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Q1・ふさわしいものを選べ
親族襲来
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「とりあえず、試薬会社に訊いてみるか」
苦々しい表情で風見は言った。彼としても、こんなことに自分のコネを使いたくはないのだろう。多少の同情はあるにしても、許しきれないのは当然だ。
「購入したであろう薬品を伝えて、直近の履歴を調べてもらえば分かるはずだ。犯行予告が出ている以上、事件性はある。あちらも個人情報を提供せざるを得ない」
「でも、それでは彼が逮捕されてしまいます」
マリアが椅子から身を乗り出して言った。
「彼を見逃すなら事件性を認めるわけにはいきません。つまり、個人情報の提供も受けることができません。試薬会社にとっては、彼もまた顧客のひとりですから」
それは一理ある。蝶野の言葉を受け、一同は彼を見逃す方向で意見をまとめたのだ。ここで警察に突き出しては元も子もない。
「じゃあ、高校に伝える」
今度は花房が意見を述べた。
「卒業したばかりだから、まだ学校から連絡がとれるはず。親御さんを通じて」
その手があったか。隣で聞いていた俺は、つい口を挟みそうになった。英語の訛り方と交換留学の制度を踏まえ、彼の卒業した高校までは絞れているのだ。該当する学年の留学経験者をひとりずつあたれば、犯人の家庭に行き着くはずだ。学校が預かっているのは実家の連絡先だろうから、真っ先に親へ伝わることになる。
本人だけに伝えて「もうやるなよ」と諭すより、その方がずっと正しい形に収まるだろう。蜂須も同じことを考えたのか、花房を見て小さく拍手した。
「なるほど、それは良案だわ」
「りょ……?」
「良い考え、ってことよ」
ふたりは短くやり取りしてから中央へ向き直った。
「いくら我々が見逃すと決めても、最終的に判断するのは本人と親御さんであるべきね。罪を償うという道も残しておく方がいいわ。なので、少なくともご家族には隠せない形でコンタクトをとりましょう。お話が伝われば、写真を送っていただいて監視カメラに登録する……これでどうかしら」
こんな一瞬で特定されて、再犯の気力なんて湧いてこないと思うが。それでも出禁にしておくに越したことはない。いざ相手が分かってしまえば、想像以上に安心感のあるシステムだな、と考えた。かつて俺がバイトしていたスーパーでも、厄介なクレーマーは繰り返しやって来た。襲来が数秒前に分かるだけでもずいぶんと助かるのだ。
そんな前職の思い出にふけっていたとき。
不意に、事務所の奥からブザーの音が聞こえた。壁際のデスクに監視カメラのモニターがあり、そのスピーカーから鳴っているようだ。ビーッという警戒心を煽るような響きでありながら、二回ほどで止まってしまった。
誤作動か、と訝しんだ直後。
花房が小動物のように体を震わせると、デスクの下に潜り込んだ。言葉も発さず、存在自体を消そうとしているようだ。すぐさま背後の足音に振り返れば、数人のスタッフが裏口へと走っていくところだった。全員が女性である。何だ。どういうことなのだ。そんなに危険な奴が今から来るというのか。
いつの間にかマリアも姿を消している。さすがに社長の蜂須は残っていた。蝶野はつまらなさそうな顔で座ったままだが、風見はスッと立ち上がり、花房の隠れるデスクを庇うような位置に移動した。俺はどうすればいいのか分からなかったが、男なので残っているべきなのだろう。覚悟を決めて、カウンターの向こうを睨んでおくことにした。
爆破予告の犯人は、まだ防犯カメラに登録されていない。つまり以前から出禁になっている人物が他にいる。女性たちが一斉に逃げ出したところを見るに、乱暴を働くタイプなのだろうか。しかしそれなら花房まで隠れる理由が分からない――いや、彼も小柄で守るべき存在ではあるが――とはいえ、隠れ方が異様だった。身を守りたいならもっと遠くで隠れるはず。不思議に思うものの、対象が現れるまで三十秒もないため、説明を求めることはできなかった。
