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Q2・差異の要因を説明せよ
緊急事態
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ついに「勝負」の日がやってきた。
他のスタッフには何も知らせず、会議のふりをして幹部メンバーが集まる。個室のひとつを貸し切っていた。俺も呼ばれたが、特に役目はない。ただ片隅の椅子に座っているだけだ。
久しぶりに顔を合わせた当事者のふたりは、確かにギスギスしているものの、口すら利かないほどではなかった。本人たちはある程度冷静になっていて、ただ周囲のために互いを避けてくれていたのだろう。何かがあったのだと知れ渡った手前、近くにいるだけでも余計な心配を振りまいてしまう。とはいえ、冷静になったからといって和解できるわけではない。それとこれとは別だ。
「あなたがこの申し出を受けるとは思いませんでした」
小さな部屋の中、居残り生徒のように並んで座るふたり。一メートルほど離れた隣の席に向かって、マリアが声を掛ける。机にひと通りの筆記具を揃えていた風見は、ちらりと振り向いて言った。
「蝶野は相変わらず突拍子もないことを言うな、と思ったが……まあ、やって損はないだろう。トウキ大の過去問から出題するらしいし、この結果ではっきりするんじゃないか?」
「どちらが本当に『頑張っていた』か、ですか?」
「その言い方だとまるで子供だな。とにかく、俺は負けない。実際に受験して合格したんだ。赤本だって擦り切れるほど使い倒したよ」
擦り切れるほど。その言葉を聞いて、俺はマリアのクリアファイルを思い出した。あの中に入っていた手書きの問題用紙は、今にも崩壊しそうなほどに使い込まれた様相を呈していた。しかし赤本の厚みにはとうてい届かない。図書館で借りた参考書は丁寧に扱わなければならないし、返してしまうと二度と復習できない可能性がある。彼女は、同じ問題を覚えるまで何度も解くという手段もとれなかったのだ。
そういった違いのひとつひとつが、彼女の根深い劣等感と敵対心を、着実に深めていったのだろう。
「そろそろ始めるよ」
蝶野の言葉と共に、問題用紙が配られる。見た目は普通の試験のようだ。入試本番と同じくらいの分量と制限時間。教壇にあたる位置には蜂須が座っていて、ふたりの様子を見守っている。準備が整ったのを確かめると、彼女の宣言で解答時間がスタートした。
試験前おなじみのアナウンスまでは再現されず。しかし空気は本番そのものだ。だからこそ、解いているのが成人男女であることに違和感を覚える。これから二時間、眺めていることしかできないのか……と考えたとき、蝶野がそっと近づいてきて俺に冊子を渡した。問題用紙だ。おそらく、ふたりが解いているものと同じ。一緒に解きながら待っていろってか。無理に決まっている。
しかし退屈には耐え切れず、おずおずと冊子を開いた。数学の大問が五つ並んでいる。マークシートではなく記述式。途中式も点数に含まれるタイプ。トウキ大の赤本から一字一句変えずに引用すると話していたから、過去のどこかで実際に出題されたものだということだ。当時の受験生は何を考えながらこれを解いたのだろう。少しだけ挑戦してみようと思って鉛筆を手にしたが、小問をひとつずつ齧ったあたりでギブアップしてしまった。ここはまだ導入だ。この部分の配点なんて、雀の涙みたいなものに違いない。
とはいえ、難関大学の試験は眺めているだけでも面白いということに気付けた。解き方はさっぱり分からないものの、きっと鮮やかな解答があるのだろうなと推測できる。前提条件が美しく、ここから導き出せるものに思いを馳せたくなる。そうだ、本来試験は敵ではない。勉強は学生を苦しめるためのものではない。上手く使いこなせるようになったなら、どこへでも行ける翼になるはずのものだ。
