Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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問四・このときの感情を答えよ

接触開始

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   *

〈こんにちは。俺は鳥辺野といいます。アラクネで動画編集をしています〉

 チャットルームに一行の文章が流れる。説明とテストを経て、はじめて俺から相談者へと発信される内容だ。

〈動画には出演していませんが、裏で運営に関わっています。あなたの悩みについて詳細を聞かせてください。よろしくお願いします〉

 最初なので隣には蜂須がついている。彼女の執務室で、ふたり並んでパソコンの画面を覗いていた。個室は他にもあるのだが、スタッフが会議に使っていたためこちらへ通されたのだ。蜂須との付き合いもそれなりに長い。いわば社長室でふたりきり、という状況でも緊張しなくなった。

 むしろ俺の緊張は、画面越しの相談者に向かっていた。そわそわしながら返信を待つ。高校二年生の男子、という情報しか知らない相手だ。チャットを送る時間帯はあらかじめ伝えているので、あちらも画面の前にいるはずだった。

 学生からの相談は匿名でメールフォームに送られる。その中からどうやって個人を特定するのか不思議だったが、どうやら通し番号のようなもので管理されているらしい。だからマリアも雪村と接触を図れたのか。相談者とアラクネの間だけで共有している番号を入力すれば、専用のチャットルームに入室することができた。

「相談を受け付け始めた頃は、こうやってやり取りしていたのよね」

 蜂須が呟く。それをやめたのはいつ頃なのだろう、と気になったが、口には出さなかった。かつてアラクネで起きたという事件がきっかけであるはずだから。一度だけ言及されたものの、原則として誰も触れない。ならば俺も詮索しないでおこう。その頃のメンバーはどこまで揃っていたのか、担当したのは誰だったのか。気にならないといえば嘘になるが。

 やがて、相手のメッセージがぽつんと返ってきた。

〈こちらこそよろしくお願いします。まさか継続して相談に乗ってくださるとは思いませんでした。ありがとうございます〉

 よく事情を把握してくれている。あくまでこれは特例なのだと分かっているなら話が早い。蜂須の指示に従っていくつかの注意事項を伝えた。

 このやり取りは他のメンバーにも見られているということ。自分の名前は明かさないでほしいこと。通っている高校などの個人情報も、どうしても必要になるときまで明かさないでほしい。チャットの内容を人に見せるのは構わないが、インターネットへの転載は禁止。今回は特殊なケースとして対応しているため、問題が起きればやり取りを終える可能性があるということ……。

 箇条書きで俺が入力している間、相手のアイコンがゆっくりと点滅していた。オンラインで待機している証だ。ドットと半円を組み合わせただけの、シンプルなピクトグラムの上半身が描かれている。初期アイコンかと思ったが色が違う。選択できるカラーの中に、これほど鮮やかなエメラルドグリーンは無かったはず。

 まあ、アイコンなんてどうでもいいか。俺の方は、羽ばたく鳥のシルエットを円の中央に収めたものだった。鳥辺野だから鳥の画像だ。幹部メンバーなら宣材写真を使うのだろうが、俺が顔出ししても相手は喜ばないだろう。裏で運営に関わっている、なんて偉そうな自己紹介をしたが、ただ動画編集をしているだけだ。念のため、こちらも男性であるということも伝えておいた。

 入力を終えてしばらく待っていると、相手から返事が届く。タイピングに慣れているのか、やり取りはスムーズだ。

〈僕は、何と名乗れば良いのでしょう〉

 そうか、それを決めなければ、と思い至る。本名を明かしてはいけないことになっているのだから、現在は仮名のはずだ。アイコンに添えられた字列を見れば、英数字の入り混じった暗号的なものになっていた。初期設定のまま入室したのか。

