Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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緊急会議

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「まず、皆さんに確認するわね」

 蜂須が幹部たちの顔を見渡しながら話す。円卓の中央には一台のタブレットがあり、犯人の投稿した動画が表示されていた。

「彼の話していた相談内容から、現時点で素性を割り出せる方はいるかしら?」

 確かに、彼はけっこうな個人情報を自ら明かしていた。講師陣が相談内容を覚えていれば、母校くらいは判明するかもしれない。隣で会議を聞きながら俺は期待した。しかし、四人の反応は芳しいものではなかった。

「時系列としては、四年ほど前の相談になりますね。犯人の言い分によると、風見さんにも相談に乗ってもらったようなので、少なくとも彼の加入後――YouTubeへ進出したばかりの頃でしょうか。さすがにもうデータは残っていません。相談者のプライバシーに配慮して、文面は一定期間後に削除されるようになっていますし」

 秘書のような口ぶりでマリアが補足する。そういったシステム回りの管理も任されているのかもしれない。

「彼のように様々な相談を複数の講師に持ち掛けていた場合、そもそも同一人物と認識されていない可能性が高いです。全ての情報を共有しているわけではありませんし。我々にとっては大勢いる相談者の中のひとりですから」

 なるほど。ひとつの相談ではなく多岐に渡っているので、その度に新しい相談者として認識していたのか。留学すべきかという質問も、進路に関する相談も、模試の結果の報告も、紐づいていない。専属の家庭教師ではないのだから妥当な話だ。

「一回の相談に絞るなら、花房がいちばん情報を持っているか?」

 風見がそう言って花房の方を見る。英語の講師である彼は留学相談を受けていた。留学先や、高校の名前くらいは聞いていたかもしれない。

「自分を信じて留学を決めてくれた彼には申し訳ないけれど」

花房は首を振る。動きに合わせて金色の髪とピアスが揺れた。

「留学の相談は今までもたくさん受けた。勧めたことも多くて、どれが彼だったのか分からない。でも『最終的には学校の先生と相談して』っていつも添えてる。自分は留学したことがないわけだし、全面的に信用されても困るかな……」

 それもそうだ。花房は帰国子女であって、留学経験者ではない。卒業を送らせてでも交換留学をすべきか、なんて相談に自信を持って回答はできない。学校の先生へのパスは投げていたらしいので、花房を恨むのは筋違いだ。
どうせ「あのアラクネの英語講師が言っていたのだから間違いない」と早合点し、本来相談すべき相手には話さなかったのだろう。

「なるほど、分かりました。我々の持っている情報はこの動画だけのようね」

 蜂須が視線をタブレットに落とし、他のメンバーもそちらを向いた。たった十五分しかないこの動画に、いったいどれほどのヒントが潜んでいるのだろう。確かな実力をもってアラクネを運営してきた彼女らなら、何か見つけ出すことができるのだろうか。

 ――いや、できるはずだ。だからこうやって集まっているのだ。ほとぼりが冷めるまでオフィスを閉めたって、根本的な解決にはならない。ただの悪戯だと処理せず、あらゆる可能性を考えたからこそ、あえて逃げずに素性を突き止めようとしている。俺には何もできないが、ここでじっくり見させてもらおう。会議スペースが覗ける特等席で、俺はひそかに姿勢を正した。

「動画を撮影したのは夜、背後にはカーテン……当然景色は見えませんが、強い光は貫通しているわね。街灯や車のヘッドライトかしら。これらから、撮影場所がある程度しぼれないかしら」

 蜂須の言葉に「それは無茶だ」と考える。投稿された動画から居場所を特定する話はよく聞くが、さすがにカーテンが閉まっている状態で何が分かるというのか。だが、円卓から泣き言は返ってこない。それどころか、発言の順番を譲り合うような視線が交わされている。既にそれぞれが答えを持っているということだ。

「私の推測が最もざっくりしているでしょうから、私から話しますね」

 マリアが小さく手を挙げる。彼女はタブレットの画面を指してこう言った。

「まず感じたのは、これは屋外で撮影されたのでは、ということです。背後にカーテンがありますが、白い布を竿にでも掛けておけばそう見えます」

 俺も手元のスマホで動画を確認する。これが屋外だと言われたら、確かにそんな気もしてきた。カーテンがやけに長く、背景の全てを蔽っているのだ。壁紙で特定されるのを防ぐためかと思っていたが、壁そのものが無いという可能性もあるのか。室内灯ではなくスタンドライトを使っているのは、ここが外だから?
しかし、その根拠は何だろう。