気付けば、二時間近くがすぐに過ぎていて。終了十分前のアナウンスが聞こえ、彼らは最後の確認に入る。その様子があまりに対照的で俺は驚いた。もはや解答ではなく鑑賞でもするかのように、しみじみと問題を眺めている風見。一方のマリアは、まだ解けていない問題があるのか、焦った表情で鉛筆を走らせている。この時点で勝敗は明らかだ。だが当人たちは隣の席へ視線を向けることもなく、互いの様子も知らないままでいる。
「終了。筆記具を置いて答案を裏返してください」
蜂須がそう告げた。蝶野が席を回って答案用紙を集めてくるが、自身では採点ができないので全て蜂須に渡した。過去問そのままとはいえ、部分点の塩梅などが分からないのだろう。彼女がこちらに背を向けて採点を始めた後、風見が蝶野を呼び止めて言った。
「コラ! 蝶野!」
口では叱っているが、顔は笑っている。今の試験にふざけた部分でもあったのか。同じものを見ていたはずの俺にはさっぱり分からないが……。
「お前、作問サボっただろ。全部同じ年度、同じ学部の問題じゃないか。俺が受けた理工学部の試験そのまんま。せめてあちこちから選んでこいよな」
なるほど。問題自体に瑕疵はないが、選び方が雑だったのか。というより選んですらいない。よりにもよって彼の受験した年の試験をそのまま持ってきた。そりゃあ余裕で解けるだろうし、後半は鑑賞タイムにもなる。
ん? あれ……? ということは。
「まさかふたりとも満点を出せるような問題にして、引き分けからの和解に持っていこうとしてたのか? まったく、回りくどいことを。まあ、お前がそこまで考えているのなら、そろそろ俺たちも……」
そこで風見の言葉が止まった。隣にいるマリアの様子に気付く。一メートルしか離れていない場所にいながら、試験中は壁の向こうにいるかのような関係だった。絶対に隣の席は見ない、その習慣が染み付いている。俯瞰している俺たちからすれば明らかな異変でも、彼には今の今まで把握できなかったのだ。
長い髪を垂らして俯き、机の一点を見詰めているマリアがそこにいた。膝の上の両手が固く握られている。爪で手のひらが傷ついてしまいそうだ。
「どうした……? まさか、解けなかったのか?」
視線は返ってこない。風見の方も、煽る気持ちなどないはずだ。本来、トウキ大の入試問題なんて全問正解する方がおかしい。数回解き直したくらいでは習得できない難易度だろう。だが、このふたりだけは特別で。風見にとっては自分の試験。マリアにとっては、兄が合格を果たした年の試験。ぼろぼろになった手書きの問題用紙を思い出す。あり得ない。あのマリアが、満点を逃すなんて。しかも今の時点で自覚しているということは、ケアレスミスなどではない。
「確かにあの年の数学は難問ばかりで、ゼロ完合格者が続出するほどだった。でもお前は、ほとんど満点がとれたかのような口ぶりだったじゃないか。会場では解いていないが、模範解答から問題を抜粋して解いてみた、ボーダーは知らないが合格できていたはずの点数だった、と言っていたよな?」
ああ、駄目だ。それを言ってはいけない。風見はただ驚いて、事実の確認をしているだけだとは思うが。マリアが髪の内側で首を振る。子供が駄々をこねるみたいに。これ以上何かが起きれば、彼女は壊れてしまう。部屋の隅にいた花房が、無言のまま辛そうに顔をそむけるのが見えた。
「採点が終わったわ」
蜂須の声によって、淀んだ空気が動き始める。風見は手を伸ばし、彼女から答案用紙を受け取った。
「あなたは満点です。まあ、蝶野が雑な仕事をしたものだから……」
「まったくだ。最初からこうと分かっていたら、色んな年代の赤本を集める必要もなかったのにな」
自分が受けた年の問題なんて、今さら復習するまでもないという宣言。呆れ顔で言葉を交わした後、蜂須はマリアの前に立った。席についたままの彼女は、脅えるような目つきで見上げている。
「あなたもよく頑張ったわよ。大問五の最終問題だけが不正解ね。これは当時も物議をかもしたほどの難問だったから、無理もないかと……」
「違う!」
鋭い声が遮る。蜂須の手元から答案用紙がひったくられた。突然のことに俺たちは驚き、息をのむ音が重なる。
「違う、違うの蜂須さん……。こんなはずじゃなかったの。私、何度も解き直したのよ。初めて解いたとき、確かにこの問題は分からなかった。ほとんど満点だったけれど、ここだけは駄目だった。でも、すぐに解答を見て覚えたわ。だから絶対に間違えるなんてことは……」