〈個人が特定できないものなら何でも構いません〉
〈それじゃあ……〉

 少しの間があいた後、相手の名前が変更された。意味を成さなかった文字列が、途端に人間味を帯びたものになる。

〈ミズキ、でお願いします〉

 本名……じゃないよな? まさかこの流れで馬鹿正直に名乗るわけがない。普段から使っているハンドルネームなのだろうか。

〈分かりました。ミズキさんと呼びますね。ミズキさん、現時点で何か質問はありますか?〉

 まだ何もないだろうと思いつつ、定型文として問い掛ける。実際にやってみなければ疑問も不都合も出てこないものだ。案の定、相手からは〈いいえ〉という文字が返ってきた。

〈いいえ、質問はありません。でも〉

 そこで文章が途切れる。半端なところで送信ボタンを押してしまったのか。呼吸するかのように点滅するアイコンを眺めながら、続きが送られてくるのを待った。

〈僕のことは呼び捨てで構いませんし、敬語も使わないでほしいです。こっちはただの高校生ですから。気を遣わないでください〉

 それはありがたい提案だった。少々謙虚すぎる気もするが。俺はかしこまった言葉遣いが苦手だし、高校生相手にどこまで距離を詰めていいのか迷っていたのだ。下手な接し方をしてアラクネ全体の評価を落とされては困る。こうやって相手からお願いしてもらえるのは、渡りに船だった。

〈ありがとう。では、ミズキと呼ぶよ。ミズキは美大に進学したとして、将来何かやりたいことがあるの?〉
〈具体的な職業としては決まっていません。ただ、絵を描きたいんです。きちんと技術を学びたいし、同じくらい熱中している人たちに囲まれて作品を作りたい〉

 なるほど。絵を描きたいということは、日本画か油絵専攻ということになるのか。基本的にどこの美大でも学べることだ。就職に生かしたいわけではない、というのを本気度のマイナスとして見るかは微妙なところだ。将来は一般職に就いたとしても、本気で芸術に取り組んできた人は多くいる。ただ、親としては、その道に進むつもりがないのなら美大なんて意味がないと考えるだろう。

〈ちなみに、美大を選択肢から外すとすれば、どの大学が志望校になるの?〉

 高校を聞き出すのは良くないが、志望校は訊いてもいいはずだ。ミズキはしばらく沈黙していたが、数分後に答えが返ってきた。

〈頑張ればメイカ大を目指せるとは言われています。順当に行けばハンノ大くらいでしょうか〉

 おお、けっこう偏差値が高い。そりゃあ親御さんも諦めたくないだろうなぁ。ハンノ大「くらい」ということは、やはり偏差値だけで選んでいるのだ。模試の成績に合わせて志望校を変え、そこで学べることや環境については一切考慮しない。ただ自分に貼りつける箔として進学するだけ。そんなつもりだとしたらもったいないし、興味のあることを学べる大学へ進んだ方がいいが……。

〈浪人は考えていないよね?〉

 念のため尋ねた。ただでさえ親に反対されている状況だ。ストレートで合格できなければ、立場的にも経済的にも再チャレンジは難しい。ミズキからの返事は予想通りのものだった。

〈はい。僕としては何年かかっても諦めたくないのですが、さすがに家族が許してくれないかと。まあ、現時点でも許されてはいませんが〉

 ならば理想だけでは語れない。実力を厳しくジャッジして、一発で合格できるかどうかも見極めなければ。俺としても、彼の夢を叶えたい気持ちはある。しかし受験には費用がかかるものだし、浪人を挟めばそれだけ就職も遅れる。諦めないことが正しい、とは言い切れない。

 俺の手元には数冊のパンフレットや過去問題集があった。全て有名な美大・芸大に関するものだ。数年前のものならば俺も持っているが、最新版を会社が用意してくれた。それらをぱらぱらと捲りながら、まずはどんな課題を試してみようか、などと考えてみる。

 すると、唐突に蜂須が口を挟んできた。

「鳥辺野くん、これはあくまでアドバイスなのだけれど」

 先ほどまで石像のように黙りこくっていたので驚いてしまった。何も返事できないまま、続きの言葉に耳を傾ける。

「クリエイティブな道に進みたい、という相談を受けたときは、その時点での練習や成果を見せてもらうのが良いわ。課題を出すよりも先にね」
「そうなんですか」

 今まさに、美大の過去問を出してみようと思っていたのだが。こういったことは後でいいのか。今の実力ではなく、これまでの成果を見る。相談をするにあたり、どこまで行動したのかを知る。確かに大切なことだ。