「カーテンの向こうに、車のヘッドライトのようなものが透けて見えるんです。ふたつの光が同じ間隔を保ったまま近づいてきます。室内なら窓枠に遮られてすぐ見えなくなるはずですが、かなり長く視認できますよね」
「室内にしては遮蔽物が少ない、ということね」

 蜂須が相槌を打つ。画面を指でなぞり、光が消える位置を測っている様子だった。やがて答えが出たのか、こう続ける。

「背後が窓だとすれば、天井から床までの一面がそうなっていることになるわ。ベランダに繋がるわけでもない、嵌め殺しの大きな窓。大学に入ったばかりの彼が、そのような部屋に住んでいるのは不自然ね。これは……屋上で撮影しているのかしら」
「そうですね。自分が住むアパートの屋上に侵入しているものと思われます。光が近付いたときに点滅しているように見えるのは、細い金網のフェンスによって断続的に遮られているからでしょう」
「火とか薬品とか扱うわけだから、念のために外を選んだんだろうな。犯行予告の時点で自爆するわけにはいかないし」

 今度は風見が口を挟んだ。彼は男が使った薬品の特定ができているのだろうか。気になったが、まだそれを聞く段階ではない。
 マリアが説明を続ける。

「次にヘッドライトの正体なのですが、乗用車だけではなさそうです。他の車と比較しても、明らかに幅が広い……つまり車体が大きいものがあります。最初はバスかトラックかと思ったのですが、それだと前後に他の車が全く走っていないことが妙です」

 本当だ。夜とはいえ車がまばらに走行しており、その中にひときわ大きい車体のものがある。カーテン越しだから光の配置しか分からないが、一車線をそれだけで独占しているように見えた。バスやトラックのために車線ごと空けることもないだろう。かといって鉄道でもない。バスでも列車でもなく、車と並んで車道を走る大きな乗り物――

「路面電車だね」

 蝶野がぽつりと呟いた。修学旅行先で遭遇した車体を思い出し、俺も納得する。初めて見たときはけっこう驚いたが、あれは案外と普通に街中を走っているのだ。ちょっと大きなバスくらいのサイズ。しかし線路の上を走る必要があるので、一車線を独占する形になる。乗用車が線路上に侵入することは、交差点くらいでしかあり得ない。
 そのはずなのだが……。

「でも、動画の最後の方。一瞬だけ乗用車と前後に並んでない?」

 続けて蝶野が指摘する通り、画面の端、見切れそうな位置で路面電車と乗用車が前後にあるように思えるのだ。大通りを走っているときは車線を使い分けていたそれらが、交差点を曲がった後に合流する。そして一緒に信号待ちをしている。不思議な光景だ。

「そうなんです。この区間だけ道幅が狭く、路面電車と乗用車が車線を共有しているのだと思います。路面電車が現役で走る地域はいくつかありますが、こういった場所に心当たりがあるのは長崎くらいですね。出島駅と新地中華街駅の間です」

 すご。一気に所在が明かされてしまった。マリアは社会科担当なので、ご当地ネタにも詳しいのだろうか。何が「私の推測が最もざっくりしている」だ。一気に半径五百メートルほどまで絞られているじゃないか。

 とはいえ、ゴールはまだ先だ。

「次は、彼の住むアパートを探さないといけないわね」

 蜂須が言った。そう、俺たちの目的は犯人の顔を知ることだ。周辺の住人を全て調べて回ることはできない。せめて住んでいるアパートが分かれば、管理人に協力を仰げるのだが。監視カメラにでも映っていれば儲けものだ。

「路面電車が信号待ちをしているということは、ここに交差点があるはずね。地図上だとこのあたりかしら」

 彼女はタブレットにマップを表示し、ペンで指し示す。三叉路なので交差点というよりは合流地点と呼ぶ方が正しいが、位置は間違っていない。いったい、ここから何が分かるのだろうか。

「ヘッドライトが画面の端から登場して、信号の元へ着くまでの時間は三十秒くらいね。走行速度から計算すると、距離にして約百メートル。地図だとこの部分。これを端から端まで見下ろせる位置にある屋上……ということ」

