような存在だ。
「その通りです、沖名警部」
手帳を広げながら隣につくのは、パンツスーツに身を包んだふくよかな女性。どこかぎこちない動きであるが、新人の部下を演じるにはちょうど良いかもしれない。彼女は手帳に書かれた文字を読み上げながら刑事に伝えた。
「犯人が各地の富豪から盗んだ宝飾をこのカフェ、もといアジトに隠し持っているのはご存知ですよね。ほとぼりが冷めた頃、それらをまとめて海外の拠点へ送っているのです。奴が秘密裏に仲間と交わした情報を捜査した結果、次の決行日は本日! 今日の間に、何らかの方法でここから運び出されるということです!」
「なるほど。つまり我々がここで見張っていれば手も出せんというわけだ」
ふたりしてコミカルな動きで辺りを見渡す。客席から笑いが漏れた。店内は一週間前と変わりなくテーブルが配置され、ほとんど同じ人物が集まっている。とはいえ、あくまでほとんど、だ。端の方にぽっかりと空いた席があった。
「まあ、大して広くもない店だ。簡単な仕事だろう――って、何をしている」
部下の警官はカウンタに並べられた置物に触れている。パンダやホームズ像、メキシカン帽を被ったサボテンにサーフボードとヤシの木。以前からここに置かれていたもので、客席からもよく見える位置にある。
「いやあ、なかなかお洒落だなあと思いまして」
手を引っ込めながら彼女は言った。
「良いなあ、小さなカフェ。私も引退したらカフェオーナーなんてやってみたりして」
「カフェはともかく、このセンスは微妙じゃないか?」
世界観がまるで統一されていない、と苦言を呈する。しばし緊張感のない会話が続いた。先週、宝石を盗んだ犯人であることを告発された店長は、現在も逃亡中だ。だが今日は盗品を持ち出すはずなのだ。念のため事件当時の目撃者も呼び集め、証人として待機させている。これだけの人数がいれば、見逃がすこともないだろう。
「それにしても、犯人はお宝をどこに隠しているんでしょうね」
テーブルをゆっくりと巡りながら彼女は言った。
「警報装置のバッテリーが切れるまでは、無闇に動かせないはずです。厨房のどこかに隠してあるってことは明らかなのに」
「ああ。奴も手練れだ。ちょっとやそっとじゃ見つからない隠し場所があるんだろう。さすがに建物ごと壊すわけにもいかないしな……」
「それじゃあ私たちには見つかりっこないですかね」
「なに、本人か仲間を捕まえて吐かせりゃ良い」
刑事たちがそんな話をしているとき。
ドアベルがカランと音を立てる。扉を開けて入ってきたのは、青い制服姿の青年だった。大きな箱を抱えている。
「お届け物でーす」
カフェを装ったアジト、そして店長にして犯人は逃亡中。そんな場所に配達があるはずもない。訝しんだ沖名刑事が歩み寄る。前回は依頼を受けた護衛係という立場であったが、今はひとりの刑事だ。高圧的な口調で声を掛けた。
「悪いがここはずっと無人だぞ」
短髪で健康的な体躯の青年は、首を傾げながら返した。
「いるじゃないですか、あなたが」
「見張っているんだよ……まさかお前が犯人の仲間じゃないだろうな」
「犯人? それって先週の宝石窃盗事件のですよね」
青年は事件を知っているようだった。まさに彼は、あの時もここにいたのだ。ディナーに招待された客として、事件の一部始終を目撃していた。つまり本来ならば今日も呼ばれているはずの人物だ。仕事さえなければなあ、と羨ましそうに呟いた。
「ここへは毎日のように配達で来ていましたけど、客として行っちゃいけないわけでもないですし。あ、そこの空いている席が俺の座っていたところです!」
「いや、それはどうでもいい。事件のときにいたのなら、犯人の店長が逃走中だということも知っているだろう? なぜ荷物があるんだ」
「新しい人が入ったのかと思ったんですよ。だって実際に、配送依頼はあります」
抱えた箱を更に持ち上げる。伝票を見ろという仕草だ。刑事たちは顔を寄せてそれを確認したが、差出人の名などいくらでもでっち上げられる。とにかく怪しい者を入れるわけにはいかないと、青年を追い返そうとした。
「なんだ、つまらない。それじゃあ帰りますけれど」
彼は扉の方へ踵を返し、数歩進んだところで振り返った。
「ところであの時計、まだ直していないんですね」
視線は窓の方を向いている。これか、と沖名刑事が駆け寄って示した。事件が起きた日と同じ位置に、本来の時刻を指さない振り子時計が掛けられている。今は夜の八時だが針は十一時。直していないというより、触れないでいたのだ。