さて、いったいどんなヤクザ者が現れるのか。高鳴る心臓を諫めながら、足音に耳を澄ませる。階段を一段ずつ上ってくる音。ゆっくりと、焦らすかのように。やがてガラス扉の向こうに現れたのは、予想と全く異なる人物だった。
和装のご婦人。年齢は七十歳くらい。老人特有の小柄な体躯だが、背筋はしゃんと伸びている。お茶か華道の先生、といった印象を受けた。彼女は男ばかりのオフィスを一瞥すると、まっすぐカウンターの前へ向かう。
「ごきげんよう。うちの藤乃はここにおりますかしら?」
少し掠れているが、不思議な引力のある声だった。舞台上で映えそうな声。蜂須が正面に立ち、堂々と応える。
「こんにちは。うちの花房に何の御用でしょうか?」
おお、これは……女同士のバトルの予感。互いに花房を自分に属する存在だと主張している。もちろん蜂須の方は、彼を守るためでもあるだろう。当の花房はデスクの下に隠れ続けていた。この婦人に会わせてはならない、という空気が俺にも伝わった。
「用は本人に伝えます。まずは、会わせていただけませんこと?」
「弊社はフレックス制を導入しておりまして。花房は現在出勤しておりません。今頃は自宅で就寝しているのではないかと」
半分本当で、半分は嘘だ。普段は夕刻から働いている花房にとって、この時間帯は確かに就寝中だろう。しかし今はここにいる。婦人からは見えない位置だが。はぐらかされていることに気付いたのか、棘のある言葉が返ってきた。
「そうおっしゃるかと思って、先日は陽が落ちてから伺いましたのよ。その際も藤乃には会えませんでした。夜も駄目、朝も駄目となると、いったいいつならよろしくて?」
「さあ……?」
蜂須は不敵に微笑む。今の話によれば、婦人は何度もここを訪れているようだ。花房と会うことを目的に、断られる度にそのタイミングを調整して。しかし会えるはずもない。オフィスにいたとしても、こうやって隠れているのだから。
「出勤時刻を自身によって決めることは、社員の重要な権利です。それを上司が指示したとなれば、法律違反になりますね。アラクネはクリーンな企業を目指しています。いくらお祖母さまのご依頼であっても、私からは何も言えません」
実際にどうなのかは分からないが、納得できる内容のことをすらすらと話す。婦人の方も、まさか「孫のために法を犯せ」とは言えないだろう。というか、彼女は花房の祖母だったのか。確かに年齢はそのくらいだが。孫が祖母から隠れる理由は分からないし、祖母が孫を執拗に探す理由も分からないが、とりあえず今回は蜂須が押し勝ちそうだ。少し安心しながら成り行きを見守る。
「まあ、それなら出直しますけどね」
気色ばみながら婦人は告げる。何度来ても同じ結果であることには、彼女自身も気付いているのだろう。声色に悔しさがにじみ出ていた。
「私が来ていたことは伝えておいてくださいな。そのくらいなら構わないでしょう?」
「ええ、もちろん」
「あの子に親族を想う気持ちがあれば、顔を見る機会くらい作ってくれると思っていたのですけどねぇ……。こんな年寄りのことなんて、どうでもいいのかしら」
自嘲気味に呟く。しかし本心からではなく、蜂須に向けた嫌味に違いなかった。蜂須が花房に入れ知恵をして、あえて会わないように仕向けたことはバレているのだ。だから孫を責めたわけではない。しかし花房は心優しいから、こんな見え透いた当てつけにも胸を痛めてしまう。
デスクの下でガタリと音がした。俺は慌てて視線で説得する。君がここで飛び出す必要なんてない、あと少し辛抱してくれ。風見もさりげなくデスクににじり寄り、花房が出てこられないように塞いでくれた。
婦人の嫌味を聞いた蜂須は、静かに目を閉じた。悟ったような顔で息を吸い、ゆっくりと吐き出す。再び目を開いたとき、その視線はいつになく鋭いものに変化していた。
「お言葉ですが、花房がそのような私情で動くとは思えません」
そこから先は、まるで流水のごとく。蜂須の唇が明瞭に動き、素早く、しかし確実に言葉を紡ぎ出した。
「彼は現在、重要なプロジェクトのリーダーを務めております。外部との打ち合わせや、チームメンバーとの予定を合わせるため、時間的な余裕はほとんどありません。フレックス制とはいえ、出勤時刻も退勤時刻も彼の一存では決められないことが多いのです。もちろん過剰な残業はありませんが、これ以上に業務が増えるとなればそれも叶わなくなります。たとえば、仕事に関係のない要件での来客対応だとか」