もはや体裁を捨てて泣きつく。いや、涙は流していない。その余裕もないほど、何かに取り憑かれてしまっている。負けた方がクビになる、という勝負でもないのだから、ここまで焦る必要もないはずだ。何が起きたのか分からない。とはいえ、その言葉を冷静に読み取ってみれば、ずいぶんと傲慢なことを話しているのも事実で。
「落ち着けよ、マリア」
風見の声にわずかな苛立ちを感じた。無理もない。彼自身は引き分けを予想していたが、結果的に勝利した立場だ。それなのに負けた側が往生際悪く駄々をこねていれば、違和感も覚えるだろう。
「蝶野の提案を承諾したのはお前が先だろう? だから俺も断るのはどうかと思って乗ることにしたんだ。それを今さら、思い通りにならなかったからといって反故にするなんて大人げないぞ」
そんな正論にも返事はなかった。これでは埒が明かない、と全員が感じたことだろう。もはや勝負も和解も関係ない。マリアを正気に戻さなければ。蜂須が心配そうに顔を覗き込み、花房が肩に触れて落ち着かせようとし、風見が事態の深刻さを察したとき、蝶野だけは少し離れた場所で他人事のように立っていた。
(何をしているんだろう)
そもそも彼が妙な提案をしたからこうなったのだ。いくら決着をつけたいといっても、試験の点数で争うなんてめちゃくちゃだ。マリアも風見も自信満々だったが、人間なのだからミスをする可能性はある。一度の失敗でその人の価値が決まるわけではないし、意見が通らなくなるのはおかしい。何もかも間違いだったのだ。マリアの誤答が何に起因するものなのかは分からないが、いくらでも取り返しはつくということを伝えなければ。俺も彼女のところへ行って声を掛けようとした。
――そのとき。
「すみません、ちょっといいですか」
強めのノックの音と共に、部屋の扉が開けられた。ひとりの女性スタッフが焦った顔で覗き込んでいる。片手を差し出し、マリアを呼び寄せる仕草をした。
「翠嶺高校の雪村さんという女の子から、マリアさん宛に電話が入っているんです。詳細は分かりませんが、緊急事態みたいで……」
雪村さん? 初めて聞く名前だ。心当たりがない。そもそもアラクネが女子高生と直接連絡を取り合う機会なんてないはずだ。マリアの知り合いかと思ったが、それなら高校名から告げる必要もないだろう。
「投函された問題集が親に見つかってしまった、みたいな話をされたのですが、私には詳細が分からなくて。スマホの履歴も確認されて、そのまま取り上げられてしまった、とのことです。この電話は公衆電話から掛けられています。ひどくショックを受けている様子だったので、すぐに繋いだ方がいいかと思って……」
ガタン、と音がした。報告が終わるのを待たず、マリアが立ち上がったのだ。勢いのついた椅子が慣性のままに倒れ込む。それを一瞥することもなく、足音が部屋を飛び出していった。
「待って!」
蜂須が追いかける。呆気にとられる女性スタッフの脇を通り抜け、俺たちも後に続いた。デスクの並ぶ事務所へ着くと、マリアが最も近い位置の受話器を取るところだった。
「大丈夫!? 今はどこ?」
明らかに初めての相手ではない口ぶりで。もはや試験の結果は気にかけておらず、通話相手の「雪村さん」だけを案じている。しかし錯乱していることには変わりなかった。その対象が変わっただけ。周囲を取り巻く俺たちには目もくれずに、必死になって電話口へ声をぶつけていた。
「まだ自宅へ帰っては駄目よ。借りている本も、ノートも筆記具も、全部取り上げられてしまうかもしれないわ。学校に信頼できる先生はいる? 一度でも親御さんの肩を持った人は信じないで。図書室の先生でも、保健室の先生でもいいから。事情を説明して、奪われたくないものを預かってもらって。ああ、私がそちらに行けたらいいのに……!」
それから数分間、彼女は弾幕のように話し続けた。まるで戦争だ。いや、彼女らにとっては本当に戦争なのだろう。相手の声は聞こえないが、断片的な言葉だけでもある程度の事情が読み取れた。