「俺、一週間前も言ったと思うんですけど。九時間も遅れているって」
「重要な手掛かりかもしれんだろ。あえてそのままにしてある」
追い払うような仕草をされたので、今度こそ青年は店を後にした。再び鳴ったドアベルの音が軽やかに響く。荷物で両手の塞がる彼が体重を掛けて閉めたので、その勢いで扉は暫く揺れていた。その揺れが収まった頃、ふと部下の警官が言った。
「あの配達員、やっぱり犯人の仲間だったりして」
今までの飄とした態度が一変、真剣に思考している様子だ。
「犯人のアジトは世界中にあります。その内のどこに運ぶのかを、仲間たちは暗号でやり取りしています。彼はその暗号を目撃するため、そして実際に盗品を運び出すため、二度も店に訪れたのかも」
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既に顔も素性も割れている店長は、この店に戻ってくることができないだろう。きっともはや日本にはおらず、アジトのある海外にいる。彼の残した暗号を読み解き、彼の待つ場所へお宝を送るのが仲間の役目だ。
「だとすれば……ふむ」
沖名刑事がテーブルの間を縫って歩く。配達員が出たばかりの扉を開け、首を突き出して左右を覗いた。彼の姿が、配送に使う車ごと見当たらないことを確認すると、振り返って大声で叫んだ。
「やはりあいつだ! 奴の発言には明らかに不自然な部分があった!」
「分かったのですか、警部」
駆け寄る部下に彼は耳打ちする。彼女の顔が驚愕と納得を織り交ぜたものになった。
「いま伝えたのが奴らの向かうアジトのある国だ。私は本部に連絡をとって先回りできるようにする。お前はここで待機してろ!」
「了解です!」
「客の中にまだ仲間がいないとも限らんからな。しっかり見張ってろよ!」
そう言い残し、沖名刑事は二階へと続く螺旋階段を駆け上っていった。急に見張られる側となった客たちは、同じように唯の客だと思っていた男が犯人の一味であることに驚きを隠せない様子だ。ざわざわと語らう声が揺蕩う中、部下の女性刑事が前方に立って呼び掛ける。
「さあさあ、お客さま!」
いや、今はもう刑事ではない。これほど本格的に演技したことは初めてであろう彼女が、イベント主催者としての立場に戻って司会をしていた。
「配達員の青年が犯人の仲間であること、そして盗品の向かう先の国について、沖名警部は見事に突き止めました。彼の言う〈発言の不自然な部分〉とは何だったのか、そしてお宝はどの国のアジトに送られるのか。皆さんもぜひ推理してみてください。そしてお手元の解答用紙にお書きください!」
今度こそ時計は予想外のアクシデントではない。全ての真相が明らかになった後、小面が組み直したシナリオの中に取り込まれた。見事なものだ。だが、これこそが本当にやりたかったことなのだろう。ミステリは、フェアじゃないといけない。推理劇をするなら、必ず客が解けるようになっていなければ。そんな信条の元に脚本を作る彼女は、何よりも楽しそうに見えた。
そして今も、最高に楽しそうだった。

   *

温室へと続く螺旋階段を上る。
役者の待機場所として使っているだけなので、辺りは薄暗い。一台のスタンドライトだけが篝火のように灯っていた。その足元に座る人影がある。
「沖名さん」
人影は顔を上げた。続けて、右手を軽く振る。
「おや。どうしてこちらに」
「推理タイムの間、沖名さんここでひとりでしょ。だから」
ほんの二十分ほどの話だ。おせっかいを焼くようなことでもない。要は、私がここに来たかっただけであり、夜の温室にいる沖名の姿を見たかったのだ。照明を落とされた園芸店の中では、観葉植物の全てが闇に塗りつぶされている。何の内装も見えない。透き通ったガラスの壁と天井が広がり、よく晴れた空に月が浮かんでいた。
風が涼しい。
滑り出し窓が、少しだけ開いている。
「鷹志さん、店長と顔馴染みだったんですね」
何とはなしに私は言った。既に先日、カフェにいるメンバで話したことだった。沖名の探している最愛の息子は、このエリアを担当する配達員だったのだ。何度もカフェを訪れているため、彼の顔を店長は知っていた。だが、名前までは把握していなかった。
当然、名を知っていたのなら名簿を見た時点で解決していた話だ。