おお、嫌味返しだ。しかもあからさまな嘘にはならない範囲で見事に反論した。英語担当の講師として、花房が主体となって進めている撮影業務を「重要なプロジェクト」と称するなら、今の言葉は真実だ。YouTubeチャンネルで案件を受けることも多く、外部との打ち合わせのため昼間に出社することもあるだろう。また、彼が立派なポジションであると告げることで祖母のメンツも守っている。遠まわしに「多忙なんだからプライベートの時間も狙うんじゃねえぞ」と伝えることも忘れない。
明らかに蜂須の圧勝だ。今度こそ婦人は引き下がり、次の約束を取り付けることもなくオフィスを後にした。しかしフェイントを掛けられてはたまらないので、すぐには誰も動き出せずにいる。窓の外を覗いていた蝶野が「行ったよ」と報告し、ようやく事務所の時間が動き始めた。
隠れていたマリアたちが戻ってくる。風見がやれやれと肩を回し、デスクの前から移動した。膝を抱えて丸まっていた花房が這い出し、消え入りそうな声で謝る。
「ごめんなさい」
それは花房が言うべきことではない。誰ひとり不平を漏らさず、穏やかな表情で仕事を再開した。休憩しよう、と言って風見が彼を奥へ連れていく。居心地が悪そうにしているのを気遣ったのか。残された俺は、蜂須の隣に歩み寄ってひそひそと話し掛けた。
「誰なんですか、今の人は」
蜂須はわずかに眉根を寄せ、困った顔をする。新人スタッフの前で見苦しいところを晒してしまった、とでも言いたげだ。
「花房のお祖母さまよ」
「いや、それは分かりましたけれど……。お茶かお花の先生ですか?」
「梨園の方なのよ」
「り……?」
きょとんとする俺に向かって、蜂須はくすりと笑う。いや、いきなり言われても分からないのは当然でしょうに。何だよ、リエンって。何の芸事だ?
「歌舞伎の世界のことよ。花房は、ある一門の末裔なの。血筋としてはね」
え、と息をのむ。会話はひそひそ声で続けていたが、地声が出てしまいそうになるほど驚いた。花房が? あんなキンキンの髪なのに? いや、髪色は関係ないか。染めているだけで、地毛は黒だろうし。しかし、それにしても……アメリカ生まれ、アメリカ育ちじゃなかったっけ?
「よくある話ね。花房のお父さまがご長男なのだけど、家業を継がずに渡米してそこで家庭を持ったの。結局、次男さんが襲名することになって」
「それじゃあ跡継ぎで揉めているわけではないんですね。どうして今さらになって、長男の息子を探しているんだろ」
首を傾げて思案する。しかし、すぐに答えは出てこなかった。友人の家庭事情を詮索するようで良くない気もする。俺は別の質問をした。
「女性のスタッフさんたちが姿を隠したのは?」
「最初にここへ来られたとき、花房が若い女性と働いていることに関して苦言を呈されてしまって……。そのとき応対したスタッフが、少し派手な服装を好む子で。心配になったのでしょうね。ただでさえ新しい企業なのだから」
そりゃあ、梨園の人からすれば、老舗以外は信用ならないかもしれないが。服装が派手なくらいで不純だと判断するのはあんまりだ。蜂須はオブラートに包んで話しているが、きっと大げさな反応をされたのだろう。でなければ、ここまで完全に女性を隠したりはしない。
詳細は分からないが、問題の根は深そうだった。花房自身が頑なに彼女を避けていることからもそう思う。もし見つかったら、こんな会社は辞めろと連れ去られてしまうかもしれない。
訊きたいことは他にもあったが、俺も仕事を始めなければならないので話を終えた。サポートしてくれるスタッフが出勤してきたのだ。彼は数分前に起きていた事件のことも知らず、俺の隣で編集ソフトを立ち上げる。
「それじゃあ、始めようか」
「よろしくお願いします」
今日は朝から驚きの連続だったが、幹部のメンバーがちゃんと解決してくれた。俺も俺のやるべきことを遂行しなければ。気持ちを切り替えるために軽く頬を叩き、その画面を覗き込みながらメモをとった。
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