 蜂須が指でコンパスを作り、地図上に円を描く。まずはこの範囲。観光地だが、近隣には普通の集合住宅も多くある。ここからどうやって絞るというのか。カーテンに遮られ、光の動きしか見えない状態で。

「斜め上空からの景色なので、遠近法を踏まえて距離を算出する必要があるわね。地図と同じ真上からの構図に変形して縮尺を測りましょう。他の乗用車の動きを追えば、四角い区画が見えてくるわ。京都のような碁盤の目状ではないでしょうけど、極端に歪んでもいないはず。台形を正方形に戻すような感覚で角度を求めてあげると……」

 そう話しながら背後の壁に数式を書き始めたので驚いた。しかしよく見ると、そこはホワイトボードになっているようだ。三角関数を使って何かを求めていることは分かるのだが、数字の根拠も、算出された角度が表すものもさっぱりだ。
理系の風見は平然と頷いているし、マリアもなぜか理解できる側の様子。花房は相変わらずの無表情で感情が読めない。そして蝶野だけは、あからさまに「わけが分からん」という顔をしていた。

よかった。なんだか安心した。

「地図上にて、この二点から伸ばした線がこの角度で交わる位置――が答えよ。誤差はあるでしょうけど、近くに候補が少なければ絞れるわ。進学したばかりの大学生が住んでいそうな、屋上のある物件……」

 そして彼女は見つけたようだ。路地に面した寂れたアパート。さして広くもない屋上が衛星写真に写っている。フェンスは非常に心もとなく、車のヘッドライトが遮られずに映っていたことの説明もつく。

「なんだ、あっという間に場所まで分かっちまった」

 じゃあ俺の出る幕はないかな、と風見が嘯く。もちろんそんなことはない。たとえ動画の撮影場所が分かったとしても、風見には爆薬の方の検証をしてもらわなければならないのだから。あれは本当に機能するものなのか? どのくらいの威力があるのか? ここに仕掛けるなら、どんな形になるのか? 差し迫った問題としては、むしろそちらの方が重要だ。

「紫の炎……カリウム系だな」

 画面の中、マグカップから上がる炎を眺めながら、彼は言った。

「まあ、これ自体は難しくないさ。過マンガン酸カリウムにグリセリンを垂らせば、数秒で綺麗に自然発火する。というか、こいつの利用した試薬会社ってうちと同じところじゃないか? 薬瓶のデザインに見覚えがある」

 風見は定期的に実験動画を投稿している。試薬会社との付き合いも長いだろう。どうして足のつく買い方するかな、ホームセンターで探せば見つかるのに、などというひとり言も聞こえる。詰めの甘い入手ルートを使った犯人に対し、同じ視点で不満を感じているようだ。怖い。敵に回したくない。

「とはいえ、自然発火するだけだから爆破というより放火ぐらいにしか使えない。ただのパフォーマンスだろうな。火種がなくとも発火させる技術は持っているぞ、という」

 動画を少し戻す。テーブルの上へピントが合った瞬間で停止し、並んだ乳鉢の方をピンチアウトで拡大した。彼の長い指がひとつずつ順に示していく。

「隣にある三つの乳鉢。こちらの方は、まあ、確かに爆発する」
「爆発するんですか!?」

 黙って聞いているつもりだったのに、思わず大声が出た。椅子から浮いた腰を慌てて下ろし、ごまかすように笑う。こちらを向いた風見たちも苦笑していた。どうぞ、お気になさらず。俺の方はめちゃくちゃ気になっているけれど。そんな思いを視線と手の動きで伝える。
 風見は話を再開した。

「黒は木炭、白は硝酸カリウム、黄色は硫黄だな。立派な火薬の材料だ。燃えるだけではなく爆発する可能性もあるから、これを持ち込まれると確かに危ない。ただ、今の話を聞いて、犯人は近隣の住人ではないと分かった。こうなると話は変わってくる」

 マップを開き、今度はオフィスの周辺地図を表示した。雑貨屋やカフェが立ち並ぶ中にひっそりと、我らがアラクネの名前がある。当たり前だが現実と同じく、オフィス街や観光地から離れた位置だ。

「見ての通り、このオフィスの周囲に宿泊施設はない。徒歩圏内にはネットカフェすら見当たらない。ただ、アパートは何棟かあるから、そこの住人だったら厄介だなと考えていたんだが……」