カフェで再会を果たした親子は、ひとまず互いの状況について報告し合った。沖名の妻、すなわち鷹志の母親は、残念ながら他界したそうだ。子供を連れて失踪した時点で、心身共に随分と病んでいた。その症状は悪化を続けたものの、最後にはしかるべき施設で適切な治療を受け、尊厳ある日々の中で亡くなったらしい。
「随分と遠回りをした気がします」
息を吐き出しながら小さく笑う。子供のように無邪気な笑顔で。
「私ね、息子を探すために役者になったんですよ」
それは初めて聞いた。確かに彼の年齢から役者を目指すのは珍しいと感じていたが、まさかそのような事情があったとは。しかし、役者になることと息子を探すことは、どのように関連するのだろう。私の疑問を汲み取ったのか、答えはすぐに聞けた。
「本当に、何のあてにもならない理由なんですけどね。鷹志の小さい頃の夢が、舞台役者になることだったので。もしかするとこの世界にいるかもしれないと」
「無謀ですね」
私は言った。彼が最後に見た息子の姿は、片手で数えられる程度の歳だったはずだ。そんな子供の夢など海辺の砂の城より脆い。取り繕っても仕方がない。人生の半分を投げ打って生活を変えるには、あまりにも弱々しい理由だった。
「結局、役者じゃなかったですしね。鷹志さん」
「目指しているわけでもないようです。まあ、こんなものでしょう」
人生なんて、と口の形だけで続けた。
沖名は立ち上がる。ふと自らの腕時計を確認してから、階段とは反対の方向へと歩き始めた。つまり温室の奥へと。影絵となった観葉植物の林を抜け、透き通った壁に引き寄せられるように。昼間なら町の景色が広がっているが、今はただ藍色の空気しか見えない。片田舎の夜ではいつものことだ。他の店は早々に閉まり、民家の光すら遠かった。
「どう思います?」
最奥まで辿り着いた彼は、半分だけ振り返って言った。
「久しぶりに会った父親が、かつて自分の目指していた仕事に就いているって、普通はどう思うものなんでしょう」
「うーん」
苦笑する。彼とて真剣に悩んでいるわけではないと知っていたからだ。夢なんてものは、他人に譲っても意味がない。横取りすることができるわけでもない。自分が目指していればいつか叶うかもしれなくて、それを誰かが達成したからといって、可能性が断たれることもないのだ。
「良かったね、って思います」
良かった。それに尽きる。今の劇団に所属し、小面に依頼されてこのカフェに来た。予想外のアクシデントは起きたものの、皆で協力して真相を探り、見事に物語の続きを作り上げた。この一週間と少し、彼は確かに楽しかったはずだ。
「良かった、か」
彼は笑う。ガラスを嵌め込んだ白い格子の前に、立っている。このまま向こう側に行ってしまいそうな気がした。もちろん、ここのガラスは外れない。身体が通る窓もない。それでも、まるで背中から羽を生やして飛んで行ってしまいそうなほどに。
あまりにも、美しいと思った。
「さあ、そろそろ戻りましょう」
駆け寄り、腕を取って引き寄せる。私の言葉に嘘はなかった。もう推理タイムが終わるので、解決編の上演のため彼は行かなければならないのだ。犯人が盗品を送らせるアジトは彼の単身赴任先にある。中国、イギリス、メキシコ、ハワイ――カウンタの置物が示す国の内、日本との時差が九時間なのはイギリスだけだ。ミステリを愛する観客たちには簡単過ぎただろうか?
まあ良い。正解者が多ければ、それだけ沢山の人に店長のクッキーを渡せる。
思わず一緒に階段を降りそうになったところを踏み留まった。危ない。今日の私には役が与えられていないので、客の前に現れるわけにはいかないのだ。ましてや主役と共に登場などしたら目立ってしまう。沖名はひとりで階段を降りる。そして明るい場所に出て、閉幕までを演じ切るのだ。私は彼の背中を叩いた。
軽く、そっと。
そこにある荷物を解き放つように。
(行ってらっしゃい)
聞こえないほどの声しか出せなかったが、それでも彼は頷いてくれた。お芝居を演じている今だけは、舞台が現実で他は裏側。鮮やかなシグナルグリーンの螺旋階段が、空と地上とを繋ぐ梯子だ。
「さて、皆さん! この事件の真相が解けたでしょうか――」
靴音が遠退いてゆく。私は階段の最上段に腰掛け、しばらく瞼を閉じていた。

〈五月・ビフテキはグリニッジに在り 終〉
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