Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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Q1・ふさわしいものを選べ

欠勤連絡

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   *

 結局、あの日は仕事終わりに蜂須と会うこともなく、花房の姿も見かけなかった。話したいことは色々とあったのだが。オフィスのどこかにいたのかもしれないし、外出や帰宅をしたのかもしれない。約束も取り付けていないのだから仕方のないことで、ひとりで自転車を漕いで帰った。

 それから一週間。何事もなく時は過ぎ。

 例の爆破予告事件は、いつの間にか解決していた。犯人が親に付き添われて蜂須と面談したらしい。やはり脅迫はハッタリで、ここに爆発物を仕掛けるつもりなんてなかったとのこと。本当に反省している様子だったので、この件は流すことになった。入学辞退の期限は過ぎているし、受験をやり直すこともできないが、何事も本人次第だ。新しい環境で学びたいことを見つけられたらいいな、と思った。

 俺もある程度はひとりでこなせるようになり、事務所の隅で黙々と作業を進めることが多くなった。アラクネではノマド的な仕事をしている人が多く、皆がデスクに縛られているわけではない。俺の近くにもノートパソコンで作業をしている人がちらほらいて、疎外感を覚えることはなかった。幹部メンバーがアドバイスやねぎらいの言葉を掛けてくれることもあり、人気YouTuberと普通に話せる環境にも慣れつつある。

 そんなある日、俺は頭痛と共に目が覚めた。何のことはない、稀に発生する片頭痛だ。仕事はできなくもないが集中力が途切れそう、そんな塩梅。しばらく悩んだ末、欠勤を申し出ようと考えた。急ぎの作業を抱えているわけでもなく、アルバイトがひとりいないくらいで迷惑は掛からないだろう。
 さすがの蜂須も病欠に対してまで給与を出すとは言わないはずだ。社長の金払いが良いので休みづらい――という逆転現象に苦笑しつつ、会社の電話番号にコールする。

 他のスタッフたちは社内チャットで勤怠連絡を送っているが、俺は新人なのでまだ参加していない。何かあれば電話をするように言われている。いつもはすぐに途切れるコール音がやけに長く続き、怪訝に思った頃にようやく相手と繋がった。

「はい、蜂須です」

 その瞬間、番号を間違えたことを察した。電話帳に登録してあるオフィスの番号を選んだはずだが、その下にあった蜂須の個人スマホにかけていたようだ。謝罪し、すぐにかけ直そうとしたが、もうひとつおかしなことに気付く。

「……花房さん?」

 通話の相手は、花房藤乃の声を発していた。蜂須のスマホにかけた電話を花房がとったということだ。最初に思いついた可能性をぶつけてみる。

「花房さん、もう出勤してるんですか? 蜂須さんは近くにいらっしゃいますか?」

 オフィスのデスクに蜂須のスマホが置き去られており、コール音を聞いた花房が代わりに出てくれた――そう考えるのが自然だ。彼女が近くにいるのなら構わないが、もし忘れたまま外出したのなら大変だ。とはいえ、仮にそうだったとしても俺には何もできないのだが。

 花房はしばらく沈黙を続けた後、絞り出すように

「……友達」

と言った。一瞬意味が分からなかったが、悲しげな声色から意図を察する。面接の日、駐輪場で交わした言葉。俺たちは友達になろうと話したはずじゃないか。ずっと敬語で接していることに対し、悲哀を感じているのだろう。俺は慌てて口調を修正した。

「あ、そうだった……花房! 花房は、もう出勤してるのか? これ、蜂須さんのスマホに繋がってるよな。近くにいる?」

 質問を繰り返すと、今度はちゃんと答えが返ってくる。しかしその内容はいまいち理解が追いつかないものだった。

「まだ家。瑠璃子さんは、シャワーしてる」

 花房はまだ自宅。なるほど? 蜂須はシャワー……車を洗っているとか? 彼は少しだけ日本語が拙いから、こういう表現になったのか? あれ? どちらかの家に、ふたりで一緒にいるということ? 下の名前で呼んでいるのは、他のスタッフに対してもそうなので今さら気にならないが。