 近隣住人だったら厄介。それはどういう意味だろう。確かに犯人なんて遠くにいる方が安心だが、今は日本中どこでもあっという間に移動できてしまう。犯人は長崎に住んでいるが、朝に発てば昼頃には都心に着くはずだ。疑問を感じ取ったのか、風見は俺の方をちらりと見てから説明してくれた。

「設置する前に暴発してしまう可能性があるからだ。材料を混ぜ合わせた後はもちろん、硝酸カリウムは単体でも衝撃に弱い。自転車や公共交通機関で持ち運ぶにはリスクが高すぎるんだ。もちろん奴も捨て身だろうけれど、アラクネに到着する前に爆発したら意味ないからな」

 その言葉を受け、マリアが補足をする。

「しかも、材料が映り込んでいる動画は長崎で撮っています。それをこちらまで持って来るつもりなら、どうしても電車や新幹線による移動は避けられません。憎い企業を爆破するか、交通機関で起きた無差別テロの犯人になるか……天秤にかけるには、あまりにも釣り合わないですね」
「そう。だから先に長崎在住というヒントが出たのは大きかった。徒歩圏内なら捨て身で持参することもあり得るからな。要するに全部ハッタリだ。こちらが場所の特定まではできないと踏んで、分かりやすい爆発物で脅してんだ。仕掛ける日時の予告もしない。真に受けていたら永遠に営業できなくなる。それが狙いだろう」
「とはいえ、狂言だとしても素性は突き止めたいですね。社長はどうお考えですか?」

 専門知識を持つ風見と、理解力のあるマリア。ふたりの高度なやり取りに巻き込まれても、蜂須が動じることはない。穏やかな表情を変えず、しかし毅然とした声色で意見を述べた。

「犯人の特定はしたいわね。爆破予告は立派な犯罪ですから。それに、持ち運びできる爆薬を別に用意しているという可能性もあるわ」
「映像そのもの全てがハッタリというわけか。そこまでやるような奴じゃなさそうだが、用心するに越したことはないしな」

 風見が頷く。幹部メンバーの総意としては、犯人を捕まえる方向でまとまりそうだ。一方の俺は、既に安堵の中にいた。映像そのものをハッタリに利用するなら、全ての要素が仕込みによるものでなければならない。カーテンに透ける光も、路面電車が通過することも、それが乗用車と前後に並んで信号待ちすることも。

 さすがにそこまでは仕込めないはずだ。ならば撮影場所を特定されることも想定外のはずで、連鎖的に「この爆薬を遠方から持ち込むことはできない」と油断させることも不可能になって……。
 つまり犯人は、裏の裏をかくことなんて考えていないのだ。

「まずはアパートの管理人に連絡だな。俺は試薬会社の方にもあたってみる」

 やれやれといった様子で風見は呟く。しかし隣に座る花房が意見を述べていないことに気付き、話を振った。

「マリアと蜂須がほとんど特定してくれたが、花房も犯人について気付いたことがあるなら言ってくれ。といっても、専門が英語じゃあまり関係ないか……」

 社会科や数学は場所の特定に、理科の知識は爆薬の特定に役立ったが、さすがに英語を生かす場面はないはずだ。しかし意外にも、花房は何か抱えているようだった。しばらく思案した後、掠れた声で控えめに告げる。

「犯人の英語、オーストラリア訛りだった」
「えっ」

 他の四人が怪訝な表情になる。もちろん俺もだ。犯人は花房に対して英語で暴言を吐いていたが、それが特徴的な発音だったということか。花房自身に留学経験はないが、コラボなどで英語話者と関わる機会が多い。感覚は合っているのだろう。しかし、今までの流れからは予想できなかった着眼点だ。

「この人の留学先、最初は全く分からなかった。自分が勧めたこととはいえ、そんな相手は彼だけじゃないし。でも、発音をよく聞くとオーストラリア訛りがある。たぶん、福岡の風華高校にいたんじゃないかな……」

 その言葉を受け、マリアが傍らの棚から一冊のパンフレットを引き抜いた。アラクネがサポートするのは大学受験だけではない。高校受験について悩む中学生のために、全国の高等学校に関する情報も仕入れている。彼女は風華高校の入学案内をめくり、該当のページを広げた。

「風華高校……確かに姉妹校がオーストラリアにありますね。交換留学生を毎年募集し、互いに送り込んでいます。対象は二年生ですが、その間は休学扱いになるので卒業は一年延びる、とのことです」