親に勉強を禁止された少女が、それでも目を盗んで学ぼうとしている。図書室で参考書を借り、先生に相談しては裏切られ、居場所と時間を求めてさまよっている。そんなささやかな抵抗も、ついに親からとどめを刺されて――
「マリア」
通話が終わったとき、間髪入れずに蜂須が呼んだ。マリアは受話器を置くと、虚ろな顔でゆっくりと振り返る。美人が真顔になると怖い、何度かそう感じる機会はあったが、それが吹き飛ぶほどの気味悪さだ。やるべきことはやった、しかしその先のことは考えていない。自分は今からどうなってしまうのだろう――そんな、絶望がありありと浮かんだ表情だった。
「あなた、相談者の少女と個人的に連絡を取り合っていたのね」
蜂須の唇が動き、マリアの罪を糾弾した。これは、アラクネにおいて絶対的な禁忌だったはずだ。過去に何かが起きた結果、質問に対する回答は一度きりだと決められた。その後のことがどれほど気になっても、継続して話を聞くことはできない。ルールを破るということは、アラクネに対する裏切り行為に他ならなくて。
もちろん、彼女に回答を任せた蜂須のことも裏切っていて。
「どのようにコンタクトをとったのかは分かりませんが、メールか何かでやり取りをしていたのね。それを親御さんに知られて、スマホを取り上げられて、公衆電話を使うしかなくなった、と……。まさかこんなことになるとは知らずに」
こんなこと。つまり、マリアが崖っぷちに立たされるということ。雪村という少女は知らなかったはずだ。自分の相談相手が、危ない橋を渡っているなんて。優しくて優秀なアラクネの講師が、自分のために連絡先を教えてくれた。そんな喜びと信頼に包まれていたことだろう。
震える声で返された弁明は、誰にでも想像がつく内容だった。
「わ、私……あの子のことがどうしても見捨てられなくて……」
そう、それは分かっている。マリア以外の幹部たちだって、隣で聞いていただけの俺だって。継続して話を聞きたいという気持ちは嫌というほど持ち合わせていた。それでも駄目だというのがルールだ。だからこそ蜂須は糾弾している。あなたの優しさに免じて、で済まないことは明らかだった。
「そんな理由では、酌量なんてできないわ」
残念そうに蜂須は首を振った。
「連絡先を交換したことまでは、百歩譲って許したとしましょう。でもあなた、雪村さんの住所まで聞き出しているわね? それを使って、勉強に役立つ問題集を郵送した……。郵便物を回収するのは自分の役目なので大丈夫、とでも言われたのでしょうけど、物事に絶対なんて無いわ。たまたま親御さんに見つかって、全てのことが知られてしまった――というところかしら」
そしてスマホの履歴も確認され、マリアに頼れないように没収、と。最悪の展開になってしまった。両親の怒りを買った少女は、これからどうすればいいのだろう。迂闊に帰宅すれば本もノートも捨てられてしまう。帰ったが最後、学校にすら行かせてもらえないかもしれない。
「でも! だったら私、どうすれば……。あの子が将来を断たれるところ、黙って見ていることなんて……」
「仕方がないことなのよ。私たちは学校の職員でもなければ塾の運営をしているわけでもない。リスナーの方々からはお金をいただいていないの」
「私だって、リスナーさんのことが大切なのに……」
「よく考えてちょうだい。金銭的な対価も発生しないのに、親を挟まずに未成年の個人情報を知りたがる大人がまともなわけがないでしょう」
ふたりのやり取りを聞きながら、確かにそうだと考える。アラクネはインターネット上で活動している組織で、いわゆる「顔も見えない相手」だ。演者として顔出しはしているものの、それは世間に向けた編集済みの姿であって。対面して相談に乗ることを生業にしているわけではない。裏側にいる多数の人間のことも、相手は知ることができない。
過去にアラクネで起きた「何か」は、こういったことに基因するトラブルだったのだろうか。とにかく、マリアのやったことは悪手だった。翠嶺高校という名前は初めて聞いたが、きっと遠方にあるのだろう。少女に問題集を届けるためには郵送するしかなく、つい住所を聞き出してしまったようだが、それが徹底的にマリアを突き落とす結果となった。