「たまにいるのよ。専門学校に入って特殊な職業を目指したいという夢があるのに、まだひとつも行動していない人が……」

 彼女は困ったように眉根をひそめる。それは頭が痛いだろうな。俺には理解できない話だが、技術を習得するまで何も作らない人がいると聞いたことがある。絵を描きたいと言いつつ、技法を習うまでは一枚も描いてみない。ゲームを作りたいが、簡単なものすら挑戦したことがない……。

 ミズキがそんなタイプだとは思いたくはないが、確認しておく必要はあるだろう。俺はキーボードに指を走らせた。

〈もし、描き溜めてあるデッサンや作品があれば見せてくれない? スキャナに通してくれるとありがたいけれど、それが無理ならスマホの写真でもいいから〉

 ものがものだけに、可能な限り実物に近い状態で見たい。だがそれは贅沢というものだ。今どきの高校生はパソコンすら持たないと聞くし、自宅にスキャナがあるという望みは薄い。学校で使わせてもらうのも難しいだろう。スマホで撮影した数枚の画像が手に入れば御の字か、と考えていた。

 しかし、返ってきた言葉は意外な内容で。

〈分かりました。スケッチブックで五冊分くらいになるので、少しお時間をいただけますか。僕としても綺麗な状態で見ていただきたいので、全部スキャンします〉

 思ったよりも多い。慌てて「抜粋でもいいよ」と返したものの、全て送られてくる予感があった。彼の方も乗り気なのだろう。早く自分の作品を見せたい、という気概を文面から感じる。

「意欲としては十分かもしれません」

 作業に時間が掛かるので、今日のところはやり取りを終えることにした。チャットルームを退室した後、隣にいる蜂須に話しかける。

「スケッチブック五冊分ですって。内容にもよりますが、ここまで本気の子を諦めさせたくはないですね。問題は親御さんの説得ですが……」
「やっぱり」

 蜂須が噛み合わない返答をしてきたので、首を傾げる。何が「やっぱり」なのだろう。ミズキとの本格的な接触はこれが初めてだし、人となりを予想することは不可能だと思うが。
彼女はすぐに笑顔を取り繕うと、言葉を改めた。

「いえ、何でもないわ。五冊分というのは私も驚きよ。良い方向に話が進むことを願っています」

 当たり障りのない返答をされたような気がする。どうにも違和感があった。そもそも、急にチャットルームが復活したということにも納得がいっていない。いくら特例とはいえ、相談者との個人的な接触をあれほど避けていたのに。しかも、担当するのは幹部メンバーではなくアルバイトの俺なのだ。

「こういった相談って、けっこうあるんですか?」

 気になっていたことを尋ねる。アラクネは学習支援が本業であり、そのメインターゲットは受験を控えた中高生だ。普通の大学に進みたくない、クリエイティブな道に進みたいという相談は多いだろうなと思った。

 それなのに、議題に上がったのはミズキの件が初めてだ。

「ええ、そうね。たまに来るわ。アラクネが教えられるのは主要五科目だけだから、特殊な内容には対応できないと伝えてはいるのだけれど……」

 そういえば、メールフォームの注意事項にもそんな文面があったかな。専門学校の受験に関しては相談に乗れません、って。ちゃんと読んでいる人は少ないかもしれないが。

 議題に上がることがなかったのは、あらかじめ弾いていたからか。どうして彼の場合だけは対応したのだろう。わざわざチャットルームを復活させてまで。

 もしかして、ミズキのことを前から知っている?

 ちらりと過る想像があったが、それを蜂須に突き付けるには時期尚早だと思った。下手な言動をして担当を外されては困る。何か裏があるとしても、チャット相手は確かにそこにいる。顔も知らない誰かがキーボードを叩いている。

 俺にとってはそれだけで十分、真摯に対応する理由になり得た。
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