 どんぴしゃだ。いや、同じような制度の高校は他にもあるのかもしれないが――だとしても、かなり絞れたのではないか。犯人が入学した大学はあくまで滑り止め、しかもかなり妥協した結果のようなので、地元から離れた立地ではなさそうだ。だが実家から通える距離でもなく、下宿生活をしている。母校は福岡、進学先は長崎という位置関係は妥当に思えた。

 留学をしていたのは三年前。風華高校の規模から計算すると、同学年の参加者は片手に収まる程度だろう。当時の情報を探せば、犯人の特定ができるかもしれない。

「ああ……これはアリだな。アパートの方で裏をとれなければ、こっちからも調べてみるのも手か」

 よく思い出してくれた、と風見が褒める。花房は複雑な表情をしていた。感情が読めないのはいつものことだが、今はあえて嬉しそうな顔をしていない気がする。もしかして、犯人に悪いと思っているのだろうか。マリアたちが強気で特定を進めていく間、心苦しく感じていたのだろうか。

「――あのさ」

 ついに最後まで話を振られなかった蝶野が、つまらなさそうに手をあげた。国語担当なので、無意識のうちに戦力から外されていたのかもしれない。次の行動について相談を始めかけていたメンバーが、一斉にそちらを向く。

「僕も気付いたこと言っていい?」

 彼は動画の中を指し示す。スタンドライトに照らされて、男の横顔とテーブルが白く光っていた。

「犯人の使っているテーブルだけど、折り畳んで持ち運びできるタイプだよね。そこそこ使い込んだ形跡もある。たぶん実家から持って来たんだと思う」

 屋上で撮影しているのだから、テーブルが折り畳み式であることには驚かない。むしろそうでなければ持ち込みようがない。天板には傷やインクの滲みが無数に走っており、何年も使い続けてきたであろうことも分かる。しかし、これが何だと言うのか。

「拡大するね。中央の、いちばん使用頻度が高いはずの場所。ここで書いた文字が、うっすらと天板に残ってる。敷き紙をせずにマジックペンとかを使うとこうなるよね」

 天板の真ん中あたりには、筆記具による汚れや傷が特に多い。食事や娯楽だけに使っていたならこうはならないはずで、ここで勉強をしていたんだな、と察した。努力したことは事実なんだ。それがテーブルの表面に現れている。そう考えると、かつて勤勉な受験生だった青年の末路が残念でならない。

「そうね、文字の痕らしきものが見えるわ。でもそれがどうかしたの? まさか、犯人の名前が記されているとか……」

 蜂須が首を捻る。ここで名前が分かれば大収穫だが、さすがにそれはないだろう。動画の解像度を踏まえると、よほど大きな文字しか読み取ることはできない。それこそ、半紙に墨汁で書いた座右の銘のような――

「克己復礼」

 そんな四字熟語を告げた蝶野の顔は、どこか寂しそうだった。

「私欲に打ち勝って、社会の規範に従った行動をすること。墨で書いて、座右の銘として壁に貼っていたのかな。どこまでも真面目な人なんだろうね、自分を追い詰めてしまうほどに……」

 〈絶対合格〉のような、自分のことだけを考えた目標ではなく。やりたいこと、遊びたい気持ちを我慢してでも社会の規範に従いたかった。勉学に励むこと。親の期待の応えること。社会の役に立つ人間になること。それこそが夢だったのに、一度きりの大舞台で失敗をして……。

 蝶野はふいと視線を逸らす。数式の記された壁を眺めながら、言葉を続けた。

「別にいいよ、通報しても。オフィスの皆を守らなきゃならないし。でも気付いちゃったから。一応、伝えておこうと思って」

 彼はいつから気付き、どんな思いでメンバーの話を聞いていたのだろう。大学生は子供ではない。もう、何もかも自分で責任をとらなければならない。アパートの管理人に犯行が伝わり、部屋まで特定され、そこに警察が令状を持って押し入ることになっても、文句は言えない。それが大人というものなのだから。

 でも、彼はほんの少し前まで高校生だったのだ。アラクネが勉強を教え、相談に乗り、寄り添っていたはずの存在だった。

「……管理人に連絡を入れるのはやめておきましょう」

 長い沈黙の後、蜂須がそう言った。異論はあがらない。彼女は深く溜め息をつくと、振り出しに戻った議論を再び進めるべく、部下たちの顔を見渡した。
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