「私……どうすれば……」
電話機の前でマリアは呆然と呟く。少し離れた場所で蜂須が対峙し、俺たちは後ろに控えるような形だ。彼女を助けたいという気持ちはあるのに、その隣に駆け寄ることができない。凍り付いた空気に両足が固まり、一歩も動き出せなかった。
マリアの視線が俺たちを撫でる。怯えた目つきで、ひとりずつ縋るように。中央にいる蜂須。その傍らの花房。壁際で立ち尽くしている俺。はじめは何も分からなかったものの、話を聞くうちに状況を飲み込めてきたスタッフたち。最後に残ったふたりの同僚へ目を向けたとき、彼女は引きつったように小さく息を吸った。
蝶野が隣に立つ風見に耳打ちをしたのだ。高身長の彼に合わせ、少し伸び上がるようにして唇を寄せる。その動きは手のひらに隠されていて分からない。絵に描いたような内緒話。こんな状況で陰口など叩くはずもないが、マリアにとっては疎外感にとどめを刺す行為だったろう。
「あ……私、もうここには……」
ゆっくりと崩れ落ち、床に膝をつく。私、もうここにはいられないの? 最後までは紡がれなかった言葉だが、この場にいる全員に伝わったはずだ。もちろん、彼女を失いたくはない。許されるのなら、全てを無かったことにしたい。しかし、許すかどうかを決めるのは社長の蜂須であり……ひいては、多くのスタッフに事情を知られた上でひとりの幹部だけを贔屓できるのかという、「立場」と「状況」に従わざるを得ない部分もあって。
駄目だ。これは本当に最悪だ。マリアの能力なら、アラクネを辞めることになってもいくらでも行き先はあるだろう。学習塾で働いていた頃と違い、今の彼女には経歴がある。講師としての実績は知れ渡っている。しかし彼女自身が「落ちぶれた」と感じている以上、ここから這い上がることがどれほど難しいか。かつて勤めていた塾でもルールを破り、はじき出されそうになっていた。それを救ってくれた蜂須に対し、絶対の忠誠を誓っていたはずなのに。
また、彼女は居場所を失ってしまうのか。
「待ってくれ」
そこへ、割って入る声があった。振り返ると、風見がマリアの方へ向かって歩み寄るところだった。傍観者の立ち位置から抜け出し、彼女の隣へと。同じように並んで蜂須の姿を前にする。
「マリアは雪村さんの住所なんて聞き出していない。それどころか、誰も連絡先なんて交換していない。規則通り、一度きりの回答をしただけだ。問題集を届けようとしたのは、マリアじゃなくて俺なんだよ」
「何を、言い出すの……?」
蜂須の問い掛けは全員の総意でもあった。同僚を庇うための嘘に決まっている。そんな事情があったのなら、もっと早くに進言しているはず。ぽかんとしたマリアの様子からも、風見を巻き込んでいないことは明らかだ。しかし彼は引き下がらず、強引にハッタリを続けた。
「最初に対応したのがマリアだったんで、雪村さんは彼女が届けてくれたのだと思い込んだみたいだが。問題集を届けたのは俺だ。俺が勝手にやった。マリアから相談を受けて、俺にもできることはないかと先走ってしまって……」
だとすれば、電話口での取り乱しようは何だったのだ。簡単に瓦解する証言だが、それを指摘するほど野暮な者はいない。しかし蜂須だけは、最低限のことだけでも確かめなければならない立場にいた。子供の言い訳を聞く親でもないのだから、流せることと流せないことがある。
「では、あなたが雪村さんの住所を聞き出したというのですか?」
「それも違う。以前、出張で翠嶺高校の近くまで行く機会があったんだ。この際だからと学校に訪れてみた。雪村さんの顔なんて知らないから会えるはずもないが、あそこは一学年の人数が少ない。通りすがりの生徒に頼めば、彼女に問題集を届けてもらえるかと思った」
あくまで住所は知らない、と強調する。いくら風見とて、その罪まで肩代わりするわけにはいかないのだろう。女性のマリアならともかく、風見が少女の住所を聞き出したとなれば、いよいよ蜂須も擁護できなくなるだろうから。ギリギリのところを切り抜けようとしている。
同僚の罪をかぶりつつ、社長の心労も最小限にしたい。そんな葛藤の感じられる言い回しだった。