「ええと、シャワーというのは……何かを洗っているのかな」

 車とか犬とか花の水やりであってくれ。気まずいから。わずかな希望を込めて問い掛けたが、花房の返答にあっさりと打ち砕かれる。

「何って、身体だよ。シャワーってそういうものじゃなかった?」

 日本語間違えた? としょんぼりした声。いや、間違っていない。今回は特殊なケースだっただけで。あたふたと弁解していると、話し相手が急に入れ替わる気配を感じた。花房の手にしていたスマホがひょいと取り上げられたような。

「…………蜂須です」

 今度は本物の蜂須だ。途中から話を聞いていたのか、俺と同じように気まずそうな声色をしている。いつも冷静沈着な彼女としては珍しい。小さく咳払いをしてから、こちらの要件を尋ねてくる。

「すみません、オフィスにかけたつもりだったのですが」

 そう謝ってから病欠の連絡をしようとした。しかし、今のやり取りがあまりに気になって仕方がない。彼女は今から出勤だろうか。いや、オフィスで会ったからといって何を聞き出すつもりもないのだが。とはいえ、すっかり頭痛も吹き飛んでしまった。

「ちょっと伝えたいことがあったのですが、解決しました。お手数おかけして申し訳ありません。もうすぐ出社しますね」
「そう……。今日もよろしくお願いしますね」

 短いやり取りの末、電話を切る。時刻は朝の八時。職場からさほど遠くない場所に住む社会人が、そろそろ家を出ようとする時間帯。蜂須はこれから出勤、花房はこれから就寝といったところか。
どうして同じ場所にいたのだろう。自宅に呼んだのだとすれば、なぜ客人を置いてシャワーなんて浴びていたのだろう。もしや特別な関係なのか? そうであったとしても、ふたりとも大人なので何の問題もない。しかしどこか歪な空気を感じてしまう。

 オフィスに着くと既に蜂須の姿があった。控えめだが上品なメイクにグレーのスーツ。身なりはしっかり整えられていた。花房の家から来たのだとすれば、妥当な到着時間だ。あるいは彼女自身の家も近くにあるのか。そんな推測を巡らせたあと、もう考えるのはやめようと思った。俺は下世話な詮索をするためにここへ来たわけではない。

 だが、彼女の方は何か言いたげにしている。俺が傍らを通り過ぎようとしたとき、スタッフとの話を中断してこちらを向いた。断りを入れてから話の輪を外れ、俺の後をついてくる。数歩で追いつかれて耳打ちをされた。

「本日の業務が終わったら、少しお時間をいただけるかしら」

 ヤバい。呼び出しだ。しかし「考えるのはやめよう」と決めたばかりなので、なるべくフラットに捉えるよう努めた。例のことが理由だとは限らない。社長がアルバイトに話すことなんて、仕事についてだろう。きっと。

 珍しく言葉に詰まりながら、彼女は耳打ちを続ける。

「ちょっと人前では話しづらいことなの。でも、今日の会議室は全て埋まっていて。私の執務室か、あなたさえ良ければ外で食事でもと思っているのだけれど……」
「外、がいいです」

 思わず話の途中で返答した。蜂須の執務室といえば、すなわち社長室だ。そんなところで一対一の話をするのは緊張する。それなら外へ連れ出される方が気楽だ。昨今は上司との会食を嫌がる若者が多いと聞くし、最大限に気を遣いながら誘っているのだろう。柄にもなく不安そうな語気からその心理が伝わってくる。

 しかし俺はあまり気にしないタイプだ。誰かと食事をするのは楽しい。偉い人に奢ってもらえるのならもっと嬉しい。そんな単純な思考回路で生きてきた。さすがに今回は困惑の方が勝つものの、拒絶するほどでもない。

「時間はあります。外でお話ししましょう」

 返事を聞いて蜂須は少し安堵したようだ。ではまた後で、と交わしてそれぞれの仕事を始めた。
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