「その問題集が投函されていたのは何故です? 彼女本人に渡っていたのなら、親御さんに見つかることもなかったはず……」
「ああ、それは……託した相手が、彼女の近隣に住んでいる友人だったんだろうな。帰宅の道すがら、家に寄ってポストに放り込んでしまったようだ。俺としては教室で渡してくれることを想定していたんだが。学校を休んだクラスメイトの家にプリントを届けるだとか、そういう経験がないものだから失念していた」
私立学校で育った風見は、近所に学友がいなかった。放課後に連れ立って遊ぶこともなく、クラスメイトの家にプリントを届けるという文化にも馴染みがない。それが盲点だったと主張している。投函される可能性に気付いていれば、教室で渡してくれと釘を刺すことができたはずだ。マリアだったらこんなヘマなどしない――
「……そう」
やがて、緊迫した面持ちで蜂須は首を振った。全てが嘘だと分かっていても、許す建前を作るための材料が欲しい。そのピースをひとつずつ集め、ついに最後のひとつに手に掛けようとしている。どうかこのまま乗り切ってほしい。そんな祈りのようなものがにじみ出ている表情だった。
「あとはこれだけ確かめさせてください。翠嶺高校に訪れた、あなたはそう言いましたね? どうして高校が分かったのですか? 雪村という名前はメールフォームにあったとしても、在籍高校までは記されていなかったはずです」
「それは……」
言葉に詰まる風見を目の当たりにしながら、俺も途方に暮れてしまった。隣で会議を聞いていたので分かるが、蜂須は毎回、相談内容の全てを読み上げている。省くとすれば投稿者の氏名くらいだ。親に勉強を禁止されて進学を諦めかけている、そんな相談のどこにも学校の名前は記されていなかった。アラクネの方からも、そういった個人情報を載せてはいけないと周知している。
個人的なやり取りをしていないのなら、知る機会なんてない。だが、学校に行ったと告げた以上、知った理由を答えなければならない。アラクネのスタッフであれば誰でも、メールフォームのメッセージを読むことができる。相談の文面だけでは高校を特定できない、という事実は大勢が把握しているはずだ。
この期に及んで「書いてあったじゃないか」ではごまかせない。
風見への厳重注意で済むか、未成年への一線を越えた接触として処分を下すか。その瀬戸際に置かれているものの、打開策が浮かびそうになかった。やはり「連絡先を交換した」と認めるしか……。
そう覚悟したとき。風見でもマリアでもない、第三者の声が割り込んできた。
「え? るりちゃん、気付いていなかったの?」
蜂須の後ろから蝶野がひょっこりと顔を出し、とぼけたような声色で尋ねる。何のことだ、という疑問符を浴びながら彼は続けた。
「最初の相談文を読めば分かるよ、雪村さんの通う学校」
読めば分かる、と言いつつも、その文面を確かめるための時間は用意してくれなかった。全員の疑問は消えないままだ。
「〝論文の授業〟や〝フリー学習〟を使って勉強を進めている――って書いてあったよね。珍しい呼び方だと思わなかった? 翠嶺高校には論文の授業があるんだよ。参考文献の選び方とか、論の立て方を教えてもらえるの。題材は自由に選べるから、何とかこじつけて受験勉強の時間にあてていたんだろうね。あと、いわゆる自習のことをフリー学習って呼ぶんだよ」
唐突にそんなことを言われても、即座には思い出せない。しかし、彼が言うのならそうだったのだろう。放課後に居残ることすら許されない彼女が、どうにかして勉強時間を確保しようと生み出した策だ。本来の講義も大事だから、内職をするわけにもいかない。
そこで目を付けたのが、「論文」という特殊な授業と自習の時間だったのか。
高校生にとっては、自分の通う学校こそが自分の常識だ。特定されかねない情報を書いてしまったことには気付いていないのだろう。俺たちの方も、講義の名称は本筋ではないため、引っ掛かることなく聞き流していた。ただ蝶野だけが聞き慣れない単語に反応し、遠方の小さな高校を思い浮かべたのだ。
いったい何者なんだ、この人は。
あらゆる高校について知り尽くしているマニアだったりするのか? いつも雲を掴むような態度で、適度に不真面目で、目の前で事件が起きても焦る様子を見せない。それでいて本当に崩壊しそうになったときは、どこからともなく助け船を出す。その船は波をかき分けてまっすぐ風見の元へと向かい、彼を見事に救った。
「……そうだ、最初の相談文から分かるじゃないか」
予想だにしない方向からのパスに、風見の声が震えている。しかし決して無駄にすることはなく、蜂須に向き合って再度告げた。
「論文の授業がある。そして自習をフリー学習と呼ぶこと。このふたつが揃った高校は他に存在しない。だから翠嶺高校で間違いないと考えた」
「……そうだったのですね」
蜂須は頷く。今度こそ、追及は終わりだと示すように。細く糸を紡ぐかのごとく溜め息が聞こえる。それが誰の口から発せられたものなのか、俺には分からなかった。ふたりは互いに歩み寄り、この問答への終止符を打った。
「学校へ直接出向くことも、大概ですからね。こんなことは二度とないようにお願いしますよ」
「分かっている。不審者情報に載りかねないことをしてしまった」
もちろん、そんな事実はないのだから載るはずもない。ただ建前だけの会話を交わし、蜂須は踵を返して廊下の奥へ消えた。自分がこの場にいない方が話しやすいと考えたのだろう。取り巻いていた俺たちも、次第に輪を崩していく。そんな中、動き出せない者がふたり。風見とマリア。助けた者と助けられた者。事務所の片隅で、ふたりはしばらく対峙していた。
「……ありがとうございます」
試験対決をする前の、刺々しい空気はどこにもない。言葉に乗せきれないほどの感情を込めた声色だった。
「私、もう許してもらえないと思っていました。蜂須さんにも、風見さんにも……」
「まあ、俺もお前を誤解していた部分があったよ」
風見はそう返し、ちらりと蝶野の方を見る。
そういえば、あの耳打ちの内容は何だったのだろう。錯乱するマリアを前に立ち尽くし、ただ遠巻きに見ることしかできなかった風見が、蝶野の耳打ちによって一転援護に出た。それでいて、何か具体的な案を囁かれたわけではなく、彼自身が必死になって打開策を考えたように思える。
しかしその答えを得られることはなく、視線はマリアの方へと戻された。
「努力して生きてきたんだよ、お前も俺も。どちらが正しいだとか、頑張っているだとかの話じゃないんだ。今の俺たちがやるべきことは、自分の過去に執着することじゃないだろう」
「そうですね」
マリアも風見も、今はアラクネの一員として同じ立場にいる。自身の過去は変えられなくても、未来ある子供たちの手助けをすることはできる。彼らは生き抜いた。生きているから今がある。
「本当は、意欲があるなら誰でも進学を目指せる社会でなければならないんです。兄のために私が犠牲になった、兄に全てを奪われた……その認識自体が間違っていました。恨むなんておかしい。申し訳なかったと、今ではそう思うことができます」
「まあ、具体的に恨みをぶつけたわけじゃないのなら、お前は何も悪くない。考え方を変えればいいだけだ。俺が言えた立場ではないが……」
「いえ、ありがたい助言です。風見さんに対しても、これからは態度を改めますね」
「何だよ、かしこまって! 俺は鈍感だから、今までだって素直な同僚だと思っていたよ。何も変わらないさ」
そこで会話が途切れる。どちらからともなく、穏やかな笑みが漏れた。ふたりが真の意味で和解したことを、誰もが感じ取ったことだろう。
「蝶野も、ありがとな」
今回の功績者に向かって風見は告げた。この場から立ち去ろうとしていた蝶野はくるりと振り返り、無邪気な笑顔を見せる。そして、自身の行動や掛けられた言葉とは全くかみ合わない返答をした。
「何のことぉ?」
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「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
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